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この終わりの時代にどのようにして堅く立つかものみの塔 1972 | 6月15日
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この終わりの時代にどのようにして堅く立つか
『キリストの福音にふさわしく日を過ごせ…堅く立ち…福音の信仰のために…すべての事において逆らう者に驚かされぬ(ようにせよ)』― ピリピ 1:27,28。
1 (イ)最初の夫婦が罪を犯して以来,今日までどんな事態が存在してきましたか。だれが関係していますか。(ロ)エホバは物事をどのように動かしておられますか。何が成し遂げられますか。
アダムとエバが禁じられた実を口にした日以来ずっと人類は悪魔サタンからの圧力を受けてきました。それはその日以来,エホバ神とその邪悪な敵との間で激しい戦いがなされてきたためです。(創世 3:15)その戦いは世紀を重ねるにつれて激しさを加え,今日では急速にその最高潮に達しようとしています。この戦いにはあらゆる人が関係していますが,エホバのしもべたちの場合は特にそうです。彼らは悪魔とその悪霊たちの攻撃の的だからです。もしあなたが神のしもべのひとりでしたら,このことがいかに真実かをご存じのはずです。また,それら邪悪な者たちがごく近い将来にエホバの民に対する大規模な攻撃を開始するであろうこともご存じでしょう。エゼキエルは次のように述べて,そのことを予告しました。「而して汝[サタン]わが民イスラエル[エホバの証人]に攻きたり雲のごとく地を覆はん……末の日にこの事あらん すなわち我汝をわが地に攻きたらしめ我の聖き事を国々の民の目のまへにあらはして彼らに我をしらしむべし」― エゼキエル 38:16。
2 クリスチャンは身を守るために今何をすべきですか。
2 エホバ神に親しく近づき,日々の生活のあらゆる状況の中で保護されるにはエホバに頼る必要があることをいっそう自覚するのは,なんと急を要する事がらでしょう。近くに敵がひそんでいる場合,幼い動物がその母親にぴったりくっついて離れないのと同様に,わたしたちもエホバにより頼むべきです。わたしたちクリスチャンの場合,ひそんでいる敵とは,わたしたちの霊性をそこない,あるいは神に対するわたしたちの忠誠を破って『飲み込もうとしている,ほえるライオン』です。(ペテロ前 5:8,新)わたしたちは,わたしたちの天の保護者エホバに親しく近づく必要を認識しなければなりません。
3 エホバはクリスチャンをいつも霊的に強くするためのどんな取り決めを設けてこられましたか。ヘブル人にあてた手紙の中でパウロはどんな訓戒を与えていますか。
3 エホバ神は,ご自分の「忠実で思慮深い奴隷の組織」を通して,わたしたちを霊的に強くする非常に有益な,また均衡のとれた食事を供給してこられました。(マタイ 24:45-47,新)考えてみてください。世界中の2万7,100余の会衆すべてに毎週5回の霊的な『食事』が予定どおりに供されているのです。こうした集会の取り決めに従うのを何ものにも妨げられないようにするのは単に重要であるばかりか,絶対に必要なことです。パウロはヘブル人にあてた訓戒のことばの中で,わたしたちは「わたしたちの希望の公の宣言を動揺せずにしっかり保ち」,「互いに顧みて,愛と良いわざとを鼓舞し,ある人たちが習慣としているように,集まり合うことをやめないで,互いに励まし合(う)」べきであると述べました。使徒は1,900年前のクリスチャンに対して,とりわけわたしたちの時代においては「その日の近づくのを見て」いるがゆえに,会衆との交わりをおろそかにしないようにと強くさとしていることに注目してください。霊的な滋養物を取り入れるためにこのようにつどうことは,わたしたちの生存にとって,からだを維持するための毎日の3度の食事よりもはるかに緊急な事柄です。―ヘブル 10:23-25,新。
4 集会に出席するほかに,わたしたちに非常に有益などんなことをすべきですか。なぜですか。
4 聖書研究のための集会すべてに出席するのは有益ですが,さらに重要なこととして,わたしたちはそれらの集会に参加すべきです。もちろ,参加するには準備が必要です。この点で,ものみの塔の研究資料のうちどの節がすぐに思い出せるかお気づきですか。それは自分が注解した節ではありませんか。それはその節をよく考慮したためです。その節をよく調べて思いめぐらし,良い注解を行なえるようにしました。さらに,それを口頭で述べました。実際,他の節よりもその節の資料をずっと深く考えて思考を練ったのです。節に参照されている聖句についても同じです。参照されている聖句を調べれば,資料はさらによく記憶されるものです。それは時間をかけて聖句を読み,検討中の論題との関連を分析して考えるからです。これは論題に対する理解力を向上させるほかに,資料を覚えて自分のものにするのにたいへん役だちます。
5 個人研究はどれほどたいせつですか。
5 聖書を自分で定期的に勉強するのはたいへん必要なことです。わたしたちはそれを集会への出席と同様に熱心に行なうべきです。たとえば,1回にわずか15分あるいは20分でも研究のための時間を決めているのでしたら,他の事がらのためにその予定を妨げられないようにしてください。そうして得られる霊的滋養物は,日常生活の諸問題,つまり職場や家庭また野外での奉仕の務めにおいて直面する問題に対処できるよう,わたしたちを強化するものです。そのうえ,聖書を読んでよく知るようになった聖書中の原則や律法を適用して,多くの問題を避けるよう,わたしたちを助けてくれます。こうして,わたしたちは神のみことば聖書から集めた知恵の用い方を知るのです。(箴 2:10,11)霊的な強さを得られる源はただ一つしかないこと,そしてそれはエホバであることを常に銘記してください。それを越えて,エホバの霊なくしては,何も成し遂げられません。
エホバに懇願する
6 わたしたちは願い求めるとともに,わたしたちの祈りに対する答えを期待できますか。祈りを好意をもって聞き入れていただくための条件は何ですか。
