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1世紀の出来事の年代は20世紀の今日どのように定められるかものみの塔 1968 | 11月15日
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ます。―ロマ 11:13。ガラテヤ 2:8,9。
19 パウロは与えられた割当てにかんして36年までに用意を整えていましたか。
19 その西暦36年,もはやパウロは新しく改宗したばかりの新参者ではありませんでした。ユダヤ人でしたから,36年まで待って改宗する必要はありませんでした。33年,イエスが活動舞台を去ったのちの最初の年に,彼は真理の光に打たれたものと思われます。その後,2年か2年半,パウロはダマスコで働き,ついには,かごに入れられて,その町の城壁の穴から吊りおろされて脱出する羽目にあいました。しばらくのあいだアラビアに行っていた彼は,ついにダマスコに戻り,まもなくエルサレムに上りました。それは改宗して3年後であるとパウロ自身述べていますから,エルサレムでペテロとヤコブを初めて尋ねたのは西暦36年のことです。彼はこう述べています。「その後シリヤ,キリキヤの地方に往けり」― 使行 9:3-25。ガラテヤ 1:15-21。
20 エルサレムにある統治体が割礼の問題で決定を下したのはいつですか。
20 ガラテヤ人にあてたこの同じ手紙の中でパウロはさらにこうしるしています。「そののち十四年をへて…またエルサレムにのぼれり」。(ガラテヤ 2:1)序数を用いる当時の計算の仕方に従えば,36年から数えて第14年は西暦49年となります。エルサレムを訪問したこの時に持ち上がったのが割礼の問題で,それは統治体に提出され,落着しました。―使行 15:2-29。ガラテヤ 2:3-9。
21,22 聖書にしるされているどんな出来事が西暦41-49年の間に起こりましたか。
21 西暦36年から49年にはほかにも興味深い出来事が起こっており,それは聖書にしるされています。たとえば,クラウディウスが皇帝のころ,ヘロデ・アグリッパ1世の没する少し前,預言者アガボはエホバの霊に動かされて,来たるべき飢饉を預言し,使徒ヤコブはヘロデの手にかかって殉教し,またペテロはエホバの御使いの助けで,その同じ窮地より救い出されました。―使行 11:27–12:11。
22 それらの出来事が西暦44年に起こったことは,一般の歴史でも認められています。クラウディウスの即位が宣言されたのは41年であり,ヘロデ・アグリッパ1世が虫に食いつくされて死んだのは,西暦44年の過ぎ越しののちだからです。(使行 12:21-23)しかし預言された飢饉は46年になるまで生じませんでした。当時,ユダヤのローマ行政長官はチベリウス・アレクサンダーでした。それで満2年の余裕があったので,アンテオケのクリスチャンは緊急事態に備え,記録にあるとおり救援対策を設け,万全を期すことができました。これらの出来事ののち,ひきつづき聖書の使徒行伝 13,14章にはパウロの第1回宣教旅行のことがしるされています。バルナバを同伴したパウロはキプロス島を訪れ,その後シリヤのアンテオケに戻る前に,小アジアの多くの都市を尋ねました。この第1回旅行は47年そして48年の大半に及んだようですが,前述のとおり49年の春エルサレムに上る以前に,郷里アンテオケに戻る余裕も十分にありました。
パウロの宣教上の他の出来事の年代を定める
23,24 パウロが波乱に富む第2回宣教旅行に上ったのはいつですか。そして,ギリシャのコリントに着くにはどれほどかかりましたか。
23 さて,西暦49年から52年にわたるパウロの第2回宣教旅行の行程中の日付を定めるのに,聖書のすぐれた記録がいかに役だつかを見てください。エルサレムの統治体によって作成された特別の手紙を携えたパウロは,49年の春アンテオケに戻りました。その写しはわたしたちのために保存されています。(使行 15:23-29)記録によれば,「数日ののち」,そしておそらくその同じ年,49年の夏のころ,バルナバはキプロスでのわざに戻りましたが,パウロとシラスはシリアおよび隣りのキリキアの諸会衆で奉仕するため旅立ちました。―使行 15:36-41。
24 ゆえにパウロとシラスが小アジアに移り,そこを通って初めてヨーロッパにはいったのは西暦50年の春に違いありません。(使行 1:1-12)その後の6か月間はきわめて忙しい時でした。これら開拓者たちは,新たな道を切り開き,50年の秋にコリントに達する前に,ピリピ,テサロニケ,ベレアそしてアテネに新しい会衆を設立したのです。何という目まぐるしい奉仕の年だったのでしょう! 考えてみてください。およそ15か月の短時日に,1世紀のこれら宣教者たちは優に2000キロを越す旅路を,おそらくその大部分を徒歩で進み,そのうえ,ユダヤ人および異邦人から成る数多くの新しい会衆を設立したのです。
25 パウロは西暦50年の終わりごろにはコリントに着きましたが,このことを示すどんな歴史的証拠がありますか。
25 パウロがコリントに着いたのは50年の終わりごろでした。このことは一般の歴史の上でも確証されています。5世紀初頭の史家パウロス・オロシウスによれば,クラウディウス皇帝が全ユダヤ人に対してローマからの退去を命じたのは50年の1月25日でした。時を移さずアクラとプリスキラは持ち物をまとめ,通行許可証を入手し,まもなく出帆し,しばらくしてコリントに着きました。その後,1年半ほど住むことになった新しい家に落ち着き,テントを作る仕事にとりかかったのです。そのすべては,パウロが同年の秋コリントに着くまでの何か月かの間に生じました。聖書はこうしるしています。「パウロ…アクラといふ…ユダヤ人に遇ふ。クラウデオ,ユダヤ人にことごとくロマを退くべき命を下したるによりて,近頃その妻プリスキラとともにイタリヤよりきたりし者なり」― 使行 18:2。
