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エホバはその僕に良きものを拒み給うことなしものみの塔 1963 | 9月15日
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と共にここに任命され,貧しい漁夫や,トウイード織りを作る人々に伝道することの期待に胸をおどらせました。
開拓奉仕の最初の7ヵ月の経験は,金銭にかえ難い貴重なものでした。神は「直く歩むものに善物をこばみたまふことなし」という事を,実地に経験したのです。(詩 84:11)エホバが次に与えて下さった良いものは,更に多くの開拓奉仕でした。
西方の島々とスカイ島における伝道の報告を検討した協会は,オークニイおよびシエトランド両島で伝道をつづけるように私たちを励ましました。これらの島々で働くことは大きな喜びとなりました。エホバから授けられる良いものに欠けることはありません。反対にもあいましたが,それによって「御霊の剣」をいっそう巧みにふるうことを学びました。(エペソ 6:17)美しい野生の花の咲きみだれる中を毎日歩いて島中を伝道し,夜おそくまで外で過すこともよくありました。そこでは夕暮と夜明けが近いのです。
ものみの塔協会の出版した最初の年鑑を手にしたのは,ここにいた時です。それは愛のおくり物といえます。年鑑にのせられた日々の聖句と注解は大きな励みとなりました。そこでは会衆と交わることがなかったので,とくにそうでした。エホバから授けられるよいものに欠けることはなく,制度を通して与えられるものはエホバに対する熱心を燃え立たせました。世界各国からの報告は心をおどらせます。私はエストニアに行くようにすすめられていたので,エストニアの報告を何度も読みました。そこでは開拓者が必要です。バルト諸国ではドイツ語が使われるので,私はドイツ語を習うようにとの指示を受けました。島に来てから数ヵ月のちの1928年秋,エストニアに行くようにと命ぜられ,東ヨーロッパに向いました。
エストニア
長い旅をしてエストニアの大学町タルトウーに着くと,英国人の兄弟がいてドイツ婦人の経営する下宿を世話してくれました。間もなく新しい生活にもなれましたが,エストニア語とドイツ語を習うまでは,エストニア語,ドイツ語,ロシア語で証言を書いたカードを家の人に見せてから文書をすすめました。後にパアナウまたエストニアの首都で支部のあったタリンでも伝道しました。
1930年4月,私は支部の僕に任命され,その後10年間,兄弟たちと力を合わせて御国の真理を伝道し,教える喜びを得ました。御国の福音はラジオ放送によってエストニア全土,更に海を越えてフィンランド,スエーデン,ロシアにも伝えられました。しかしソ連政府とエストニアの宗教家の反対により,組織後わずか2年にして協会は解体の憂き目にあい,事務所は警察の手によって閉鎖され,文書も没収されました。しかしわざはつづけられ,エホバの祝福によってその年に大きな増加が記録されました。
1938年,「富」と題する本および「選択」と題する冊子が広く配布されました。それは残りの文書が押収される前でした。配布用に残ったエストニア語の文書は2種類の冊子だけになりましたがほん訳はつづけられ,スイス,ベルンの協会の印刷工場も印刷をつづけました。こうして戦争のため輸入が不可能になる直前に「敵」と題する本を入手できました。エストニアはソ連軍に占領され,大きな変化が起きました。明るい快活なエストニアの表情は変り,重苦しい恐怖の空気がみなぎり始めました。
神の導きの下で
タクンの英国領事は,英国の旅券を持つすべての人に対し,バルト諸国を離れるように要請しましたが,私は与えられた部署を離れる意志がなく,その旨を領事に伝えました。しかし英国人の引揚者がラトビアのリガを離れる10日ほど前の1940年10月18日,エストニアを離れて英語の使われている国に行くようにとの命令が協会の会長から届いたので,私はさっそく計画の変更を領事に知らせ,約200人の引揚者の一人となって,行先さえもわからないまま一行と共に避難しました。
