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中共の刑務所でどうやって自分の信仰を守ったかものみの塔 1963 | 10月15日
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ません。私の期待は,新しい世に救い出されることでした。昔の忠実なヘブライ人の例を思い出しました。神への崇拝を止めぬとの理由で国王の面前に引き出され,試練に立たされた3人は言いました。「もしそんなことになれば,わたしたちの仕えている神は,その火の燃える炉から,わたしたちを救い出すことができます。たといそうでなくても,王よ,ご承知下さい。わたしたちはあなたの神々に仕えず,またあなたの立てた金の像を拝みません」。―ダニエル 3:17,18,新口。
裁判の後,留置所から上海刑務所に移され,私の生活環境は良くなりました。依然独房監禁であり,他の因人との接触は許されませんでしたが,やがて行動範囲がやや拡大されました。日中は監房の前の通路で過すことを許されました。ここでも監房に家具はありませんでしたが,通路には小さなつくえと腰かけがあって,その使用を認められました。筆記用具の使用も許され,早速それらを活用しました。
信仰をささえるために賛美の歌
なにか聖書のテーマが見つかると紙に書きつけ,それが歌詞のかたちになるようにできるだけ工夫しました。次に,書きつけたものを色々つなぎ合わせて口ずさみ,歌詞に合ったふしを見つけました。そうしているうちに,色々な長さの歌がいくつかできてきました。これは,エホバの目的を自分の心の中に何度も刻み込むためでした。二,三行の短い歌もありましたが,創世記から黙示録に至る神の約束をたどった144行の歌も出来ました。これによって聖書の各部の内容を思い出し,聖書全巻を流れる主題を心に描くことができました。歌の題をあげれば,「すえを選ぶ」,「エホバの召しに答えよ」「記念式」,「最も大なるは愛なり」,「100万を超える兄弟」,「家から家に」などがありました。これらを歌うことにより,私の心はどんなにか力づけられたことでしょう。
古いサタンのどんな力が
引き離せるのか我々を
かく深くかく強く愛する我らのエホバから
そお,その愛は胸いっぱいにあふれて
シナイの山をゆり動かして
移しうるのか海の深みに
だが我らをエホバから離す事に比べれば
これもまたはるかにやさし
だれも絶ちえぬ愛を絆に
なおきをつくして歩む我らは
敵サタンの死にもの狂いの手だても
固く挑もう敢然として
たとえサタンがきわみに走り
その歩みのゆえに我らの命を奪うとも
共に立つのは我らの王,キリスト・イエス
死の鍵をみ手におさめて
毎朝食事の前に自作の歌5つを歌い,夕方にもさらに4つか5つをうたうことにしていました。
刑務所ではじめて祈りをした時には,乱暴な仕方で中断させられましたが,いつもエホバと共に歩くことの大切さを感じていました。こうして共なる信仰の仲間から引きはなされることがあっても,私を神から引き離しうるものはありません。上海刑務所に移された後には,もっと公然と祈りをすることに決めました。これは周囲の人々に対する証言の一手段になるとも考えました。それで,監房の前を通る人が見ていようと見ていまいと,私は監房の中でひざまずき,聖書に出て来るダニエルを思い出して1日3回ずっと声を出して祈りました。法令によって祈りを禁止された時にも,ダニエルは「一日に三度ずつ,ひざをかがめて神の前に祈り,かつ感謝した」。(ダニエル 6:10,新口)エホバへの賛美となるような正しい事をたえず語り,また行なうために必要な知恵を神が与えられるようにと祈りました。また,神の偉大な目的が最後には勝利を収めるようにと祈りました。さらにまた,全世界で働く私の兄弟たちのためにも熱心に祈りました。こんな時にこそ神の聖霊が私の心を導いて,神の恵みの深さをいよいよ悟らせ,胸いっぱいに沈着の思いを与えられるような気がしました。祈りによってどれほど霊的な力と慰めを与えられたかはかり知れません。またこれによって,私がクリスチャン奉仕者であることを,すべての人が知るようになりました。
