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  • あなたの創造者をあなたの若い成年の日に覚える
    ものみの塔 1971 | 9月15日
    • 自分には何ができるか自問してみてください。あなたが親であるならば,子どもたちが確かにエホバの賛美者となるよう,よりいっそうの配慮と注意を払ってください。あなたがエホバのクリスチャン証人の会衆と交わっておられるならば,エホバとその意志を行なうことに対する熱心さと献身の面で模範を示すことによって若者を助けるという点で何を行なえるか尋ねてみてください。自分はできるかぎりのことをしているのだ,と決め込まないでください。改善の余地は常にあるものです。若い人たちとの意志の疎通を図り,それを保つことに適切な関心を払い,また若い人たちがそれに応じた行動を言,行状,愛,信仰そして潔さに表わすならば,人類の創造者であられるエホバ神に多大の賛美がもたらされるでしょう。そうなれば,すべての人がこぞって,詩篇作者の次のことばを遂行できるのです。「エホバをほめたゝへよ もろもろの天よりエホバをほめたゝへよ もろもろの高所にてエホバをほめたゝへよ 地よりエホバをほめたゝへよ…少きをのこ 若きをみな 老たる人 をさなきものよ みなエホバの聖名をほめたゝふべし その聖名はたかくして類なく そのえいくわうは地よりも天よりもうへにあればなり」― 詩 148:1,7,12,13。

  • 『平和を好む人は幸福です』
    ものみの塔 1971 | 9月15日
    • 『平和を好む人は幸福です』

      親が子どもといっしょに読む特別な記事

      いつも大きくて強そうに見せようとする男の子を知っていますか。あなたはそんな人たちといっしょにいたいと思いますか。それとも平和を好む人たちといっしょにいるほうがすきですか。

      偉大な師は,神がどんな人々を好まれるかを知っておられました。そして,『平和を好む人々は幸福である。彼らは,「神の子たち」と呼ばれることになるからである』といわれました。わたしたちがなりたいのはそのような人ですね。わたしたちは平和を好む人になりたいと思います。―マタイ 5:9。

      でも,他の人がわたしたちをおこらせるようなことをする時があります。そして,その人にしかえしをしたくなるかもしれません。そのような事がイエスの弟子たちに起きたことがあります。

      弟子たちはイエスといっしょにエルサレムに向かって旅をしていました。しばらく行くと,イエスは休む所をみつけるためにある者を先に村へつかわしました。しかしその村の人々は彼らがとまるのをいやがりました。その人々はちがう宗教を持っていて,崇拝のためにエルサレムへ行く人を好まなかったのです。

      もしそうしたことがあなたに起きたら,あなたはどうしたでしょうか。おこっていたでしょうか。その人々にしかえしをしたいと思ったでしょうか。

      弟子のヤコブとヨハネはしかえしをしたいと思いました。そして,『天から火が降るように命じて彼らを滅ぼしましょうか』とイエスにいいました。しかしイエスは,他の人々をそのようにあつかうのは正しくない,とイエスにいわれました。―ルカ 9:51-56。

      人々がときどきわたしたちにいじわるをすることがあるのはたしかです。あなたをのけものにしていっしょに遊んでくれないかもしれません。「むこうへ行ってよ」ということさえあるかもしれません。そのようなことがおきると,いやな気分になりますね。その人たちに何かしかえしをしたくなるかもしれません。でも,しかえしをすべきですか。

      どうぞあなたの聖書を持ってきてください。そして,箴言 24章29節(口語)をあけてみましょう。そこにはこう書かれています。「『彼がわたしにしたように,わたしも彼にしよう,わたしは人がしたところにしたがって,その人に報いよう』といってはならない」。

      これはあなたにとってどんな意味がありますか。しかえしをしようとしてはいけないということです。他の人がわたしたちにいじわるをしたからといって,わたしたちがその人にいじわるをすべきではありません。神はわたしたちがそうすることを望んでおられません。

      でも,もしだれかがあなたとけんかをしようとしたらどうでしょう。あなたをいろいろなあだなで呼んで,おこらせようとするかもしれません。あなたをあざけって,こわいんだろう,というかもしれません。たぶんいくじなしというでしょう。あなたはどうすべきですか。けんかに引きこまれてしまってよいでしょうか。

      聖書になんと書かれているか,もう一度見てみましょう。マタイ伝 5章39節(新)をしらべると,そこでイエスは,「邪悪な者に手向かってはなりません。あなたの右のほほを打つ者がだれでも,あなたはその者に他方[のほほ]をも向けなさい」と言われています。

