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    1976 エホバの証人の年鑑
    • そのような冊子配布をしてみたいとは思われませんか。C・B・ヴェットは,「あの特別な日は決して忘れないでしょう」と言って,こう続けました。「その日はとりわけ寒い日でした。しかし,配っていた音信はまちがいなく熱いものでした。……わたしはそれを1,000部持って,アパートの戸の下に入れたり,時には,会う人に直接配布しました。わたしは,それが強烈な音信で,爆発的なお返しを受ける結果になることを知っていましたから,戸の下に配布するほうを好んだことは否定できません」。

      1917年の末から1918年の初めにかけて,「終了した秘義」の配布数は次第に増えてゆきました。怒った僧職者たちは,その本のある箇所が扇動的な性質のものであると偽って非難しました。彼らはものみの塔協会を「とっちめる」ことにやっきとなり,イエスが地上におられた時のユダヤ教の宗教指導者のように,自分たちに代わって国にそれをしてもらおうとしました。(マタイ 27章1,2,20節と比較してください。)カトリックとプロテスタントの僧職者は共に,聖書研究者がドイツ政府に使われていると偽って主張したのです,たとえば,シカゴ大学神学部のケイス博士は,国際聖書研究者協会のわざに関して,次のような声明を発表しました。「教理を広めるために1週間に2,000㌦使われている。資金の出所は知られていない。しかし,それがドイツ筋から出ている疑いは大いにある。政府が資金面を調査することは有益であるとわたしは信じる」。

      1918年4月15日付の「ものみの塔」誌は,「この声明は,他の名目上の牧師による同様の告発と相まって,陸軍情報担当官が協会の会計の帳簿を差し押えたことと明らかに関係していました」,と述べ,さらにこう続けました。「協会がドイツ政府の益のために働いているという告発を裏付ける何らかの証拠が見つかるだろう,と当局が考えたことに疑問の余地はありません。いうまでもなく,帳簿はその種の事がらを何も示しません。協会が使用する資金のすべては,イエス・キリストとその王国の福音を宣べ伝えることに関心のある人々によって寄付されており,他の何でもありません」。協会の帳簿が差し押えられたことは新聞によって全国的に伝えられ,その結果嫌疑は強まりました。

      1918年2月12日は,カナダの神の民にとって注目すべき日でした。その日,ものみの塔協会はカナダ全土で禁止されたのです。一般新聞の至急報はこう伝えました。「国務長官は,出版の検閲規定に基づき,カナダにおいて何冊かの出版物の所有を禁ずるよう指令した。その出版物の中には,国際聖書研究者協会により発行された『聖書研究 ― 終了した秘義』があり,これはその著者パスター・ラッセルの死後に出版された本として一般に知られている。またニューヨーク,ブルックリンにあるこの研究会の事務所で発行した同協会の『聖書研究者月刊』もカナダで頒布することは禁じられている。禁止されている本を持っているものは,5,000㌦以下の罰金,あるいは5年間の懲役刑に処せられる」。

      なぜ禁止されたのでしょうか。マニトバ州ウィニペグの「トリビューン」紙はその点にふれて,次のように述べました。「禁止された出版物には,扇動的で非戦論的な箇所があると主張されている。『聖書研究者月刊』の最近号のひとつには,2,3週間前,聖ステパノ教会の牧師チャールズ・G・パターソンが説教壇から公然と非難した箇所がある。後程,法務長官はパターソンのところに人をやって,『聖書研究者月刊』の1部を求めさせた。検閲に関する命令が出されたのは,これによる直接の結果と考えられている」。

      僧職者にそそのかされて生じたカナダの禁令後間もなく,陰謀は国際的性質のものであることが明らかになりました。1918年2月,ニューヨーク市の米陸軍情報局はものみの塔協会本部を調査し始めました。協会が敵国のドイツと連絡をしているという偽りの情報が飛んでいたばかりか,ブルックリンの協会本部がドイツ軍と通信する本拠になっているという報告が,偽りにもアメリカ合衆国の政府になされたのです。やがて,一般新聞は,政府当局者がベテル・ホームで使うばかりに設置してある無線装置を押収したと報道しました。しかし,真相はどうでしたか。

      1915年にC・T・ラッセルは小さな無線受信機をもらい受けました。ラッセル個人はそれにあまり関心がありませんでしたが,ベテル・ホームの屋根に小さなアンテナを立て,数人の若い兄弟に受信機の操作方法を学ぶ機会を与えました。しかし,受信はあまり成功しませんでした。アメリカが参戦しようとしていた時,無線設備すべてを取りはずすようにという命令が出されました。そこでアンテナは取りはずされ,柱はのこぎりで切られて別の用途に使われました。また,受信機のほうは大事に包まれて協会の絵画室にしまわれました。そして,陸軍情報局員ふたりが,ベテル家族の成員からそれについて話を聞くまでの2年以上もの間,その受信機は全然使われていませんでした。局員は屋根に案内されて,受信機が以前設置されていた箇所を見せられました。それから,ふたりはしまい込まれていた受信機そのものも見ました。ベテルではそれが必要ではなかったので,彼らは承諾を得てそれを持って行きました。装置は受信機だけにすぎず,送信機ではありませんでした。ベテルには送信装置がありませんでしたから,どこかに通信を送るということは不可能なことでした。

