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あなたは神のしんぼう強さに感謝していますかものみの塔 1977 | 5月15日
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あなたは神のしんぼう強さに感謝していますか
「エホバは……ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」― ペテロ第二 3:9。
1 (イ)なぜわたしたちは自分に対してしんぼう強く振る舞ってくれる人々をありがたく思いますか。(箴 25:15)(ロ)他の人々に対して気短になるならどんな結果になりますか。
人々が厳しい態度を取らずにしんぼう強く振る舞ってくれるとき,わたしたちはうれしく思わないでしょうか。わたしたちの問題や境遇を考慮に入れ,自分の能力の範囲で親切に援助してくれるとき,わたしたちはそれをありがたく思います。短気な人から不必要に圧力をかけられなくても,今日の生活には問題がたくさんあります。また自分自身が短気になっても,それによって自分の生活がより楽しくなるわけではありません。かえって人をいらだたせ,わたしたちに親切に振る舞うのをむずかしくすることになるでしょう。自分が短気になれば,自分が助けや励ましを与えてもらわねばならない人の感情を害することにさえなるでしょう。
2,3 (イ)神を認めない人々が栄えているのを見てもしんぼうするには,どんな確信が絶対に必要ですか。(詩 37:1-6。ヘブライ 11:6)(ロ)エホバを恐れる人であることがいつでも最善であることを,伝道の書 8章12,13節はどのように示していますか。
2 しかし,不公正や圧制,また神を恐れぬ人々が栄えているのを見るとき,どうすればしんぼうできますか。それには信仰が要求されます。エホバ神はすべての事柄を正される,という確信がなければなりません。これは,ソロモン王が観察しかつ霊感によって記述したところと一致します。「罪人が百回悪を行ない,長い間自分の思うがままにし続けようとも,真の神を恐れている者たちにあっては事が良くなることにわたしは気づいている。彼らが彼を恐れていたからである。しかし邪悪な者にとって,事は全く良くならない。また,彼が影のような自分の日々を延ばすこともない。彼は神を恐れていないからである」― 伝道 8:12,13,新。
3 人間の道義はゆるみ,犯罪者たちは法網をくぐって罰を免れるかもしれません。不法者たちは,つかまらずに何事かをうまくやっていると考えるかもしれません。しかしソロモンが指摘しているように,彼らの悪は何の報いももたらしません。彼らの命は「影のよう」に速やかに過ぎ去り,彼らの抜け目のなさもたくらみもそれを長くすることには役立ちません。他方,神を恐れる人たちは,実際には不利な立場にはいません。清い良心を保ち,正しいと分かっている事柄を行なうことに満足しており,万一死んだとしても,また生き返る希望があります。結局のところ,「真の神を恐れている者たちにあっては事が良くなる」わけです。
4 世の中で行なわれていることを見て心が痛むとき,わたしたちは創世 6章5,6節,ハバクク 1章13節の中で強調されているどんなことを念頭に置いているべきですか。
4 さらに真のクリスチャンは,次のことを心に銘記しておくとよいでしょう。つまり,自分たちの心を痛める不法行為はエホバ神にとっても心痛の種になるということです。わたしたちにこのことが分かるのは,ノアの時代の暴力の世に対してエホバが感じておられたことが,聖書に述べられているからです。それは次の通りです。「エホバは人の悪が地にあふれ,その心の考えの傾向がすべてただ常に悪いだけであるのをご覧になった。それでエホバは,地に人を造ったことで悔やみ,その心に痛みを覚えられた」。(創世 6:5,6,新)エホバは,ご自分が滅ぼさざるを得なくなるほど人類が悪くなったことを悔やまれました。彼らが自分の命と,彼らの生存のために神が豊かに備えられたものとを誤用したので,エホバはそのことに深く心を痛められました。幾世紀か後,預言者ハバククはエホバについて次のように記しました。「あなたの目は[喜びをもって]悪いことを見るにはあまりに清く,労苦を[よしと]見ることはおできになりません」― ハバクク 1:13,新。
5 ペテロ第二 3章9節によると,エホバがしんぼうしておられるのは何のためですか。
5 それでも全能の神は反逆的な人類をしんぼう強くがまんしておられます。なぜでしょうか。「エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」。(ペテロ第二 3:9)神のしんぼうがクリスチャンたちのためのものであったことに注目してください。というのは,使徒ペテロは,「あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」という言葉で仲間の信者たちに語りかけているからです。これはどういう意味でしょうか。