      イエスがここでいわれた意味は何ですか。だれかがあなたのほほの一方をげんこつでぶったなら他方をもぶたせなければいけないという意味ですか,いいえ,イエスのいわれたことの意味はそうではありません。

      打つというのはげんこつでぶつというより,押すとか押しのけることです。けんかを売るためにそうするのです。わたしたちをおこらせたいからです。それで,もしわたしたちがおこったり押しかえしたりしたら,何が起きますか。おそらくけんかになってしまうでしょう。

      イエスはご自分に従う人々がそのようにふるまうことを望まれなかったのです。それで,だれかがわたしたちを打っても打ちかえすべきではないといわれました。おこって,けんかをしてはなりません。もしそんなことをすれば,わたしたちはけんかをはじめた人と少しも変わらないことになります。

      問題が起きたとき一番良いのは,立ち去ることです。あいての人はもう二,三回あなたを押すか,押しのけるかもしれませんが,それでおしまいになるでしょう。あなたが立ち去っても,それはあなたが弱いことにはなりません。正しい事柄に対してあなたが強いことを示しているのです。

      では,他の人たちがけんかをしているのを見たならどうすべきですか。そこにわりこんで,どちらか一方の味方をしなければなりませんか。

      聖書は何が正しい事柄かを述べています。箴言 26章17節(口語)を調べましょう。そこにはこう書かれています。「自分に関係のない争いにたずさわる者は,通りすぎる犬の耳をとらえる者のようだ」。

      犬の耳をつかんだら,どんなことが起きますか。犬はいたいので,あなたにかみつくでしょうね。犬がもがけばもがくほど,犬の耳をもっとしっかりとにぎります。そうすると,犬はいっそうこうふんしますから,はなしてやったときにはあなたをひどくかむことでしょう。そうかといって,あなたはそこに立ったまま,いつまでも犬の耳をつかんでいられますか。

      さて,他の人のけんかにまきこまれると,それと同じような困ったことになるのです。わたしたちは,だれがそのけんかを始めたのか,また,その人たちがなぜけんかをしているのか知らないかもしれません。一方の人がたたかれていても,その人はあいての人から何かをぬすんだのかもしれません。もしその人を助けたなら,どろぼうを助けたことになります。それはよくありませんね。では,けんかを見たらどうすべきですか。それが学校でのことなら先生のところへ走っていって知らせることができます。学校から遠く離れているところでのことなら,おまわりさんを呼べます。

      他の人がけんかをしたいと思っても,わたしたちは平和を好む者になれます。他の人はけんかをしたいと思うかもしれません。でもわたしたちは,自分が正しい事柄に対して強いことを示せます。

      平和を好む者は幸福である。彼らは「神の子たち」と呼ばれることになるからである。―マタイ 5:9,新。

  • あなたは人々の励みとなるクリスチャンですか
    ものみの塔 1971 | 9月15日
    • あなたは人々の励みとなるクリスチャンですか

      人の助けになることをして得られる喜びほど清く純粋な満足を自分の生活にもたらすものはありません。とはいえ,あなたは困っている人に施しができるほどこの世の財産を多くは持っておられないかもしれません。時間や体力の面でも同様にたいへん限られているかもしれません。しかし,神のしもべである仲間の人々に愛を示すために,あなたに必ずできることが一つあります。それは人々の励みとなることです。

      人々の励みとなるとは,他の人の自信や希望を強めるような話をしたり行ないをしたりすることです。事実,英語の「カリジュ(勇気)」ということばはフランス語で「心」を意味するクールを語源としています。ですから,人々の励みとなるとは心を強めることを意味します。

      他の人々が忍耐し,しんぼうし,神の奉仕から『落後』しないよう,励ましを与えることによって助けられます。そうすれば,彼らがいっそうすぐれたクリスチャンになるのを助けることになるのです。「矯正には効果があるが,励ましにはさらに多くの効果がある。譴責された後の励ましは夕立ちの後の陽光のようである」とはよくいったものです。

      励みとなった人々の例は聖書の中にたくさんあります。使徒パウロが,争い合っているパリサイ派とサドカイ派の人々にあやうく引き裂かれるところをローマの兵士たちによって救い出された日の夜,主イエスは彼に現われてこう言われました。「勇気をだしなさい! あなたは,わたしにかんする事柄についてエルサレムで徹底的な証をしてきたように,ローマでもまたそのように証をしなければならないからです」。(使行 23:11,新)そうした試練のときにあったパウロは,

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