      エホバの民に対する反対と圧迫は強まるばかりでした。1918年2月24日,J・F・ラザフォードは,カリフォルニア州ロサンゼルスで3,500人の聴衆を前に公開講演を行ないました。翌朝,ロサンゼルスの「トリビューン」紙は,一面全部を使って講演の報告を掲げました。それは土地の僧職者の怒りを買い,聖職者協会は月曜日の朝に集まりを開きました。彼らは会長を新聞社の編集部へ送り,講演の記事を新聞に大きく取り上げた理由の説明を求めたのです。その週の木曜日,陸軍情報局は,聖書研究者のロサンゼルス本部を占有して協会の出版物の多くを没収しました。

      1918年3月4日,月曜日,ペンシルバニア州スクレントンで,クレイトン・J・ウッドワース(「終了した秘義」の共同編集者のひとり)と他の兄弟数名が逮捕されました。彼らは陰謀という偽りの告訴を受け,5月に裁判が行なわれるまで拘禁されました。さらに,協会に対する外部からの圧力は急速に強まり,20名以上の聖書研究者は,兵役が免除されず陸軍の営舎と軍の刑務所に勾留されました。そして,そのうち数名は軍法会議にかけられ,長期刑を言い渡されました。1918年3月14日,アメリカ合衆国司法省は,「終了した秘義」の配布をスパイ法の違犯であるとしました。

      神の民による反撃,それは必要なことでした。僧職者が,聖書研究者のクリスチャン活動に対する反対をそそのかしていることは暴露されねばなりませんでした。こうして,1918年3月15日に,ものみの塔協会は新聞と同じ大きさの2ページの冊子,「王国ニュース」第1号を発行しました。それには,「宗教的な偏狭 ― ラッセル師の追随者は,人々に真理を告げるゆえに迫害される ― 聖書研究者に対する処置は『暗黒時代』を思わせる」という大胆な見出しが掲げられました。その冊子は,何百万部も配布され,ドイツ,カナダおよびアメリカの聖書研究者が僧職者によってそそのかされた迫害を受けていることを確かに暴露しました。

      興味深いことに同冊子は次のように述べています。「合衆国政府は,政治的,経済的機構であるゆえに,その基本的法律のもとに宣戦を布告し,市民を兵役に服させる力と権威を有することをわたしたちは認めます。わたしたちは,いかなる方法にせよ,徴兵や戦争に干渉する意向を持っておりません。わたしたちの仲間数名が法の保護を受けようとしたことが,迫害の手段として使われています」。

      「王国ニュース」第2号は1918年4月15日に出されました。その冊子は,「『終了した秘義』はなぜ抑圧されるか」という衝撃的な見出しを掲げていました。そして,「牧師たちはこれに関係している」という副見出しのもとに,僧職者たちが政府に働きかけて協会を苦しめ,逮捕させ,『終了した秘義』に反対させ,かつ聖書研究者たちにその本のあるページ(247-253)を切り取らせるように圧力をかけた,ということを示しています。また,その冊子は,牧師がエホバのしもべに反対する理由を説明し,さらに,真の教会についての彼らの考えと戦争に対する立場を明らかにしています。

      「王国ニュース」のこの号の配布と関連して,嘆願書が回されました。合衆国大統領ウィルソンにあてられた同書にはこう書かれていました。「我々,下に署名したアメリカ人は,自主的な『聖書研究』に対する僧職者たちの妨害を偏狭,かつ反アメリカ的,反クリスチャン的なものと考える。さらに,教会と国家を結合させる試みはいかなるものも根本的にまちがっていると思うものである。自由と宗教的自由のために,『終了した秘義』の抑圧に対して厳粛に抗議すると共に,人々が妨害なしにこの聖書研究の手引きを買い,売り,所有しかつ読むことができるように,政府がその使用に関し一切の制限を取り除くことを懇願する次第である」。

      「王国ニュース」が初めて出されてからちょうど6週間後の1918年5月1日に,「王国ニュース」第3号が発行されました。それには,「激しい二大戦争 ― 独裁政治の滅びは必至」という見出しと,「サタン的策略は失敗の運命をたどる」という副見出しが付いていました。その号は,約束の胤対サタンの胤ということを扱っており,反キリストの発展過程をその誕生からカトリックおよびプロテスタント僧職者の現在の行為に至るまでたどっていました。(創世 3:15)そして,大胆にも,悪魔がそうした手先を使って,イエス・キリストの油そそがれた追随者の地上に残っている人々を滅ぼそうとしていることを示しました。

      当時発行された「王国ニュース」を配布するには勇気が求められました。ある聖書研究者たちは逮捕されました。「王国ニュース」が一時的に没収されたことも時にあります。厳しい反対と迫害に遭ってはいましたが,エホバのしもべたちは神への忠実を守り,クリスチャンのわざを行ない続けました。

      残虐行為が行なわれる

      僧職者と一般信徒による反対が強まるにつれ,エホバのしもべに対して残虐行為が行なわれました。後日ものみの塔協会が発行した一出版物は,聖書研究者が経験した信じがたいような迫害のいくつかを報告しており,その一部は次のとおりです。

      「1918年4月12日,オレゴン州メッドフォードにおいて,E・P・タリアフェロは暴徒に襲われ,福音を宣べ伝えたかどで町から追放され,ジョージ・R・メイナードは裸にされてペンキをぬられ,町から追い出された。自宅で聖書研究をすることを許したためである。……