6 エホバのしんぼうが真のクリスチャンのためであると言えるのはなぜですか。
6 ある人々が神は遅いと解釈していた点を,全く異なる面から見るべきであることを,使徒は示していたのです。エホバの報復の日がまだ来ていないという事実は,エホバが人類を愛しておられ,人々が死ぬのではなくて生きることを願っておられる証拠なのです。クリスチャンもかつては不信者でした。したがって神のみ前に是認された立場にありませんでした。そのときに,もし至高の神が不敬虔な世に裁きを執行しておられたなら,彼らも滅びていたことでしょう。ですから神のしんぼうはクリスチャンの救いとなり,救いへのすべての機会を開きました。そういうふうであったことにわたしたちは感謝すべきではないでしょうか。
7 (イ)エホバは不従順な人間に対して際限なくしんぼうされますか。(イザヤ 55:6,7。ゼパニヤ 2:2,3)(ロ)わたしたちが「終わりの日」に住んでいることを何が証明していますか。(ハ)なぜわたしたちは特別にしんぼう強くなければなりませんか。
7 もちろん,今生きている人々がエホバとの是認された関係に入る,現代における『機会の日』を,エホバ神が終わらせる時は足早に近づいています。(コリント第二 6:2)聖書預言と聖書の年代計算は,西暦1914年以降の時代を,その時に増加する犯罪,暴力,戦争,食糧不足,地震,恐怖,不安などと共に,この不敬虔な世の「終わりの日」として指し示しています。(マルコ 13:3-37。ルカ 21:7-36。テモテ第二 3:1-5)現体制がその「終わりの日」にあって存続する限り,クリスチャンは,エホバ神がみ子イエス・キリストを通して解放をもたらしてくださるということに確信を持って,しんぼうし続けなければなりません。(テサロニケ第二 1:6-9)なぜそうしなければならないかというと,この「終わりの日」は引き続き「対処しにくい危機の時代」であるからです。―テモテ第二 3:1。
しんぼう強さの模範としての預言者たち
8 弟子ヤコブは,だれのしんぼうの模範を指摘していますか。このことからどんな質問が生じますか。
8 それでわたしたちは今特に,昔の神のしもべたちが残したしんぼう強さの模範から励みを得る必要があります。「兄弟たち,苦しみを忍び,しんぼう強くあることにおいて,エホバの名によって語った預言者たちを模範としなさい」と弟子ヤコブは書きました。(ヤコブ 5:10)この預言者たちはどんな事柄に遭遇したのでしょうか。またなぜでしょうか。
9 (イ)預言者たちは同国人からどんな反応を得ましたか。(ロ)なぜ彼らは多年にわたりイスラエル人のことをしんぼうしましたか。
9 預言者たちは多くの場合,仲間のユダヤ人が自分たちの言うことに耳を傾けようとせず,彼ら自身の不法の道を歩み続けることに固執するのを知りました。聖書はイスラエルとユダにおける状況の概略を次のように述べています。「[エホバ]はすべての預言者,すべての先見者によってイスラエルとユダを戒め,『翻って,あなたがたの悪い道を離れ,わたしがあなたがたの先祖たちに命じ,またわたしのしもべである預言者たちによってあなたがたに伝えたすべての律法のとおりに,わたしの戒めと定めとを守れ』と仰せられたが,彼らは聞きいれ(なかった)」。(列王下 17:13,14,口)そのようにかたくなであったにもかかわらず,イザヤ,エレミヤ,ミカなどの預言者は何十年間も忠実に奉仕しました。預言的警告に従って行動することが命を意味することを認識していたので,彼らは同国人の福祉を憂慮しました。
10 アハブ王の治世中に預言者たちはどんな苦しみを経験しましたか。
10 預言者たちがしんぼう強く戦わねばならなかった障害は,人々が総じて彼らの言うことに耳を貸さなかったということだけではありません。多くの預言者はののしられ,肉体的に虐待され,殺された人さえいました。例えば,イスラエルの王アハブの時代に,彼の王妃でバアル崇拝者であったイゼベルに捕えられたエホバの預言者は皆殺されました。他の100人は,神を恐れるオバデヤに助けられ,ほら穴に隠れて難を逃れました。(列王上 18:4,13)同じ期間中にエホバは,預言者エリヤに対して考えるところがあり,アハブの手に陥ることがないように彼を保護されました。(列王上 18:10-12)後にはそのエリヤさえも,命を守るためにイゼベルから逃げました。(列王上 19:2,3)しかしエホバ神は彼を直ちに国へ戻し,預言する業を続けさせました。(列王上 19:9,15-18)別の時にアハブ王は,エホバの預言者ミカヤを獄屋に入れて少しだけの飲食物を与えておくように,と命令しました。なぜでしょうか。それはミカヤがエホバの言葉を正直に述べたからでした。―列王上 22:26,27。