6 わたしたちが話しかけることをさえ許すほどにへりくだっておられるエホバのことを不思議に思ったり,考えたりしたことがありますか。事実,エホバはわたしたちのことを尊重して,指導や導きを求めるわたしたちの懇願を認めてくださるのです。ルカ伝 11章10-13節はこのことに注意を引いています。「すべて……門を叩く者は開かるるなり。さらば汝ら悪しき者ながら善き賜物をその子らに与ふるを知る。まして天の父は求むる者に聖霊を賜はざらんや」とあるからです。エホバに近づいて,その聖霊および書きしるされたみことば聖書を通して導きを得られるということを知るのは,なんと励みになるのでしょう。さらに,霊感を受けてヨハネがしるした次のことばの中で神は再び,わたしたちが神の意志に従って求めるのであればそれが何であれ,わたしたちの願いのことばを聞いてくださるということを教えられました。「我らが神に向ひて確信する所は是なり,即ち御意にかなふ事を求めば,必ず聴き給ふ。…求むるところ,何事にても聴き給ふと知れば,求めし願を得たる事をも知るなり」。(ヨハネ第一 5:14,15)わたしたちの願いが神の意志にかなうかぎり聞き届けていただけると期待できるのは,なんという喜びでしょう。
7 わたしたちはまちがいや罪をエホバに許していただけると期待できますか。
7 わたしたちはみな,まちがいをしますから,あやまちをする場合,前述のことばには,エホバに許しを懇願することも含まれているのではありませんか,ではわたしたちの罪は神に許していただけるということを認めるべきではありませんか。もしそうでなかったら,どうして祈るのですか。ですから,神は確かにわたしたちの祈りを聞き,わたしたちの違背を赦してくださるということを知るのは,なんという慰めでしょう。
8 (イ)割当てを遂行するための助けをだれに願い求められますか。(ロ)イエスは祈りのためのどんな健全な型を弟子たちに与えられましたか。(ハ)試練に直面する場合,エホバの助けと導きを求めるのは当を得ていますか。
8 エホバから,つまりその組織を通して割当てを受けるときはいつでも,それがむずかしそうに見えても,あるいは自分にはとても成し遂げられそうにはないと思える場合さえ,そのような特権を退けるよりも,まずエホバの助けを祈り求めるほうがまさってはいないでしょうか。確かにまさっています。エホバはわたしたちの祈りや懇願を聞いてくださいます。「エホバは…義者の祈祷をきゝたまふ」のです。(箴 15:29)また,ご自分に願い求めるよう,わたしたちを促しておられます。「汝らの求を神に告げよ」とあります。(ピリピ 4:6)毎日祈ってはいかがですか。イエスは,我らの日用の糧を今日もあたへ給へ」ということばの中で,そうするよう,また他のことをも願い求めるよう,わたしたちに勧めておられます。(マタイ 6:9-13)これは非常に健全な霊的な型を据えるものです。祈りは,偉大な創造者エホバとお話をするさいに用いられる経路です。わたしたちは,どんな状況また事情のもとでもエホバから助けていただき,また強めていただけるという十分の確信をいだくべきです。そうすれば,「試錬に耐ふる者は幸福なり,之を善しとせらるる時は,〔エホバ〕のおのれを愛する者に約束し給ひし,生命の冠冕を受くべければなり」とヤコブが述べたとおり,エホバのみ名のため,また奉仕者としてのわたしたちの使命のために試練に耐えるさい,わたしたちは幸福でしょう。緊迫した事態に直面する場合,わたしたちを試みているのはエホバではないということを思い起こすべきです。なぜなら,「神は悪に誘はれ給はず,又みづから人を誘ひ給ふことなし」とあるからです。―ヤコブ 1:12,13〔新〕。
わたしたちの思考の型
9 わたしたちの思考の型はどれほど大切ですか。わたしたちのあらゆる考えの中で何が第一であるべきですか。
9 よく知られている諺に,「人の考えるところは,その人のひととなりとなる」というのがあります。ですから明らかに,永遠の命にとって肝要なのは,わたしたちの思いを満たす正しい考えです。では,エホバがわたしたちの前に置いてくださった王国の希望に注意を集中させるべきではありませんか。したがって,行なうべきことは,わたしたちの王国の関心事を注意深く守り,それを自分自身の願いにすることです。このことはまた,次のように言われたイエスのことばとも合致します。「まづ神の〔王国〕と神の義とを求めよ,然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」。(マタイ 6:33〔新〕)それはイエスの生活の中で最重要の事がらでした。イエスは1,900年前,同様に考えるよう,ご自分の追随者たちに訓戒なさいましたが,同じことが今のわたしたちにもあてはまります。
10 (イ)奉仕の務めに関して堅く立つには,わたしたちには何が要求されていますか。時には何が予想されますか。(ロ)わたしたちは恵まれた状態のもとでだけ宣べ伝えるべきなのですか。
10 自分の考えの中で王国を第一にするならわたしたちは王国と前途の希望を考えることになりますし,そうすることによって強められます。そうすれば,監禁されたり,迫害や苦しみ,あるいは苦痛をこうむったりする場合でも自分のことを忘れられます。堅く立ってエホバへの忠誠を保つには,それは不可欠です。わたしたちのクリスチャンとしての奉仕の務めが問題にされたり,その務めが危くされたりする場合,ぜひとも真の崇拝のうちに堅く立たなければなりません。(伝道 12:13)政府当局が神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわたしたちのわざを禁じたり,わたしたちをおどしたりすることは当然予想されます。ある土地ではすでにそのようなことが行なわれているからです。では,それゆえにわたしたちの奉仕のわざを放棄すべきですか。わたしたちの結論は,エルサレムで宣べ伝えることを禁じられた使徒ペテロやヨハネのそれと同じであるべきです。