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  • あなたはアルコール飲料を飲みますか
    ものみの塔 1974 | 2月1日
    • ではなく ― その人が弱いこと,そして所信を曲げない勇気に欠けていることを示すものです。箴言 20章1節は,酒は『人をしてあざけらせ 濃き酒は人をして騒がしむ これに迷わさるる者は無知なり』と警告していますが,こう警告するには十分の理由があるのです。酒に酔うことがどんなにいやなものかを知るために泥酔を経験する必要はありません。足を折るとどんなに痛いかを知るために足を折る必要がないのと同じです。

      注意が要求されるのは,「問題の酒飲み」になるとかアルコール中毒者になる危険があるためばかりではありません。アルコールと関係したただ一度の悪い経験が永続的な害をもたらすこともあるのです。それは,あなた自身の,あるいはだれか罪のない人の命を奪う,または不具にする自動車事故かもしれず,人の生涯の汚点となり,またよくもんちゃくの種となる不道徳な行為かもしれず,あるいは長く後悔することになる暴力行為かもしれません。ですから不必要に危険を冒してはならないのです。

      そのような悲劇的な結果が生ずる可能性は,毎年アメリカのハイウェーで死亡する5万人の死亡者のうち半数以上が,アルコールと関係のある原因の事故により死亡している事実から見ても明らかです。また1972年7月18日付のニューヨーク・タイムズ紙の記事によると,「殺人と殴打の80%以上は,酒に酔った人たちによって犯される」ということです。

      知恵をもって問題を検討する

      問題を検討するにさいしては次のことを忘れないようにしましょう。つまりアルコール飲料は,空気や食物や水のように生活に必ず必要なものではないということです。なくてもすまされます。そして多くの人はそのほうを好みます。また,命の授与者であるエホバ神の是認を得たいと思う人は,『心をつくし,魂をつくし,思いをつくし,力をつくして』エホバに奉仕しなければならない,ということも忘れないようにしましょう。(ルカ 10:27)アルコールの誤用は,頭脳の明せきさと機敏さを奪うばかりでなく,心にも影響をおよぼし,悪い動機を生むに至ります。―イザヤ 28:7,8。テサロニケ第一 5:6-8。ホセア 4:11。

      なるほど聖書は,ブドウ酒のような飲物の節度ある飲用を是認するような話し方をしています。しかしもしそのようなアルコール飲料を,人工的なここちよい満足感や本物でない友愛感を得ることによって現実から逃避する,あるいは倦怠から逃避する手段として頼るとすればどうでしょうか。または小心さや恐怖を克服するさいに『神経を太くする』ための性格矯正薬としてアルコール飲料に頼るとしたらどうですか。その人は病気よりも療法のほうが悪いことを思い知らされるでしょう。もしお金がにせ金だとわかればそれに何の価値がありますか。それと同じく,もし幸福感や勇気が人工的なものに過ぎないとわかれば,それに何の価値があるでしょうか。

      ナショナル・インスティチュート・オブ・メンタルヘルスのある啓発的な報告(米保健・教育・福祉省発表)の示すところによると,次のような状態が普及しているところは,アルコール誤用の危険の生ずるおそれがいちばん少ないということです。

      (1)人が,強い家族もしくは宗教グループの中で初めてアルコール飲料に接するようになるところ,そして(テーブルワインやビールのように)飲物がたいていアルコール含有量の低いもので,食事の時に,食事の一部としてのみ用いられるところ。(2)アルコール飲料を飲むことが美徳とも罪とも見なされておらず,またおとなであること,あるいは「真の男」であることをはかる尺度とも考えられていないところ。(3)だれも酒をしいられないところ,また酒を辞退してもパンを辞退したのと同じくべっ視されないところ。(4)飲み過ぎが強く非とされており,『いき』とも,こっけいとも,あるいは大目に見るべきものとも考えられていないところ。そしておそらく最も重要なのは,(5)アルコール飲料を飲むことの是非についての意見が一致し一貫しており,親が節度を保って良い模範を示すところ。

      あなたの最上の,そして最も安全な導きは,もとより神のことばです。すでに検討したように,聖書はアルコール飲料の正しい用い方の例を示し,またその誤用を戒める強い警告を与えています。また若い人たちに,「主と結ばれたあなたがたの親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです」と助言しています。(エフェソス 6:1)ですから,アルコール飲料を飲むかどうか,あるいはどんな時に飲んでもよいかについては,神のことばに基づく両親の判断を尊重してください。飲んでいるのがみな若い人ばかりで,監督の役をする親とか近親者がいない場合には飲まないのが賢明です。―箴 1:7-9; 6:20-22; 22:15。

      永続する幸福を得るためには,「食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のために」することが,なによりもたいせつです。―コリント第一 10:31。

  • 「純一な目」が必要
    ものみの塔 1974 | 2月1日
    • 「純一な目」が必要

      わたしたちの目が何を見すえるか,何をどのように見るかということは,わたしたちの取る行動に影響を与えます。視力がよければ危険を避けやすく,一方視力に欠陥があれば物事の判断を誤って自分にも他の人にも危害を招きかねません。

      イエス・キリストが「目」を「ともしび」になぞらえたのはこうした理由によります。イエスはこう語りました。「体のともしびは目です。そこで,もし目が純一であれば,あなたの体全体は明るいでしょう」― マタイ 6:22。

      文字どおりの意味で言えば,「純一な」目とは,物をはっきりと見すえ,脳裏に明確な映像を送る目のことでしょう。そうした明確な視覚的印象が与えられるなら,体全体に役だつ判断や決定がなされることになります。一方,もし目があてどなくさまよい,一定の事物に対する注意を集中することができないなら,混乱したぼやけた映像が脳裏に送られることになります。その結果は夜のやみの中を歩くのに似ています。

      文字どおりの意味で言えることは,霊的な意味でも言えます。事実,「純一な」目について話したイエス・キリストは,霊的な面を念頭に置いていました。そして,霊的な視力は,その人の心や思いや良心が神のご意志にそって訓練されているかどうかによって決まります。もしそうした訓練を受けていないなら,その人は「やみ」の中にあります。その人は神や仲間の人間に対する責任に関して盲目であり,そのゆえに自分にも他の人にも害となるような行動をします。

      神のことばに基づく義の原則を導きとしない人は,不純な態度で,もしくはよこしまな意図をいだいて物事を見ます。聖書が『寛大でない目』,「そねむ目」,「姦淫に満ちた目」について述べているのはそのためです。(申命 15:9; 箴 28:22,新。ペテロ第二 2:14)どういう意味で人の目は「寛大でない」ものとなるでしょうか。『寛大でない目』は思いやりを持たず,人の必要を知りながらそれをあえて見ようとしません。利己心のため,また他の人の益を図ってすすんで自分を犠牲にしようとする気持ちがないために,その人の脳裏に映る像はくもったものとなります。同様に,人は他の人の持つものをそねみをいだいて見,「そねむ目」を持つ者となることがあります。また,結婚している男子が妻以外の女性を見つづけてその女性に対する情欲を育てるなら,その人の目は「姦淫に満ちた目」です。

      よこしまな事がらを願い見るようなことのない「純一な」目を保つためには努力が必要です。わたしたちの内面には罪に進む傾向が働いていますから,わたしたちは絶えずそれを抑制することに努め,よくない事がらを願い見たりしないように祈り求めなければなりません。これは詩篇作者の

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