      「1918年4月17日,オクラホマ州ショーニーにおいて,G・N・フェン,ジョージ・M・ブラウン,L・S・ロジャーズ,W・F・グラース,E・T・グライアおよびJ・T・タルが投獄された。審理の際中,検事は次のように言った,『お前たちの聖書を持って地獄へ行ってしまえ。お前たちが打ちのめされて地獄へ行くのは当然だ。お前たちを絞首刑にしなければならない』。オクラホマ・シティーのG・F・ウィルソンが弁護士の役を買って出たところ,彼も逮捕された。各人55㌦の罰金と法廷の費用を支払うことを言い渡されたが罪状はプロテスタントの文書を配布したというものであった。審理を行なった判事は判決の後で暴徒をそそのかしたが,暴徒は裏をかかれた。

      「1918年4月22日,テキサス州キングスビルで,L・L・デイビスとダニエル・トーレは,市長と郡判事の率いる暴徒に追跡されてつかまり,令状もなく逮捕された。デイビスは職場で解雇された。1918年5月,オクラホマ州テクムセーにおいて,J・J・メイは捕えられ,脅されたり,ののしりを受けた後,判事の命令で13か月間精神病院に監禁された。彼の家族は,彼の身に起きたことについて知らせを受けなかった。……

      「1918年3月17日,コロラド州グランド・ジャンクションにおいて,聖書研究の集会が,市長と第一線の新聞記者および著名な実業家からなる暴徒によって解散させられた。……

      「1918年4月22日,オクラホマ州ウインウッドにおいて,グラウド・ワトソンは最初,投獄されてのち,伝道師,実業家その他からなる暴徒の手に故意に渡された。彼らはワトソンを打ちのめし,黒人に彼をむち打たせた。そして,なかば意識をとりもどすと再びむち打った。それから,体中にタールと羽毛を浴びせ髪の毛と頭皮にタールをすりこんだ。1918年4月29日,アーカンソー州ウォルナット・リッジで61歳のW・B・ダンカン,エドワード・フレンチ,チャールズ・フランク,グリフィンと名のる人物,D・バン・ホーセン夫人が投獄された。暴徒が刑務所に押し入り,最も口ぎたなく彼らをののしったうえ,むち打ち,タールと羽毛をあびせて町から追い出した。ダンカンは26マイル(約42㌔)歩いて家に帰らなければならなかったが,かろうじて回復した。グリフィンはめくらも同然になり,受けた暴行がもとで数か月後に死んだ」。

      その時から長年経た後でさえ,T・H・シベンリストは,オクラホマ州シャタックにおいて自分の父親に起きたことをよく覚えており,次のように書いています。

      「1917年の9月に,わたしは学校に入学しました。3月ごろまでは万事が順調に進んでいたのですが,その頃になって,全校生徒に赤十字のバッジを買うことが求められました。わたしはその知らせを昼に家へ持って行きました。父は仕事に出ており,母はその時ドイツ語しか読めませんでした。しかし,『クラス』を訪問中の巡礼者のハウレット兄弟がその問題を扱ってくださり,バッジは買いませんでした。

      「役人が仕事中の父を連行して,『終了した秘義』の上に立たせ,それもシャタックの目抜き通りのまん中で,国旗に敬礼させようとしたのは,それからまもなくのことでした。父は刑務所に入れられました。……

      「それからほどなくして父は再び連行され,さらに3日間勾留されました。その時には食物をほとんど与えられませんでした。そして釈放された時の事情は全く異なっていました。真夜中ごろ3人の男が刑務所『破り』を装って押し入り,父の頭に袋をかぶせて,はだしのまま父を町の西のはずれまで連れて行きました。そこはごつごつした土地で,ぶたくさの一種がいっぱい生えていました。彼らはそこで父を上半身裸にして,先に針金のついた荷馬車用のむちで打ちました。それから熱いタールと羽毛をかけて放置し,死ぬにまかせようとしたのです。父はなんとか起きあがって町の周りをはって歩き,南東に向かいました。それから北に方向を取って家に帰ろうとしました。しかし,父の友人が見つけて,父を家に連れて来てくれました。わたしはその晩は父を見ませんでした。しかし,家では生まれたばかりの赤ん坊がいましたから,特に,母は大きな衝撃を受けました。祖母のシベンリストは父を見て気絶しました。弟のジョンはこうしたことが起きるわずか2,3日前に生まれたばかりでした。しかし,母はすべての重圧に耐えて気をしっかりと持ち,エホバの保護の力を決して見失いませんでした。……

      「祖母と,父の異母姉妹であるカティエおばさんが,命を取り留めるよう父を介抱し始めました。タールと羽毛が肉に食い込んでいたので,傷を直すためにがちょう脂を使い,タールはだんだん出て来ました。……父は襲撃者の顔を見ませんでしたが,声でだれであるかわかっていました。父はそのことを決して彼らに言いませんでした。実際,その事件について父に話させようとするのは難しいことでした。しかし父の傷跡は死ぬまで消えなかったのです」。

      「へびのように用心深く」

      「終了した秘義」と他のクリスチャンの出版物が禁止されたため,エホバのしもべたちは困難な事態に陥りました。しかし,彼らには神から与えられたなすべきわざがあり,彼らはそれを行ない続けて,自分たちが「へびのように用心深く,しかもはとのように純真なこと」を証明しました。(マタイ 10:16)それで,聖書研究の手引きは,しばしば,屋根裏とか石炭置場,床の下や家具の中などに隠されました。

      C・W・ミラー兄弟はこう語っています。「当時わたしの家は土地の聖書研究者の拠点となっていましたので,兄弟たちは真夜中にトラックで文書を運んできました。わたしたちはにわとり小屋に本のカートンを隠し,ロード・アイランド・レッド種のにわとりと木の葉でごまかしました」。

