ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • エホバの組織に対する忠実
    ものみの塔 1964 | 8月15日
    • た。聖書の手引をいっぱいつめたカバンをもって戸別訪問をし,証言を書いたカードを用いておとずれを伝え,それから聖書の手引書をすすめました。

      こうして毎月伝道しているうちに私が町中の,そして特に同僚の教師たちの間で評判になっているのに気づきました。再び危機が訪れました。こんどは教師としての職があやうくなったのです。私は教育長の事務所に呼ばれ,週末の伝道をつづけるなら教壇に立つことを許すわけにはいかない,と言われました。自分の好む方法で宗教を実践する権利は,公立学校の教師をも含めてすべての人がもつことを説明しましたが,そのかいもなく,辞職を勧告されました。私は辞職する積りのないことを教育長に告げました。教育長は自分の思うとおりにして,エホバ神のみまえにその責任をとればよいのです。

      協会の助言に従って祝福を受ける

      私は当時の会長であったルサフォード兄弟に手紙を書き,私の身に起こっていることを告げました。会長はきわめて親切な返事を送って,もし教師をやめさせられたなら開拓奉仕を始めてはどうかと助言してくれました。私はそのとおりにしました。それからというものは,公然と行なえるときも,地下に潜らねばならぬときも,伝道と教えるわざを行なう全時間奉仕を心から楽しみました。宣教は,教師の仕事や,他のどの仕事よりも楽しく,満足のいくものでした。

      1934年10月1日,水によるバプテスマを受けてエホバ神への献身を表わしてのち,私はもうひとりの開拓者と共に,ルソン島中央部のタガログ人の地域で伝道するように任命されました。開拓の仕事は,現在と同じ方法で行なわれてはいませんでしたが,その喜びと楽しさは現在におとらぬものがあり,今日よりも強い信仰を必要としました。

      当時はどの地域も処女地で,行く先き先きの地域で伝道するにはいろいろな新しい方言を学ばねばなりませんでした。新しい町に着くと,まず最初に枕する所をさがしました。すぐ見つからないときは,公会堂や刑務所の空いた監房にさえ泊まらせてもらいました。そして戸別伝道のときに気をつけて貸間をさがし,見つかったらそこに移るようにしました。

      私たちはたいてい,最初に官庁や学校の中,そして町を伝道し,それからできるだけいなかのほうに足をのばしました。カバンに本をぎっしりとつめ,余分の本の束を脇の下にかかえ,その本を配布しつくすまで,川を渡り,山を越え,途上で手にはいるものを食べ,日が暮れた所で泊るという旅をつづけました。泊めてもらったなら必ず,エホバ神と御国のことを話し,家の人の親切に報いました。夜ふけまで話し込むこともたびたびありました。翌朝出発する時,家の人が持っていない小冊子を数冊贈り物として置きました。

      いなかでは物々交換の方法をよく用いました。米,卵,ニワトリ,砂糖,その他の食品と聖書の手引とを交換するのです。マタイ伝 6章33節の「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう」というイエスの言葉が文字通り事実となるのを経験しました。

      1936年2月,私はマニラ支部に呼ばれ,ベテルで奉仕することになりました。その後再び以前開拓奉仕をしたときのパートナーと共に,ビサヤ諸島とミンダナオ島に派遣されました。それらの島での伝道活動を推進するためです。私たちはフイリピン第2の都市セブ市に向けて出発しました。そしてセブ市を中心に八方に伝道活動を展開しました。

      好意をもつ人々が真理を受け入れ,エホバに献身して私たちと一緒に伝道するようになってから,グループは大きくなるばかりでした。そのためグループを分ける必要が生じました。忠実な私のパートナーは,一つのグループを東に導いてボホル,レイテ,マスバテなどの島々を伝道し,私はもう一つのグループを西に導いてネグロス,パナイ,ミンダナオの島々で伝道しました。

      至るところで,カトリックの司祭や,あらゆる宗派の宣教師が私たちの伝道に必死の反対を試みました。彼らは説教壇から,また出版物をとおして私たちを攻撃しました。しかしエホバとその御国を愛する人々はいつもあらわれ,私たちに対するこの激しい反対の直接の結果として,エホバとその御国を愛するようになった人も少なくありません。

      日本軍占領下の地下運動

      1939年の初頭私はマニラに呼び戻されました。フイリピン最初の大会が,マニラ・グランド・オペラ・ハウスで開かれました。大会は,「政治と平和」という題のルサフオード兄弟の録音演説で最高潮に達しました。当時伝道者は300人いましたが,そのほとんどが,マニラ市の繁華街で,この講演の宣伝をするのに参加しました。感嘆,驚き,あざけり,憎しみなど,傍観者たちのさまざまな反応をみるのは興味深いものがありました。ある人は,「エホバの証者がこんなにたくさんいるとは知らなかった。まるでいなごほどいるじゃないか」と言っていました。

      1940年,私は6人の開拓者と共に北方に派遣されました。それはイロコス地方とカガヤン川流域で伝道活動を開始するためでした。一度など伝道したために1ヵ月以上も刑務所に入れられたことがありました。しかし釈放されてからまたもとの所に戻り,カガヤン川流域地方の伝道をつづけました。

