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    ものみの塔 1968 | 10月1日
    • 本と「慰め」(現在の「目ざめよ!」)という雑誌を配布する特権を全時間開拓奉仕者に与えました。わたしたちが任命地にもどるころには35ドルの借金を返し,ぜひ必要だった衣類を買うお金の手持ちもありました。

      アラバマ州オペリカの街頭で,わたしと妻が雑誌を提供し始めたところ,その町の歩道条例に違反するとの理由で逮捕され,有罪を言い渡されました。この事件はいくつかの法廷を経ましたが,ついに1942年,合衆国最高裁判所はわたしたちに不利な判決を下しました。しかし同裁判所は翌年その判決を取り消しました。その間,御国のわざは広く報道され,その結果,反対者のある者は公然と敵意を示しましたが,その反面,多くの誠実な人々は神の真理に目をあけました。

      わたしたちは1941年にジョージア州ラ・グレンジに派遣されました。ここでも牧師と警官は,人々の言動すべてを検閲すべき者と自任していました。彼らはおどしによってわたしたちを町から追い出そうとし,ついに妻を逮捕したのです。妻の安否を問うために尋ねたところ,翌朝法廷に出頭するようにと告げられました。朝早く着くと数人の警官はわたしをつかまえて地下室に連れて行き,容赦なくなぐりました。4人の警官がそれぞれわたしの手足を押え,床からつり上げ,順番に腹部と胸部を足でけり始め,自転車の古タイヤでわたしの頭部をなぐりました。

      わたしは独房で意識を取り戻しました。顔と頭がひどくはれ上っていたので物を見ることができないほどでした。私は四,五日間拘留され,それから釈放されました。釈放される前,一警官はピストルを取り出し,黒い箱(私の鞄)を持った私を今度町で見かけたらピストルで撃つとおどしました。しかし翌日,私はおどしにめげず,興味を示した人々の家を何軒か訪問する決心でした。道路を歩いていると,二,三人が乗る警察自動車が走って来るではありませんか。そのとき私は自分の生涯で最も危険な瞬間であると感じました。でも自動車が通り過ぎるとき皆は反対側を向いていたのです。警官は女家主に圧力を加えて私たちを追い出そうとしましたが,彼女はしっかりと自分の立場を保ちました。

      隠退はない

      12年間,私は南部諸州全体を旅行する協会の代表者として奉仕する特権を楽しみました。それから1955年,私は妻と共に宣教者の訓練を受けるため,ものみの塔のギレアデ学校に入学しました。それは,知識を取り入れ,いろいろな国からのクリスチャン兄弟や,協会のブルックリン本部からの兄弟との親しい交わりを楽しむすばらしい数か月でした。それから私たちは,特別開拓者として再び奉仕を始め,新しい会衆を設立し,強めるために援助の必要な町々で奉仕しました。

      1965年5月,わたしは診断と治療を受けるため,ミシシッピー州ジャクソンのベテランズ・アドミニストレーション病院に送られました。病院を出る際,わたしは動脈硬化症,十二指腸潰瘍,痔それに目の疾患にかかっていると医師から告げられました。また無理をしないようにとも言われました。でもわたしは元気に暮らしており,それほど動きは鈍くなっていません。40年余におよぶエホバへの奉仕と,与えられた多くの祝福をふりかえるとき,わたしは喜びに満たされ,後悔することがありません。そして今でも生活の中で御国のことが第一になっています。

  • 『すべての国の民への証言』
    ものみの塔 1968 | 10月1日
    • 『すべての国の民への証言』

      エホバの証人の1968年度年鑑より

      フィリピン共和国

      人口: 34,000,000人

      伝道者最高数: 39,266人

      比率: 866人に1人

      昨奉仕年度中,兄弟たちを霊的に強めるため,組織の内部に一層の注意が払われました。巡回の

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