11 エレミヤは多年預言を行ないましたが,その間にどんな苦しみに直面しましたか。
11 エレミヤも非常な忍耐をした預言者でした。故郷の町アナトテの人々は,彼の命を取ると言って脅かしました。(エレミヤ 11:21)あるときなど,祭司や偽預言者を含む暴徒が神苑の中で同預言者を捕え,殺すぞと脅しました。(エレミヤ 26:8-11)聖書の伝えるところによると,エレミヤは,神殿のつかさの長であった祭司パシュルに『打たれ』ました。このことは,パシュルが同預言者を打つように命じたことを意味するかもしれません。そのような高官が先にたってエレミヤを虐待したのですから,あとの人々はそれに勇気づけられて同預言者を大いにやじり,あざけり,虐待したに違いありません。それからエレミヤは罪人のように一晩足かせにつながれました。(エレミヤ 20:2,3,7,8)カルデヤ人の側に脱走したという偽りの告訴で逮捕されたときには,非常に状況の悪いときに「獄屋」に入れられたので,彼の命は危険になりました。エレミヤはゼデキヤ王に懇願しました。そこで王はそれ以後「監視の庭」に彼を入れさせ,そこに彼を監禁しました。(エレミヤ 37:11-16,20,21,口)後ほどゼデキヤは,エレミヤを自分たちに渡すようにというつかさたちの要求に屈しました。そのつかさたちは同預言者を泥だけの水ために投げ入れて殺そうとしました。―エレミヤ 38:5,6。
12 エレミヤがしんぼうしたことについて,エレミヤ 38章20節と8章21節–9章1節は何を示していますか。
12 全くのところエレミヤは同国人の手にかかって多くの辛酸をなめました。しかし彼は忍耐し続け,同国人に対して悪感情を抱きませんでした。例えば,エレミヤを亡き者にしようとしていたつかさたちにゼデキヤ王が彼を渡した後でも,同預言者はその弱い王の福祉を気遣っていることを示しました。エレミヤは王に,「どうか,わたしがあなたに告げているエホバの声に従ってください。そうすればあなたのために事はうまくゆき,あなたの魂は生き続けるでしょう」と,心から頼みました。(エレミヤ 38:20,新)それより前にエレミヤは,ユダとエルサレムに臨む激しい裁きを考えていたとき,復しゅう心ではなくて悲しみを表わしました。彼は言いました。「わたしの民の娘の崩壊のためにわたしは打ち砕かれた。わたしは悲しかった。非常な驚きがわたしを捉えた。ギレアデにバルサムはないのか。また,そこにいやす者はいないのか。では,わたしの民の娘の回復が生じなかったのはどうしてか。ああ,わたしの頭が水であったなら,わたしの目が涙の源であったならよいものを! そうすればわたしはわたしの民の娘の打ち殺された者たちのために昼も夜も泣くことができるであろうに」。(エレミヤ 8:21–9:1,新)エレミヤは彼の民イスラエル人に対して,なんというしんぼう強さ,なんという愛を示したのでしょう。
13 預言者たちが,彼らの見た状態に心を悩ませていたことはどんなことから分かりますか。(エレミヤ 5:3,4)
13 しかし,わたしたちは次のことを覚えていなければなりません。それはエレミヤおよび他の忠実な預言者たちが,国の中で行なわれていたはなはだしい不公正と圧制を鋭く意識していたということです。彼らは解放を願い求めました。例えばハバククは,心を動かされて叫びました。「なぜあなたは,害になることをわたしに見させ,労苦をただ眺め続けておられるのですか。なぜわたしの前に略奪と暴虐があり,なぜ口論が起こり,なぜ闘争が続けられているのですか。それゆえに律法は感覚を失い,公正は行なわれません。悪人が義人を取り囲んでいるので,公正は曲げて行なわれます」― ハバクク 1:3,4,新。
14 忠実な預言者たちは悪い状態からの解放を願ってはいましたが,エホバとその音信については何をしませんでしたか。(エレミヤ 20:9。ミカ 3:8)
14 それでも忠実な預言者たちは,解放されたいという個人的な願いに負けてエホバのなさることをじれったく思うとか,エホバの音信の宣明を中止するというようなことをしませんでした。エホバがある目的のためにしんぼうしておられる限り,浴びせられる非難に進んで耐えながら,「あなたがたは心を翻せ,心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ,あなたはどうして死んでよかろうか」というエホバの音信を宣明し続けました。―エゼキエル 33:11,口。
しんぼう強さの模範はわたしたちに行動を促す
15 わたしたちには,ヘブライ人の預言者たちよりもより大きなしんぼうすべき理由がありますが,それはなぜですか。