彼らは今後イエスの名において宣べ伝えてはならないと禁じられ,釈放される前には,むち打たれさえしました。しかし,その忠実な歩みからそらされませんでした。それどころか彼らは,「御名のために辱しめらるるに相応しき者とせられたるを喜び……斯て日毎に宮また家にて教をなし,イエスのキリストなる事を宣伝へて止(め)」ませんでした。(使行 5:40-42)テモテにあてた第二の手紙の中で使徒パウロも,純正な崇拝に関するクリスチャンの立場に注意を引いて,こう述べました。「みことばを宣べ伝え,順調な時期でもむずかしい時期でもひたすらそれに励み……福音宣明者の業を行ない(なさい)」。(テモテ後 4:2,5,新)これもまた,クリスチャンはこの奉仕のわざの遂行を禁じられるようなことがあろうとなかろうと,堅く立ち続けるべきであることを示しています。エホバの証人は,恵まれた状況はもとより,『むずかしい』状況のもとでも宣べ伝えることをやめません。
11 イエスは,危険な事態が生ずる場合のためのどんな特殊な助言を与えましたか。
11 しかしながら,危険な事態のもとでは,人は自分の奉仕の務めを遂行するのに最善と考えられる方法にかんして用心すべきです。「我なんぢらを遣すは,羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く,鴒のごとく素直なれ」とさとしたイエスのことばも,この点で慎重さの必要なことを示しています。(マタイ 10:16)そうです,悪行を犯したり,エホバのみ前におけるクリスチャンとしての自分の立場の点で妥協したりすることなど全然ないだけでなく,場合によっては機敏にふるまう必要もあります。
12 (イ)禁令下におかれたり,役人の手でわざが禁じられたりすると,クリスチャンは『集まり合うこと』をやめますか。(ロ)どんな警戒処置を講ずることができますか。
12 反対に直面したり,わざが禁じられたりした場合でさえ,霊的な健康のための霊的な滋養物は大切です。『集まり合うことをやめてはならない』というパウロの助言はいつでもあてはまります。自由の認められている状態でなされているように大きな会衆として集まるわけにはゆかない場合のあることは明らかです。そのような場合でも,「二,三人わが名によりて集る所には,我もその中に在るなり」と言われたイエスのことばによって慰められます。(マタイ 18:20)これは小さな群れとなって,おそらく個人の家で集まるのさえ得策であることを大いに強調するものです。そのうえ,そうした集会に出席する場合,人に疑われないようにするため,ひとりずつ,あるいはふたりずつ集会場所に着くようにするのは賢明でしょう。情勢が良い場合はもとより,困難な情勢のもとでも,集まり合うのは肝要であることが明らかにされています。また,まわりの注意を引かないようにするため,歌は省くのが良いでしょう。
13,14 (イ)聖書を説明した新しい文書がない場合,クリスチャンはどのようにして霊的に健康な状態を引き続き保てますか。(ロ)孤立したり,投獄されたりしたなら,どうすべきですか。
13 文書についてはどうですか。聖書を説明した新しい文書がないとしたらどうですか。何でも手にはいる文書を研究するのは順当ではないでしょうか。もし聖書研究用の手引きがなければ,聖書そのものがあることを喜んでください。たとえ聖書がなくても,なおクリスチャンは自分たちの思いを新たにして鼓舞するために,集まり合い,各自の覚えている聖書の真理を討議します。使徒ペテロは書きました。「われ……汝らに思ひ出させ,その潔よき心を励まし,聖なる預言者たちの預じめ云ひし言,および汝らの使徒たちの伝へし主なる救主の誡命を憶えさせんとす」。(ペテロ後 3:1,2)ペテロは前途の困難な時期に備えてクリスチャンの兄弟たちを強めることに努めていました。今日でも場所によってはそれと同じことが必要とされています。
14 仮にある人が孤立したり,あるいは投獄されたりして,他の奉仕者と連絡が取れない場合はどうですか。思い出せる聖句をみなノートし,それからは,ふと思い起こす他の聖句を絶えず書き足してゆくのは良いことです。そうすれば,全能の神のそれらのことばを復習して,どんな状況のもとであろうとも,神のご要求に関して自分の思いを活発に働かせ,生き生きとした状態に保てるでしょう。
15 宣べ伝えるわざを公に行なえない場合には,どのようにして行なえますか。
15 宣べ伝えるわざに関するかぎり,もし公にそれが行なえないなら,人に疑われないようにするため,ある地区の一軒の家を尋ねたなら,次は別の地区に移るなどの方法を取れるでしょう。その場合でもやはり,今日,家のまばらな地区で働くさいにするように,見いだされた関心のある人や再び尋ねられる人の記録をつけるのは良いことです。大切なのは,音信を受け入れる人たちを養って助けることです。また,そうする必要のあるところでは,ある人は変装をする種々の方法を講じています。裏返して着用できる上衣を用いることもできれば,怪しい事態が生じたなら,上衣を着替えて,その特定の状況のもとで同一人物とは思われないようにするのも良いでしょう。危険に面している場合,それと気づかれないようにするのは,恐れを表わすどころか,むしろすぐれた計略の表われといえるでしょう。
16 戸別訪問をして奉仕の務めを遂行することができなくなったなら,クリスチャンはどうすべきですか。
16 戸別訪問をして奉仕の務めを遂行することが不可能な場合,偶然の証言という方法を取ることもできます。これは世界中の多くの国で行なわれています。多くの場所でエホバの真の奉仕者は,バスを待ったり,バスや電車に乗ったりしているとき,あるいは公園にいるときなど,自分から話しかけて人と会話を始めます。相手を会話に引き入れるには,世界情勢について話しだしたり,あるいは何か楽しいできごとを取り上げたりすることができるかもしれません。相手の気持ちがわかるにつれて,会話を通して相手に接近するのにどんな話題がよいかを決めることができます。ここでも聖書あるいは神の義の王国に純粋の関心を持つ人をみな,さらに尋ねて援助するのは大切です。それにわなを避けるために注意する必要のある場合もあります。
