-
使徒パウロ ― 義に対して熱心な人ものみの塔 1973 | 7月15日
-
-
使徒パウロ ― 義に対して熱心な人
神の子イエス・キリストが地上にいる間に示した際立った資質のひとつは,正しいことに対する愛と,悪い事に対する憎しみでした。たとえば,イエスは当時の宗教的な偽善者の正体をあばくのに,少しもことばを控えませんでした。預言されていた通り,イエスは『義を愛し,悪を憎みました』― 詩 45:7。マタイ 23:2-32。ヨハネ 8:44。
この点をイエスに見習った人の顕著な例は使徒パウロです。事実,彼はキリストの追随者になる前でさえ,自分が正しいと信じていたことに極めて熱心でした。ですからパウロは,「はなはだしいまでに神の会衆を迫害したり荒らしたりし…父たちの伝統に対して…熱心であった」と述べています。彼はまた言います。「だれかほかの者が,肉に頼ることができると考えるのであれば,わたしはなおのことそうなのです。…熱心さについていえば会衆を迫害するほどであり,律法による義についてはとがめのないことを示した者です」― ガラテヤ 1:13,14。ピリピ 3:4-6,新。
クリスチャンになった時もパウロは依然熱心でした。しかしこのたびは正しい方向に向けられた熱心でした。「すぐに諸会堂でイエスのことを,このかたは神の子であると宣べ伝えはじめた。…しかしサウロ[パウロ]はますます力を得,これがキリストであることを論証して,ダマスカスに住むユダヤ人たちをろうばいさせるのであった」。(使行 9:20,22,新)パウロは,「主の名において大胆に語った。そして,ギリシャ語を話すユダヤ人たちと話したり論じ合ったりしていた。ところがこれらの者たちが,彼を除き去ってしまおうと企てた」。パウロはほかの人たちも,自分と同じように,キリストに習うべきだと言いました。あなたはそうしますか。―使行 9:28,29,新。
使徒パウロは,義に対しては愛を示し,悪に対しては,自分の肉の罪深い欲望と激しく戦うことによって憎しみを示して,弱々しく罪に屈することをしませんでした。事実,彼は言いました。「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないためです」― コリント前 9:27。ロマ 7:15-25,新。
パウロはまた,自分の兄弟たちを扱うことにおいても義に対する熱意を示しました。アンテオケに来た時パウロは「面とむかって」ペテロに「抵抗しました。彼にはとがめるべきところがあったからです。ヤコブのもとからある人たちが来るまでは,諸国民の者たちとともに食事をしていたのに,彼らが来ると,割礼組の者たちへの恐れのために,身を引いて離れていったからです」。義に対するパウロの愛は,使徒ペテロの,うわべをよそおう態度をがまんすることができなかったのです。―ガラテヤ 2:11-14,新。
パウロは,自分に反対した会衆の外の人びとを扱うさいにも,これと同じ義に対する熱意を表わしました。彼は総督フェリクスにわいろを使って釈放してもらうこともできましたが,義を愛したパウロはそれをしませんでした。(使行 24:25-27)また総督フェストの前に出たときにも,反対していたユダヤ人の歓心を買うための妥協案を退けてカイザルに上訴しました。―使行 25:9-12。
書簡にもそれは表われている
義に対するパウロの熱意は,書簡の中でもひときわ目立っています。パウロには,不道徳な男が彼らのただ中にいることを許していたコリント会衆に対し,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」と書き送っています。(コリント前 5:13,新)彼がそれらコリント人にさらに述べたことばも,いかに義憤に満ちたものであるかに注意してください。「あなたがたは,不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでもいうのですか」。「あなたがたは,娼婦といっしょになる者が一つの体となることを知らないとでもいうのですか」。「あなたがたの体が,あなたがたの中にある聖霊の神殿であることを知らないとでもいうのですか」。(コリント前 6:9,16,19)今日の神の民の長老,監督,牧者のみなさん,会衆の清さを保つために同様の熱意を示していますか。