      その頃のでき事を思い出して,D・D・ルーシュはこう書いています。「リード家では,家の裏手の外に本を隠しました。警官がやって来て隠し場所に近づいた時,リード家の人たちは息を凝らしました。ちょうどその時,雪の大きなかたまりが屋根から落ちて,隠し場所をすっかり覆ってしまいました」。

      「律法をもて害ふことをはかる」

      幾世紀も昔,詩篇作者は,『律法をもて害ふことをはかる悪の位はなんぢに親しむことを得んや』と問いました。(詩 94:20)エホバのしもべは,神の律法に抵触しない諸国家の法律すべてに常に従っています。しかし,考えればわかることですが,単なる人間の命令と神の律法が相反する場合には,クリスチャンは使徒たちと同様の態度を取り,「人間より神に従」います。(使徒 5:29)時としてクリスチャンのわざをやめさせようとの意図のもとに法律が誤用されることがあります。また,敵が神の民を害する条令を通過させるのに成功する場合もあります。

      1917年6月15日,選択的徴兵条令が合衆国議会を通過しました。それは,人的資源を強制徴集するものでしたが,宗教上の理由で戦争に参加できない人々に対する例外も設けていました。どのような道を選ぶべきかをラザフォード判事に問い合わせる全国の若者からの多数の手紙がものみの塔協会に寄せられました。そのことについて,ラザフォード判事は後日次のように語りました。「アメリカの多くの若者から,このことに関してどんな道を取るべきかを尋ねられました。問い合わせてきた若者に与えたわたしの助言は,どの場合にも次のような趣旨のものでした。すなわち,『もしあなたが良心上参戦できないなら,選択的徴兵条令第3条により,徴兵免除を申請することができます。理由を明記した徴兵免除申請書を作成して提出すれば,徴兵局はその申請を認めるでしょう』。わたしは,議会の条令の適用を受けるように勧めたにすぎません。わたしは,首尾一貫して,国の法律が神の律法に相反しない限り,市民すべては法律に従うべきであると主張しました」。

      第一次世界大戦中,エホバのしもべに対する明らかな陰謀が明るみに出ました。それを推し進めるために,多数の僧職者がペンシルバニア州フィラデルフィアで1917年に会議を開きました。彼らは,その時,首都ワシントンにおもむいて,選択的徴兵条令とスパイ法の改正を求めるための委員会を任命したのです。同委員会は司法省を訪れました。僧職者たちの要請で,スパイ法の修正案を作成して合衆国上院に提出するよう,司法省の役人,ジョン・ロード・オブライアンが選ばれました。その修正案は,スパイ法の違犯行為はすべて軍事法廷で裁判を受け,有罪者には死刑が課されるというものでしたが,その法案は可決されませんでした。

      スパイ法の改正を議会が手がけていた時に「フランス修正案」として知られる条項が提議されました。それは,「良い動機から,正当と認め得る目的のために真実のことを」語る人々を同法の規定から除外するものでした。

      ところが,1918年5月4日,上院議長は,司法長官から1通の覚え書きを受け取りました。「議会報告」(1918年5月4日,6052,6053ページ)に載せられたその覚え書きは,一部次のように述べています。

      「軍事情報局の見解は,その第3条第1項が,『良い動機から,正当と認め得る目的のために真実のことを』語る者に適用されないとする,スパイ法の修正に真向から反対するものである。

      「経験が示すとおり,そのような修正は,法律の価値を無効にすることはなはだしく,また,いずれの裁判をも,真実なこととは何かとの解決不能な難問をめぐる非実際的な論争と化せしめるであろう。人間の動機は,論じるにはあまりにも複雑であり,『正当と認め得る』ということばは非常に融通性があって実際に適用することは難しい。……

      「この種の宣伝の最も危険な例のひとつは,きわめて宗教的なことばで書かれ,大量に配布されている,『終了した秘義』と題する文書である。その趣旨は,兵士たちをして我々の大目的に不信を抱かせ,徴兵に反対してもよいという気持ちを持たせることにほかならない。

      「ブルックリン発行の王国ニュースには,『終了した秘義』および他の同様の文書に対する制限を取り除き,『人々が妨害なしにこの聖書研究の手引きを買い,売り,所有しかつ読むことができるように』すべきであるとの要求を記した嘆願書が印刷されている。修正案が通過すれば,我が方にこうした有害な影響が再びもたらされることになろう。

      「国際聖書研究者協会は,純粋に宗教的な動機を装っているが,その本部はドイツ当局の手先となっていることが以前から報告されている。……

      「修正案が通過すれば,アメリカの威信は大いに弱まり,敵国を有利にするだけである。戦争において重要なのは動機でなくて結果である。したがって,法とその執行者は,動機については判事のあわれみ,ないし歴史家の判断にまかせ,望ましい結果を得るように努めることと,危険な結果を防止することとに心がけるべきである」。

      司法省のこうした努力の結果,修正されたスパイ法は「フランス修正案」なしに1918年5月16日,承認されました。

      「我々はおまえたちをどのようにやっつけるかわかっておる。それをしてやるぞ!」

      その頃,聖書研究者と交わっていた数人の若者が兵役に召集され,良心上の理由でそれを拒否したために,ニューヨーク州ロング・アイランドのアプトン隊に送られました。その部隊を指揮していたジェイムズ・フランクリン・ベル大将は,J・F・ラザフォードをその事務所に訪ね,国の内外を問わずどこでもベルから割り当てられた仕事をするよう,それらの若者に教えることをラザフォードに勧めました。ラザフォードはそれを断りました。しかし,陸軍大将はしつこく迫ったため,ついに彼は次のような要旨の手紙を書きました。「あなたがた各人は,積極的に兵役につくかどうかを自分自身で決定しなければなりません。自分の義務であると信じ,全能の神の目に正しいと見なすことを行ないなさい」。ベルはこの手紙に満足しませんでした。

