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第1部 ― アメリカ合衆国1976 エホバの証人の年鑑
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その時傍聴席にいたジェイムズ・グウィン・ジーは,「わたしは行って兄弟たちがこの不公正で筋の通らない裁判に服させられていた間中ずっと兄弟たちと共に苦しみました」と述べ,さらにこう続けています。「今だに忘れられないのは,裁判官がラザフォード兄弟に弁論の機会を与えようとしなかったことです。『この法廷で聖書は通用しません』と裁判官は言いました。その夜,わたしはM・A・ハウレット兄弟とベテルに留まりましたが,10時ごろ,兄弟たちが有罪となったという知らせを受けました。刑が宣告されたのは翌日でした」。
不正な有罪判決を受け,厳しい刑を言い渡されたにもかかわらず,ラザフォード兄弟とその仲間は恐れませんでした。興味深いことに,1918年6月22日のニューヨーク・トリビューン紙は次のように報じました。「ジョセフ・F・ラザフォードと『ラッセル派』の他の6人は,スパイ法違反で昨日ハウ裁判官により有罪と宣告され,アトランタの刑務所で20年間の服役を言い渡された。『これはわたしの生涯で,もっとも幸福な日です。自分の宗教上の信念のために,地上で罰を受けることは,人間の最大の特権のひとつです』,とラザフォード氏は法廷から刑務所へ向かう途中語った。有罪の宣告を受けた者たちが大陪審室につれて行かれてからすぐ,ブルックリンの連邦裁判所の事務所では,今までにない非常に珍しいデモンストレーションが彼らの家族や親しい友人たちによって行なわれた。全員が古い建物を『結ばれるきずなに幸いあれ』という歌で鳴り響かせたのである。彼らは,ほとんど輝かしいといった顔つきで,『これはすべて神のご意志だ。いつか世界は,このすべての意味を悟るようになるであろう。さしあたり,わたしたちは試練の時にわたしたちを支えてくださった神の恵みに感謝し,来たらんとする「大いなる日」を待ち望もうではないか』と語り合っていた」。
兄弟たちは上告している間に,二度にわたり保釈されるよう努力しましたが,最初はハウ判事により,二度目にはマーチン・T・マントン判事により差し止められました。そうしている間に,兄弟たちは,まず,ブルックリンのレイモンド・ストリート刑務所に入れられました。A・H・マクミランによれば,そこは,「今まで入った中で一番汚い穴倉」でした。クレイトン・J・ウッドワースはそこを「ホテル・ド・レイモンディ」とおどけて呼びました。その不快な刑務所で一週間過ごした後に,ロング・アイランド・シティー刑務所でもう一週間過ごしました。そして,ついに,アメリカ合衆国の独立記念日に当たる7月4日,不正にも有罪とされたそれらの人々は,ジョージア州アトランタ刑務所へ汽車で送られたのです。
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第2部 ― アメリカ合衆国1976 エホバの証人の年鑑
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第2部 ― アメリカ合衆国
敵は大いに喜ぶ
それらエホバのクリスチャン証人たちの投獄は,象徴的に言って致命的な打撃でしたから,敵にとっては大きな喜びと安どを与えるものとなりました。啓示 11章10節に出ている次のことばが成就したのです。「また,地に住む者たちは彼らのことで喜びまた楽しみ,互いに贈り物を交すであろう。これらふたりの預言者は地に住む者たちを責め苦に遭わせたからである」。「ふたりの証人」に対する,宗教上,司法上,軍事上および政治上の敵たちは,自分たちを責め苦に遭わせた者たちに勝利を収めるうえでそれぞれ貢献したことを互いに祝い,そのようにして互いに『贈り物を交し』ました。
レイ・H・アブラムズは,自著「説教者が武器を捧げる」の中で,J・F・ラザフォードとその仲間たちの裁判を考察し,次のように述べています。
「事件全体を分析すると,教会と聖職者たちが最初から,ラッセル派を消し去ろうとする動きの背後にいたという結論に達する。……
