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第2部 ― アメリカ合衆国1976 エホバの証人の年鑑
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していましたが,警官がいたために高速道路から出ることができず,農場をこわす計画は失敗しました。農場にいたわたしたちみなにとってそれはほんとうに興奮の夜でした。しかし,わたしたちはご自分の追随者に対する,『あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。それでも,あなたがたの髪の毛一本すら滅びることはありません』というイエスの保証のことばを鮮明に思い出しました。―ルカ 21:17,18」。
こうして,威嚇攻撃と計画的焼打ちは回避されました。推定1,000台の車が,4,000人ぐらいの人々を乗せて,協会の王国農場の資産を破壊するためにニューヨーク州西部の各地からやって来ましたが,無駄に終わりました。「あの人たちの目的は失敗しました。そして,まさに暴徒に加わっていた人のうちいく人かが今エホバの証人になっていて,全時間奉仕者になっている人たちさえいます」とカスリン・ボガードは語っています。
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第3部 ― アメリカ合衆国1976 エホバの証人の年鑑
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第3部 ― アメリカ合衆国
リッチフィールドで暴力行為が勃発
王国農場が襲撃と焼打ちの脅威にさらされていたのと同じ頃,イリノイ州のリッチフィールドでもエホバの証人に対するいやがらせの火の手が上がりました。クラレンス・S・ハゼイは次のように回顧しています。「リッチフィールドの暴徒たちは何かの方法でわたしたちの計画をかぎつけ,わたしたちが奉仕のために町に入った時には,彼らは待ちかまえていました。町の司祭が教会の鐘を鳴らして合図すると,彼らは兄弟たちを取り巻き始め,町の刑務所に連れて行きました。数人の兄弟はひどく殴打され,暴徒たちは刑務所を焼き払うと脅しさえしました。そのうちのある者は兄弟たちの車を見つけてこわし始め,がらくた同然にしてしまいました」。
ウォルター・R・ウィスマンはこう語ります。「暴徒に殴打された後,兄弟たちは州の高速道路巡視隊によって刑務所に集められ,保護されました。一兄弟チャールズ・セルベンカは,国旗に敬礼することを拒否したため地面にたたきのめされ,顔に旗を押し付けられ,頭やからだのあたりをしたたかけられたり打たれたりしました。彼は兄弟たちのうち一番ひどく傷つけられ,殴打のあとが完全には良くならず,2,3年後に亡くなりました。後日,彼は話していましたが,これが比較的新しい兄弟にでなく自分にふりかかってよかった,自分はこれをがまんできるが,新しい人は弱くなって妥協するかもしれないから,と打たれながら思ったそうです」。
ウィスマン兄弟はさらに次のように回顧します。「リッチフィールド市は,それをやり遂げたことを非常に誇りにしていました。事実,何年も後の1950年代に,リッチフィールドは百年記念祭を催して,同市の100年の歴史で際立った出来事を描いた山車を作りましたが,その山車のひとつは1940年にエホバの証人を襲撃したことを記念するものでした。市の当局者はそれを同市の歴史上記念すべき出来事だと考えたのです。エホバが彼らに返報されますように」。
無視された訴え
エホバの証人に対する暴力的な攻撃が非常に激しくひんぱんに行なわれたため,アメリカ合衆国の首席検事フランシス・ビドルとエリノア・ルーズベルト夫人(フランクリン・D・ルーズベルト大統領夫人)は,そうした行為をやめるよう一般に呼びかけました。実際,ちょうどリッチフィールド事件の起きた1940年6月16日に,NBCの国内放送を通してビドルは次のように語りました。
「エホバの証人は繰り返し襲われて殴打されています。彼らは罪を犯していません。しかし,暴徒たちは彼らが罪を犯したとして暴力的な制裁を加えています。法務長官は,そうした暴力行為をただちに調査するよう命じました。
「国民は油断なく警戒し,とりわけ冷静かつ健全でなければなりません。暴徒による暴力行為は政府の業務をきわめて難しくしますから,それを大目に見ることはできません。ナチの方法をまねてみたところでナチの悪を滅ぼすことにはなりません」。
しかし,そのような訴えもエホバの証人に向けられたうしおのような憎しみをせき止めませんでした。
乱されたクリスチャンの集まり
そうした騒乱の時代,アメリカでは,クリスチャンたちは聖書の教育を受けるため平和裏に集まっている際中に襲われることがありました。その一例は1940年にメイン州のサコで起きた事件です。ハロルド・B・ダンカンの話では,ある時エホバの証人が二階の王国会館に集まってレコードによる聖書講演を行なう準備をしていると,1,500人から1,700人の暴徒が現われました。ダンカン兄弟は,ひとりの司祭が暴徒に加わり,会館の前にいた自動車の中に座っていたのをはっきりと覚えています。「(隣りの)ラジオ修理店の人はありったけのラジオのスイッチを入れてボリュームをいっぱいに上げ,講演をかき消そうとしました」とダンカン兄弟は述べ,こう付け加えました。「すると暴徒は窓に石を投げ始めました。懐中電燈を持った私服の警官は,石を投げる窓に光を当てました。警察署は一区画半しか離れていなかったので,わたしはそこへ二回足を運び,起きていることを知らせました。警察は,『おまえたちがアメリカの国旗に敬礼したら助けてやろう』と言いました。暴徒は会館の(小さな窓ガラス)70枚を石でこわしました。わたしのこぶしくらいある石がガートルド・ボッブ姉妹の頭をかろうじてはずれ,しっくいの壁の角を落としました」。
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