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  • 完全 ― それはいったい何を意味するのですか
    ものみの塔 1971 | 11月15日
    • の人間夫婦も,完全であるためにはそうあるべきではなかったのですか。

      いいえ。なぜですか。なぜなら彼らは機械として,あるいは機械のような働きをするものとして作られたのではなかったからです。造り主である神は,彼らが自由な道徳行動を取るよう,すなわち個人の道徳的決定をなし,正誤および従順と不従順とを選べるよう意図されました。造り主が標準と必要条件を定め,その意志が物事を律することを思い出してください。したがって,この選択能力を持っていなかったなら,彼らは神の標準によると実際には未完成であり,不完全であったことでしょう。―創世 2:15-17; 3:2,3,申命 30:19,20,ヨシュア 24:15と比較してください。

      しかしかりにだれかが,「ですが,彼らが完全であったのなら,正しいことのみを選んだはずです」と異議を唱えたとしましょう。これは,彼らには選択するすべがなかった,ということと同じです。一つのことしか「選ぶ」ことができないのなら,実際には全然選んでいないわけだからです。したがってそうした論議は,神ご自身の標準を個人の考えで置き換えているにすぎません。神の標準は,その人間夫婦が善か悪かを選べることを要求したのです。なぜですか。なぜなら,そうであってはじめて,愛が問題となってくるからです。従わざるをえないから従うというのでは,彼らの奉仕は機械的なものです。しかし神は両人に選択能力を付与されました。それは彼らが自分の心の中の愛ゆえに奉仕することができるためです。あるいは,自分たちの心が利己的になり,それゆえ,不従順になることも可能でした。どうしてそのようなことが起こりうるのでしょうか。

      それは彼らが自分の心を何によって養ったかに依存しています。動機付けは心に発しているのです。彼らの身体は完全とはいえ,良い働きをするためには正しい種類の食物を必要としたように,両人は自分の心を正しい考えや推理によって養わねばなりませんでした。完全なアダムは汚物や砂利また材木を食べることはできませんしたが,それでも完全な肉体の健康を享受できたのです。空気のかわりに水を呼吸しようものなら,おぼれ死んだことでしょう。彼の完全さは相対的であり,人間の生命の領域に限られていました。同じく,もしアダムが自分の思いと心を誤った考えで養うことを選ぶなら,それは誤った欲望をいだくことになり,ついには罪と死がもたらされます。これと全く同じことが生じたのです。つまり,アダムは自分自身が選んだ不従順によって不完全に陥ったのです。―ヤコブ 1:14,15。創世 1:29,マタイ 4:4を比較してください。

      人類は地上における完全さに戻る

      エホバ神は「〔ご意志〕の天のごとく,地にも行はれん事を」との祈りに答えて,ご自分の標準に達しないもの,ご自分の義の目的にかなわないものを地球からことごとく取り除こうとしておられます。神の約束によって,その結果,『今よりのち涙も,死,悲歎も,号叫も,苦痛もなくなる』のです。(マタイ 6:10〔新〕。黙示 21:3-5)ご自分のみ子の天の王国が地の住民を統治する一千年の間,従順な人々には,罪を犯す前の最初の人間夫婦の状態に等しい,身体的および精神的な完全さがもたらされます。―コリント前 15:25,26。黙示 20:4-6。

      これは『生きることからいっさいの挑戦を除き去り』,人生を『機械的に定められた単調なもの』にするでしょうか。正反対です。ある人がこうした考えを持つ理由は,完全な人間であれば,当人が欲するものはほとんどなんでも,努力らしい努力をしないで行なえると想像することにあります。たとえば,バイオリンをひくことにしようと決心するとします。それなら,バイオリンを一度も手にしたことがないのにその楽器を取り上げて,サラサーテのチゴイネルワイゼン(ジプシーの旋律)を一つのミスもしないでひける,とある人は考えるようです。しかしこれは単に想像上の理想にすぎず,聖書はそのような考え方を示してはいません。

      イエス・キリストは完全な人間として生まれましたが,それでもすべての赤ん坊と同様に,堅い食物を食べること,歩くこと,話すことを学ばねばなりませんでした。イエスが養父のヨセフとともに大工の仕事をしたことはありうることですが,そうなら,大工道具を使う技術を学ばねばならなかったのは当然です。彼が完全だからといって,その技術は自動的に得られたのではありません。他の知識,ご自分の父のみことばや目的に関する知識についても同じです。ルカ伝 2章52節で,12歳以降のイエスについて述べられているとおりです。「イエス知恵も身のたけも弥増り神と人とにますます愛せられ給ふ」― ルカ 2:42-52。

      そうであれば,完全さは生きることの挑戦を除去するものとはなりません。各の仕事には解決されねばならない個有の問題があり,努力,熟考,計画がやはり要求されます。しかし,完全さは,不完全で罪に支配された世界における生活が今日わたしたちにもたらしている挫折感,失意の念,むなしさなどを取り除くことになります。今の世では,たとえ最善の努力をしても,障害にあったり,人生があまりに短かったりして挫折させられるか,罪深い性質からくる弱点のゆえに失敗させられることが何度となくあります。

      神の新しい秩序のもとで生きる人々にとって,永遠の命という見込みそれ自体が,もっともっと多くのことを学びたい,自分たちの住んでいるすばらしい地球と,神の造られた途方もない変化に富む創造物とについてさらに多くを学びたいとの挑戦を与えるものとなるでしょう。すべての人の生産力,独創力,機知と進取の気性,発明の才と創意が挑戦を受けるのです。各人が作る家・庭・衣服・手芸品・芸術品などはその人自身の好みや目的を反映し,しかもそうした好みや目的はすべて神の意志と一致するのです。これは全地に尽きることのない変化が見られる保証を与えるものであり,決して単一さや単調さが存在することにはなりません。

      では,真に価値のある知識の偉大な源から今,できるかぎり学ぶべきであることを認識してください。「神は其道〔完全なり〕エホバの言は純粋なし」ということを認めてください。そのみことばに信頼して,それを今自分の生活で実践し,将来に関する神の約束にたより,エホバを避け所また強さの源としてください。そうすれば,詩篇作者とともにこう言えるのです。「神はちからをわれに帯しめ わが途を〔完全な〕ものとなしたまふ」― 詩 18:30-32〔新〕。

  • 霊の奇跡的な賜物はなぜ絶えたのか
    ものみの塔 1971 | 11月15日
    • 霊の奇跡的な賜物はなぜ絶えたのか

      1,900年前,目に見えない神はご自分のみ子イエス・キリストを通しての救いの良いたよりを強力に支持されました。何によってですか。

      ヘブル書の記述者は,モーセの律法契約下にあったクリスチャンに語りかけながら,それがどのようになされたかをこう述べています。「神また徴と不思議と,さまざまの能力ある業と,御旨のままに分ち与ふる聖霊とをもて証を加へたまへり」。(ヘブル 2:1-4)そうです,神はこの手段によって同時に,新しい契約下にある新たに設立されたクリスチャン会衆とかかわりを持って

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