      1941年の始め,私はまたマニラに呼び戻されました。その時は南方のビサヤ諸島やミンダナオ島のグループと一緒に奉仕するよう任命されました。その年の11月の終りまでには,任務を果たし終え,12月8日にはマニラ行きの船に乗る予定になっていました。

      しかしその時は遅すぎました。ダバオ市のトイルで開拓者のグループに奉仕し終わると同時に日本の空海軍がいっせいに電撃的攻撃を開始したからです。

      私たちは持てるだけの書籍を持って,日本軍を背後にしながら山に逃げました。しかし彼らは時々先に回って要所を押えたので,私たちは遠回りをして,夜の間にヒルのいっぱいいるジャングルの中や道のない山腹を歩かねばなりませんでした。そしてまだ占領されていない地域にひとりで行ったり,グループで行ったりして伝道をつづけました。

      私たちは可能な限り神のことばを研究し,神の導きと力と保護を絶えず祈りました。また,伝道できる機会が来るのを腕を組んで待つのでなく,慰めと命の言葉を他の人に知らせる機会をこちらからつくり出しました。本のたくわえが少なくなったときには,関心のある人々に小冊子を貸し,その人を再び訪問して家庭聖書研究を開くようにしました。そうしているうちに私たちはビサヤン族半数,イロカノ族半数という200人ばかりの移動会衆になりました。私たちが彼らの方言を話せたのは大きなプラスでした。

      いく度となく,日本軍とゲリラ部隊の十字砲火の中に巻き込まれたにもかかわらず,私たちのすばらしい神エホバが私たちを保護して下さったので,マラリアとかほとんど4年にわたるなまなましい経験からの疲れ以外の理由で死んだ者はひとりもいませんでした。

      またこのことも考えてみれば不思議でした。つまり,私たちがある所に野営して,そこを中心に近接の地域をくまなく伝道してしまわない限り,次の場所に移るのに成功しなかったことです。ところが反対に,一箇所に落ち着いて,もう少しそこにいたいと思っても,近接の地域の伝道が終わったならば必ず何事かが起きて,どうしても移動しなければならない気持ちにさせられました。エホバの手が私たちを導いていたのでしょうか。私たちはそれに少しの疑いも持ちませんでした。

      事態が険悪になるにつれ,フィリピンの他の場所にいる兄弟たちからの通信も絶え,私たちはミンダナオ島のジャングルの処女地の奥へ奥へと追い込まれました。日本人は,死んだ首であろうと生きた首であろうと,私の首に賞金をかけていました。

      それからさらに2年間,伝道する時以外は外部の世界との接触もなく,孤立した社会としてジャングルの中で生活しなければなりませんでした。私たちは森林を開拓し,米,とうもろこし,さつまいもなどが収穫できるまで,草木の根や野生の果物,野生のぶたや猿の肉を食べて生きてきました。毎日異なった家族がグループになってその日の聖句を討議しました。それはたいてい,日本人や土地のゲリラ隊が不意の襲撃をすることの少ない夜に行なわれました。私たちがどっちの側にもつかないので,両者とも非常に憤慨していました。1週間に1回,セブ・ビサヤン語とイロカノ語で会衆の聖書研究を行ないました。

      文書のほとんどがなくなるかぼろぼろになってしまった時がきました。聖書も残り数冊になってきました。その時伝道はどのように行なわれたでしょうか。私たちは兄弟たちを六つから八つのグループに分けました。それらのグループの半分は,この共同体の物質の食物を得るために1週間働き,他の半分は,伝道に出かけました。次の週にはそれが逆になるわけです。各グループには,御国について1時間の証言ができる円熟した兄弟がひとりかふたりいました。また,その話の概略を5分間で話せるように訓練された子供がひとりかふたりどのグループにもいました。各グループは1冊の聖書をもっていました。グループが1軒の家または小屋にくると,そのうちのひとりが挨拶をし,訪問の目的を述べ話し手と話の主題を紹介します。1時間の打ち解けた話ののち司会者はその話の概略を述べることを提案し,子供の奉仕者がそれを行ないました。概説が終わると司会者は家の人に質問をすすめます。もし彼らに質問がないか,恥ずかしがって質問をしない場合は,グループのなかの者が,前もって準備した,家の人のためになる質問をします。そしてグループのほかの者がその質問に答えます。このようにして全部の者が証言に参加しました。

      この秘密の伝道活動が終る頃私たちのジャングルの隠れ家は襲撃され,私はその時,日本人のパトロールにつかまりました。そしてまるで強悪犯人かなにかのようにジャングルの中をひったてられて町にある日本軍の司令部まで連れてこられました。ありがたいことに私は小さなポケット用の聖書を持っていました。持ってくることができたのはただそれだけでした。キャンプでは私は,通訳をとおして日本人の指揮官から手きびしい尋問を受けました。私は,エホバの証者の中立について,また,神に献身した僕として私たちがエホバの天の御国政府に忠誠をつくさねばならないことについて聖書から説明しました。尋問は何時間にもわたり夜ふけにまでおよびましたが,驚いたことに私は釈放されました。そこでさっそくジャングルの家にいる愛する兄弟たちのもとに帰りました。ジャングルの家では熱烈な祈りと悲しみが,喜びの叫びと,いつくしみに満ちたエホバのすばらしいみわざに対する感謝の涙に変りました。