17 関心のある人たちを援助する最善の方法の一つは聖書研究であることがわかっていますが,どのようにしてそれを行なえますか。
17 経験からわかるとおり,関心を示す人たちを援助するのに最も成果の上がる方法は,それらの人と聖書を研究することです。確かにわたしたちは奉仕の務めのこの肝要なわざを,できるかぎりどこでも続けていきたいと思います。むずかしい事情のもとでは,日によって時間を変えて個人の自宅を尋ね,一定の型に従って訪問しても疑われないようにする必要があるかもしれません。そのような関心のある人が宣べ伝えることの大切さを知るようになると,忠実な人びとに対する神のすばらしい備えについて他の人にやがて必ず話すようになります。そうなれば,ほかにも関心のある人たちを何度も訪問できるかもしれません。それは奉仕のわざを引き続き広げてゆく機会を開きます。確かにこれは,パウロが地上での奉仕の務めを終える少し前にテモテにあてて述べた次の訓戒と合致します。「主われと偕に在して我を強めたまへり。これ我によりて宣教の全うせられ,凡ての異邦人のこれを聞かん為なり,而して我は獅子の口より救ひ出されたり」― テモテ後 4:17。
堅く立つ
18 サタンはこの時代に何を成し遂げようと努めていますか。ペテロはどんな強力な表現を用いましたか。
18 元の悪魔つまりサタンは地上の最初の人間夫婦にしたように,今でもクリスチャンを誘惑しようとしていることを忘れてはなりません。サタンは巧かつな手段も用いますが,人をおどしておびえさせることもします。獅子は一声大きくほえて獲物に忍び寄ります。同様にサタンは国家主義を通して,あるいは大いなるバビロンを用いて真のクリスチャンに向かってほえたけり,おどして妥協させようとします。しかしそのような事情のもとでも「堅く立ち」,迫害や殴打あるいは投獄のおそれがあるからといって失意したり信仰を失ったりしてはならないとペテロは非常に真剣な態度で訓戒しています。―ペテロ前 5:8-11。
19 (イ)激しい迫害に直面する場合,おびえるべきですか。(ロ)エホバの祝福と,わたしたちの祈りに対するその答えを期待するには,わたしたちはどんな決定を下さなければなりませんか。
19 なかには,「ドイツのエホバの証人がこうむった激しい迫害やマラウィのわたしたちの仲間のクリスチャンの女性が受けたみだらな攻撃にはわたしはとても堪えられません」と考える人がいるかもしれません。しかし,コリント前書 10章13節で,「神は…汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試煉に遭はせ給はず。汝らが試煉を耐へ忍ぶことを得んために,之と共に遁るべき道を備へ給はん」と保証されているように,エホバはわたしたちが耐えられないほどの大きな試練に会うままにはされないということを知り,わたしたちは慰められます。しかしながら,わたしたちが行なわなければならない非常に重要なことがあります。堅く立つという決定を自分の思いの中で下す必要があります。決定がなされないうちは,エホバは行動したり祝福を差し伸べたりはなさらないでしょう。この段階では祝福されるものは何もありません。しかしながら,わたしたちが好ましい決定を下すなら,その後エホバは,忠誠を守れるよう,わたしたちに強さを与えてくださいます。確かに,エホバの導きを祈り求め,正しい決定を下せるよう助けを請うのは当を得たことです。全能の神の忠実なしもべたちは常にサタンの悪意に満ちた攻撃の的となってきました。アベルの日以来の忠実なしもべたちの中で,圧力を受けても忠実を保った人たち,そしてバプテスマのヨハネ,またそれ以後のクリスチャンもわたしたちの見習うべき模範となっています。
クリスチャンが堅く立つのに何が助けとなるか
20,21 (イ)わたしたちの主要な敵たちはだれですか。(ロ)パウロはエペソの人たちに対して,身を守るためのどんな助言を述べましたか。(ハ)たとえ死ななければならない場合でも,わたしたちは明らかに,だれにより頼まなければなりませんか。
20 堅く立つためには,わたしたちはまず第一に,エホバだけが供給しうる強さを必要とします。第二に,主要な敵であるサタン悪魔とその配下の一団の悪霊たちの存在を認めるのは重要なことです。大敵に立ち向かうための強さを供するものを正しく認める助けとして,霊に導かれたパウロが邪悪な都市エペソにあるクリスチャン会衆にあてて書き送ったりっぱな助言に注目してみましょう。その最後の章の資料には,非常に明確な訓戒が収められています。パウロは目に見えない敵からの攻撃に注目させ,同時に防御方法をも指摘しています。そして11節では,「悪魔の術に向ひて立ち得んために,神の武具をもて鎧ふ」ことをクリスチャンに促しています。その敵の存在あるいはその攻撃については疑問の余地はありません。わたしたちは,世の権威者や政府その他の機関がこの事物の体制の管理者であるサタンの命に従っていることを見抜けます。(コリント後 4:4,新)わたしたちの時代は危機の時代であるゆえに,パウロは,神からの武具で身を鎧ってはじめて自分を守れるのだとさとしました。クリスチャンは,『正義を胸当として胸に当て,平和の福音の備へを靴として足にはく』べきです。そして,『信仰の盾を取り,之をもて悪しき者の凡ての火矢を消す』べきです。クリスチャンはまた,『救いの冑および御霊の劒,すなはち神の言を執り,常にさまざまの祈りと願ひとをなし,御霊によりて祈る』べきです。―エペソ 6:11-18。
21 結局,エホバの与えておられる防御手段をパウロは重視していたこと,またあらゆる場合に祈りをささげて嘆願するのがどんなに大切かがわかります。クリスチャンは迫害あるいは敵の誘惑に出し抜かれないよう,目ざめているべきです。たとえ命が危険にさらされようとも,後見者であられるエホバに対するわたしたちの全き信頼は決して動じないものであるべきです。同時に,人間はからだを殺しうるにすぎないということを銘記します。このように考えれば,わたしたちは神によってよみがえらせていただけるとの確信をいだけます。パウロの確信はゆるぎないものでした。だからこそ,ローマで鎖につながれていたときでさえ,エペソのクリスチャンに対して,信仰のうちに堅く立つよう訓戒したのです。
