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前途の試練に備えてあなたは今訓練をしていますかものみの塔 1971 | 6月1日
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て,神はそのようなことを許されるでしょうか。許されるはずがありません。したがって,神がなぜ,ご自分のしもべたちにか酷な苦難をもたらすことをサタンに許されるかについて,正しい理解を得るのは賢明です。
15 だれが最初の人間男女を誘い込んで,神から引き離しましたか。その者の神に対するどんな挑戦に関して,紛れもない証拠がありますか。
15 聖書は,エホバ神と悪魔サタンとの間の宇宙的な重大性を帯びた論争が,この問題に関係していることを明らかにしています。すなわち,神が最初の人間男女を創造し,ふたりを地上の楽園のすまいに置かれた後,強力な天使が介入し,中傷を交えたうそによって彼らを誘い込み,創造者にそむかせることに成功しました。(創世 3:1-6)問題を引き起こした者は,その結果,悪魔すなわち,そしる者となりました。聖書は,その後悪魔が,最初の人間男女から生まれ出る子孫すべてを神から引き離すことができると主張して,神に挑戦したことを示しています。この点に関する紛れもない証拠は,神の忠実なしもべ,ヨブという人に関連して見いだされます。
16 (イ)ヨブ記にしるされている会話から明らかなとおり,エホバとサタンとの論争には何が関係していますか。(ロ)それはヨブの時代には新しい論争でしたか。
16 霊感を受けた聖書の記録は,わたしたちを天の中にまで導き入れ,そこでかわされた重要な会話を明らかにしてくれます。こうしるされています。「或日神の子等きたりてエホバの前に立つサタンも来りてその中にあり…エホバ,サタンに言たまひけるは汝〔心臓〕をもちひてわが僕ヨブを観しや彼のごとく完全かつ正くして神を畏れ悪に遠ざかる人世にあらざるなり,サタン,エホバに応へて言けるはヨブあにもとむることなくして神を畏れんや 汝彼とその家およびその一切の所有物の周囲にまがきを設けたまふにあらずや…然ど汝の手を伸て彼の一切の所有物を撃たまへ然ば必ず汝の面にむかひて汝を詛はん」。このことから,神とサタンとの論争に関係しているのは,人間は試みのもとでも引き続き神に忠実であるか,という問題であることが明らかになります。サタンは当然,人間は忠実を保たないと主張しました。そこでこの問題を解決するため,少なくともヨブの場合には,神はサタンに「視よ彼の一切の所有物を汝の手に任す」と言われました。しかし,サタンのもたらしたさまざまな試練にもかかわらず,ヨブは神に対する信仰を保ちつづけました。ヨブは自分より以前の,アベル,ノア,アブラハムその他の人々と同じように,悪魔が偽り者であることを証明しました。―ヨブ記 第1,2章。ヘブル 11:4-38。
17 悪魔は引き続き何を試みてきましたか。したがって,各自どんな質問に直面しますか。
17 何世紀にもわたり神のしもべたちの信仰と忍耐を通して,自分が偽り者であることを再三再四証明されてきたにもかかわらず,サタンは,狂奔し続け,その手をゆるめようとはしません。依然として人類を真の崇拝から引き離すため躍起になっています。それにもかかわらず,悪魔がたとえどんな試練をもたらそうと,エホバを愛する者たちは神に忠実を保ちつづけてきました。サタンが神に滅ぼされる直前にもたらす最終的な猛攻撃に,あなたは抵抗することができますか。人類は真にエホバ神を愛するがゆえにエホバに仕えるのであるという証拠に,あなたは貢献しますか。それができるか否かは,重要な助けを活用するかどうかにかかっています。
試練に耐えるための助け
18 (イ)ヨブの忠実さがエホバの心臓を喜ばせたのはなぜですか。(ロ)したがって,試練のもとで神に忠実を保つうえで何が助けとなりますか。
18 たとえば,忠実なヨブの取った道を,エホバ神がどんなに幸福に思われたかを考えてごらんなさい。サタンの言ったことは,試練のもとで神に忠誠を保つ者はいないということに等しいものでした。しかしながらヨブの生活態度は,『サタンよ,あなたは卑劣な偽り者だ。私は死ぬまで神に忠実を保ちます』と,全宇宙の前で証したことになりました。(ヤコブ 5:11)ヨブのような人が自分に忠実に仕え,その結果敵対者を偽り者とする時,エホバはなんと幸福に思われることでしょう。このことは神の愛ある訴えに示されています。「わが子よ知恵を得てわが〔心臓〕を悦ばせよ 然ば我をそしる者に我こたふることを得ん」。(箴言 27:11〔新〕)ですから,エホバの心臓を喜ばす特権を持っていることを熟考してください。試練のもとでのあなたの忠実さは,嘲笑者である悪魔サタンに対してエホバが提出しうる答えに貢献するものとなるのです。このことを覚えておくのは,試練に耐えるために欠かすことのできない助けとなるでしょう。
19 ほかに何を銘記することによって,試練に耐えるよう助けられますか。
