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クリスチャンは迫害を当然に予期するものみの塔 1967 | 2月1日
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するところのなかったヨナタン・スタルクロは勇気がありました。札つきの犯罪者である刑執行人がちゅうちょし,収容所の司令官が刑執行の命令を忘れた時,ヨナタンははっきりした声で言いました。「なぜためらっているのですか。エホバとギデオンの側に立ちなさい」。クリスチャンがこのような死に直面してびくともしないのはなぜですか。それはイエス・キリストを復活させたエホバの復活に関する約束に確かな希望を置いているからです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば,いのちの冠を与えよう」。(黙示 2:10)「からだを殺しても,魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」― マタイ 10:28。
迫害に対するクリスチャンの態度
12,13 (イ)迫害が始まる時,わたしたちは驚きますか。なぜそのように答えますか。(ロ)悪口をあびる時,どのように応ずるべきですか。
12 迫害は忠実さを試みるためエホバの許しによってエホバのしもべに来るものですから,わたしたちは何らかの迫害が起きても驚いてはなりません。事実,もしそうした試練にあっていないなら,自分はほんとうにクリスチャンとして歩んでいるのだろうかといぶかる気持ちさえ起きるでしょう。もとより,敵対者の憎悪を経験するためにすべての者が死に直面しなければならないわけではありません。時には単に悪口をあびせられる場合もあります。クリスチャン活動に携わり,家から家に福音を伝道する者すべては,いつかそのような経験をします。このような場合,クリスチャンの伝道者はどんな態度をとるべきですか。
13 この問題に答える最良の方法は,キリスト・イエスならどうされるだろうかと考えてみることです。イエスがどうされるかについてわたしたちが推測する必要はありません。ペテロの第一の手紙 2章23節にすでに答えが出ているからです。「(キリストは)ののしられても,ののしりかえさず,苦しめられても,おびやかすことをせず,正しいさばきをするかたに,いっさいをゆだねておられた」。ののしった者にののしり返していたなら,イエスは相手と同じ立場に自分を落とすことになり,また悪魔と同じく「そしる者」となったことでしょう。そして,「真理についてあかしをする」という自分の生まれた目的にそむく結果になったでしょう。彼の生まれた目的は反対する者を中傷することではありません。(ヨハネ 18:37)イエスは自分にあびせられる悪口のすべてが天の御父の許しによってもたらされていることを知っていましたから,エホバのみむねに全く従順に服し,この迫害に黙って耐えました。嘲笑や偽りの非難などを受ける場合には,パウロが示すように,柔和な答え方をすることもできるでしょう。「はずかしめられては祝福し,迫害されては耐え忍び,ののしられては優しい言葉をかけている」。(コリント第一 4:12,13)激した怒りのことばに対して出されるもの静かなことばには荒海をしずめる油のような力があります。「柔らかな舌は骨を砕く」。(箴言 25:15)確かに,反対して骨のように堅くなった心が,ものしずかな応答によってやわらげられることは少なくありません。―箴言 15:1。
14 (イ)何を理解していれば迫害に耐えるのに役だちますか。(ロ)使徒たちは迫害に対する正しい見方をどのように示しましたか。
14 長期間にわたってきびしい迫害に耐えるには,それがなぜ許されているかを理解していなければなりません。聖書を研究し,悪の由来を知っているなら,サタンが神に仕える者の信仰をことごとく打ち砕こうと躍起になっていることを知っているはずです。新秩序で神から永遠の命の祝福を受けるには,まずわたしたち自身がそれにふさわしいことを実証しなければなりません。わたしたちの忠実さ,また信仰の堅さは試みられねばならないのです。エホバは,この目的のために,サタンがわたしたちを迫害することを許すと言われました。そしてわたしたちが忠実に忍耐するなら,神の偉大な御名の立証となるのです。このことを知っているなら,使徒たちと同じように,迫害を喜ぶことさえできます。使徒行伝はこの少数のクリスチャンの信仰の試練に関する劇的な記録です。彼らは獄につながれましたが,神の使いによって奇跡的に救い出された時,直ちに大胆な伝道を再開しました。彼らは再びユダヤ人の最高法廷に引き出されました。復活したイエスについて伝道することをやめよと命じられた時,彼らは大胆に答えました。「人間に従うよりは,神に従うべきである」。(使行 5:29)この時,使徒たちはむち打たれ,伝道の中止を命じられました。これによって使徒たちはついに沈黙しましたか。しだいに強まる迫害のために使徒たちはひるみ,姿を消しましたか。使徒行伝 5章41,42の答えをお読みください。「使徒たちは,御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら,議会から出てきた。そして,毎日,宮や家で,イエスがキリストであることを,引きつづき教えたり宣べ伝えたりした」。彼らはエホバに対する自分たちの燃えるような愛を実証する機会が与えられたことを神に感謝したのです。これこそ迫害に対する正しい見方です。
