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  • その8 協会を破壊せんとの内外からの試み挫折す
    ものみの塔 1955 | 10月15日
    • で,捕われました。それらの兄弟たちは5月に開かれる裁判まで抱束されたのです。その頃までに,すでに20人以上のものが,徴兵関係のことで,軍の収容所とか軍の監獄に強制的に拘留されていました。協会に対する外部からの圧迫は,ますます激化して行きました。

      兄弟たちは山のような悪条件に対して,勇敢に戦つて居りましたが,この一団の勇ましい人々は,1918年3月15日,遂いに新しい,新聞紙大の2ペーヂのパンフレットを公やけにしました。それは『御国より』の第1号のもので,その表題は次のようなものです。『宗教界の狭量 ― 人々に真理を伝えたため,伝道者ラッセルの追随者,迫害される ― 聖書研究者への待遇,「暗黒時代」に類似す』このパンフレットは幾百万冊も配布されて,ドイツ,カナダ,アメリカ合衆国内の熱心な伝道者に対する迫害が牧師の陰謀によることを曝露しました。このパンフレットは,やがて行われようとしていた歴史的な講演会を更に宣伝するに役立ちました。それは1918年の3月24日に,ブルックリンの音楽堂で開催された講演会で,協会の会長が『現在生存する万民は決して死する事なし!』という題のもとに話したものです。3000人もの聴衆がこの重要な講演をききました。1918年中には7000人の人々が戸口から戸口に書籍を配布しながら働いていましたが,その他にも,数知れぬ人々がパンフレットとかビラを配ばり,又は人々に口による証言を行つていました。4月に及んで,これら御国音信の伝道者を威嚇しようとする試みが牧師たちの陰謀によつて行われました。然しながら,1918年の4月15日には,『御国のたより』第2号が発表され,これは幾百万冊も配布されました。その表題は次のような大胆なものでした。『「完結せる奥義」何故抑圧されるや ― 牧師その脊後に躍る』カナダ及びアメリカ合衆国内で為されていた抑圧につき,4月15日までの諸事実は公衆にはばかることなく公開され,協会を破滅しようとしていた牧師たちの試みを暴露しました。この『御国のたより』の配布と一緒に,請願書も配ばられましたが,それはアメリカ合衆国大統領ウイルソンに宛てられたものです。

      『我ら,左記に署名したるアメリカ人は,各自のなす聖書研究に対する牧師たちからの妨害が狭量,非アメリカ,非クリスチャン的なものであることを主張する。また教会と国家とを結び合せようとの行為は明らかに誤つているものである。平和と宗教の自由の見地から,「完結せる奥義」への抑圧に対して,我々は,真剣なる抗議を提出する。また政府がその聖書の助けの使用上の凡ゆる禁止を取り払つて,人々が何らの妨害とか制限をうけることなく,聖書研究の助けを売買,所持,読書できるように,ここに請願する。』

      1918年5月1日からは,『御国のたより』第3号が幾百万冊と配布され始めました。その表題は,『二つの大いなる戦いま酣 ― サタンの戦略失敗に向う ― 反キリストの誕生』というものでした。

      1918年5月7日に,ニューヨークの東方地区に於いて,8名の兄弟を逮捕するため,アメリカ合衆国の地方裁判所から令状が出されました。彼らは,協会の運営及び編集の事項を問われたのでした。それらの兄弟は,ジエー・エフ・ルサフォード,ダブリュー・イー・ブアンアムバァー,エー・エッチ・マックミィラン,アール・ヂエー・マーテン,シー・ヂエー・ウードウァース,ヂエー・エッチ,フィシャー,エフ・エッチ・ロビンソン及びヂー・デセィカでした。次の日の5月8日,アメリカ合衆国の憲兵によつて,これらの兄弟はベテルで捕われました。逮捕の行われた後まもなくのこと,8名は国家裁判所に於いて,判事ガァービンの手によつて,審問されました。このとき,大陪審によつて以前に返却されていた起訴状が,前記の8名に対して云い渡されたのです。

      『これら8名の者は,不法にも,陰謀をたくらみ,一緒になつて,同盟をくみ,一陪審員をも含んだ,数多くの人々と共に,アメリカ合衆国に対して幾多の重罪を犯したものである。即ち,不法にも,また意識的に,不服従と不忠節をすすむる重罪を犯し,合衆国が戦時であるにも拘らず,アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の徴兵義務を拒否した。……また個人個人に懇願したり,手紙また公開講演会などの手段によつて,前記の罪を犯した。聖書研究第7巻「完結せる奥義」という書籍と「月刊,聖書研究者」という印刷された冊子及び「ものみの塔」「御国のたより」その他沢山の印刷物をアメリカ合衆国全体に亘つて配布した。』

      審問の終了後,被告たちは保釈金を各人2500ドル支払つて,出廷を許されました。裁判は1918年の6月3日に決定されたのです。(ローマ・カトリックの)『書板』誌の1918年5月11日号は次のように言つて,彼らの本心をほのめかしていました。

      『「御国のたより」の広まるところ,誰かは刑務所に行くだろう。ヂェー・エフ・ルサフォード及び彼の仲間たちは,多分この夏を別荘で過ごし,其処で,自由の監禁を買えと云つて嘲ける暴民からの攻撃をまぬかれることだろう。! ……(カトリックの)教会を乱すことを喜ぶルサフォードとかその一味が,官憲に何時も追跡されているのは,興味深いことだ。反カトリックと反アメリカとは,双児のように思われる。』