19 試練に耐えるための別の重要な助けは,それが一時的な性質のものである点を考慮することです。神がご自分の忠実なしもべに報いる数々の祝福に比べると,試練は実際なんでもありません。(ロマ 8:18)ヨブはサタンの手にかかってひどく苦しみましたが,聖書の記録はこう述べています。「エホバかくのごとくヨブをめぐみてその終を初よりも善したまへり」。(ヨブ 42:12)さらに重要なことに,その忠実さゆえ,ヨブにはとこしえの命を享受するため死から復活するという祝福が保証されています。したがって神に忠実に仕えるのは,なんと賢明なことでしょう。聖書は次のように説明しています。「試練に耐え続ける人は幸福です。なぜなら,是認されると,その人は命の冠を受けるからであり,それは,ご自分を愛し続ける者たちにエホバが約束されたものです」― ヤコブ 1:12,新。マタイ 5:10-12。
20 (イ)わたしたちのあう試練は,他のクリスチャンたちが経験するものと異なっていますか。(ロ)他の人たちの経験を考慮することによって,どのように試練に耐えるための助けが得られますか。
20 試練に耐えるためのさらに別の重要な助けは,世界じゅうのクリスチャン兄弟たちの忠実な忍耐を考慮することです。時には自分の試練が特殊なもの,だれも自分が今あっているような苦難を経験したことはない,と考えるかもしれません。しかし,聖書は次のように述べています。「なんぢら信仰を堅うして彼[悪魔サタン]をふせげ,なんぢらは世にある兄弟たちの同じ苦難に遭ふを知ればなり」。(ペテロ前 5:9)そうです,他の場所にいるあなたの仲間のクリスチャンに,「同じ苦難」が降りかかっているのです。それは「エホバの証人の年鑑」を読めばわかります。しかしそうした苦難のもとにあっても,他の人たちはサタンに対抗して忠実に立場を取りつづけているのですから,あなたにもできるはずです。この点を覚えておくなら,試練に耐えるよう助けられるでしょう。
試練に耐えるには訓練が必要
21 前途の試練に備えて訓練をする際,祈りはどんな役割を果たしますか。
21 これらの助けを活用するほかに,祈りを通してエホバ神との親密な連絡を保ちながら,前途の試練に備えて訓練をすることが絶対に必要です。聖書はこう勧めています。「たゆまず祈り続けなさい」。『絶えず祈りなさい』。(ロマ 12:12,新。テサロニケ前 5:17)戦場の兵士が上官との連絡を保ちつづけねばならないのと同様,クリスチャンも指示と力を求めて常に神のもとに行く必要があります。イエスは,神にこう祈るよう自分の追随者を励ましました。「わたしたちを誘惑に入れず,邪悪な者から救い出してください」― マタイ 6:13,新。
22 「誘惑に入れず,邪悪な者から救い出してください」との祈りに,神はどのように答えられますか。
22 しかしながら,それは,祈りをしたあとは手をこまねいて救出を待っていればよい,という意味ではありません。試練に首尾よく耐えるためには,それ以上のことが要求されます。それは,「わたしたちを誘惑に入れず,邪悪な者から救い出してください」とのこの祈りに,神がお答えになる方法から明らかにされています。神はおもに二つの方法でそれをなさいます。まず,サタンが影響を及ぼす方法に関し,みことばを通して事前の警告を与えることによってです。そのおかげで,わたしたちは試練においてサタンから何を期待すべきかを知ることができます。事前に警告されると,事前に警備を整えられます。(コリント後 2:11)次に,みことばを通してご自分のしもべたちを強めることにより,エホバは前述の祈りに答えてくださいます。彼らはそのために,神の許しでサタンがもたらす試練に耐えうるのです。
23 前途の試練に備えるわたしたちの訓練には,何が含まれねばなりませんか。
23 したがって,前途の試練に備えての訓練に,神のことば聖書の研究を含めねばならないのはきわめて明白です。事前に正しく警告を受けかつ強められるために,この研究は必要です。しかしそれに加えて,会衆の集会における神の民との定期的な交わりをも,あなたの訓練の中に含めねばなりません。そうした集会で,あなたは神の聖霊を受け,そこで神の見える組織から愛ある援助を受け,強められるのです。(マタイ 18:20)あなたは自分をひとりにすることはできません。聖書は次のように述べているからです。「自らをひとりにする者は自分の利己的な熱望を求める。すべての実際的な知恵に逆らってきおい立つ」― 箴言 18:1,新。
24 わたしたちはエホバからのどんなすばらしい約束を得ていますか。しかし,その約束はすべての人に当てはまりますか。
24 あなたを強めるエホバ神からの備え,すなわち,みことば,霊,組織を活用するなら,ほんとうにすばらしい保証を得ることになります。聖書の中の約束に注目してください。「神は忠実であるから,あなたがたが耐えうる以上に誘惑されるままにはせず,誘惑とともに,あなたがたがそれに耐えうるようにするため,のがれる道をも設けてくださるであろう」。(コリント前 10:13,新)そうです,誘惑や試練がいかにきびしいものであろうと,エホバはご自分のしもべたちが忠実に耐えうるようにしてくださるのです。なんとすばらしい保証ではありませんか。しかし,この約束はすべての人に当てはまるのではないということを忘れてはなりません。自分を強めるための神の備えを活用する人たちにのみ当てはまるのです。祈りを通してエホバ神と定期的な連絡を保つこと,また神のことばの定期的な研究や,神の民と会衆の集会に定期的に出席することをしないでおきながら,誘惑された時にのがれる道をエホバが設けてくださると期待するのは無理です。このことから,前途の試練に備えて今,正しい訓練をすることがどれほど重要かを銘記すべきです。