22 パウロは慰めを与えるどんなりっぱな助言をピリピの人たちに書き送りましたか。それらのことばは今日のわたしたちにもあてはまりますか。
22 また,ローマで捕われの身であったとき,パウロはピリピの人たちに,やはり信仰の試練を覚悟しておくよう,暖かな,しかし確固とした助言を与え,それゆえにこそこうしるしました。「キリストの福音に相応しく日を過せ…堅く立ち…福音の信仰のために…凡ての事において逆ふ者に驚かされぬ(ようにせよ)」。(ピリピ 1:27,28)この貴重なことばは,この「終わりの時」に住むわたしたちにとっても同様に重要なことばです。
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信仰の試練に面して忠節を保つものみの塔 1972 | 6月15日
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信仰の試練に面して忠節を保つ
『なんぢらさまざまの試錬に遭ふとき,ひたすらこれを歓喜とせよ。そは汝らの信仰の験は,忍耐を生ずるを知ればなり』― ヤコブ 1:2,3。
1 サタンは神の力を打ち破ることはできないので,おもに何をしようと努めますか。
サタンのねらいは相変わらず,人を出し抜いて神にそむかせることです。これはそもそもサタンが最初の忠実な人間をその弟カインに殺させたときに用いた計略です。この努力はまさしく今日まで続けられてきました。昔は神の恵みを受けた民イスラエルがその著しい目標にされました。
2 (イ)エホバはどんな使命をエレミヤに与えましたか。エレミヤの音信はどのように受け取られましたか。(ロ)エレミヤはどうなりましたか。だれがエレミヤを助けに来ましたか。
2 全能の神の導きに従ってエレミヤが受けた,長年月にわたる使命は,サタンの努力に屈したその民の不正な行為ゆえにエルサレムの破滅を宣明することでした。その宣明は当時のイスラエル人の祭司たちや一般人に受けませんでした。エレミヤは宣べ伝えるのをやめるよう命じられましたが,そうした圧力に屈しませんでした。彼はさらに徹底した方法による反対を受けました。しかし監禁されてさえも,エレミヤは,カルデヤ人に降伏して自分たちの命を救うよう人びとに勧告しました。その時,まぎれもなくサタンに動かされて,「彼らすなはちエレミヤを取て獄の庭にある……マルキヤの穽に投いる即ち索をもてエレミヤを縋下せしがその穽は水なくして汚泥のみなりければエレミヤは汚泥のなかに沈めり」。この時,エレミヤは絶望的な事態に陥ったかに見えましたが,依然として信仰を失ってはいませんでした。王の家のエチオピア人の官官エベデメレクが救援の手を差し伸べ,エレミヤのためにゼデキヤ王の前に出て,事情を説明しました。王の許可を得たエベデメレクは,エレミヤが傷つけられることのないよう非常な注意を払って彼を水ための中から救い出しました。(エレミヤ 38:6-16)これはエホバが,たとえきびしい試練や死の脅威に面しても忠誠を保つご自分のしもべたちをどのようにして助けてくださるかを示すものといえます。さて,ついにエルサレムそれ自体エレミヤの預言どおり攻略され,破壊されました。忠実なエレミヤとその仲間や友は死を免れました。
キリスト教時代以前の国家主義の力
3 諸政府はしばしばクリスチャンに何を要求しますか。どんな結果がしばしば生じますか。
3 官憲主義その他の形態を問わず,諸政府は国家に対する忠節を要求する独断的な法令を用いて,良心に基づく崇拝の自由という人権をしばしば蹂りんします。そのような要求のために激しい迫害や投獄そして死さえもたらされました。そうした策略は今世紀にも行使されてきましたが,その先例もたくさんあります。
4 (イ)ネブカデネザルはどんな官憲主義的な布告を発しましたか。(ロ)それら忠実なヘブル人はどんな道を取りましたか。(ハ)3人のヘブル人のためにだれが,どのように行動を起こしましたか。
4 その一例としてネブカデネザル王の時代に同様な事態の生じたことが記録に残されています。そこを読むと,王が高さ28㍍ものそびえ立つ金の像をドラの平野に建てたことが思い起こされます。それは献身と崇拝の対象物とされ,音楽の演奏と同時にすべての者はひれ伏してその像を崇拝せよとの布告が出されました。そうすることは,『天にあるもの,地にあるもの,ならびに地の下の水の中にあるものの何の』像あるいはそれに似た形もいっさい『拝んでは』ならないという神の命令にまっこうから反する行為です。もしそれを拝むなら,自分自身だけでなく,子孫が三,四代までエホバからの罰をこうむるでしょう。(出エジプト 20:4-6)音楽が演奏されたとき,異彩を放つ3人の忠実なユダヤ人シャデラク,メシャク,アベデネゴを除いて,居合わせた人びとはみなひれ伏しました。このことが伝えられると,王は怒りを発しました。次いで3人は拝む,つまり妥協するよう,もう一度機会が与えられました。再び音楽が演奏されると,すべての者が拝むよう命じられることになりました。この試みも最初の場合と全く同様失敗しました。なぜなら,それら3人の男子は,火の燃える炉に投げ込むとのおどしを受けてさえ,エホバおひとりだけに真の崇拝をささげるという点で忠実を破ろうとはしなかったからです。(ダニエル 3:1,5,6,16-19)3人は,火の燃える炉に投げ込まれるなら,自分たちの命は危いことを認めながらも,金の像を拝もうとは思わないと大胆に王に告げました。そして,自分たちの神はもし望まれるなら自分たちを救出できること,しかしたとえ救出してくださらなくても,自分たちはその像に礼をするつもりはないことを知らせました。記録によれば,火の燃える炉にそれら3人を投げ込んだ者たちさえ焼き殺されましたが,忠誠を守ったそれらヘブル人の男子には火のにおいさえついていませんでした。―ダニエル 3:27。