15 もし古代のヘブライ人の預言者たちが,大きな苦難に直面したときそのようにしんぼう強くあったのであれば,確かにわたしたちにはしんぼう強くあるべきさらに大きな理由があります。なぜかというと,わたしたちはその預言者たちが持っていたよりも多くのものを持っているからです。その預言者たちは,メシアの到来を信じて待ち望んではいたものの,自分たちが生きてそのすばらしい出来事を見ることはないのを知っていました。イエス・キリストはユダヤ人に言われました。「あなたがたに真実に言いますが,多くの預言者と義人たちは,あなたがたが見ているものを見ようと欲しながらそれを見ず,あなたがたが聞いている事がらを聞こうと欲しながらそれを聞かなかったのです」。(マタイ 13:17)預言者たちが信じて待っていた事柄の多くは,幾世紀も昔に成就しました。そのうえに,今日生きている多くの人は,さらに他の預言が成就するのを自分で目の当たりに見ました。(啓示 6:1-8; 17:8)イエス・キリストは,ご自分の命を犠牲にすることにより,神の約束はことごとく果たされるという,変わることのない保証をお与えになりました。(コリント第二 1:20,21)わたしたちは,自分が「終わりの時」に住んでいる証拠を毎日見ています。(ダニエル 11:40-43; 12:1,4,新。マタイ 24:7-14)したがって,「頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているからです」というイエス・キリストの励ましは,わたしたちに当てはまります。(ルカ 21:28)神のみ子はまもなく,「王の王また主の主」として不敬虔な者たちを処罰し,あらゆる苦しみと圧制からの喜ばしい解放をもたらされます。―啓示 19:11-21。
16 わたしたちに対するエホバのしんぼうに感謝していることを,どのように示せますか。
16 わたしたちはその大いなる日を,そしてそれが近い以上なおのこと,しんぼう強く待つべきではないでしょうか。そしてできるだけ多くの人が神の救いの道を学ぶように助けたいと思うべきではないでしょうか。また他の人々の弱点についても,進んでしんぼう強くがまんすべきではないでしょうか。神のしんぼう強さがわたしたちの救いとなったことを心から感謝しているなら,わたしたちもしんぼう強く振る舞うように心を動かされるでしょう。
しんぼう強さが結ぶ貴重な実
17 立派な実を結びたいならしんぼうすることが大切ですが,ヤコブ 5章7,8節のどんな例えがそれを示していますか。
17 忠実な預言者たちに見倣って引き続きしんぼうしているなら,立派な実を見る可能性があります。このことは弟子ヤコブが書いていることから明らかです。「兄弟たち,主の臨在の時までしんぼうしなさい。ご覧なさい,農夫は貴重な地の実を待ちつづけ,早い雨と遅い雨があるまで,その実についてしんぼうします。あなたがたもしんぼう強くあり,心を強固にしなさい」― ヤコブ 5:7,8。
18 農夫は雨や作物の生長を早めることはできませんが,収穫を期待しつつ何をすることができますか。
18 農夫は,雨を早めたり,作物を生長させたりする点では何もすることができません。勤勉な農業者として自分の仕事を行ない,土を整え,種をまき,耕作地の世話をすることはできます。しかし,雨を制御することもできなければ,作物の生長に関する,創造者が定めた不変の法則を変えることもできません。自分が変えることのできない状況の中で待つこと,エホバの定めた法則に一致して待つこと,これが『しんぼうすること』として述べられています。農夫が自分にできることを行ない続けているうちに,植物はついに生長し,実がなります。
19 真の弟子という実を生み出すということになると,しんぼう強さはどのように関係してきますか。
19 今日の真のクリスチャンについても同じことが言えます。他の人々に「良いたより」を宣べ伝え,関心を持つ人々に神の言葉を教えるのはわたしたちの責任です。(コリント第一 9:16。マタイ 28:19,20)しかしわたしたちは,自分の創意または自分が考案する方法によって霊的成長をもたらす,あるいはそれを速めることはできません。このことに関しては,神の言葉に全く一致して行動し,しんぼう強く自分の分を果たしながら,エホバを待たねばなりません。使徒パウロはこの点をはっきり示し,次のように書きました。「わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神がそれをずっと成長させてくださったのです。ですから,たいせつなのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです。さて,植える者と水を注ぐ者とは一つですが,おのおのはその労に応じて報いを受けます。わたしたちは神とともに働く者だからです」。(コリント第一 3:6-9)神がご自分の分を行なわれないということは決してありません。ですからわたしたちは,神の忠実な同労者であることを証明することにより,神がわたしたちに対してしんぼうしてくださっていることへの感謝を表わしたいものです。そうすれば,わたしたちが植えまた水を注いだものの中から,クリスチャンとして十分に成長する人が出てくるのを見る大きな喜びを味わうことになるでしょう。それは,イエス・キリストの真の弟子という実を結ぶのです。