25 エホバはどのようにご自分のしもべを助けて試練に耐えさせることができるかを示す,どんな現代の例がありますか。
25 ご自分の備えを活用した人々のために,エホバがどのようにのがれる道を設けることができるかを示す例として,アラブ連合共和国の神のしもべたちの場合を考えてみましょう。クリスチャンの中立を犯す活動に参加することを拒んだため,彼らは足の裏や背中を殴打されました。しかしそのひとりはこう書いています。「地面に横たわって打たれている間,この拷問を耐えられるよう助けてくださいとエホバに祈りました。全能の神エホバが私を助けてくださり,ほんとうに幸福でした」。別の証人は次のように書いています。「どれほどのはずかしめや殴打を受けたにしても,数秒後には,打たれ続けているにもかかわらず何も感じませんでした。エホバ神がいつもわたしたちとともにいてくださるのだと感じられました」。エホバはなんと驚くべき仕方で,のがれる道を設けてくださるではありませんか。悩み苦しんでいたロトを昔救出されたように,エホバは,「敬虔な専念をいだく人々をどのように試練から救出するかをご存じで(ある)」ことを,今日においてもくり返し証明してこられました。―ペテロ後 2:6-9,新。
26 今何をすることが絶対に必要ですか。
26 あなたの信仰も,まちがいなく試みられます。その理由は,悪魔サタンが自分の終わりの近いのを知っており,神への奉仕からあなたを引き離そうとして試練をもたらすからです。したがって,定期的に神に祈り,みことばを研究し,神の組織の民と定期的に集まり合って,自分を強めるための神からの備えを活用することが絶対に必要です。そうするならば,エホバの是認を得,どんな試練が臨もうとも,それを成功裏に耐えぬくことができるのです。
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わたしたちの信仰をこころみる試練に耐えるものみの塔 1971 | 6月1日
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わたしたちの信仰をこころみる試練に耐える
『あなたがたはさまざまな試練によって嘆き悲しまされてきました。それは,試みられたあなたがたの信仰の質が,賛美のいわれとなるためです』― ペテロ前 1:6,7,新。
1 試練は楽しいものですか。試練のもとでの忠実さは,どのように賛美のいわれとなりえますか。
試練は楽しいものではありません。きわめて悲痛なものである場合もあります。たとえば,イエスがつばをかけられ,嘲笑され,最後には打たれたうえ,刑柱にくぎづけにされて苦しみの死を遂げた時,それは決して楽しいことではありませんでした。(マタイ 26:66-68; 27:26-30)彼の信仰を最も極端な試みにあわせたそれらの試練は,確かに悲痛なものでした。しかし,試練のもとでのイエスの忠実な歩みは,賛美のいわれとなりました。そのために,まず神の名前に賛美がもたらされました。イエスの忠実さは,悪魔サタンが彼を神の崇拝から引き離しえないことを実証したからです。さらに,神がイエスを死から天の命へ復活させられた時,イエスは自分の忠実さの報いとして賛美と誉れを受けました。―ピリピ 2:9-11。
2,3 (イ)試練にあっている時でも,どのように幸福でありえますか。(ロ)試練にはどんな益がありますか。
2 神の名前にもたらされる賛美と,忠実さに対して神が与えられるすばらしい報いを常に見つめるなら,試練にあっていても真の幸福を維持できます。事実,イエスは山上の垂訓の中でこう言われました。「人々が,わたしのためにあなたがたを非難し,迫害し,偽ってあらゆる邪悪な事柄を言うとき,あなたがたは幸福です。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいからで(す)」。(マタイ 5:11,12,新)弟子ヤコブも同様に次のように書いています。「試練に耐え続ける人は幸福です。なぜなら,是認されると,その人は命の冠を受けるからであり,それは,ご自分を愛し続ける者たちにエホバが約束されたものです」。(ヤコブ 1:12,新)そうです,試練のもとでのわたしたちの忠実さが神を喜ばせ,また神からの永遠の命の報いをもたらすことを知るのは喜びの源と言えます。さらに,試練が天の父に対するわたしたちの愛を実証する機会を提供することをも喜べます。
3 したがって正しい見方をするならば,試練を実際に歓迎することができます。それは有益な結果をもたらすからです。このことは走者や水泳選手にとって必要な訓練について確かに真実です。それらの人々は必要な忍耐の資質をつちかうために,多くの過度な試練や試みを経ねばなりません。そうした試練を乗り越えた後にはじめて,激しい競争の繰り広げられる陸上および水泳競技で,勝利を望みうることができます。クリスチャンの場合も同様で,試練は信仰においてさらに強くなるのに役だちます。弟子ヤコブが次のように書いたのはそのためです。「わたしの兄弟たちよ,さまざまな試練にあうとき,それをただ喜びとしなさい。あなたがたの知るとおり,試みられたあなたがたの信仰の質は忍耐を生み出すからです」― ヤコブ 1:2,3,新。