5 ダニエルはどんな忠節の試練に会いましたか。最後にはどうなりましたか。
5 預言者ダニエルも同様に試みに会いました。なぜなら,彼は日に3度窓を開けてエルサレムに向かって祈ることを習慣にしていたためです。ダリヨス配下の役人や地方総督の一部の者が,意地の悪いことに30日の間,ダリヨス王以外いかなる神にも崇拝したり祈ったりしてはならないという布告を出させました。その勅令には王の印が押されました。直ちにダニエルが告発の対象とされたことはいうまでもありません。彼は真の神エホバに祈りをささげる習慣を続けていたからです。その布告を破って祈っているところを見つけられた者はだれでもライオンの穴に投げ込まれて処罰されることになりました。記録によれば,ダニエルは忠節を保ったので,エホバは忠実にもライオンの口を閉してダニエルを救助されたことがわかります。もちろんこの場合も報復が行なわれ,ダニエルを告発してライオンの中に投げ込ませようとした張本人たちが逆にライオンのえじきにされました。―ダニエル 6:4-11,20-28。
6 ダニエルとその3人の仲間の前には,妥協を勧めるどんな機会がほかにありましたか。彼らはどのように振舞いましたか。
6 これはそれら忠実なしもべたちの面した最初の試みではありませんでした。なぜなら,彼らは以前,自分たちの配属された王宮の中にいる人びとの楽しんでいたぶどう酒や特別の食べ物を飲み食いしてぜいたくな生活をするよう勧められたからです。彼らはダニエル書 1章8節に次のようにしるされているとおり,断固とした立場を取りました。「ダニエルは王の用いる[イスラエルの律法では許されていなかった]饌と王の飲む酒とをもて己の身を汚すまじと心に思いさだめたれば己の身を汚さざらしめんことを寺人の長に求む」。ダニエルは,「我らには菜蔬を与へて食せ水を与へて飲せよ」と願い出ました。―ダニエル 1:12。
7 キリスト教時代以前の大勢の忠実なしもべたちは忠誠を保ったために,どんな扱いを受けましたか。
7 キリスト教時代以前の全能の神の他の大勢のしもべたちも同様に試みに会い,なかには殺されたり,たいへんな虐待を受けたりした人もいます。また,昔の多くの忠実な人たちは,「免さるることを願はずして極刑を甘んじ…その他の者は嘲笑と鞭と,また縲絏と牢獄との試錬を受け,或者は石にて撃たれ,試みられ,鉄鋸にて挽かれ,剣にて殺され……悩まされ,苦しめられ,世は彼らを置くに堪へ」ませんでした。―ヘブル 11:35-38。
初期クリスチャンの信仰は試みられた
8 キリスト・イエスが受けた主要な試練はなんでしたか。だれがキリストを助けに来ましたか。
8 エホバのみ子,キリスト・イエスの場合は,忠誠を保つ点でなんとすぐれた模範でしょう。当時のユダヤ人の宗教指導者は偽ってイエスを訴え,偽りの告発を行なって,無実の罪のためにイエスを殺させました。無実の罪で訴えられる場合,それは最もきびしい試練となりえます。ご存じのように,そのような試練に遭遇したイエスは,刑柱上の死をこうむったのです。しかしながら,エホバに見捨てられたのではありませんでした。なぜなら,イエスは三日目に復活させられ,天の高い王座につけられたからです。―使行 10:40。コリント前 15:4。
9 イエスはその忠実な追随者に向かって,彼らにはどんなことが起きると言われましたか。イエスの預言の正しさを確証するどんな証拠がありますか。
9 弟子はその師にまさらず,奴隷はその主人にまさらずといわれています。(マタイ 10:24)また,イエスは弟子たちに告げました。「人もし我を責めしならば,汝等をも責め,わが言を守りしならば,汝らの言をも守らん……汝らを殺す者みな自ら神に事ふと思ふとき来らん」。(ヨハネ 15:20; 16:2)このようなことばやイエスの述べた他の賢明な助言から,それら弟子たちは,神の王国にかんする音信を引き続き宣べ伝えるにつれて,自分たちの信仰も同様に試みられるであろうことを知りました。そして,同国人であるユダヤ人からだけでなく,ユダヤ人でない支配者たちからもそうした虐待をこうむりました。ヤコブは使徒の中でも最初に,ユダヤ人ではないヘロデ王の手で殺された人です。「[ヘロデ]剣をもてヨハネの兄弟ヤコブを殺せり」とあります。ヘロデは他の人たちをも虐待しました。「ヘロデ王,〔会衆〕のうちの或人どもを苦しめんとして手を下し」ました。ところが,「この事ユダヤ人の心に適ひたるを見てまたペテロをも捕ふ」と述べられているように,ユダヤ人はそれを喜んだのです。―使行 12:1-4〔新〕。
10 使徒たちのほかにだれが迫害されましたか。
10 使徒たちだけでなく,弟子たちの多くも迫害されました。そのひとりにステパノがいます。彼はイスラエル人がならわしにしてきた,また当時ならわしにしていた偽りの崇拝にかんする事実をきわめて率直に,ありのままに述べました。居合わせた人びとにこう語りました。「汝らの先祖たちは……義人の来るを預じめ告げし者を殺し,汝らは今この義人を売り,かつ殺す者となれり。……人々これらの言を聞きて心,怒りに満ち切歯しつつステパノに向ふ。……爰に彼ら大声に叫びつつ耳を掩ひ心を一つにして駆け寄り,ステパノを,……石にて撃てり。……[そして彼は]眠に就けり」― 使行 7:52,54,57-60。
11 パウロは投獄されたとき,宣べ伝えることをやめましたか。
11 使徒パウロは神への忠誠をしっかり保ったために投獄されましたが,宣べ伝えることはやめませんでした。ローマで最初に投獄されていたとき,パウロは「その許にきたる凡ての者を迎へて,更に臆せず,また妨げられずして神の〔王国〕をのべ,主イエス・キリストの事を教へ」ました。(使行 28:30,31〔新〕)ローマで二度目に投獄され,処刑されようとしていた時期にしるした最後の手紙の中で,パウロは,忠実であるようにと訓戒しました。
20世紀のクリスチャン
12,13 (イ)イエスは,20世紀に何が起こることを予告されましたか。(ロ)忠誠を守るクリスチャンには何が生じましたか。
