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  • 人に勇気を与えるものは何ですか
    ものみの塔 1980 | 11月15日
    • ありました。しかし,エホバの証人はひるみません。ノアと同様,『神と共に歩み』,間もなくエホバがご自分の約束された事柄を実行し,この不敬虔な世を終わらせ,その一方で義を愛する人たちを生き長らえさせてくださる,との確信を抱いています。(ペテロ第二 3:5-13)また,祈りによるエホバとの緊密な個人的関係が,真のクリスチャンの勇気を強めます。その上彼らは,神が許されるのでなければ,自分たちの身の上には何ごとも起きないということを悟っています。―ローマ 8:28と比較してください。

      『エホバはその民を見捨てることをされない』ことを知ると本当に慰められます。(詩 94:14,新)微力な人間には,神の目的を阻むことも,神が愛される人々を撲滅することもできません。エホバの約束に対する確信,エホバに対する全き信頼,至高者との緊密な個人的関係を維持すること,これらは敬虔な人々に勇気を与える基本的な要素です。そして,極度の苦難と迫害の時期にあって,彼らを元気づけるものとなるのはその勇気なのです。このことは次の経験からも明らかです。

  • 私は“死の行進”を生き残った
    ものみの塔 1980 | 11月15日
    • 私は“死の行進”を生き残った

      ルイ・ピエコタの語った経験

      私の両親は1922年に,他の大勢のポーランド人坑夫と共に北フランスにやって来ました。これら移民たちの大半がそうであったように,両親も敬虔なカトリック教徒でした。しかし,私が11歳くらいになった時,父と母はカトリック教会から脱退し,エホバの証人つまりズロティ・ビィーク(「黄金時代信奉者」)になりました。ポーランド人のカトリック教徒は,エホバの証人を軽べつしてそう呼んでいました。それは1928年のことでした。ですから,私は若いころから,聖書に述べられている「良いたより」を他の人々に伝える喜びにあずかってきました。

      第二次世界大戦のぼっ発する少し前,私は開拓奉仕,つまり全時間の伝道奉仕を初めて経験しました。私と仲間たち全部で5人 ― いずれもポーランド生まれ ― はノルマンディー沿岸の小さな町々や村々で王国の音信を広めました。当時,私たちは蓄音機とフランス語の聖書講演のレコードを用いていました。

      1939年に戦争がぼっ発してからは,戦争熱が高まってゆき,アルケス・ラ・バターユ村の敵対的な人々は私たちのことを警察に通報しました。村人たちは蓄音機をカメラだと思ったのです。私たちには外国人なまりがあったので,警察は私たちをドイツのスパイと見て逮捕し,近くの港町ディーッペで私たちを拘置しました。24日間留置された後,互いに手錠につながれたまま通りを行進させられ,裁判所へ連れて行かれました。敵意に満ちた群衆は私たちを海へ投げ込もうとしていたのです。しかし,判事はすぐに私たちが無実であることを認め,私たちを放免しました。

      禁令下で

      1939年10月にエホバの証人の業が禁令下に置かれた直後,私は再び逮捕され,懲役6か月の判決を受けました。神の王国を宣べ伝えたのが非合法だという理由で告発されたのです。当初,ベテュン刑務所の独房にしばらくいましたが,読むものは何一つ与えられませんでした。数週間後,発狂するのではないかと思った矢先,刑務所の看守が私に聖書を持って来てくれました。私は心からエホバに感謝しました。そして,幾百もの節を暗記し,章全体を暗記してしまった箇所も幾つかありました。これらの聖句はその後の日々の間私を力付ける助けとなりました。事実,今でも,ベテュン刑務所で暗記した聖句を空で引用できます。

      1940年2月に,ベテュンから南フランスにあるル・ウェルネ収容所に移されました。フランス政府当局は,そこに“危険な”外国人とされる人々を収容していました。

      1941年の春にドイツの一委員会の人々が収容所にやって来て,私を呼び出しました。そして北フランスの占領地区にあった郷里に私を送り帰し,そこで石炭坑夫として働くように取り決めました。当然のことですが,私はこの新たな自由を利用して神の王国の良いたよりを宣べ伝えました。しかし,新しくエホバの証人になった人が逮捕され,その女性は無分別にもフランスの警察に私が聖書文書を供給したことを話してしまったので,再び逮捕され懲役40日の判決を受けてベテュン刑務所に収容されました。

      釈放されると,再び証言を始めました。小さな鉱山町カロンヌ-リカールで証言をしていた際に私は4度目のこととして逮捕され,ベテュン刑務所へ戻されました。そこへドイツ人が私を逮捕しにやって来ました。炭坑でナチの戦争遂行を支持するために時間外や日曜日に働くことを拒否したからです。

      ベルギー,オランダ,そしてドイツでの収容生活

      ドイツ当局者は私をリールの近くにあるルース刑務所に移し,数週間後にはベルギーのブリュッセルにあるサン-ジル刑務所に移しました。

      その後,ベルギーのリエージュの近くにあるユイ要塞に収容され,そして最後にオランダのスヘルトヘンボスつまりヴュ強制収容所に送られました。そこで私は番号 ― 7045 ― で呼ばれる者となり,私がビーベルフォルシェルつまりエホバの証人であることを示す紫色の三角形の付いた囚人服を与えられました。そして17-A棟に割り当てられました。

      素足にオランダの木ぐつをはいて行進することに慣れるのは大変な苦労でした。水ぶくれが破れて足の皮がむけてしまいました。ちょっとでもつまずこうものなら,親衛隊の隊員に足首をけ飛ばされる恐れがありました。やがて足の皮も厚くなり,他の人たちと同じほどの速さで行進ができるようになりました。

      その収容所にはほかにも15人のエホバの証人がいました。私たちは自分たちの信仰を否認する書類に署名さえすればすぐに釈放してやるとの勧めを受けました。しかしだれ一人として屈服しませんでした。

      オランダにあったその強制収容所から,私は最後にドイツに移されました。家畜のように集められて小さな貨車に80人ずつ入れられ,私たちは三日三晩食べ物も水もなく身を休める手段も全くなしに立ち続けることを余儀なくされました。列車はようやく,ベルリンの北30㌔ほどの所にあるオランニエンブルクに到着しました。それからハインケル航空機工場まで10㌔の道のりを急ぎ足で行進させられ,遅れようものなら親衛隊の犬が私たちのかかとにかみ付きました。私たちエホバの証人

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