4,5 (イ)使徒たちはむちで打たれたあと,なぜ歓喜することができましたか。(ロ)わたしたちはどういう方法で,試練によって強められますか。
4 使徒たちの経験は,信仰の試みがどのように忍耐を生み出すことができ,実際に喜びに帰するかを例証しています。ある時,サンヘドリンの議員たちは使徒たちを召喚し,「之を鞭ち,イエスの名によりて語ることを堅く禁じ」ました。彼らはそれにどう応じましたか。聖書はこう述べています。「使徒たちは御名のために辱しめらるるに相応しき者とせられたるを喜びつつ,議員らの前を出でされり」。(使行 5:40-42)使徒たちは,キリストと彼の天の父に対する忠節を実証する機会を得たことを幸福に感じました。さらに,自分たちの信仰がきびしい試練によってこころみられ,真正の質のものであることが証明された事実も,使徒たちにとって喜びの源でした。試練の経験が自分たちのうちに忍耐を生み出したことに,彼らは歓喜することができました。
5 少し考えてみてください。わたしたちの信仰をくじこうとするサタンからのそうした経験は,実はわたしたちを建て起こしうるのです。試練に忠実に耐える時,わたしたちの思いは,神に喜ばれているとの自覚の念に満たされます。神の是認に対するこの自覚がわたしたちを強め,希望をさらに確かなものにします。つまり,試練やかん難は一種の“連鎖反応”を引き起こし,それにより悪魔のわたしたちに対する試みは完全にざ折させられてしまうのです。使徒パウロは次の勧めのことばの中で,この点をいみじくもこう説明しました。「かん難にあって大いに喜ぼう。わたしたちの知るように,かん難は忍耐を生み出し,ついで忍耐は是認された状態を,是認された状態は希望を生み出し,その希望は失望に至らないからです」。(ロマ 5:3-5,新)エホバは,なんと勝利に満ちた組み合わせをわたしたちに与えてくださったのでしょう。そうです,苦難と試練は,わたしたちが忠実を保つなら,わたしたちを建て起こし強めうる以外の何ものでもありません。
6 (イ)わたしたちを神の奉仕から引き離そうとする試みにおいて,悪魔が別に新しい方式を持っていないことはどうしてわかりますか。(ロ)悪魔は,人によってそれぞれ異なった試練をもたらします。なぜですか。
6 わたしたちを神の奉仕から引き離そうとして悪魔サタンが用いる方式や方法には,何ひとつ新しいものがないのは意義深いことです。それゆえ使徒パウロはサタンについてかつてこう語りました。「我等はその詭謀を知らざるにあらず」。(コリント後 2:11)また,コリント前書 10章30節(新)では次のように告げられています。「人間に共通でない誘惑〔試練〕はあなたを捕えませんでした」。聖書の中には,エホバを退けるよう誘惑するさまざまな試練がわたしたちのために多く記録されています。聖書のそうした例を調べることにより,何を期待すべきかに関しての警告を得られます。事前に警告を受けるなら,事前に警備をするものです。サタンが非常にこうかつであることも,わたしたちは忘れたいとは思いません。サタンがだれにも同じ試練をもたらすとはかぎりません。ある人にとってはきびしい試練でも,他の人にとっては比較的耐えやすいものかもしれません。ですから,サタンがわたしたちの一番もろい点をねらって攻撃してくることは確実です。この点を銘記しながら,わたしたちの信仰をこころみるために臨む試練のいくつかを考慮してみましょう。
神への忠節に関して試みられる
7 (イ)悪魔は人々にどのように神の律法を破らせようとしますか。(ロ)サタンが人々に破らせようとしばしば試みる,神の一つの律法はなんですか。
7 わたしたちの信仰は神の律法に対する従順に関して試みられます。悪魔サタンは,神に従うのを非常にむずかしくさせる,きびしい試みとなる事態を作り出そうとします。サタンが神のしもべに破らせようとするエホバ神の律法あるいは命令の一つはこれです。「あなたはわたしの顔に向かっていかなる神々をも持ってはならない。…それらに礼をしてはならず,いざなわれてこれに仕えてはならない。あなたの神である我エホバは専心の献身を求める神であるからである」。(出エジプト 20:3-5,新)。イエスはこの命令を次のように述べました。「あなたが崇拝しなければならないのはあなたの神エホバであり,あなたが神聖な奉仕をしなければならないのは彼だけである」。(マタイ 4:10,新)神のしもべたちは,神に専心の献身をささげるというこの要求に忠実を保つかどうかを試みる,きびしい試練に何度となくあってきました。
8 前述の神の律法に関して,3人のヘブル人はどのように試みられましたか。
8 たとえば,古代バビロンが世界強国であった時,その支配者ネブカデネザル王は巨大な黄金の像を建てました。そして次の命令が出席者全員に発布されました。「汝ら喇叭 簫 琵琶 琴 瑟 篳篥などの諸の楽器の音を聞く時はひれふしネブカデネザル王の立てたまへる金像を拝すべし 凡てひれふして拝せざる者は即時に火の燃ゆる炉の中に投こまるべし」。(ダニエル 3:5,6)出席者の中には3人のヘブル人で,エホバのしもべであるシャデラク,メシャク,アベデネゴがいました。それは彼らにとってなんときびしい試練,なんという信仰の試練だったことでしょう。神は,『礼をしてはならない』と命令されていましたが,バビロニアの王の命令は,『ひれふして金像を拝せ』,さもなくば炉の中で死ぬというものでした。これはその3人のヘブル人に国家,つまり国家の像に礼をさせることにより,神の律法を破らせようとする悪魔サタンの周到な試みでした。