12 イエスは「事物の体制」の終結にかんする良いたよりが20世紀の時代に宣べ伝えられるであろうことを予告されました。この「終わりの日」におけるその追随者に対する次のような訓戒のことばは,何を予期すべきかをさとしています。「汝等わが名の為に,もろもろの国人に憎まれん」。「然れど終まで耐へしのぶ者は救はるべし。〔王国〕のこの福音は,もろもろの国人に証をなさんため全世界に宣伝へられん,而して後,終は至るべし」― マタイ 24:9,13,14〔新〕。
13 忠誠を保ち,イエスへの忠節の点で妥協を拒む人たちがいる反面,国家主義的な要求に自ら服する,この事物の体制の人びとは憤り,クリスチャンをして全能の神との契約を破らせようと努めます。キリスト教世界は諸国民とともにそのような努力に加担してきました。最初の世界大戦のさい,エホバの証人(聖書研究生)の多くは国々の事態に加わらなかったため投獄されました。過去50年余にわたりエホバの証人は地上のいろいろの場所で,ほとんど絶え間なく迫害されてきました。二度目の世界大戦中,迫害は激しさをきわめました。何千人もの若い男子は,奉仕者であるゆえに,また神の律法に従って人を殺すことを断固として拒んだために投獄されました。
14 (イ)ヒトラーはエホバの証人について何と断言しましたか。(ロ)ナチの手で加えられた残忍な仕打ちに屈しなかったあるクリスチャンの奉仕者に生じたことを説明しなさい。
14 ナチ政体のもとでエホバの証人はヒトラーとその突撃隊の手で残忍このうえない迫害をこうむりました。事実,ヒトラーは,エホバの証人を根絶しなければならないと宣言しました。その結果,迫害は残忍をきわめたため,クリスチャンの奉仕者たちには確固たる信仰が要求されました。そうした奉仕者のひとり,すなわちロバート・A・ウィンクラーは逮捕後,強制収容所に護送されました。しばらくは注意人物としてですが釈放されました。というのは,ゲシュタポ(ナチドイツの秘密国家警察)はみな彼の写真を持っていたからです。後日,彼は捕えられたうえ,妻や会衆の指導者たちの居場所を教えてゲシュタポに協力するよう機会を与えられました。しかし質問には答え応じませんでした。それで彼は意識を失うまで容赦なく打たれました。その仕打ちは数回繰り返されました。そして,打たれて歯が抜けようが,見る影もないほど殴打されようが,その忠誠を破れないことを知った当局者は,彼を暗い独房に入れました。彼をゲシュタポに連行した私服刑事のひとりがやって来て,「おまえはウインクラーか」と尋ねました。彼は,「はい,そうです」と答えましたが,そのゲシュタポの手先は,あまりにも残忍な仕打ちが加えられたのを見てショックを受けました。その時,ある看守が少しかわいそうに思って,何かしてほしいことがないかと尋ねました。すると彼は,「どうか聖書を1冊いただけませんか」と頼みました。しばらくすると,聖書が1冊彼の独房に投げ込まれるや,直ちにドアに再び鍵がかけられました。彼は必要としていたもの,つまり神のみことば聖書を得たのです。エホバへの祈りによって彼は強さを与えられ,何がふりかかってこようともエホバに対する不動の立場を保つことができました。今日でも彼は依然として忠実に,また忠節にエホバに仕えており,その信仰の最もきびしい試練のもとで断固として耐ええたことを喜んでいます。
15 死の宣告を受けたあるクリスチャン奉仕者は,法廷を退場するさいに,他の人たちにどんな激励のことばをかけましたか。
15 別の事件では,エホバの証人のひとりが神に対する忠実さゆえに死刑の宣告を受けました。そして,看守に守られて法廷を退場するさい,彼は他の証人たちに,勇気を出してください,とことばをかけてゆきました。居合わせた他の人たちにとってそれはなんという励みだったでしょう。
16 ケベックのひとりのクリスチャンの奉仕者は,宣べ伝えるわざを続けたためにどうなりましたか。
16 カナダ,ケベック州のエホバの証人はきびしい迫害をこうむりました。ひとりの奉仕者は103回も逮捕され,殴打されたうえ,数回懲役刑に処せられましたが,それは彼が戸別訪問の奉仕をやめようとしなかった,ただそれだけの理由によるものでした。ほかにも多くの人たちが同様の苦しみに会いました。しかしながら,終始忠誠を保つことにより,カナダではやがて最高裁判所で勝利を得ました。25年ないし30年前,カナダには一握りの証人しかいませんでしたが,今では何千人もの証人がいます。
17 忠誠を守る証人たちは鉄のカーテンの背後でどんな残忍な仕打ちに苦しんできましたか。
17 エホバの証人はかつてナチ政体のもとで迫害されたと全く同様,鉄のカーテンの向こう側では今も苦しんでいます。そこでは共産主義者たちが証人たちの忠誠を破ろうとして激しい迫害を加えてきました。多くの場合,忠実を保とうと努める人たちは同僚の労働者で構成される法廷に引き出され,自分たちの宗教を公に放棄しないなら,仕事や配当,家や恩給その他を剥奪すると言って脅かされています。証人たちは自分たちの立場を弁護してきましたが,なかには強制労働収容所に送られた人たちもいます。一群の証人たちを収容している多くの収容所では,証人たちは苛酷に扱われ,動物よりもひどい仕打ちをさえ受けています。こうして投獄されている人たちの中には,すでにヒトラーの強制収容所で長年服役し,今または共産主義者の手でさらに何年も監禁されて苦しんでいる人たちもいます。しかし,信仰の強い彼らは神への忠誠の点で妥協しようとはしません。
18 アフリカのクリスチャンの奉仕者たちにはどんなことが生じましたか。
18 数年前,アフリカでは国家主義のためにエホバの証人は相当の迫害をこうむり,多数の証人がひどく殴打されました。もっと最近ではアフリカの幾つかの国でエホバの証人のわざは禁止されました。証人たちは政党に加入したり,党員カードを携帯しないとの理由でそのわざを禁止されただけではありません。暴徒は証人たちを殴打し,多くの女子を強姦したり,性的に辱しめたりしました。しかしここでもまた,指導者たちはそれら真のクリスチャンの忠誠を破ることはできませんでした。