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引き続きしんぼう強さを示しなさいものみの塔 1977 | 5月15日
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引き続きしんぼう強さを示しなさい
『我はエホバを仰ぎ望み我を救う神を望みまつ 我が神われに聴きたまうべし』― ミカ 7:7。
1 エホバがしんぼうされた結果どんな良い益がありましたか。
しんぼう強さは確かに豊かな報いをもたらします。神のしんぼう強さは,神の是認を受けたしもべとして永遠の命を得るすばらしい機会を人類に開きました。(ヨハネ 17:3。ペテロ第二 3:9。テモテ第一 2:3,4)また神のご要求について学び,それに従って生きることを始める時間を個々の人に与えました。多くの人がそれをしました。その結果彼らは,現在においてさえ,神の義の規準を無視する人々に臨むざ折感や問題を避けて,有意義な生活を楽しんでいます。
2 他の人に接する際にしんぼう強くあるなら,現在どんな益がありますか。
2 個人としても,しんぼうすることには報いがあります。しんぼう強い人はすぐに腹を立てるようなことをしませんから,おそらく性急に行動することは少ないでしょう。したがっていつも正しい良心を持っており,不必要な口論やけんかを避けます。健康の面でも益があります。聖書の箴言には,「穏やかな心は身の命である,しかし興奮は骨を腐らせる」とあります。(箴 14:30,口)冷静さとしんぼう強さは,困難な事態に直面しているときでも,全身の健康を増進させます。一方,いつも腹を立てていたり,いらいらしていることは,体を弱める病気のようなものです。しんぼう強さがもたらす多くの益を考えるなら,わたしたちは確かにこの立派な特質を示すようにしたいと思うはずです。
3 他の人に対してしんぼう強くあることをなぜ義務とみるべきですか。
3 もう一つ,しんぼうすべきよい理由があります。わたしたちはこれを義務とみなさねばなりません。なぜですか。イエス・キリストが述べられた次の原則に注意してください。「自分にしてほしいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」。(マタイ 7:12)さて,わたしたちは人々が自分にしんぼう強くあってくれることを望まないでしょうか。重要な事柄について話すとき他の人々がそれをしんぼう強く聞いてくれるなら,わたしたちはそれに感謝します。自分が分からないことをしんぼう強く説明してくれる人々との交わりには,喜びがあります。自分の小さな弱点を見逃してくれる人々,たび重なる失敗にもかかわらずしんぼうしてくれる人々との交際のほうがずっと楽です。ではわたしたちもこうした面でしんぼうすべきではないでしょうか。
4 わたしたちがしんぼう強くあることを望む第一の理由は何であるべきですか。
4 わたしたちクリスチャンの場合,しんぼう強くありたいと思う最も強力な理由は,エホバ神を喜ばせたいという願いであるはずです。神はしんぼう強くていらせられるので,わたしたちはこの点を神に見倣うよう求められています。「愛される子どもとして,神を見倣う者となりなさい」と,聖書は勧めています。(エフェソス 5:1)しかし,神のしんぼう強さをより高度に反映する助けになるのは何でしょうか。
短気になることの重大さを認める
5 伝道の書 7章8節は,どんな望ましくない性向と短気とを結びつけていますか。これはどのように現われますか。
5 わたしたちは不当に短気を起こすことを軽く考えないようにしなければなりません。「耐え忍ぶ心は,おごり高ぶる心にまさる。気をせきたてて怒るな。怒りは愚かな者の胸に宿るからである」。(伝道 7:8,9,口)ここでしんぼう強い人とごう慢な人とが対比されていることに注意してください。ごう慢な人は,どうしてわたしが他人の愚かさや利己心にいらいらさせられたり,悩まされたりしながらがまんしなければならないだろうか。一体わたしをなんだと思っているんだろう,というふうに考えるかもしれません。またごう慢な人は,なんでもすぐに自分に向けられたものと取り,まただれかにたしなめられるとその人を非難攻撃します。そして恨みをいだき,それが自分の「胸」のうちにあるかのように自分のそばから離しません。
6 ごう慢で短気な人は「愚かな者」でもあると言えるのはなぜですか。