9 現代,諸国家はしばしばどんな像や象徴に礼拝をささげることを要求しますか。
9 悪魔の方式は変わっていません。彼は今日でも同じような苦しい境遇に神のしもべを陥れます。たとえば,古代バビロンの時代と同様,今日の諸国家も象徴物を設け,そうした物に敬礼をしたり,拝したり,その他の崇拝の行為をもってほまれを帰するよう市民に命令します。現代における諸国家の顕著な象徴に関して,カトリックの歴史家カールトン・ヘイズはこう評しています。「国家主義信仰の主要な象徴かつ崇拝の中心となっているのは旗であり,旗に『敬礼したり』,旗を『ちょっと上げたり』,『下げたり』,『掲げたり』するための,奇妙な礼拝的な形式が考え出された。男子は旗が通り過ぎる際には脱帽し,旗をたたえて詩人は頌詩を物し,子供は賛美を歌う」。a 古代バビロンの市民たちに,国家の像の前で拝する義務が課せられたのと全く同様,現代においても諸国家は国家の象徴や国家の代表者である特定の人間に,礼拝や崇拝をささげるよう要求することがしばしばあります。
10,11 人間を偶像視したり,国家の象徴に忠誠を示したりする点で,神のしもべたちは現代どのように試みられてきましたか。
10 ナチ・ドイツで,人々は,ヒトラー万歳を唱え,かぎ十字に腕をあげるよう命令されました。その偶像崇拝に類する行為に服さなかった者は,罰として残忍な取り扱いを受け,強制収容所の恐怖に面しなければなりませんでした。それは真のクリスチャンにとってなんときびしい試練だったことでしょう。人間に万歳を唱えて,国家の象徴物に崇拝を伴う栄誉を帰すか,それとも神に従うかでした。あなただったら,どうなさいましたか。幾千人ものエホバのクリスチャン証人たちは神に従い,ヒトラーや国家の象徴物に献身することを拒みました。彼らが強制収容所に送られ,むごい仕打ちにあったのは事実ですが,大多数の者はつらい経験を通過し,自分たちのうちに忍耐がつちかわれたことに歓喜しました。
11 もっと最近の例ですが,アラブ連合共和国の人々は,「ガマル・アブデル・ナセル大統領万歳」というような,愛国主義的な叫び声をあげるよう命令されました。ひとりの人間に対するそうした偶像崇拝的行為に参加することを忠節にも拒んだ者たちは,なんと幸いだったのでしょう。同大統領は1970年に死にました。彼らは殴打されはしましたが,そのつらい経験の間エホバの助けを意識していました。ワシントン・ポスト誌は,アフリカの別の国に関する報道の中でこう述べています。「証人の家庭の子供たち数百名が放校された。国歌をうたい,国旗に敬礼することを拒んだからである」。b 聖書の中に先例があり,それが良心に基づく反対であったにもかかわらず,高等法院は,神の律法を破るよう多大の圧力を受けたそれらの子どもたちに,教育を受けさせない十分の根拠があるとの裁定を下しました。
12 学童はしばしばどんな試みにあいますか。
12 悪魔サタンがクリスチャンに圧力をかけて,人物や国家の象徴物に崇拝の伴う栄誉をささげさせようと努力を続けることは確実です。彼は,だれひとりとして神に専心の献身をささげて,神に忠節を保つことを欲しません。多くの国々で学童は,国旗に敬礼をし,それに対する忠誠の誓いをくり返すよう定期的に要求されます。その前にひざまずかせて,くちびるで口づけさせる国さえあります。そうした要求に服しない者が嘲笑されたり,時には身体に危害を加えられたりしたこともあります。今日そうでなくても,あなたの住んでいる所で同じ事態がまもなく起こるかもしれません。その時はどうしますか。神に不忠節にならせようとする,悪魔のそうした周到な試みにあなたは耐えますか。自分の信仰の試みを通過しますか。
血の問題に関して試みられる
13 (イ)血に関する神の律法はなんですか。(ロ)初期クリスチャンはこの律法に関してどのように試みられましたか。その結果は。
13 神のしもべがしばしば試みられてきた別の律法は,血を禁ずる問題に関してです。イスラエル人に対する神の命令は次のとおりでした。「なんぢらは何の肉の血をもくらふべからず其は一切の肉の生命はその血なればなり凡て血をくらふものは絶るべし」。(レビ 17:14)この命令はクリスチャンに対してくり返されました。「絞殺したる物と血とを避けしむべし」。(使行 15:19,20)初期の著述家テルツリアヌスはローマ人が血についてのクリスチャンの立場を知っていたこと,およびクリスチャンがこの律法に関して試みられたことを報じています。彼はこうしるしています。「あなたがたがクリスチャンを試みる時には,血で満ちたソーセージを差し出す。彼らの間でそれが禁じられていることは,もちろん十分承知の上でである。しかし,あなたがたは彼らにそれを犯させようと欲する」。c しかし,忠実なクリスチャンはその律法を犯そうとはしませんでした。死の処罰をもってしても,彼らに神の律法を犯させることはできなかったのです。