「20年の刑が宣告されたというニュースが宗教新聞の編集者に届くと,大小を問わずそうした刊行物の文字どおりすべてが,そのことを喜んだ。正統派の宗教雑誌のどれひとつを取っても,その中に同情のことばひとつ見いだせなかった。アプトン・シンクレアはこう結論している。『彼らが「正統派」宗教諸団体の憎しみをかったことが一部理由となって,迫害が……起こったということに疑問の余地はない』。諸教会の結束した努力が失敗したこと,― それら『バアルの預言者たち』を永遠に打ち砕くことを,今度は政府が彼らに代わって成し遂げることに成功したようである」。
『バビロンの捕われ』にもかかわらず楽観的
西暦前607年から537年にかけて,古代バビロンに捕われの身となっていたユダヤ人は不活発になっていました。同様に,エホバの献身した崇拝者でその聖霊を注がれた人々は,第一次世界大戦の行なわれた1914年から1918年の期間中,バビロンの捕われの状態に陥り流刑に処されました。協会本部の8人の忠実な兄弟が,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に監禁された時に,捕われの状態の深刻さは特に感じられました。
しかし,こうした困難な期間全体を通して,「ものみの塔」誌は一号も欠けることなく印刷されました。任命された編集委員会は同誌を発行し続けたのです。さらに,当時難しい事態に直面したにもかかわらず,忠実な聖書研究者が示した態度は模範的でした。T・J・サリバン兄弟は次のように語りました。「わたしは,兄弟たちが監禁されていた1918年の夏の終わりごろにブルックリン・ベテルを訪問する特権にあずかりました。ベテルの仕事を託されていた兄弟たちは,少しも恐れておらず,気落ちしてもいませんでした。事実その反対に,兄弟たちは楽観的で,エホバは最終的にはご自分の民に勝利をもたらされることを確信していました。わたしは月曜日の朝食の席に着き,割当てを受けて週末に派遣された兄弟たちからの報告を聞く特権を得ました。状況がはっきりとつかみ取れました。どの報告でも,兄弟たちは,エホバが自分たちの活動を進める指示を与えてくださるのを待ち,確信を抱いていました」。
興味深いことですが,ラザフォード兄弟とその仲間の裁判が終わってからのある朝,R・H・バーバーは,ペンシルバニア駅に来てほしいとの電話をラザフォード兄弟から受け取りました。兄弟たちは,そこでアトランタへの直通列車を数時間待っていたのです。バーバー兄弟ほか数人の兄弟たちは駅へ急行しました。本部の兄弟たちが警官にあまりにも悩まされるようであれば,ベテルとブルックリン・タバナクルを売り,ものみの塔協会はペンシルバニアの法人なので,フィラデルフィアかハリスバーグもしくはピッツバーグに移るように,とラザフォード兄弟は言いました。ベテルの価格として6万㌦(約1,800万円),タバナクルの価格として2万5,000㌦(約750万円)が提案されました。
事情は結局どうなりましたか。その時協会をまかされていた人々は,実際,多くの問題に直面しました。そのひとつは,紙と石炭の不足でした。愛国主義が高まり,多くの人々は誤りにもエホバのクリスチャン証人たちを国賊と見なしました。ブルックリンでは,協会に対する敵意がはなはだしく,そこで運営を続けることは不可能に見えました。それで,本部の責任に当たっていた管理委員会は他の兄弟たちと相談した結果,ブルックリン・タバナクルを売却してベテル・ホームを閉鎖するのが最善であるという決定が下されました。R・H・バーバーの記憶によれば,タバナクルは結局1万6,000㌦で売却されました。その後,ベテルを政府へ売り渡すための必要な手続きがすべて行なわれ,現金の譲渡だけが残るのみとなりました。ところが,邪魔が入りました。休戦です。売却は完了されませんでした。
しかし,1918年8月26日,協会の本部はニューヨークのブルックリンからペンシルバニア州ピッツバーグに移転し始めました。「当時を振り返ってみると,聖書研究者たちは兄弟たちの投獄にぼう然としてはいましたが,決して証言することをやめませんでした。少しばかり用心深くなっていたようでしたが」と,ヘイゼル・エリクソンは語っています。H・M・S・ディクソン姉妹は回想して,「仲間の人たちの信仰は弱まることなく,集会は定期的に開かれました」と述べました。エホバのクリスチャン証人たちは,神への信仰を表わし続けました。確かに,彼らは,困難な状況と迫害の厳しい試練に遭いました。しかし,神の聖霊はその上にあったのです。忍耐できさえすれば,「神」は,必ずや,彼らを迫害者の手から救い,『バビロンの捕われ』の状態から救出されます。
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