      2,3日後,J・F・ラザフォードとW・E・バン・アンバーグはアプトン隊にベル大将を訪れました。ベルは,幕僚やバン・アンバーグを前にして,ラザフォードに僧職者たちのフィラデルフィア会議について話しました。そして,問題を上院へ提出するためにジョン・ロード・オブライアンが選ばれ,スパイ法に対する違犯はすべて軍事法廷で裁かれて死刑が課されるという法案が上程されたということを語りました。ラザフォードによればベル陸軍大将は「少なからざる憤りを示し」ました。彼はさらにこう伝えています。「彼の前の机の上には書類の包みが置いてありました。彼はそれを人差し指でたたきながら,わたしに向かってすごみを効かせてこう言いました。『その法案は通過しなかった。ウィルソンが拒否したからだ。しかし,我々はおまえたちをどのようにやっつけるかわかっておる。それをしてやるぞ!』。それに対して,わたしは,『陸軍大将,わたしは逃げ隠れなどいたしません』と答えました」。

      「ふたりの証人」に対する致命的な打撃

      1914年10月の初旬が過ぎると,キリストの油そそがれた追随者は,異邦人の時が終わって,諸国民はハルマゲドンにおける滅びに近づきつつあることを宣布しました。(ルカ 21:24。啓示 16:14-16)それら象徴的な「ふたりの証人」は,1,260日,すなわち3年半の間(1914年10月4-5日から1918年3月26-27日),諸国民に対するその陰うつな音信を宣明したのです。それから,悪魔の野獣的な政治体制は神の「ふたりの証人」に対して戦いを挑み,ついには,「粗布を着て」預言をすることによって責め苦を与えるわざに関する限り,彼らを殺し,宗教上,政治上,軍事上および司法上の敵たちに大きな慰めをもたらしました。(啓示 11:3-7; 13:1)これは預言されていたことですが,その預言は成就しました。しかし,どのようにしてですか。

      1918年5月7日,ニューヨーク州東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所は,ものみの塔協会の主要なしもべたち数名に対して逮捕状を出しました。そのしもべたちとは,J・F・ラザフォード会長,W・E・バン・アンバーグ会計秘書,クレイトン・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャー(このふたりは「終了した秘義」の共同編集者だった),F・H・ロビンソン(「ものみの塔」誌の編集委員のひとり),A・H・マクミラン,R・J・マーチンおよびジヨバンニ・デチェッカでした。

      翌日の1918年5月8日,ブルックリン・ベテルにいたそれらの人々は逮捕され,結局全員が勾留されました。その後間もなく,彼らはガービン判事により連邦裁判所で審問され,大陪審員によってすでに答申されていた起訴状をつきつけられたのです。すなわち次のように告発されました。

      「(1,3)戦時中のアメリカにおいて,アメリカ合衆国の陸海軍の兵役に対して,不法かつ故意に,反抗,不忠実,拒否の態度をおこさしめた。個人的な懇請,手紙,公開講演により,また,『聖書研究,第七巻,終了した秘義』と呼ばれる本をアメリカ合衆国中に配布し,公に流布することにより,さらにアメリカ合衆国中に『聖書研究者月刊』,『ものみの塔』,『王国ニュース』と呼ばれるパンフレットに印刷された記事,あるいはその他のパンフレットを配布し,公に流布することによりこれを行なった」。

      「(2,4)アメリカ合衆国の戦争時に,アメリカ合衆国の徴兵応召事業を,不法かつ故意に妨害した」。

      起訴状は主として「終了した秘義」のひとつの節に基づいていました。そこにはこう書かれています。「新約聖書のどこにおいても,愛国主義(偏狭にも他の民族を憎むこと)は勧められていません。あらゆる箇所で常にいかなる形式の殺人も禁じられています。しかしながら,地上の諸政府は愛国主義を口実にして,平和を愛する人々に自分自身や愛する人々を犠牲にしたり,仲間の人間を殺すことを求め,それを天の律法により命じられた義務であるとして称揚します」。

      ラザフォード兄弟,バン・アンバーグ兄弟,マクミラン兄弟,およびマーチン兄弟は,チューリッヒにある協会のスイス支部の監督に500㌦(約15万円)送金したことに基づき,敵国と取引きをしたかどで再度起訴されました。罪を問われた各の兄弟は,それぞれの起訴状につき2,500㌦ずつの保釈金で勾留されました。兄弟たちは保釈出所し,1918年5月15日に出廷しました。審理は1918年6月3日にニューヨーク州東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所で行なわれ,兄弟たちはふたつの起訴状に対して「無罪」を訴え,すべての告訴に対して全く無実であると考えていました。

      予備審問であらわに示された感情のために,被告人たちは,ガービン判事が自分たちに偏見を持っていると感じる理由を示した宣誓供述書を提出しました。やがて,裁判を主宰する人として,アメリカ合衆国の地方判事,ハーランド・B・ハウが連れて来られました。A・H・マクミランによれば,被告人たちはハウの考え方を知りませんでしたが,政府側は,彼が「特に同法に関する訴追に好意的であり,同法違反を問われた被告人に対して反感をもっている」ことを知っていました。マクミランは次のようにも語りました。「しかし,わたしたちは長い間それを知らずにいたわけではありませんでした。裁判に先立ち,判事事務室で開かれた最初の弁護士会議から,ハウ判事は敵意をはっきりと表わし,『わたしはこれら被告人たちにできるだけ刑を与えるつもりだ』ということを示しました。しかし,その時はすでにわたしたちの弁護士が判事側の偏見に対する供述書を提出するのに遅すぎました。