14 (イ)今日一般に施されている治療方法の一つはなんですか。それはどのように真のクリスチャンにとっての試みとなりますか。(ロ)神の律法への従順はどのように真の保護となりますか。
14 病人に輸血を施すという現代の治療法のため,今日クリスチャンは同様な信仰の試みに直面します。この血の療法を受け入れなければ,他の治療はいっさい与えないとする医師や病院もあります。それはクリスチャンにとって真の試練となりえます。医師たちが,あなたにあるいはあなたの家族のだれかに,どうしても輸血をすると主張するような場合にもし出あったとしたら,あなたは,血を避けるようにとの神の明白な命令に忠実に従いますか。それとも,悪魔のそそのかす圧力に屈して,神の律法を破るよう誘惑されますか。そうした試みに直面した時,神に忠実に従った者はなんと幸福でしょう。神の是認を受けているとのすばらしい自覚を持つばかりでなく,輸血のもたらす多くの恐ろしい病気や危険から身を守られているのです。
道徳上の要求に関して試みられる
15 (イ)道徳行為に関連する神の律法はなんですか。(ロ)それらの律法に関して,サタンはどのように神のしもべを誘惑してきましたか。彼は今日そうしていますか。
15 他方,神の道徳上の要求に関してもクリスチャンはしばしば試みられます。神はこう命令されています。「汝姦淫するなかれ」。『淫行をつつしめ』。(出エジプト 20:14。テサロニケ前 4:3。使行 15:20)悪魔は,エホバの民の多くがこの点でもろいことを見いだしています。したがって,人々を神から離させるために彼の好んで用いる方式の一つは,この点の律法を破るよう惑わすことです。たとえばエホバの民イスラエルがカナンの地にまさにはいろうとしていた時,サタンはイスラエルの男たちを惑わすために,魅力的なモアブの女たちを利用して不品行を犯させ,その結果,神の憤りが彼らに臨みました。(民数 25:1-9。黙示 2:14)最近においても,悪魔サタンはクリスチャンを不品行に誘惑するため性を用いてきました。ほとんど至る所で不正な性行為が美化され,性が強調されている事態は,クリスチャンにとって真の試練となっています。
16,17 どのようにすれば,性の不品行を犯すことを避けることに成功できますか。
16 この試練にどうすれば首尾よく耐えられますか。不道徳な考えをひたすら思いめぐらすことによってですか。売春や姦淫その他の,神を汚す行為を容認する映画やテレビの番組を見たり,そうした本を読んだりすることによってですか。不品行な関係を持つという考えをいだいて,結婚した配偶者以外の人を見つめることによってですか。とんでもないことです。わたしたちが思いに満たしつづける考えが,ついにはわたしたちを行動に促す動機となるからです。したがって,不道徳な欲望に思いを集中させるのは非常に危険です。―マタイ 5:28。ヤコブ 1:13-15。
17 この信仰の試みを成功裏に通過するためには,自分の考えを絶ゆまず制御することが必要です。神のことばの次の教示に注意する必要があります。「すべて正しいこと,すべて清いこと,すべて愛すべきこと,すべて良く言われること,また徳とされること,賞賛に値することのすべてを考え続けなさい」。(ピリピ 4:8,新)そうです,自分の生活にどんな事態が起ころうとも,神の道徳上の要求を守ろうということを思いの中で決意し,その決意をくり返しくり返し強化するのです。誘惑されたらエホバに祈りなさい。エホバの心臓を喜ばせることについて考えなさい。さらに,不道徳へのいざないに抵抗したヨセフのような忠実な例を考察することによって,自分自身を強めなさい。彼のように神を恐れる人であるのは,ほんとうになんとすばらしいことではありませんか。―創世 39:1-13。
伝道するようにとの命令 ― 信仰の試み
18,19 (イ)イエスに対する神の意志はなんでしたか。それは今日のクリスチャンにとっても同じですか。(ロ)伝道するようにとの神の命令に従うのを悪魔が困難にさせてきたことを示すどんな証拠がありますか。しかしそれはクリスチャンにどんな影響を及ぼしましたか。
18 イエス・キリストに対する神の意志は,彼が「神の王国」の伝道者であることでした。そしてイエスは,ついには自分の命を奪ったほどの山のような反対に面しながらも,そのわざを忠実に行ないました。(ルカ 4:43,新; 8:1)後日イエスは自分の追随者たちにこう命じました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし…わたしがあなたがたに命令した事柄すべてを守るように教えなさい」。(マタイ 28:19,20)この伝道するようにとの命令は,今日のすべてのクリスチャンに当てはまります。事実,クリスチャンが伝道することは,今特に緊急です。なぜなら,イエスは,『終わりの来る前に,王国のこの良いたよりは証のために,人の住む全地で伝道されねばならない』と予告されたからです。(マタイ 24:14,新)したがって,神のしもべたちがこの命令に従うのを困難にさせようとして,悪魔サタンが努力を集中していても少しも不思議ではありません。それはさらに,『みことばを宣べ伝え,たゆまずにそれを行ないなさい』とのおごそかな命令が,クリスチャンにとって信仰の真の試みとなることを意味しています。―テモテ後 4:2,新。コリント前 9:16。
19 1世紀には確かにそう言えました。思い出されることでしょうが,サタンは自分の宗教の代表者を扇動して使徒たちに反対させその代表者たちは彼らを「鞭ち,イエスの名によりて語ることを堅く禁じ」ました。(使行 5:40)あなたでしたら,どうされましたか。再びむちうたれないよう,伝道をやめたでしょうか。使徒たちはやめませんでした。彼らは試練に耐え,信仰の試みを通過したのです。最近でもクリスチャンは同様な事態に直面しています。ある場所では官憲により伝道のわざが禁止されました。しかしイエス・キリストと十二使徒にならって,真のクリスチャンは引き続き伝道を行なってきました。彼らはいわば次のように言ったのです。「人に従はんよりは神に従ふべきなり」。(使行 5:29)なんという勇気,神に対するなんという忠実さでしょう。この模範こそわたしたちがならいたいものです。
20 悪魔は人々の態度に対してどのように責任を負っていますか。クリスチャンの奉仕者にどんな影響を与えることがもくろまれていますか。
20 しかしながら,たいていの場所では伝道のわざは禁止されていません。とはいえ,人々は王国の音信にしばしば無関心を示します。あざけったり,嘲笑したりさえするかもしれません。それも試練です。わたしたちの信仰に対する真の試みとなります。あなたはこの試練に耐えておられますか。人々の無関心な態度はサタンの責任に帰されることを認識しておられますか。それは事実です。自分の宣伝を通して,彼は人々の考えを形成させるのです。(コリント後 4:4)サタンはそうすることによってあなたを失望させ,人々に伝道する努力すら払わせまいとしています。彼に成功させてはなりません。人々が無関心な,時には敵対的な態度をさえ示す場合,その背後で,あなたの意気をくじかせ,熱心にそしてたくみに人々に王国の音信を提供しないようにさせようと,サタンが努力していることを認識してください。どんなことがあっても,サタンのために,伝道するようにとの天の父からの命令に従うことをやめてはなりません。
わたしたちの信仰の試みを通過する
21 神はアブラハムをどのように試みられましたか。アブラハムはどのように応じましたか。
21 サタンが試練をもたらさない時でさえ,神のわたしたちに対する命令が試みとなることがありえます。聖書は古代の一例をあげて,こう述べています。「神アブラハムを試みんとて之をアブラハムよと呼たまふ…爾の子爾の愛する独子即ちイサクを携てモリアの地に到りわが爾に示さんとする彼所の山に於て彼を燔祭として献ぐべし」。神のこの命令に従うことがアブラハムにとってどんなにむずかしかったか想像してごらんなさい。しかしアブラハムはその命令に従い,自分のいつくしむむすこを殺すため,まさにナイフを手にするところにまで至りました。神に対するなんという忠実さでしょう。むすこを害さないようアブラハムの手をとどめた後,エホバは彼にこう言いました。「汝の子即ち汝の独子をも我ために惜しまざれば我今汝が神を畏るを知る」― 創世 22:1-18。
22 (イ)ある人にとって,今日のクリスチャンに対するどんな要求は,アブラハムが受けた試練と同じほど困難なものですか。(ロ)アブラハムは自分の示した従順ゆえに,どのように祝福されましたか。これは,わたしたちが従順であったら,どうなることを示していますか。
22 今日のクリスチャンに対する神の指示は同様な試練となります。たとえばある人にとって,「公にも,また家から家にも」伝道するのは非常にむずかしいことです。(使行 20:20,新)さらに,神権宣教学校で話をしたり,会衆の集会で注解をしたりすることによってこの伝道のわざに備えるのは,その人たちにとってどんなにか困難でしょう。(テモテ前 4:13。ヘブル 10:24,25)しかしそうした試みは,神がアブラハムに与えたものより大きいと言えるでしょうか。極端におくびょうな人はそう思うかもしれませんが,エホバが愛に富む,恵み深い神であることを忘れないでください。神はご自分の民みずからの益と祝福にならないことを決して要求されません。たとえば,神に従ったためにアブラハムの得た祝福を考えてみてください。神の天使によってとどめられ,自分に神の是認が宣されるのを聞く喜びを味わいました。彼は約束のすえの先祖となりました。(創世 22:17,18。ガラテヤ 3:16)さらに,彼の信仰はすべてのクリスチャンがならうものとして聖書の中で推薦されています。(ヘブル 11:17-19)そしてアブラハムは,人類のためにご自分の御子を犠牲としてささげられた神ご自身の原型となりました。(ヨハネ 3:16)神の言われることに従順に従うなら,わたしたちも神から祝福されます。
23 わたしたちはどんなまちがいをしないように望みますか。
23 神によってわたしたちに命令されたことを行なわないで,試みを避けたり,よけたりするのは確かにまちがいです。聖書は,『アブラハムが朝つとに起き』,イサクを連れ,直ちにモリアへの旅を始めたことを述べています。彼はそれを延ばしませんでした。わたしたちも,王国の音信を伝道するようにその神の指示に従うことを延ばすべきではありません。今すべきだとわかっている事柄を延ばせば延ばすほど,従うことはいっそうむずかしくなります。しかもその試みは,わたしたちと,神の是認と祝福を受けることとの間に常に存在しているのです。
24 イスラエル人のある者は,どんな試みを通過しませんでしたか。彼らが神を信頼していたらそれを通過していたと,何が示していますか。
24 一例として,エジプトから「乳と蜜との流るる」地へと神が導き出されたイスラエル人のことを考えてみましょう。その地は彼らのものでしたが,まず通過しなければならない試みが待っていました。その地は,実に忌むべき風習にかかわりを持つ悪霊崇拝者で満ちていました。さらに,ある者は巨人のような異常に大きい体格をしていました。(民数 13:1-33)そのためイスラエル人は恐れをいだき,その地にはいってそれを占領するようにとの神の指示に従うことを拒みました。それゆえ神は,彼らがその土地にはいらず,20歳以上の者は全員荒野で死ぬであろうと言われました。(民数 14:29-34)しかしながら,40年後に次の世代のイスラエル人が,神の命令でその土地にはいり込みはじめた時の情況はどうでしたか。そこには同じそれら強力な人間,少なくともその子孫たちがいました。やはり試みを通過しなければなりませんでした。イスラエル人は今度はその試みを避けようとはしませんでした。彼らは神に信頼し,従順に直ちに進み入って,土地を占領しました。(ヨシュア 11:21-23)それにしても,彼らの父親たちが40年前に試みを通過していたほうが,はるかによかったのではありませんか。
25 わたしたちは今なにをすべきですか。どんな見込みがありますか。
25 わたしたちは,今,神の正義の新しい事物の体制の入り口にいます。(ペテロ後 3:13,新)現代の体制の終わりはなんと近いのでしょう。ですから,今は神の意志を行なうことを延ばしたり,なおざりにしたりする時ではありません。エホバを信頼し,勇気をもってエホバの言われる事柄を行なわねばなりません。今からほんのまもないうちに,サタンは神の民に対し最後の全面的な攻撃に出,わたしたちにすさまじい試練をもたらすものと考えられます。しかし,わたしたちは神の力を得て,わたしたちの信仰をこころみるそれらの試練を耐えることができます。そうです,そして,神がわたしたちに祝福してくださる,正義の新秩序における永遠の命という,すばらしい報いを熟慮してください。―ヤコブ 1:12。黙示 21:3,4。
[脚注]
a J・ポール・ウィリアムズ著「アメリカ人が信じるものとその崇拝の方法」,359および360ページ。
b 1969年2月21日号,ワシントン・ポスト誌,F2ページ。
c テルツリアヌスの「弁明」。T・R・グローバー訳。51-53ページ(1931年)。
[341ページの図版]
恐ろしい脅迫にもかかわらず,3人のヘブル人は王の像にひれふすことを拒んだ。あなたは自分の信仰を試みる同様な試練に耐えられますか
[342ページの図版]
医師が輸血を施すことを主張したら,あなたはどうしますか
[343ページの図版]
不品行を容認するテレビ番組を見ることは,試練に耐える助けとなりますか
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あらゆる民族集団のあいだの一致は可能ですかものみの塔 1971 | 6月1日
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あらゆる民族集団のあいだの一致は可能ですか
人々が,偽りのない,心臓からの愛と一致のうちにともに暮らすことのできる基盤というものがありますか。特に,人種や国籍,言語や社会的背景の異なる人々のあいだでそれは可能でしょうか。
昨年の暮アフリカを訪れた,アメリカとカナダの人々236名の一行は,この問題を直接に知る機会に恵まれました。アフリカほど多くの民族集団が見られる土地がほかにありますか。また,世界における自分の特権と立場に目ざめた巨人のようなこの大陸におけるほど,現在自由を求める声の強い土地は地上にあるでしょうか。
旅行者たちが12月を選んだのは,その1か月間にアフリカのエホバの証人がいくつかの「善意の人々」大会を開くことになっていたからでした。それらの大会には多くの部族から,様々な背景を持つ何千人ものアフリカ人がともに集まることになっていました。また旅行者の一行もエホバの証人で,聖書に『神がひとりの人からあらゆる国民を造り出した』と書かれていることを知っていました。さらに,そうした大会の最初のものが昨年の夏に北アメリカで連続して開かれた際,一致と協力が発揮されたのを見ていました。それはすべての国々において可能でしょうか。その上,それら北アメリカからの訪問者は「兄弟」として迎えられ,一方,彼らがアフリカの大会出席者たちに対して兄弟のような感情をいだくでしょうか。
セネガルのダカール
10の大会がもれなく旅行者の訪問を受けられるように,一行はそれぞれ異なった旅程を組み,別々の大会に出席しました。最初に訪問したのは,アフリカ大陸が大西洋に大きく突き出た部分の最西端に位置する,セネガルのダカール市でした。
早朝の7時半に到着した旅行者は,土地のエホバの
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