忠誠を破ろうとする他の企て
19 他の人びとは信仰の試練にどのように直面してきましたか。
19 エホバの証人であることをやめさせようとする家族内の他の成員から嘲笑されたり笑いものにされたりして侮辱されるため,家庭内で非常に深刻な試練に会う場合もしばしばあります。
20 ドイツで迫害を受けたクリスチャンのある人たちは収容所から釈放されたのち,どうなりましたか。
20 多くのエホバの証人がナチ主義のもとで強制収容所に入れられて非常にきびしい迫害の試練を経ましたが,釈放後,あるいは郷里その他の場所に戻って仕事についてから,物質主義の誘惑に屈したり,そのわなに陥ったりした人がいることも知られています。これからもわかるように,悪魔は迫害によってクリスチャンをとりこにすることができなくても,巧かつな手段を講じて忠誠を破らせることに成功する場合があるのです。なかには凌辱の試練に耐えられたのに,自分自身の情欲の犠牲になって淫行や姦淫を犯し,そのためにエホバの組織から除かれなければならなくなった人もいるでしょう。
21 初期の教会には何が起きましたか。同様の事態が今起きても,わたしたちはなぜそのために信仰を動揺させるべきではありませんか。
21 実際,いろいろな理由で中途で脱落した人は少なくありません。このことは初期の教会の時代にも起こりました。パウロはテモテにあてた第二の手紙の中で次のように述べて,このことに注意を引いています。「デマスはこの世を愛し,我を棄て(たり)」。パウロはまた,彼を悩ました別の人について警告しました。「金細工人アレキサンデル大に我を悩せり。〔エホバ〕はその行為に随ひて彼に報いたまふべし。汝もまた彼に心せよ,かれは甚だしく我らの言に逆ひたり」。(テモテ後 4:10,14,15〔新〕)ゆえに,1,900年前,あるクリスチャンは忠実な歩みをやめました。ですから,今でもある人びとがそうするであろうことは予期できます。なぜなら,それは預言されているからです。その場合,わたしたちは信仰を動揺させるべきですか。そうではありません。なぜら,エホバは背く者を除かれるということをわたしたちは知っているからです。
22 (イ)きびしい試練は免れがたいという事実にわたしたちを警戒させずにはおかないどんなことが急に起こるのをこれまでに見てきましたか。(ロ)パウロはどんな点で模範といえますか。パウロの歩みはわたしたちにとってどのように助けとなりますか。
22 それに,わたしたちは,前途の試練を無傷で通過できるだろうと考えるべきではありません。これまでにもある人びとがこうむったように,かなりの人びとが不当な扱いや困難を甘受しなければならなくなるかもしれません。お気づきのように,多くの場合,国家主義が急に燃え上がり,その結果突如一夜にして激しい迫害が起こりました。しかし,霊的な武具である盾を身につけることによって,敵の放つ火矢に耐えられます。また,キリスト・イエスも述べられたように,あらゆる非難を予期しておくのはよいことです。「『なんぢを謗る者の謗は我に及べり』とあるが如し。…聖書の忍耐と慰安とによりて希望を保たせんとてなり。願くは忍耐と慰安との神,なんぢらをしてキリスト・イエスに効ひ,互に思を同じうせしめ給はん事を」とあります。(ロマ 15:3-5)また,コリントの人たちにあてた第二の手紙の中でパウロが,「凡ての事において神の役者のごとく己をあらはす,即ち患難にも,窮乏にも,苦難にも,打たるるにも,獄に入るにも,騒擾にも,労働にも,眠らぬにも,断食にも」としるして,忍耐について述べた明確な助言が思い出されます。(コリント後 6:4,5)忍耐する強さをわたしたちの思いの中に築き上げるには相当の勇気が必要です。
忠誠を保つ
23 わたしたちはエホバに対して行なった献身の誓いについてどう考えるべきですか。
23 なかにはエホバに対する献身の誓いを果たさなかった人がいます。エホバの意志を行なうべく献身した後は,あと戻りするわけにはゆきません。エホバは当然,わたしたちが『誓願をはたす』ことを期待されます。(伝道 5:4-6)エホバに対する誓約を故意に,またわざわざ裏切る人は死に値します。
24,25 (イ)わたしたちはどんな源からの攻撃を予期できますか。なぜですか。(ロ)わたしたちはたとえ自分の命が関係するような非常な試みに直面しようと,どのように行動すべきですか。
24 サタンは真のクリスチャンの大敵であるとともに,エホバに対する信仰を滅し尽くそうと腐心する強力な組織を持っていることを,わたしたちは思い起こさなければなりません。また,全世界は悪魔の力のもとにあり,彼はこの事物の体制の神であって,不信者の思いをくらましているという事実をも認識すべきです。―コリント後 4:4,新。
25 彼は全世界を配下に置いているのですから,自分の悪意と力のすべてを振るって配下の地上の勢力を動かしています。彼は獲物に近づくほえたけるライオンのようにこのことを行なっているのです。ペテロが,「汝らの仇なる悪魔,ほゆる獅子のごとく歴廻りて呑むべきものを尋ぬ」としるしたとおりです。エホバに献身した誠実なクリスチャンであるあなたが,その「呑むべきもの」のひとりになることだってありうるのです。ペテロはさらに忠告しています。「なんぢら信仰を竪うして彼を禦げ,なんぢらは世にある兄弟たちの同じ苦難に遭ふを知ればなり」。(ペテロ前 5:8,9)このことのために恐れたり,やめたりしてはなりません。そうするのはいくじのないこと,自殺行為とさえいえます。そうした行動を取る人は,神の王国で生きる資格を得られません。(黙示 21:8)それとは対照的に,黙示録 2章10節でイエスが次のように述べて示された考え方を持ってください。「なんぢ受けんとする苦難を懼るな,視よ,悪魔なんぢらを試みんとて,汝らの中の或者を獄に入れんとす。なんぢ死に至るまで忠実なれ,然らば我なんぢに生命の冠冕を与へん」。
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