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エホバへの奉仕における満足ものみの塔 1963 | 2月15日
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「現在の世界秩序を破壊して,神の御国を設立することだけが,唯一の解決策」であることを認めましたが,聖書が霊感によって書かれた神の御言葉と信じていなかったので,それを信ずることができませんでした。しかし彼は私にこう言いました,「もし使徒パウロがいま地上にいたなら,あなたがたと同じ線に沿って,また同じ方法で伝道していることでしょう」。そしてまた「映画 ― 劇」を上映することを許可してくれました。
そこで私たちは,町の真中にあるクレベプラックのオベッアルを使い,ストラスブールで2回上映しました。それには3000人が出席しました。好意のある人々は,教授連に感化されたカトリックの学生の一団が,聖書の話を妨害するために,最後の晩に攻撃をしかける計画を進めているということを私たちに告げてくれました。私たちもそれに対して備えをしました。平和を乱す者たちは,攻撃を開始するや数分のうちに会場の外につまみ出されてしまいました。50人ばかりの学生たちは,力づくで会場にはいろうとしましたが,警官が私たちの援助にかけつけて,首謀者を逮捕しました。広場の真中にいた群衆はカトリックの歌を歌いはじめましたが,私たちは無事映画を終えることができました。
仕事が発展していったので,ものみの塔協会は,アルサス ― ローレン地方向けの事務所と書籍の置場とをストラスブール市に設置する必要があると考えました。そしてこの奉仕は私に委ねられました。私は,全部の物を収容できる小さな2階建の家に家族と一緒に住み,世俗の仕事をつづけ,また会衆の僕として奉仕をつづけました。夜は事務をとり,週末には諸会衆を訪問して神のわざを押し進める援助をしました。この活動は大きな心の喜びと満足を私に与えてくれました。この特権を与えられたことをエホバに感謝しました。
スイスとパリでは,しばしば協会の会長を迎えて,毎年大会が開かれ,私たちはその大会からいつも特別の力づけと励ましを得ました。「エホバの証者」という私たちの新しい名前は大きな喜びをもって受け入れられ,私たちの立場は,神と人の前にますます強いものとされました。しかし1939年,第二次世界大戦のぼっ発によって私たちの平和な活動は野蛮な妨害を受けました。ストラスブールおよび,ライン川に沿った国境地方の住民は,政府の命令で,ドドーン地方に疎開させられました。さいわいに私はそこで家族のために家具付きのアパートを見つけることができました。
妨害にもかかわらず喜びは増加
2週間後,ベルンの事務所から,パリに行って支部の僕ネクト兄弟を援助するようにという指示を受けました。彼は重い病気にかかっていたのです。私は家族をドドーンに残してパリに行きました。しばらくして,つまり10月に,私たちの伝道活動はフランス政府によって禁止され,協会の財産は押収されました。それから14日後ネクト兄弟は死亡し,中央ヨーロッパの事務所のマネージャー,ハーベック兄弟は,この奉仕を私に委ねました。私たちは政府が禁止を解くように努力しましたが,私たちの嘆願書はすべて却下されました。そこで私たちは,新事態に即応して仕事を再組織し,少しもためらうことなくそれを押し進めていきました。
ドイツ軍の進攻によって,パリおよび北部フランスの住民は恐怖のとりことなり,多くの者は南部や西部へ逃げてゆきました。私はパリで同じ会社に再就職し,また世俗の仕事をはじめました。ところが雇主は,すべての従業員を連れてドドーンに戻れ,という政府の指示を受けました。しかしドドーンに着いた時は,すでにナチが占領していたので,すべてがご破算になってしまいました。フランスとドイツが休戦協定を結んだあと,人々は自分の家に帰りはじめ,私も家族を連れてパリに帰りました。
フランスは分割されました。そしてドイツ軍による,紙,タイプライター,印刷機の検閲や統制などで,私たちの仕事はひどく妨害されました。しかしこうしたことにもかかわらず私たちは,本や冊子を印刷し,また必要な霊的食物を定期的に受けました。熱心に,また大胆に神への奉仕を行なった私たちは,満ち足りた心をもって,諸会衆の成長とわざの拡大とを見ることができました。便利な場所では,兄弟たちのための大きな大会を組織し,すべての者がそれから喜びと励ましを受けました。フランスの警察は私たちに好意的でしたから,私たちのうちで,ゲシュタポに逮捕された者はわずかしかいませんでした。