人に宣べ伝えることを自分では行なわない者たちに対しても,パウロは同様の口調で強く非難しています。「人よ,あなたがだれであるにしても,[ほかの者を]裁くなら,言いわけはできません。他の人を裁くその事がらにおいて,あなたは自らを罪に定めているからであり,それは,裁くあなたが同じことを行なっているからです。…『盗んではいけない』と宣べ伝えているあなたが,自分では盗むのですか。『姦淫を犯してはいけない』と言っているあなたが,自分では姦淫を犯すのですか」。(ロマ 2:1,21,22,新)パウロはくりかえし,「惑わされてはなりません」と兄弟たちに警告し,また「少しのパン種が固まり全体を発酵させます」と警告しました。―コリント前 6:9; 15:33。ガラテヤ 6:7。コリント前 5:6。ガラテヤ 5:9。
パウロの義に対する熱意は,真理に対する関心にも表われています。「たとえわたしたちあるいは天からの使いであろうと,わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のことを良いたよりとしてあなたがたに宣明するのであれば,その者はのろわれるべきです」。彼はそののろいのことばを一度言っただけでは満足せず,もう一度繰り返しています。(ガラテヤ 1:6-9,新)そして,兄弟たちを再びユダヤ教の束縛のもとに連れもどそうとした者たちについては,「わたしは,あなたがたを覆そうとしている人びとが,いっそ自分を去勢してしまえばとさえ思います」と述べています。なぜそのように強く言うことができたのでしょうか。なぜなら,「わたしはキリストにあって真実を語ります。偽りを述べるのではありません」という確信をいだいていたからです。―ガラテヤ 5:12。ロマ 9:1,新。
また,パウロの忍耐も,義に対する彼の熱意を示すなんとすばらしい証拠でしょう。「彼らはキリストの奉仕者ですか。わたしは狂人のように答えます。わたしはその点はるかにきわだった者です。その労はさらに多く…打ちたたかれることは過度に及び,死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人たちからは40より一つ少ないむちを5回受け,3度杖で打ちたたかれ,一度石打ちにされ,三度難船を経験し,一昼夜深みで過ごしたこともあります」。自分が耐え忍んださらに多くの事柄を語ったあとパウロは,他の人びとの霊的福祉に対する関心を示します。「だれかがつまずいて,わたしがいきり立たないことがあるでしょうか」。そうです,悪に対する義憤のゆえに,いきりたつのです。―コリント後 11:23-33,新。
使徒パウロは,クリスチャン会衆内のすべてのクリスチャンのために,そしてとりわけすべての長老,監督のために,なんとすばらしい模範を示したのでしょう。奉仕をなんと真剣に考えたのでしょう。パウロは他の人びとのために身を費やしつづけました。(コリント後 12:15)義に対する愛と悪を憎むことにおいて,パウロがイエスに見習ったことに疑問の余地はありません。
もしわたしたちがパウロと同じ熱意を持つなら,わたしたちは良いたよりを広めるわざを促進することに全力をつくしているでしょう。状況が許す限り多くの時間をささげて野外奉仕に十分に参加することをためらわないでしょう。わたしたちはまた他の人びとのために自分の身を費やすでしょう。そのようにして神への奉仕を生活の中で第一にしていることを示し,わたしたちを誘惑して奉仕から引き離そうとする他の物は,パウロと同じように,「多くのあくた」(「ごみ」,バイイングトン)とみなすでしょう。(ピリピ 3:8,新)そしてわたしたちはパウロのように,現在においては,多くの喜ばしい奉仕の特権という報いを,そして神の新秩序においては永遠の命の報いを受ける希望を持つことができます。―テモテ後 4:8。
-
-
読者からの質問ものみの塔 1973 | 7月15日
-
-
読者からの質問
● 申命記 6章8,9節によれば,イスラエル人は,『神の律法を手に結んでしるし』とし,『目の間において誌とする』よう命じられていました。これは文字どおりに解釈すべきでしょうか。―アメリカの読者より
多くの注釈者はこの命令を文字どおりに適用してきました。この句はまた,聖句箱(聖句を収めた小箱)を身につける習慣を支持する聖句の一つとして用いられています。しかしながら,その文脈と他の聖句を調べてみると,それは明らかに比喩的な意味で適用されるものであることがわかります。
申命記 6章6節から9節にはこうしるされています。『今日わが汝に命ずるこれらのことばは汝これをその心にあらしめ つとめて汝の子どもらに教え 家に座する時も道を歩む時も寝る時も起くる時もこれを語るべし 汝またこれを汝の手に結びてしるしとなし汝の目の間におきて誌となし また汝の家の柱と汝の門に書き記すべし』。
この句は,その命令を何かの上に書いて,目の間か手の上につける,あるいは柱や門に取りつけるようにとは言っていないことに注意すべきでしょう。その命令は,「しるし」として手に結ばれ,「誌」つまり額につける帯飾りとしての役をすることになっていたのです。したがって,この句の表わしている考えは明らかに,箴言 7章2,3節が次のように述べることとたいへんよく似ています。『わが誡命をまもりて命をえよ わが法を守ること汝のひとみを守るがごとくせよ これを汝の指にむすび これを汝の心の碑にしるせ』。明かにこれは文字どおりの意味のことを言っているのではありません。誡命を文字どおり心に書きしるすのは不可能なことですし,命令を書きしるしたものを指に結びつけたのでは,仕事をするのに妨害になるに過ぎません。それでは何ら目的達成に資するものではありません。
同様に,過ぎ越し,つまりエジプトからの救出の記念の祝いに関してエホバはイスラエル人にこう命じられました。『これをなんじの手におきてしるしとなし汝の目の間におきておぼえとなしてエホバの法律を汝の口にあらしむべし そはエホバ能ある手をもて汝をエジプトより導きいだしたまえばなり』。(出エジプト 13:9)ここでもまた,その記念の祝いそのものを文字どおり彼らの手に縛りつけられるわけでもなければ,祝いそれ自体が目の間の文字どおりのおぼえ,つまり記念物としての役割を果たすわけでもないことは明らかです。しかし,イスラエル人は,自分たちのために神がしてくださったことを,あたかも目の間の銘板に書かれているかのように,あるいはあたかも手につけられているしるしでもあるかのように絶えず念頭におくことはできたでしょう。
同様に,イスラエル人は家にいようと,あるいはよく人びとが集まったり,都市の長老たちが法律上の事件を取り扱ったりした都市の門の近くにいようとも,とにかく常にエホバのご命令を自分の前に置くことができました。イスラエル人は神の律法を単に自分の心の中に保持するだけでなく,それを子どもに教えることになっていました。また,神の律法を固守していることを,(手で表わすように)行動によって実際に示すべきでした。あたかも神の律法がだれにでも見えるよう,目の間に書きしるされてでもいるかのように,彼らは自分たちが律法の支持者であることを公に明らかにすべきでした。そうするのは,神の律法のどれかの句を文字どおり身につけたり,入口の柱や門に書きしるしたりするよりも,忠実を保つのにはるかに効果的な方法だったでしょう。
偽善的な人でさえ,その気になれば,聖句を収めた入れ物を身につけることができたでしょう。事実,イエス・キリストは,「お守りとして身につける聖句入れの幅を広げ」たことでパリサイ人を非難されました。(マタイ 23:5,新)そのような入れ物を大きくすることによって,彼らは律法に対する熱意のほどを誇示し,他の人びとを感心させようと考えていたようです。しかし,パリサイ人は律法の真の意図を無視していました。したがって,その外面的な表示は無意味でした。
確かにわたしたちは今日,自分がエホバの従順なしもべであることを実証したいと心から願うべきです。それには,感謝の心に動かされて,しるされた神のみことばの導きに従順に答え応ずるべきでしょう。また,わたしたちの思いは,まじめなこと,義にかなっていること,愛すべきこと,徳とされること,貞潔なこと,賞賛すべきことに向けられているべきでしょう。(ピリピ 4:8,新)わたしたちは何をするにしても,「人にではなくエホバに対するように魂をこめて」努力すべきです。(コロサイ 3:23,新)そうです,わたしたちの行動はすべて,神の命令が常にわたしたちの前にあることを実証するものであってしかるべきなのです。
● エホバの証人は陪審義務についてどんな態度を取っていますか。
エホバの証人は,陪審義務に関して人が何を行なうかは,良心
-