26 パウロがコリントに50年の秋から52年の春まで滞在したことを確証するどんな証拠を考古学者は発見しましたか。
26 同じ使徒行伝 18章の12節の記録は,聖書の歴史上の記述の正確さを証明するもう一つの例となります。その句は次のとおりです。「ガリオ,アカヤの総督たる時,ユダヤ人,心を一つにしてパウロを攻め,さばきの座にひきゆ(く)」。考古学者は,皇帝クラウディウスの勅令をしるした,碑文の断片を発見しました。そしてガリオは51年の夏から52年の夏までアカヤの総督だったことが証明されました。ガリオによってその訴えが却下されたのち,パウロは,シリヤのアンテオケに向けて出発するまで,コリントに久しくとどまりました。(使行 18:18)それでパウロはコリントに50年の秋ごろ着き,1年ほどしてガリオの前に引き出され,その後,聖書にしるされているように,合わせて18か月とどまったのち,52年の春その地を去りました。(使行 18:11)こうして彼は,西暦52年盛夏,アンテオケに着くこととなりました。
27 故郷アンテオケに戻った今,パウロは安心して隠退しましたか。
27 全時間宣教者奉仕の多忙な長い歳月を経,かつ1世紀当時の旅行に伴う危険や苦難をことごとく耐えたパウロは,隠退してここアンテオケに落ち着き,安楽な老後を送ったのではなかろうかと考える人があるかもしれません。(コリント後 11:26,27)しかしそうではありません! パウロはひとときといえども隠退を考えませんでした。その書簡,その活動のすべてには,なおいっそう迅速に,かつ効果的にわざを推し進めねばならないとの絶えざる緊急感がうかがえます。
28 パウロの第3回宣教旅行に関し,訪れた場所およびその期間について述べなさい。
28 ですから,アンテオケにしばしとどまったのち,この精力的な宣教者は再び旅立ちますが,驚くにはあたりません。アンテオケに「しばらくとどまりてのち」,おそらく52年の秋ごろ,彼は3回目の旅行を始めました。このたびは陸路,「ガラテヤ,フルギヤの地を次々にへてすべての弟子を堅う(し)」,エペソに着き,そこにその後2年半とどまりました。(使行 18:23; 19:1-10)次に,彼はそのことばどおり,五旬節の祝い(55年)ののち,マケドニヤを経て,コリントに下り,その地で冬を過ごし,今度は同じ道筋を戻って翌年春の過ぎ起しの時にはピリピにたどり着きました。こうしてパウロは西暦56年の五旬節までにはエルサレムに戻ることができたのです。―コリント前 16:5-8。使行 20:1-3,6,15,16; 21:8,15-17。
29 エルサレムで捕えられてから,ローマで死ぬ時までにパウロが経験した事柄の年代は,どのように定められますか。
29 しかしエルサレムに着くやいなやパウロは宗教上の敵対者から直ちに襲われ,不本意にもローマ軍の手でひそかにカイザリアに向けて護送されました。そして,わいろをこととする狡猾な総督ヘリクスに代わってフェストが任官するまで2年間,拘禁されました。(使行 21:27-33; 23:23-35; 24:27)フェストが総督となった年にかんして大英百科事典は,55年あるいは60-61年として互いに争い合う批評家二派についてこう述べています。「真実はそれら両極端の中間にあると確言できよう。それは,いずれの側の論議も相手側の誤まりを証明できるほどに一方の極端を証明してはいないと思えるからである」。d ゆえに,前述のすべての事実に照らして考えるとき,パウロが皇帝に上訴して,聞き届けられ,ローマに向けて出帆した時としては,58年が妥当であると言えるでしょう。歴史に残る最も有名な難船にあって命拾いをしたのち,マルタ島で一冬を過ごし,翌59年の春,ローマに着いたパウロは,囚人として2年その地にとどまり,61年まで伝道し,また教えました。(使行 27:1; 28:1,11,16,30,31)パウロはローマでの2度目の投獄の際に殉教の死を遂げましたが,その期間はおそらく西暦64-65年のころでしょう。―テモテ後 1:16; 4:6,7。
30 1世紀の出来事をこうして調べることにはどんな益がありますか。
30 以上,1世紀の出来事を回顧してみましたが,それはいずれも興味深く,かつ信仰を強めるものでした。聖書の筆者は現代の暦法については何も知りませんでしたが,出来事の日付を記録するに際して用いた方法,その慎重さおよび正確さは,古代のさまざまな事件を時間の流れの中で正確に位置づけるのにいかに貢献しているかがわかります。聖書の年代表が詳細な点でも調和しており,真実が正しく取り扱われていることを知り,聖書に対するわたしたちの確信と信頼の念はさらに深められ,聖書はまさしく真理をしるしたエホバのみことばであるとの信仰はますます深められます。
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『すべての国の民への証言』ものみの塔 1968 | 11月15日
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『すべての国の民への証言』
エホバの証人の1968年度年鑑より
ザンビア共和国
人口: 3,780,000人
伝道者最高数: 35,525人
比率: 106人に1人
何千人もの生徒が放校され,わざを禁止するという政府官憲の脅迫は後を絶ちません。ラジオや新聞には間違って報道され,仕事ははく奪され,暴徒に襲われることさえあります。こうした中でザンビアの兄弟たちはひるむことなく,停滞することなくかえって全分野にわたって奉仕を拡大しました。
北西領域にある孤立した地方,カボンポという所に,女や子供も含めて400人ばかりの兄弟が特別な集会のために集まっていました。プログラムの始まる
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