      戦後の活動

      1945年,アメリカの解放軍がきて,兄弟たちはそれぞれ自分の町に帰りました。彼らは行く先き先きで,戦争中にエホバの民と習いおぼえた生活様式を実行しました。日本軍の占領が終わってのち,エホバの証者の会衆が雨後のたけのこのように方々に出現したのはそのためです。戦前は373名しかいなかったエホバの証者が,戦争の終った時には2000名以上に増加していたのです。

      私は,他の兄弟たちと連絡をとり,マニラの支部に報告するため,後髪を引かれる思いで愛するルソン島の兄弟たちと別れ,1945年の暮れにマニラに着きました。1946年には地域のしもべとして奉仕しました。1947年には,協会のノア会長と秘書のM・G・ヘンシェル兄弟がフィリピンを訪問しました。この記念すべき訪問は,フィリピンにおける御国活動にとって画期的な事件となりました。というのは,その後間もなくギレアデ学校で訓練を受けた宣教者が派遣されたからです。これがきっかけとなって伝道者は急激に増加し,1963年12月には3万3737名という数をみるに至りました。

      1949年,私はほかの二人の兄弟と共にギレアデ学校に招待され,1950年にニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれた神権政治発展大会で卒業しました。私はその時またフィリピンで奉仕するよう任命されました。翌年,協会と他の兄弟たちの愛ある援助により,ロンドンとパリで開かれた清い崇拝大会に出席することができました。1955年には,ロサンゼルス,ニューヨーク,ロンドン,パリ,ニュールンベルグ,ベルリン,ハーグで行なわれた勝利の御国大会に出席し,帰途,マドリッド,ローマ,ベイルート,バンコック,香港などの兄弟たちを訪問するというまたとない特権に恵まれました。

      1956年には再びノア兄弟の訪問を受け,1957年には協会の副会長フランズ兄弟の訪問を受けました。ついで1958年には,ニューヨーク市のヤンキー野球場とポログランドで開かれた神のみこころ国際大会に,フィリピン代表81人のひとりとして出席しました。また1963年に,マニラ市がエホバの証者の世界一周大会の一環として奉仕したのも大きな喜びでした。そしてその大会の公開講演には,期待をはるかに越えて3万7806人が出席しました。それ以後も私は,エホバのいつくしみにより,ケソン市の支部で数々の奉仕の宝を楽しんでいます。

      たしかにエホバの組織内の生活は他のどんな生活とも比較にならぬほど充実しています。私が受けてきた多くの祝福もみな私たちのすばらしい神エホバとその忠実な組織のおかげです。エホバこそ私たちが心からの愛と忠誠を帰するにふさわしいかたです。

      もしもう一度若い時にかえれるなら,私はやはり31年まえと同じ決意をするでしょう。しかもその時よりいっそう堅い決意をもって,エホバの組織と共にエホバに全時間の奉仕を忠実に行なうことを心に誓うでしょう。

  • お金で買えない真理
    ものみの塔 1964 | 8月15日
    • お金で買えない真理

      ◆ イスラエルの一ユダヤ人がエホバの証者の仕事に興味を持ちました。その結果,次のような経験がありました。「ある日,だれかが私の家の戸をたたきました。はいってきたのは,(ユダヤ教の)律法博士団の使いで,博士団はあなたが宗教を変えたことを聞いた,と言いました。話によると博士団委員会は会合を開いて私の問題を取り上げ,私がユダヤ教に戻ることを条件に,経済面の援助を申し出ているとのことでした。私が経済的な理由で他の宗教に転向したと,考えているためです。世の中には金銭で売買できぬものがいろいろあり,神のことば,すなわち聖書の真理はその一つですと私は使いの者に答えました。私がエホバの証者の助けによって得たのはこの真理です。律法博士団の代表はたずねました『エホバとはだれのことですか』。『ユダヤ人でエホバの名を知らないとは恥ですよ』と私は答え,聖書を開いていくつか聖句を見せました。聖句の意味することがらを認めるかどうかたずねると,使いは,あきらかに当惑したおももちで,『久しく聖書を開かなかったから,すぐには答えられない』と言いました。『神の名も知らず,文字になった神の言葉である聖書も知らないなら,一体だれに,また,なぜ会堂で祈りをしているのですか』と私が言うと,彼はなにも答えず,しばらくして言いました。『ほんとうのことを言うと,私はなにも信じていません。私はただ昔からのしきたりを続けているだけです。おもなことは律法博士団の仕事をして,手当を受けるだけです』。私は彼にいくらか証言したのち,文書を渡し,申し出には感謝するけれども,私は生きた神エホバをよりどころとしているから,その種の助けは必要ないと告げました」。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする