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  • 満足感を抱くことは可能ですか
    ものみの塔 1981 | 6月1日
    • 安全な熱帯の孤島などありません。航空機やマスコミが発達し,その上,大気まで汚染されてしまった今日,完全な安全と静寂を見いだせる場所はどこにもありません。では,このことは,老若男女を問わずすべての人が不幸で不満足な生活を送らざるを得ないという意味でしょうか。そのようなことはありません。自分の置かれた境遇に満足することができるだろうかという,切実な問いについて考える時,そのことが明らかになります。

  • 自分の置かれた境遇に満足することができますか
    ものみの塔 1981 | 6月1日
    • 自分の置かれた境遇に満足することができますか

      「二人の天使が天から遣わされ,一人が帝国を管理するように,他の一人が街路の掃除をするように割り当てられても,どちらも仕事を換えてもらいたいなどとは思わないだろう」。2世紀ほど前に英国の僧職者ジョン・ニュートンはこのように語りました。これは,自分の置かれた境遇に満足するという問題に関連した一つの見方を示しています。

      では,満足を覚えるということには何が関係しているでしょうか。それには,自分の置かれた状況に十分満ち足りているという持続する内的感情が関係しています。そうした人は不平を言ったり粗捜しをしたりすることがありません。ある辞書は,「満足している」という言葉を,「気が楽なこと。とりわけ自分の置かれた境遇に満ち足りていること」と定義しています。あなたはいかがですか。内心では,別の仕事,別の家庭,別の配偶者を願い求めているでしょうか。欲望が募って平衡を欠くところまで来ているでしょうか。

      満足するといっても,状況の改善を図って真剣な努力を全く払ってはならないという意味ではありません。進取の精神は一切押し殺し,その日暮らしをすればよいというのでもありません。そうではなく,満足するということは,何かを渇望する余り,のべつ不平を言う不幸な人になってはならないことを意味しています。

      自分の境遇に満足した人の模範

      クリスチャンの使徒パウロの模範について考えてみましょう。ローマ市民で,恐らくはヘブライ人の名家の出であったと思われるパウロは,学識豊かなガマリエルの門下で律法を研究し,仲間のパリサイ人の尊敬を得ていました。しかし,どんなことが生じたでしょうか。み子を通してエホバ神に召され,「良いたより」を宣べ伝える者になりました。クリスチャン会衆の他の人々の重荷となることを避け,自活するために,パウロは手ずから働きました。これによって都市から都市に自由に移動し,宣教活動の必要な所へ赴くことができました。福音宣明者としてのその業は,殴打や石打ち,むち打ちなどを含む,幾多の迫害をもたらしました。では,パウロは満足感を味わっていたでしょうか。

      フィリピ人に宛てた手紙の中で,パウロは次のように書きました。「わたしは実際のところ,わたしの主キリスト・イエスに関する知識の優れた価値のゆえに,いっさいのことを損とさえ考えています。彼のゆえにわたしはすべてのものを損失しましたが,それらを多くのあくたのように考えています。それは,自分がキリストをかち得(るためです)。わたしは,どんな境遇にあろうとも自足する[「満足する」,欄外注]ことを学び知った(の)です」。(フィリピ 3:8; 4:11)確かに使徒パウロは,神への忠実な奉仕から真の満足を得ました。

      不満を抱くことへの警告となる例

      しかし,不満を抱き,悲惨な結末を身に招いた人もいます。最初の女性エバには,完全な夫がおり,

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