別れを経験したことは何度もありますが,エストニアの兄弟たちとの別れほど感動的なものはありませんでした。何時,どのようにして神の国の福音がソ連に達するか,これはしばしば私の念頭に浮かんだ事柄です。しかしバルト諸国で私たちのした事が,将来ソ連に福音の伝わる基礎になるとは思いもよりませんでした。ソ連は当時でも今でも必要の大きなところです。いまソ連で,おそらくはシベリヤにおいても兄弟姉妹たちがエホバの御国の福音を効果的に伝道し,また教えているものと私は確信しています。
さてリガを出立した一行はソ連を通ってウラジオストックの港に着きました。11日かかった汽車の旅は大変でしたが,興味深いものでした。焼き払われた教会の建物,食料を待つ農民の行列などが途中で目につきました。中国の鉄道の待合室では,「創造」という本のさし絵で見たヒューバート・フオン・ハーコマーの「避難民」と題する絵とそっくりな光景を見ました。目に見るものだけではありません。換気の悪い部屋に大ぜいの人間が汚れたからだのままつめ込まれ,部屋は臭気でむせ返るようでした。遂に一行はウラジオストックからハイ・タン号に乗船し,オーストラリアに行くことを知らされました。沈む太陽と共にウラジオストックを水平線のかなたにした時,ようやく安堵の空気がみなぎりました。香港ではじめて東洋に接した時,その状態に驚きました。そして「御国のきたらんことを」と衷心より祈ったものです。(マタイ 6:10)1940年12月のはじめ,私は協会のオーストラリア支部に着き,兄弟たちに暖かく迎えられました。
ストラスフィールドに着いて間もなく,エホバは敵が証者の活動を禁止するのを許し,協会の資産は接収されました。それでもわざは半ば地下に潜ってつづけられました。私は謄写板で「ものみの塔」を刷って兄弟たちに配る仕事を手伝いました。こうして「ものみの塔」1号たりとも休刊せず,エホバはその僕に良いものを拒まないことが証明されました。禁令の最中に私はブリスベーンにあった協会の文書集配所で働き,禁令が解除されてからはメルボルンで同様な仕事をしました。1948年,ストラスフィールドのベテルに戻って以来,今日までそこで奉仕しています。
エホバへの奉仕に召されてより,霊的なものも物質的なものも良いものに欠けたことは一度もありません。多くの旅行をし,さまざまな経験をするうち,この世で成功する機会にも多くめぐり合いましたが,私の心の願いは何時もエホバにささげる全時間奉仕でした。「そは神エホバは日なり盾なり,エホバは恩とえいくわうとをあたへ 直くあゆむものに善物をこばみたまふことなし万軍のエホバよなんぢに依頼むものはさいはひなり」。―詩 84:11,12。
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占いによる水脈さがしものみの塔 1963 | 9月15日
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占いによる水脈さがし
1962年11月15日号ザ・ワッチタワー誌に出た記事,「悪霊から自分を守る」(「ものみの塔」は1963年2月15日号)を読んで,アメリカ・ダウサー協会の会長はこの記事の結論すなわちクリスチャンはそれが超感覚の知覚すなわち霊媒術と結びつきを持つゆえに,占いによる水脈または鉱脈さがしを避けるのがよいという言葉に反対しており,そのことを手紙で書き送ってきました。しかしアメリカ・ダウサー協会の会長は,占いによる水脈また鉱脈さがしの仕組について,ダウサー協会の見解を明らかにしています。その手紙は次のことを述べていました。「この記事の言おうとしている事は正しいかも知れない。占いによる水脈さがしがESPの一種であり,ESPに携わる人は,注意しないと悪鬼につかれることがあるという論には同意できる。……占いによる水脈さがしに興味を持つ人に対しては,我々はその危険を積極的に警告することにしている」。
アメリカ・ダウサー協会は,防護手段をとることによって悪鬼につかれるのを防ぐことができると考え,またESPに大きな効用を認めています。しかしクリスチャンが留意すべきことは,どんな形のものでも占いや霊媒術は,その本質のゆえに神から禁ぜられているという事実です。ESPの背後にいるのは聖なる天使ではなく,人間を惑わそうとしている悪鬼なのです。あらゆる種類のESPを避けることは,聖書から見て正しい防禦法であるばかりか,神に従順を示すことです。―黙示 21:8。
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