それでも,ときおり,刑務所に入れられるようになる以前にエホバへの奉仕のためになすべきすべての事を行なっていたのか,との疑念におそわれることもありました。そんな時,はじめのうちはよく自責の念が先に立ちました。しかしやがて,こうして過去を思いかえし,どこが不足していたか,どうすれば将来より良くつとめを果せるかを知ることによって,自分自身の益になるのだと考えるようになりました。そして,もしいつの日か再び自由が与えられるならもっともっと良い奉仕者になろう,と強く心に決めました。そして,この決意をエホバへの日毎の祈りのうちに含めることにし,日々思いを新たにしました。それによって,監房の中ですごす私の一日一日が,私の確信を強め,エホバへの奉仕をいつまでも続けようとの私の決意をいよいよ鼓舞するものとなりました。
毎年,可能なかぎり最善の手段をつくして,キリストの死の記念式を行なうことに決めました。監房の窓から空をながめ,春の初めに月が満ちるのを見定めました。細心の注意を払って記念式の日付を割り出しました。もとより私には象徴物とするパンとブドウ酒を手に入れるすべもありません。看守たちには断わられました。はじめの2年は,架空の相手に伝道したと同じように,象徴物を想像し,ただ仕ぐさだけをまねました。しかし3年目には赤十字の手を通して送られた小包の中に黒ほしぶどうのかん詰を見つけ,それを利用してなんとかブドウ酒を作りました。一方,ごはんにはイースト菌がはいっていませんから,これがパンの役目を果たしました。今年は,赤十字の小包の中に象徴物として使うためのブドウ酒と,パン種を用いず水だけを入れて焼いた固いパンがはいっていました。その当日には,エホバの民のどの会衆でも行なわれると同じ仕方で,歌をうたい,祈りをし,記念式の話をしました。こうして毎年の一番大切な時に,全世界の兄弟たちと絆を保っていることを感じました。
刑務所内での私の行動ははなはだしく制限されていましたが,なんとか良い模範によって証言することに努めました。私はユダヤ人ネヘミヤの忠実さを思い出しました。捕われの身でありながら,ネヘミヤはペルシャの王につかえる酒人ととしてのつとめを良く果たしたために,いとまを得てエルサレムに行きエホバの崇拝にかかわる仕事を監督しました。なにか仕事をさせてくれるようにとくりかえし申し出ましたが,いつも断わられました。しかし,囚人一人一人が各自の監房を掃除する取りきめになっていましたので,自分の部屋の清掃については模範となるように努めました。私はだんだん自分の仕事の範囲を広げ,外に出ることを許された時間に,監房の前の通路を掃除し,次に近くのあいた監房を掃除しました。やがて私は看守たちの机をふいたり,みがいたりするようにもなりました。私はいつも,何か役に立つようなことをしようという誠実な思いで行動しました。それによって,看守たちから信頼を得るようになりました。看守の一人が私に向かって言いました,「掃除にしても言葉の勉強にしても,あなたは何をやっても実に良くやる。あなたが再び英国に帰ったら,あなたのこの熱意を人々に奉仕するために使うと良いでしょう」。そお,それこそ私が願っていることです,と私ははっきり答えました。
私の監視のためには任命されたこの人たちについて,一度も憎みを感じたことはありません。イエスを刑柱に釘づけせよとの職務を与えられた兵士たちのようにも見えました。彼らは自分のしていることの意味を知らなかったのです。それで私は,神が彼らを許し,神とその民そのものに敵意を抱き非難をもたらすものだけがその刑罰の報いを得るようにと祈りました。
再びエホバの民と共に
そしてついに,私の釈放の日が近いこと,それが予定より5ヵ月早く来た事を知らされた時,どんなに私の心はほっとしたことでしょう。上海とその周辺の地域を案内され,共産主義が国民に与えた物質面の成果を見せられた後,遂に5月27日,私は橋を渡り,対岸に待ち構えるクリスチャン兄弟たちの腕の中に吸い込まれて行きました。再び神の民に帰り,その中にまじわることの喜びはいかに大きいものでしょう。