6 実際,そういう人は「愚かな者」です。すぐに怒るので軽はずみな言葉を出したり,行動したりする結果になり,自分だけでなく他の人々も傷つけることになります。そういう人はまた自分を見る見方にも平衡を欠いています。このことは,ローマ 12章3節の,『わたしはあなたがたの中のすべての者に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません。むしろ,健全な思いをいだけるような考え方をしなさい』というパウロの助言から見て明らかです。さらにごう慢な気持ちや短気に支配される人は,エホバ神のみ前における自分の立場を危うくします。なぜでしょうか。「神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施されるからです」― ペテロ第一 5:5。
7 短気はどんな場合でも誇りに根ざしているとみるべきですか。なぜですか,あるいはなぜそうではないのですか。
7 むろん,すべての形の短気がみな誇りに根ざしているというわけではありません。例えば,ある家族が友人の家の夕食に招待されていて,特定の時間に行くことになっているとします。父親と母親は,急がずにそこまで行くために十分の時間を取って外出の支度を整えていますが,娘はあまり行く気がしないためか,あるいは何かほかの理由で,必要な準備を遅らせています。それで両親は,遅れないようにもっと速く仕度をしなさい,と娘をしきりに促します。この場合には,声の調子にどれほどいらいらした気持ちが表われていても,その原因が誇りにあるということはできません。両親はむしろ娘の思いやりのなさに困っており,また自分たちが遅れると主人側に迷惑がかかることを心配しているのです。この例はまた,いらいらする当然の理由を相手に与えるような状況をこちらがつくり出さないようにすることの大切さを示しています。ここでも,「自分にしてほしいと思うとおりに,人にも同じようにしなさい」という原則があてはまります。―ルカ 6:31。
8 サムエル前書 13章3-14節に記されていることから,短気であることの危険について何を学びますか。
8 そういうわけで,いらだたしい気持ちになる正当な理由も時にはありますが,わたしたちは誇りから出る,あるいは軽はずみな行動をさせる恐れのある短気を起こすことの重大さを認める必要があります。短気に負けることの危険をよく示しているのはサウル王の場合です。サウルの息子ヨナタンがゲバにあるペリシテ人の守備隊を敗ったあと,ペリシテ人はそれに報復するために大軍を集めてミクマシに陣を張りました。その間サウルはヨルダンの谷のギルガルにいて,預言者サムエルを待っていました。期待していた時刻に預言者が来なかったので,サウルはいらいらしてきました。燔祭をささげることによってエホバの助けを確保しないうちにペリシテ人が攻め寄せてくることをサウルは恐れました。また部下たちが彼を捨てて去って行っている事実も考え,これ以上遅れたら全軍を失うことにもなりかねないことを心配しました。そこでサウルはいらだたしい気分を抑えきれず,サムエルを通して与えられた,待て,というエホバのご命令を無視して,せん越にも犠牲をささげました。そのあとすぐにサムエルが到着しました。(サムエル前 13:3-12)その一度の軽率な行為は重大な結果を招きました。サムエルはサウルに言いました。「あなたは愚かな事をしました。あなたはあなたの神エホバがあなたに命じたおきてを守りませんでした。というのは,もし守っていたなら,エホバはあなたの王国をイスラエルの上に定めのない時に至るまで確固としたものにしてくださったでしょうから。それで今や,あなたの王国は長続きしません」。(サムエル前 13:13,14,新)考えてみてください。罪深い行ないをするに至らしめたサウルの短気は,エホバが彼の家系から王権を取り除く主な理由の一つとなったのです。ですから,不当な短気がもたらす問題を過小評価することは禁物です。
エホバの模範から学ぶ
9 (イ)二人の奴隷と彼らの負債に関するイエスの例えは,許すこととしんぼう強さとの関係をどのように示していますか。(ロ)もしわたしたちがわたしたちの兄弟に対してしんぼう強くなく,またあわれみ深くないなら,エホバに何をしていただくことを期待することができませんか。
9 しんぼう強いということは,他人が自分に対して犯した過ちを進んで許すことと関係のある場合が少なくありません。この点,もしわたしたちが許すことに関するエホバの模範をよく考慮するなら,仲間の人間に対してしんぼう強く振る舞うのに大いに助けになります。イエス・キリストが語られた一つの例えは,このことの正しさをきわめて強力に証明しています。使徒ペテロは一つの質問を提起しました。「兄弟がわたしに罪をおかすとき,わたしはその人を何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか」。これに対してイエスは,「あなたに言いますが,七回までではなく,七十七回までです」と答え,次いで二人の奴隷の例えを話されました。そのうち一人は王に6,000万デナリの負債がありました。清算すべき時が来たとき,この奴隷は,「わたしのことをごしんぼうください。すべてをお返ししますから」と嘆願しました。それで王は哀れに思い,負債を全額帳消しにしてやりました。ところがこの奴隷は仲間の奴隷に近づき,100デナリの負債を返すことを要求しました。その奴隷は,「わたしのことをしんぼうしてください。返しますから」と懇願しました。しかし,それよりもはるかに大きな負債を帳消しにしてもらっていたその奴隷は,しんぼうしようとはせず,その仲間の奴隷を獄に入れさせました。そのことを耳にした王は考えを変え,短気であわれみのないその奴隷を牢に入れさせました。イエスはこの例えを当てはめて言われました。「もしあなたがた各自が,自分の兄弟を心からゆるさないなら,わたしの天の父もあなたがたをこれと同じ仕方で扱われるでしょう」― マタイ 18:21-35。