激烈な戦争が再びフランス全土をのみつくし,爆撃によって大きな破壊が行なわれました。わざはやはり禁止されていましたが,いまはもっと自由に,もっと効果的に活動できるようになりました。私は全時間を神の御国の事柄にささげることができるように,それまでもっていた世俗の仕事を放棄しました。
戦争が終わると直ちに私は,もう2人の兄弟に援助されて,禁止を解除してもらうための必要な手続を取りました。そして1947年8月31日,ものみの塔協会と私たちのクリスチャン活動は,政府によって再び法的に認められるところとなりました。私たちはまた,押収された財産を,裁判所の命令で返却させることにも成功しました。それから,協会長の指示に従いパリで家を一軒購入し,それが事務所とベテルの家になりました。
エホバは私たちの忍耐に対し,ゆたかに報いてくださいました。戦争がはじまった頃,全フランスには800人の伝道者がいました。しかし,禁止令が解除されたとき私たちは2800人になっていました。自由に集まれるようになってからあとの数年間に私たちが刈り取ったものの多くは,私たちが戦争中にまいた種の実でありました。御国奉仕者の数は増加をつづけて,1951年には7136名となりました。
フランスにおける伝道のわざはその後も発展しつづけ,現在では,良いおとずれを伝える奉仕者の数は1万6000名を突破しています。私たちは,印刷工場と支部の働き人たちの家庭がある6階建の新しい立派な建物をもっています。私はいま神の御国への奉仕において与えられた多くの特権を喜びをもって回顧しながら,1920年に,「映画 ― 劇」がストラスブールにきたことに心から感謝しています。この年月の間私は若くはなりませんでした。そして,戦争中にとりつかれた病気にいくらか体力を奪われましたが,それでもエホバの喜びは,私に力と深い満足を与えつづけています。―ネヘミヤ 8:10。(アンリ・ゲイガー兄弟は,1962年8月29日に,フランスのむすこの家で死亡し,その忠実な地上の生涯を終えました)
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「全聖句中の1000分の1」ものみの塔 1963 | 2月15日
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「全聖句中の1000分の1」
クリスチャン・ギリシャ語聖書の写本相互の間にはかなりのちがいがあると一般に言われています。それで本質的なちがい,すなわち実際に問題となるような相違はどのくらいあるのだろうかという事がときおり,疑問とされています。この点についてウエストコットとホートの二人が「新約聖書の序論」と題して述べている事は注目に価します。
「新約聖書中に使用されている莫大な数に上る言葉については…問題になるような相違,疑問となるような点はない。…すべての学者たちによってなんら疑問もなく認められている言葉は非常に多く,大ざっぱにみつもっても全体の8分の7以上である。したがって残りの8分の1が,しかもそれは順番の違いなどささいな相違が大部分であるが,論議の対象になっているのである。本版中私たちが従った原則が正しいものとすれば,(そしてそれは正しい方法として一般に認められている原則であるが)論議の対象になるような点はきわめてすくなくなる。それで,つづりの相違などを別にすれば,一つの言葉について二,三通りの読み方があってどちらか判断しかねる場合には独断的な判断を避けるという原則に従っても,なお疑問として残る言葉は新約聖書全体の60分の1になる。
「この計算の場合には,比較的とるにたりない違いの占める割合は先の場合よりはるかに大きい。それで,のこりの相違のうち実質的なちがいと言えるようなものはきわめてすくなく,全聖句中の1000分の1にも足りないだろう。写本相互の誤差を過大視する傾きがあって新約聖書に対する信用そのものまで低めるきらいがあるので,本文中の各部に使用された言葉によってやがては確証される事ではあるが,新約聖書に対しては聖句批評家の労をわずらわす必要が如何にすくないかを前以って理解していただくためにこのような序文を記したのである」。そうです,クリスチャン・ギリシャ語聖書中に使用されている数多くの言葉のうちわずかに1000分の1に足りない部分が,正しい読み方に関して疑問になっているにすぎません。
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