15 わたしたちを迫害する人にどんな態度をとるべきですか。例をあげなさい。
15 しかし,わたしたちに迫害を加える人々に対してはどんな態度をとったらよいですか。イエスは簡明な答えを与えられました。「敵を愛し,迫害する者のために祈れ」。(マタイ 5:44)このことは人間的に可能ですか。ドイツにいたわたしたちの兄弟は,ナチスの迫害者に愛をいだくことができましたか。ナチスの迫害者は鋼鉄のむちで意識がなくなるほどに彼らを打ち,年配者に苦役を課し,倒れるほどの重荷を背負わせたのです。また彼らにほとんど食物を与えず,衰弱した人の中にはねずみにかまれても抵抗できずに死んでゆく者も少なくありませんでした。兄弟たちは自分にこのような非人間的な行為をした者をも愛することができましたか。それはどのような愛を問題にしているかによります。兄弟たちが彼らに対してギリシャ語「フィリア」で表わされるような兄弟の親愛の情を感じなかったことは明らかです。しかし,ギリシャ人に「アガペー」として知られた,利己心のない,原則に基づく愛についてはどうですか。兄弟たちはこのような愛をいだき,また実際に示しました。自分を迫害する者たちに伝道しつづけ,その者たちと接する際にクリスチャンの原則を示すことによって,兄弟たちは迫害者にアガペー愛を表わしました。結果として,かつては迫害者でありながら,転じてエホバの証人となった者もいます。
16 どんな見方をすれば迫害する人間に愛を示せますか。
16 しかし迫害者の中には無知のためにクリスチャンの虐待をつづける者がいます。光の天使に擬装したサタンのために神のことばの真理に盲目にされている者も多くいます。(コリント第二 4:4; 11:14)迫害のみなもと,つまり神のしもべを迫害する者のかしらがサタンであり,人間は単にその道具となっているにすぎないことを理解するなら,わたしたちは人間の迫害者に対して愛のある態度を取ることができます。ステパノはこのような態度で物事を見,まさに死なんとする時にも,「〔エホバ〕よ,どうぞ,この罪を彼らに負わせないで下さい」と叫びました。―使行 7:60,〔新世訳〕。
17 迫害から生まれる二つの良い結果をあげなさい。
17 それで迫害はいつでも嫌悪すべきものではありません。わたしたちが忠実に耐えるなら,良い結果が生まれる場合も多いのです。まず,迫害の理由を知り,またエホバがなぜそれを許しておられるかを理解しているなら,迫害はわたしたちひとりびとりを強くします。信仰のゆえに迫害にあい,エホバの聖霊の助けを得てそれを耐えぬく人には,ことばに言いつくせない喜びがあります。その人は忠実を実証する機会と忍耐する力とを与えられたことについてエホバに感謝します。そして前以上にエホバに引き寄せられます。第二に,反対されながらも忠実であるなら,仲間の信者の励みになります。パウロがひとやにつながれながらも忠実に忍耐し,そのような条件下でも大胆に伝道を続けたことは,ローマの大ぜいのクリスチャンを大いに強くしました。「わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが,兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり,そして兄弟たちのうち多くの者は,わたしの入獄によって主にある確信を得,恐れることなく,ますます勇敢に,神の言を語るようになった」― ピリピ 1:13,14。
18 迫害に忠実に耐えるなら,ほかにどんな良いことがありますか。
18 迫害を忠実に忍耐することの第三のすぐれた結果は,それによってエホバのお名前がたたえられることです。「もしだれかが,不当な苦しみを受けても,神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら,それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ,それを忍んだとしても,なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである」。(ペテロ第一 2:19,20)わたしたちが賢明に,そして正しく行動するなら,いつでもエホバを喜ばすことができます。「わが子よ,知恵を得て,わたしの心を喜ばせよ,そうすればわたしをそしる者に答えることができる」。(箴言 27:11)アダムの堕落の時以来,サタンはエホバをそしってきました。わたしたちがもし迫害に屈するなら,神をそしる論拠をさらにサタンに与えることになります。しかし,神のことばと神の聖霊とから力を得,あらゆる反対に面して確固とした信仰を守るなら,わたしたち自身がそしる者に対するエホバの答えとなります。そしてサタンはむなしく引きさがらねばなりません。わたしたちの願いはエホバを喜ばすことではありませんか。それではわたしたちは喜んで,そうです,心から喜んで,比類のない神のお名前のゆえの恥を受けようではありませんか。
19 エホバに仕えるがゆえに迫害されるとき,なぜ恥じる必要はありませんか。
19 迫害をこのように見るなら,わたしたちが自分を恥ずかしく思うことはありません。キリストの名のゆえに「すべての人に憎まれ」,「この世のちりのように,人間のくずのようにされ」ても,あわてたり,心配したりする必要はありません。(マタイ 10:22。コリント第一 4:13)パウロはそのように考え,テモテにこう語っています。「だから,あなたは,わたしたちの主のあかしをすることや,わたしが主の囚人であることを,決して恥ずかしく思ってはならない。……そのためにまた,わたしはこのような苦しみを受けているが,それを恥としない」。(テモテ第二 1:8,12)ペテロもこれと同じように考えました。「しかし,クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば,恥じることはない。かえって,この名によって神をあがめなさい」。(ペテロ第一 4:16)自分の信仰が正しいこと,また自分が神のみこころを行なっていることを確信しているなら,どんな恥ずべきしうち,悪口,迫害などを受けねばならない場合でも,それによって落胆し,あるいはエホバへの奉仕をやめることはありません。現代のポルトガルのエホバの証人の場合はまさにそうでした。最近,ある会衆では成員全体が逮捕され,裁判にかけられ,不当にも罪とされました。しかしこれによって,この国のエホバの証人が神への奉仕をやめたわけではありません。
20 たとえひとりでも迫害に耐えられることは,どうして確信できますか。
20 エホバの力を確信しているなら,たとえひとりになっても迫害に負けることはありません。忠実の人ヨブは,助けたり慰めたりしてくれる人がだれもいなくても,そうした試練に耐えました。そしてエホバはやさしく彼をささえられました。「あなたがたは,ヨブの忍耐のことを聞いている。また,〔エホバ〕が彼になさったことの結末を見て,〔エホバ〕がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが,わかるはずである」。(ヤコブ 5:11,〔新世訳〕)パウロもローマにおいてはそのような孤立の経験をしましたが,終わりまでそれを忍びぬきました。「わたしの第一回の弁明の際には,わたしに味方をする者はひとりもなく,みなわたしを捨てて行った。どうか,彼らが,そのために責められることがないように。しかし,わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて,すべての異邦人に聞かせるように,主はわたしを助け,力づけて下さった。そして,わたしは,ししの口から救い出されたのである。主はわたしを,すべての悪のわざから助け出し,天にある御国に救い入れて下さるであろう」。(テモテ第二 4:16-18)現代の例をあげるなら,共産主義中国の独房でそれぞれ7年と5年を過ごしたスタンレー・ジョーンズとハロルド・キングの確固とした信仰の模範があります。確かにエホバは,ご自分に全幅の信頼をおく者を見捨てません。「〔エホバ〕はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は,わたしに何ができようか」― ヘブル 13:6,〔新世訳〕。
21 前途に迫害があっても,なぜ確信をもって将来を見ることができますか。
21 エホバの確かなお約束に心をとめ,迫害下で忠実をつくした兄弟たちの模範を忘れないなら,サタンの燃える怒り,死の苦闘のすべてがわたしたちに臨もうとも,わたしたちがそれを恐れる必要はありません。エホバはわたしたちが試練に会うことを許しておられます。それはわたしたちが自分の信仰を実証するためであり,また神の偉大なお名前を立証するためです。また,「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか,試練と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである」。(コリント第一 10:13)それゆえ,わたしたちは信仰と確信に満ちて将来を見,「悪しき者の放つ火の矢を消」し得ることを確信しています。(エペソ 6:16)そして最後には喜んでこう叫ぶことができるでしょう。「しかし感謝すべきことには,神はわたしたちの主イエス・キリストによって,わたしたちに勝利を賜わったのである」― コリント第一 15:57。
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永遠の命をのぞみ見て奉仕するものみの塔 1967 | 2月1日
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永遠の命をのぞみ見て奉仕する
「あなたがたは耐え忍ぶことによって,自分の魂をかち取るであろう」― ルカ 21:19
1 正常な人間なら命についてどう感じますか。
正常な人間で死を望む者はいません。年齢,貧富,また健康であると病気であるとにかかわらず,生きようとする本能はきわめて強固です。このことは生活が楽で快適な環境に恵まれた富裕な国について言えるだけでなく,開発が遅れ,苦しく不安定な生活をしいられることの多い国についても言えます。生きること
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