10 神がわたしたちの罪を許してくださったことに照らして,わたしたちは兄弟の弱点をどのように見るべきですか。
10 エホバ神がみ子の犠牲に基づいて許してくださった罪という大きな負債に比べるなら,クリスチャンの兄弟がわたしたちに対して犯すかもしれない罪は,それが何であろうと,まことに小さなものです。それでもし兄弟が悔い改めるなら,わたしたちが,その兄弟に対していらだたしい気持ちを持つ,あるいは自分に対してしたことのゆえにその人が苦しむことを願う,権利がどこにあるでしょうか。
11 (イ)人類の罪を許す基を置くためにエホバは進んでどんなことを行なわれましたか。(ローマ 5:6-8)(ロ)なだめの犠牲を備えることにおいて示された神の模範は,わたしたちにどんな影響を及ぼすはずですか。(ヨハネ第一 4:11)
11 わたしたちは次の事実を決して見失ってはなりません。すなわち,エホバ神が許しを与えてくださる基盤となるものは,エホバ神ご自身が大きな犠牲を払って備えてくださったものである,ということです。エホバ神はみ子を深く愛しておられました。イエス・キリストご自身,『父は子に愛情を持っておられる』と言われました。(ヨハネ 5:20)それでも至高者は,わたしたちの罪のための「なだめの犠牲」としてみ子を人類の世のために進んでお与えになりました。(ヨハネ 3:16。ヨハネ第一 2:2)自分に罪を犯した者との良い関係を取り戻すための基盤を置くのに,それほどの犠牲を払った人間はいまだかつていません。わたしたちに罪を犯すかもしれない人々に対してしんぼうすることを励ます,なんと高い最高の模範をエホバは示してくださったのでしょう。
他の人々に対する正しい態度
12 (イ)ローマ 12章4-8節およびコリント第一 12章14-26節に記されていることから,兄弟たちに関するどんな教訓を得ることができますか。そしてこれは兄弟たちに対してしんぼう強く振る舞うのにどのように助けになりますか。(ロ)フィリピ 2章3節は,わたしたちがしんぼう強くあることにどのように役立ちますか。
12 また,しんぼう強さを養うのに役立つのは,他の人々に対する正しい態度です。人々も,その境遇も,様々であることを考慮に入れる必要があります。例えば,ある人々は物事を理解するのが遅いかもしれませんが,他の人々は細部にわたる指示を非常に速く理解するかもしれません。しかし,それだからといって,遅い人,あるいは時間をかけ入念にする人のほうが劣っているということにはなりません。そういう人々は生活の他の分野で ― 親切であるとか,親しみやすいとか,寛大であるといった点で抜きん出ているかもしれません。ですから人を全体的に見るのは良いことです。使徒パウロがフィリピ人に与えた,「他の者が自分より上である」と考えなさい,という助言は極めて適切なものです。(フィリピ 2:3)不完全な人間ですから,望ましい特性をことごとく備えた人は確かに一人もいません。謙遜であれば,自分の弱いところで他の人が優れていることや,時には自分も他の人のしんぼう強さを試みることがあるかもしれないことを,すぐに悟るでしょう。
13 イエスが使徒たちをしんぼう強く扱われたことはどんなことから分かりますか。
13 確かにイエス・キリストは,他の人々に対して正しい態度を取るとはどういうことかを,実際の行ないによって示されました。イエスは使徒たちのことを ― 彼らのつまらない競争意識や理解の遅さを,忍耐強くがまんされました。彼らとのやりとりにおいて腹を立てられたことは一度もありませんでした。むしろ,彼らに学ばせたい教訓を,例を用いてしんぼう強く教えられました。(マルコ 9:33-37。ヨハネ 13:5-17)イエス・キリストがその仲間を叱りつけたという記録は全くありません。イエスの完全な模範に見倣うのは,どんなにすばらしいことでしょう。
進んで待つ
14 会衆における責任ということになると,なぜある兄弟たちはいらいらした気持ちになることがありますか。