      マクミランによれば,最初に答申された起訴状では被告人は,アメリカが宣戦を布告した1917年4月6日から1918年5月6日の間のどこかの時点で陰謀を企てたことになっていました。命令申請の段になって政府は,告発された罪が犯されたのは1917年6月15日から1918年5月6日の間であると明確に述べました。

      法廷での模様

      アメリカ合衆国は戦争中でしたから,扇動のかどで告発された聖書研究者の裁判は非常に注目を集めました。一般の人々の感情はどうであったかといえば,戦争努力の推進に対して好意的でした。法廷の外では,兵隊たちがバンドを鳴らしてブルックリンのバラ・ホール近くを行進したりしていました。法廷内では審理も15日を経て,おびただしい証言が山と積まれました。法廷内に入って審理の模様を見てみましょう。

      被告のひとりであった,A・H・マクミランは,その場のふん囲気を知る手がかりとして,後日次のように書きました。「裁判の時政府は,もしある人が町角に立って,人々を軍隊にはいらせないことを目的として主の祈りをくりかえし唱えるならば,その者は刑務所へ入れられる,と言いました。このことからもわかるように,政府は,まったく勝手な解釈をしました。彼らは人が何を考えているかわかると思いました。ですからわたしたちが,徴兵に影響することに荷担したことは一度もなく,兵役を拒否するようすすめたことも一度もないことをいくら証言しても,彼らは自分たちの尺度で物事をおしはかり,わたしたちに反対しました。証言はなんの効果もありませんでした。キリスト教世界の一部の宗教指導者とその政治上の同盟者たちは,どうあってもわたしたちに罪を着せることを決意していたのです。検察当局は,ハウ判事の同意を得て,有罪を証明しようとし,わたしたちの動機が尋常でないこと,そしてわたしたちの行動からその目的を推測すべきことをがん強に主張しました。わたしは,ある小切手 ― それが何の目的のための小切手かは彼らにはわからなかった ― に連署し,またラザフォード兄弟が理事会で読んだステートメントに署名したというだけの理由で有罪とされたのです。それでさえ,はたしてわたしの著名であったかどうか彼らは証明することができませんでした。この不正はあとで控訴する助けになりました」。

      ある時,協会のかつての役員が呼ばれました。提示されたふたつの署名を見た彼は,ひとつはW・E・バン・アンバーグの署名であると言いました。記録の写しにはこう記されています。

      「問. わたしはあなたに確認のための参照物件31号をお渡ししますから,マクミランとバン・アンバーグのふたつの署名もしくは署名と称されるものを見ていただきたい。そして,まず,バン・アンバーグについてお尋ねしますが,あなたの意見では,それは彼の署名を謄写版で印刷したものですか。答. そう思います。そうであることを認めます。

      「問. マクミラン氏のものについてはどうですか。答. マクミラン氏のものであるとはっきり認められるわけではありませんが,わたしはそうだと思います。

      被告側の答弁について,マクミラン兄弟は後日次のように書きました。

      「政府の申し立てが終了した後,わたしたちの答弁になりました。要するに,わたしたちが示したのは次のことでした。協会が純粋に宗教的な組織であること,成員は,チャールズ・T・ラッセルによって解説された聖書を信仰の原理として受け入れていること。C・T・ラッセルは生涯中に『聖書研究』の6巻を執筆出版し,早くも1896年には,エゼキエル書と啓示を扱った第七巻の出版を約束していたこと。ラッセルは臨終の際だれか他の人が第七巻を書くであろうと述べたこと。彼の死後まもなく,協会の管理委員会は,C・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャーに原稿を書いてそれを検討のために提出する権限を与えたが,出版することは何も約束しなかったこと。啓示を扱った原稿はアメリカ合衆国が戦争に入る前に書き終えられており,全部の原稿(神殿に関する章を除く)は,スパイ法の制定以前に印刷業者の手に渡されていたこと。したがって,起訴されているような陰謀を行なって同法に違犯することはあり得なかったこと。

      「わたしたちは次のことを証言しました。すなわち,いついかなる時にも,団結し,お互いに同意し,陰謀を企てて,徴兵に何らかの影響を及ぼす事がらや戦争遂行に当たる政府に干渉する事がらなど行なわなかったこと。いかなる形であれ,戦争に干渉する意図はないこと。わたしたちのわざは純粋に宗教的であり,政治的なものでは全くないこと。徴兵を拒否するよう会員に懇請したことはなく,だれかに助言もしくは励ましを与えることも一度もなかったこと。手紙類は,法律的に言って当然に相談できる既知の献身したクリスチャンである人々にあてられていたこと。わたしたちは国が戦争することに反対するのではなく,献身したクリスチャンとして,人命を奪う戦いに参加できないこと」。