香港の兄弟たちの愛は深く,実に親切に迎えられました。それゆえ香港を去るのはつらく感じられました。しかし6月1日,私は英国行きの飛行機に乗っていました。最初の着陸は日本でした。ここでもたくさんのエホバの証者がすでに私を待っていました。彼らは私の旅行の日取りについて前以って知らせを受けたわけではありません。新聞やラジオによる私の釈放のニュースの後を追い,私が乗っているのではないかと思われる飛行機を予想して飛行場に来ていたのです。
ニューヨークの飛行場では,迎えに来ていたものみの塔協会会長のノア兄弟の両腕に真先に抱かれ,温い歓迎を受け,喜びの情に圧倒されるばかりでした。ブルックリンベテルも印刷工場も,1947年,私が中国に行く時に見たより大きな変化を遂げていました。しかしかつて見たのと同じもの,すなわち愛の精神がそこにあり,ただその規模が拡大していただけでした。
ここでも兄弟たちは私の経験を聞くことを心待ちにしていました。私は喜んで自分の経験を話し,ここ4年と半の間に数々の出来事がありましたが,これまで全時間宣教奉仕を続けて来た25年間をふり返って,今日ほど信仰の高まりを覚えたことはありません,と強い確信を持って語りました。なぜですか。なぜなら銃も,壁も,刑務所の柵も,神の聖霊がその民に送られるのを妨げ得るものはなにもない,ということを知ったからです。もし私たちが神の言葉の研究に心を傾け,その教えを心の奥底にまで沈め込ませるなら,恐れるべきものはなにもありません。私たちは自分の力で立っているのではありません。神がその全能の御力を用いて,もっとも弱小な人間をさえささえられ,おおいかぶさる迫害にも勝利を得さしめたのです。
● あなたの信仰の強さはどれほどですか。この経験にあるような絶え間ない聴問を受けても,あるいは刑務所の中で数年間をたった一人でくらしても,決してひるまぬだけの気力がありますか。聖書の中に,「おほよそキリスト・イエスに在りて敬という言葉を過さんと欲する者は迫害を受くべし」,虔をもて一生があるのを思い出して下さい。(テモテ後 3:12)迫害がある以前に自分自身を強くしておかねばなりません。ではどうやって? 今の時間を有効に用い,エホバの民といつも交り,学んだ事柄を実際にエホバへの奉仕に活用することにより,神の言葉を知りその意味を深く考え,心の奥底に植え込む事によります。それによってあなたも「智力を練習して善悪をわきまふるおとな」の一人になれるでしょう。(ヘブル 5:14)反対に遭遇するときには,この善悪をわきまえる力が特に必要です。今エホバが準備されている霊的なかてを実際に利用し,エホバの力を信頼して歩むなら,危機に会ってもエホバからの力を得,エホバからの助力を得られるでしょう ― 発行者。
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エホバへの崇拝を清く保つための家族の責任ものみの塔 1963 | 10月15日
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エホバへの崇拝を清く保つための家族の責任
エホバへの崇拝の清さを保つために,聖書は,『悪人をその中から除いてしまう』というつとめを,クリスチャンの会衆に課しています。(コリント前 5:13)神の地上の組織から切り断ち,排斥し,あるいは除名するというこの処置は,神への清い崇拝を守り,会衆全体に対する保護となり,さらには,非行者をして自分の悪行を悔い,たちかえって神と和解させるものともなります。―コリント後 7:10。
「ものみの塔」,1963年10月1日号の中で,排斥または除名に関係ある聖書の諸原則を取り上げ,このような処置をとることの目的,排斥された者の身に及ぶ結果,クリスチャン会衆内の他の人々
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