14 しかし,わたしたちのしんぼう強さを試みるのは,他の人々の弱点や限界だけではありません。それは,望ましい事柄が起こるのを進んで待つという問題である場合が少なくありません。つまり,なんでもすぐにほしがる子供のようにがまんをしないか,それとも適当な時が来るまで進んでしんぼう強く待つか,という問題です。あなたはクリスチャン会衆内の兄弟であるかもしれません。奉仕のしもべでないために,「ふさわしいかどうか」実際に『試される』ときまで待つのをむずかしく感じますか。(テモテ第一 3:10)もし一年くらい奉仕のしもべをつとめてきたなら,そろそろ長老に推薦されることが考慮されるころだと考えますか。それとも喜んで待ち,神の言葉のより深い理解を得ることに,また協力的で信頼が置け,思いやりがあり,エホバへの奉仕に全く献身した者となることに,時間を有効的に用いますか。
15 (イ)責任を与えられることを望むなら,なぜ自分自身をまじめに吟味してみることが必要ですか。(ヤコブ 3:1,2)(ロ)群れを牧する業にあずかることを望む兄弟は,どんなことを自問してみるとよいでしょうか。
15 もちろん,兄弟たちがより重い責任を「とらえよう」とすることは称賛に値します。使徒パウロは次のように書いています。「このことばは信ずべきものです。監督の職をとらえようと努めている人がいるなら,その人はりっぱな仕事を望んでいるのです」。(テモテ第一 3:1)それでも,責任が重くなれば,自分の行動に対し申し開きをする責任のほうも大きくなります。イエス・キリストはその通則をこのように述べられました。「人びとが多くを託した者,その者から人びとは普通以上を要求するのです」。(ルカ 12:48)したがって,より重い責任を担うことを望むなら,クリスチャンとしての自分の生活が,会衆の他の成員の凝視に耐え,自分の示している模範が疑問視されることがないかどうか,まず調べてみるべきです。また次のように自問してみるのも良いでしょう。自分は本当に兄弟たちに奉仕することを望んでいるだろうか。自分には,人々の命が関係している問題を判断するための神から出る知恵とどう察力があるだろうか。個人的な問題や家族の問題をかかえている人の助けになる,健全な聖書的助言を与えることができるだろうか。他の人々は,クリスチャンとしての生活におけるわたしの経験のゆえに,わたしを「年長者」とみなすだろうか。このようにしてまじめに自分を吟味してみるなら,あせる傾向はすべて鎮まるでしょう。そして,兄弟たちに本当によく仕えることができるようになるまで,しんぼう強く待つことの大切さを痛感するでしょう。
16 より重い責任を担う資格があると他の人々が見ることができるようになるまで,謙遜にしんぼう強く待つよう,テモテ第一 5章22,24,25節の使徒パウロの言葉はどのように兄弟を助けますか。
16 また,長老たちにかかる重い責任を考えてみるのも助けになるでしょう。彼らは監督として奉仕する兄弟たちを推薦します。使徒パウロはテモテに助言しました。「だれに対しても性急に手を置いてはなりません。また,他の人の罪にあずかる者となってはなりません。自分を貞潔に保ちなさい」。(テモテ第一 5:22)任命された人が聖書の要求に本当にかなった人であったかどうかを,もしテモテが確かめなかったとすれば,テモテはその資格のない人が犯すかもしれない間違いすべてに対して,ある程度責任を問われることになったでしょう。今日でも同じことが言えます。ですから,他の人があなたの立派な業を見ることができるようになるまで,謙遜に,しんぼう強く待つことはどうでしょうか。悪事が最後には露顕するのと同じく,立派な業もいつまでも隠れてはいないということを忘れないようにしましょう。使徒パウロはテモテにこの点を指摘し,次のように書いています。「ある人たちの罪は公に明らかで直接裁きに至りますが,そのほかの人の場合も,その罪はおって明らかになります。同じように,りっぱな業も公に明らかであり,そうでないものも,隠されたままでいることはありえません」― テモテ第一 5:24,25。
17 わたしたちは預言者ミカのどのような態度を養うことに努めるべきですか。また生活のどんな分野でしんぼう強くありたいと思いますか。
17 実際わたしたちは生活のすべての分野で,「エホバを待ち望め。今から,そして定めのない時に至るまでも」という聖書の励ましに注意すべきです。(詩 131:3,新)裁きが執行される神の大いなる日がまだ来ていないからといって,じれったく思うようなことがないようにしましょう。むしろミカが言い表わした次のような確信を表明したいものです。『我はエホバを仰ぎ望み我を救う神を望み待つ 我が神われに聴きたまうべし』。(ミカ 7:7)さらに,わたしたちは,人々が自分に対して犯す小さな罪を許し,彼らの限界や境遇を考慮に入れて,すべての人に対し引き続きしんぼう強くありたいものです。そして誇りの混じった短気に負けて,わたしたちのしんぼう強い神エホバとの関係を危うくしないようにしたいものです。
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