      しかし,その審理中に話されたり行なわれたりしたことすべてが公に隠しだてなくされたわけではありません。後にマクミランはこう報告しました。「審理を傍聴していたわたしたちの仲間のある人が,後日わたしに話してくれたのですが,政府側の代理人のひとりは廊下に出て,協会内で反対を引き起こしたことのある者たち数人と低い声で話をしました。彼らはこう言ったのです。『あいつ(マクミラン)を逃さないでくれ。一味のうちで一番悪いのだ。他の者たちといっしょに捕えなければ,あいつが仕事を続けさせるだろう』」。その時,野心的な者たちがものみの塔協会を支配しようとしていたことを思い出してください。後ほどラザフォードがベテルの責任を委ねた兄弟たちにこう警告したのも当然でした。「以前,協会とその仕事に反対した7人の者が裁判に出席し,わたしたちの告発者を援助したということを知らされました。それで愛するみなさん,彼らの中のある者が協会をのっとろうとしてあなたがたのきげんをとるというような巧妙な手口を弄してもそれにのらないように注意してください」。

      長い裁判の末,ついに,待たれた判決の下される日が来ました。1918年6月20日午後5時,訴訟は陪審員へ回されました。J・F・ラザフォードは後に次のように回顧しています。「陪審員は評決を下すのに長い間手間取りました。後から陪審員のひとりがわたしたちに話してくれたのですが,結局,ハウ判事が,有罪と評決するよう指図しました。4時間半ほど審議した後,午後9時40分に陪審員は評決をもって戻り,「有罪」と言い渡しました。

      刑の宣告は6月21日に行なわれました。法廷は満員でした。被告人たちは,何か言うことがないか聞かれた時,答えませんでした。続いて,ハウ判事による刑の宣告が行なわれ,彼は腹立たしげにこう言いました。「これらの者たちが携わっている宗教的宣伝活動はドイツ兵の一個師団よりも有害である。彼らは政府の法務官に異議を唱えたばかりか,あらゆる教会の牧師すべてを公然と非難した。その刑は厳しいものでなければならない」。

      確かにそのとおりになりました。被告人中7人は80年の懲役を言い渡されたのです。(それぞれ4つの異なる訴因で20年づつの判決を受けた。)ジヨバンニ・デチェッカの刑の宣告は遅れましたが,最終時に,40年,すなわち同じ4つの訴因でそれぞれ10年の刑を言い渡されました。彼らは,ジョージア州アトランタの連邦刑務所で服役することになりました。

      裁判は15日間続きました。おびただしい量の証言が記録され,訴訟手続きはしばしば不公正でした。事実,その裁判には125を上回る誤りが含まれていたことが後に明らかにされたのです。上告裁判所が全部の訴訟手続きを公正でないと最終的に宣告するには,そうした不正の2,3を挙げるだけで十分でした。

      その時傍聴席にいたジェイムズ・グウィン・ジーは,「わたしは行って兄弟たちがこの不公正で筋の通らない裁判に服させられていた間中ずっと兄弟たちと共に苦しみました」と述べ,さらにこう続けています。「今だに忘れられないのは,裁判官がラザフォード兄弟に弁論の機会を与えようとしなかったことです。『この法廷で聖書は通用しません』と裁判官は言いました。その夜,わたしはM・A・ハウレット兄弟とベテルに留まりましたが,10時ごろ,兄弟たちが有罪となったという知らせを受けました。刑が宣告されたのは翌日でした」。

      不正な有罪判決を受け,厳しい刑を言い渡されたにもかかわらず,ラザフォード兄弟とその仲間は恐れませんでした。興味深いことに,1918年6月22日のニューヨーク・トリビューン紙は次のように報じました。「ジョセフ・F・ラザフォードと『ラッセル派』の他の6人は,スパイ法違反で昨日ハウ裁判官により有罪と宣告され,アトランタの刑務所で20年間の服役を言い渡された。『これはわたしの生涯で,もっとも幸福な日です。自分の宗教上の信念のために,地上で罰を受けることは,人間の最大の特権のひとつです』,とラザフォード氏は法廷から刑務所へ向かう途中語った。有罪の宣告を受けた者たちが大陪審室につれて行かれてからすぐ,ブルックリンの連邦裁判所の事務所では,今までにない非常に珍しいデモンストレーションが彼らの家族や親しい友人たちによって行なわれた。全員が古い建物を『結ばれるきずなに幸いあれ』という歌で鳴り響かせたのである。彼らは,ほとんど輝かしいといった顔つきで,『これはすべて神のご意志だ。いつか世界は,このすべての意味を悟るようになるであろう。さしあたり,わたしたちは試練の時にわたしたちを支えてくださった神の恵みに感謝し,来たらんとする「大いなる日」を待ち望もうではないか』と語り合っていた」。

      兄弟たちは上告している間に,二度にわたり保釈されるよう努力しましたが,最初はハウ判事により,二度目にはマーチン・T・マントン判事により差し止められました。そうしている間に,兄弟たちは,まず,ブルックリンのレイモンド・ストリート刑務所に入れられました。A・H・マクミランによれば,そこは,「今まで入った中で一番汚い穴倉」でした。クレイトン・J・ウッドワースはそこを「ホテル・ド・レイモンディ」とおどけて呼びました。その不快な刑務所で一週間過ごした後に,ロング・アイランド・シティー刑務所でもう一週間過ごしました。そして,ついに,アメリカ合衆国の独立記念日に当たる7月4日,不正にも有罪とされたそれらの人々は,ジョージア州アトランタ刑務所へ汽車で送られたのです。

  • 第2部 ― アメリカ合衆国
    1976 エホバの証人の年鑑
    • 第2部 ― アメリカ合衆国

      敵は大いに喜ぶ

      それらエホバのクリスチャン証人たちの投獄は,象徴的に言って致命的な打撃でしたから,敵にとっては大きな喜びと安どを与えるものとなりました。啓示 11章10節に出ている次のことばが成就したのです。「また,地に住む者たちは彼らのことで喜びまた楽しみ,互いに贈り物を交すであろう。これらふたりの預言者は地に住む者たちを責め苦に遭わせたからである」。「ふたりの証人」に対する,宗教上,司法上,軍事上および政治上の敵たちは,自分たちを責め苦に遭わせた者たちに勝利を収めるうえでそれぞれ貢献したことを互いに祝い,そのようにして互いに『贈り物を交し』ました。

      レイ・H・アブラムズは,自著「説教者が武器を捧げる」の中で,J・F・ラザフォードとその仲間たちの裁判を考察し,次のように述べています。

      「事件全体を分析すると,教会と聖職者たちが最初から,ラッセル派を消し去ろうとする動きの背後にいたという結論に達する。……

      「20年の刑が宣告されたというニュースが宗教新聞の編集者に届くと,大小を問わずそうした刊行物の文字どおりすべてが,そのことを喜んだ。正統派の宗教雑誌のどれひとつを取っても,その中に同情のことばひとつ見いだせなかった。アプトン・シンクレアはこう結論している。『彼らが「正統派」宗教諸団体の憎しみをかったことが一部理由となって,迫害が……起こったということに疑問の余地はない』。諸教会の結束した努力が失敗したこと,― それら『バアルの預言者たち』を永遠に打ち砕くことを,今度は政府が彼らに代わって成し遂げることに成功したようである」。

      『バビロンの捕われ』にもかかわらず楽観的

      西暦前607年から537年にかけて,古代バビロンに捕われの身となっていたユダヤ人は不活発になっていました。同様に,エホバの献身した崇拝者でその聖霊を注がれた人々は,第一次世界大戦の行なわれた1914年から1918年の期間中,バビロンの捕われの状態に陥り流刑に処されました。協会本部の8人の忠実な兄弟が,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に監禁された時に,捕われの状態の深刻さは特に感じられました。

      しかし,こうした困難な期間全体を通して,「ものみの塔」誌は一号も欠けることなく印刷されました。任命された編集委員会は同誌を発行し続けたのです。さらに,当時難しい事態に直面したにもかかわらず,忠実な聖書研究者が示した態度は模範的でした。T・J・サリバン兄弟は次のように語りました。「わたしは,兄弟たちが監禁されていた1918年の夏の終わりごろにブルックリン・ベテルを訪問する特権にあずかりました。ベテルの仕事を託されていた兄弟たちは,少しも恐れておらず,気落ちしてもいませんでした。事実その反対に,兄弟たちは楽観的で,エホバは最終的にはご自分の民に勝利をもたらされることを確信していました。わたしは月曜日の朝食の席に着き,割当てを受けて週末に派遣された兄弟たちからの報告を聞く特権を得ました。状況がはっきりとつかみ取れました。どの報告でも,兄弟たちは,エホバが自分たちの活動を進める指示を与えてくださるのを待ち,確信を抱いていました」。

      興味深いことですが,ラザフォード兄弟とその仲間の裁判が終わってからのある朝,R・H・バーバーは,ペンシルバニア駅に来てほしいとの電話をラザフォード兄弟から受け取りました。兄弟たちは,そこでアトランタへの直通列車を数時間待っていたのです。バーバー兄弟ほか数人の兄弟たちは駅へ急行しました。本部の兄弟たちが警官にあまりにも悩まされるようであれば,ベテルとブルックリン・タバナクルを売り,ものみの塔協会はペンシルバニアの法人なので,フィラデルフィアかハリスバーグもしくはピッツバーグに移るように,とラザフォード兄弟は言いました。ベテルの価格として6万㌦(約1,800万円),タバナクルの価格として2万5,000㌦(約750万円)が提案されました。

      事情は結局どうなりましたか。その時協会をまかされていた人々は,実際,多くの問題に直面しました。そのひとつは,紙と石炭の不足でした。愛国主義が高まり,多くの人々は誤りにもエホバのクリスチャン証人たちを国賊と見なしました。ブルックリンでは,協会に対する敵意がはなはだしく,そこで運営を続けることは不可能に見えました。それで,本部の責任に当たっていた管理委員会は他の兄弟たちと相談した結果,ブルックリン・タバナクルを売却してベテル・ホームを閉鎖するのが最善であるという決定が下されました。R・H・バーバーの記憶によれば,タバナクルは結局1万6,000㌦で売却されました。その後,ベテルを政府へ売り渡すための必要な手続きがすべて行なわれ,現金の譲渡だけが残るのみとなりました。ところが,邪魔が入りました。休戦です。売却は完了されませんでした。

      しかし,1918年8月26日,協会の本部はニューヨークのブルックリンからペンシルバニア州ピッツバーグに移転し始めました。「当時を振り返ってみると,聖書研究者たちは兄弟たちの投獄にぼう然としてはいましたが,決して証言することをやめませんでした。少しばかり用心深くなっていたようでしたが」と,ヘイゼル・エリクソンは語っています。H・M・S・ディクソン姉妹は回想して,「仲間の人たちの信仰は弱まることなく,集会は定期的に開かれました」と述べました。エホバのクリスチャン証人たちは,神への信仰を表わし続けました。確かに,彼らは,困難な状況と迫害の厳しい試練に遭いました。しかし,神の聖霊はその上にあったのです。忍耐できさえすれば,「神」は,必ずや,彼らを迫害者の手から救い,『バビロンの捕われ』の状態から救出されます。

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