      ブルックリンに於ける国家裁判所で,6月3日月曜日から法廷は開かれました。供述書がまず8名の被告によつて提供されましたが,それには,判事ガーブィンが偏見を被告及びその仕事に抱いていると信じられる理由が述べられていました。またその偏見のために,裁判は判事チアットフィールドに廻わされ,更にまた,合衆国判事ハウがヴァーモント州からブルックリンにまで特別に来て,この裁判を扱うようになつたことを供述しました。15日間の裁判の後に(後日になつて,125の誤りがあつたことが判明し,その少しの誤りを認めただけで,上訴の法廷は真に前の裁判事務が不公平であると非難しました。即ち6月20日木曜日午前10時に,陪審員から『有罪』との評決が言渡されました。翌日6月21日,12時直後に,ハーランド・ビー・ハウ判事は,被告に20年の刑を宣言しました。かくして,兄弟たちは,ジョーヂア州アトランタアに在る連邦監獄に於いて刑に服するようになつたのです。法廷はデセカウ兄弟に対しての宣告を後日まで保留していました。1918年のニューヨーク,ツリビューンという新聞は次のような説をかかげています。

      『ジエー・エフ,ルサフォード及びその他の「ラッセル派」の人々は,スパイ事件に問われて,ハウ判事により20年の刑を昨日言渡された。服務地はアトランタアである。然し法廷から監獄に向うルサフォード氏はこう語つた。「今日は私の生涯で最も幸福なときである。自分の信ずる宗教の故に,この世から罰をうけるのは,人類のもち得る最大の特権の一つである。』ブルックリンの合衆国裁判所内の憲兵たちが,嘗つて見たことのない光景が,有罪になつたものの家族とか近親のものによつて展開された。それは被告たちが大陪審員の部屋に連れられた直後のこと,これら被告及び彼らの友だちは,古い建物一パイに,「結ぶきずなに幸いあれ」の歌声を響かせた。彼らは顔を輝かせながら「これは全く神の御意だ」「いつかは世間もこの事件の真相を悟るだろう。それまで,私たちは,この裁判中私たちを支えつづけて下さつた神の恵みに感謝しながら,来らんとする大いなる日を待ち望もうではないか」と語りあつた。』

      兄弟たちによつて要請されていた保釈も2回に亘つて不法に却下され,次にワシントンの最高裁判所の協力によつて保釈を得ようとした準備が完了する前に,兄弟たちはニューヨークからジョーヂア州アトランタアの連邦監獄に身柄を移されました。それは7月4日のことです。1918年7月3日に,ルサフォードは次のように発表しました。これは後日,公やけにされた手紙の中に記るされていたものです。

      『過去幾年も協会とその業に反対していた7人の者たちは法廷に出席し,検事側を援助していたことを知つた。ある者は協会の支配を得ようと狙つて,いま,あなた方の機嫌を取ろうとしている。愛する者よ,このような者の巧妙さによく警戒しなさい。』

      これら役員であつた兄弟たちが入獄しているあいだ,協会を運営するために,執行委員が任命され,又『ものみの塔』を継続してかくために5名からなる編集委員も任命され,活動するようになりました。この『ものみの塔』はこの危機の時代にも,1号すら欠如しませんでした。続く日々のあいだ,国中に亘つて,聖書研究者に対する迫害は続きました。数多くの投獄,暴民による不名誉な事件,集会所への襲撃,書籍の焼却,新聞界及び宗教界からの罵言などがたえずありました。その時は戦争中のために,必要物資の入手が困難となり,遂にブルックリンの本部を閉鎖するの止むなきに至りました。それは1918年の8月26日のことです。事務所は,ペンシルベイニィヤ州ピッツスバークのリラィマンス国道に移転されました。『ブルックリンの幕屋』の事務所と発送所も,またベテルの家も閉ぢられる運命になりました。このようにして,嘗つて世の注目を浴びていた証者のヱホバとその御国への高らかな声も沈黙し,これら証者の業は謂わば殺されたような状態でした。かつて活潑なクリスチャンのこの一団の上に死んだような状態が訪れたのです。彼らクリスチャンはバビロン的の捕われの絆に固く縛られてしまいました。

      1918年11月11日に,突如として休戦ラッパが鳴り響き,第一次世界大戦は終りを告げました。沢山の戦争犯罪者たちはすぐ釈放されましたが,多くの聖書研究者にとつては依然として自由は与えられず,尚も国中の監獄とか収容所に入れられたままでした。アトランタア監獄に収容されていたルサフォード及び彼の友だちは,監獄のなかでも伝道に忙しいときを過していました。毎日曜日聖書研究の級<クラス>を司会することが許され,入獄中のものが100人程もいつも出席していました。1919年の1月4日,ピッツスバーグの地で,大会と法人の会合とを兼ねたような大集会が開催されましたが,これには1000人の活潑な伝道者が出席し,ルサフォードを再選出し,またその他の兄弟たちを役員及び理事に再選挙しました。彼らは,入獄中の8名の役員たちの無罪なることを述べた決議文を通過しました。1919年の2月には,ルサフォード及びその友たちの釈放についての運動が,ある新聞社によつて始められ,それは全国にひろがりました。同様に,収容中のクリスチャンの友も数千の手紙を,新聞の編集者に,上院,下院の議員に政府の要人に書き送り,適当な処置を取るよううながしたのです。沢山の人々は目覚めて,これらクリスチャンの解放に味方しました。次に3月に兄弟は全国的規模の請願書を作成して,僅かのあいだに70万名の署名を得ました。

      これによつて,誤つて非難され,投獄されている人々に正しい取扱がなされるようにと懇請したのです。この請願書は政府に提出されませんでしたが,『真理への証言』となりました。また,不法にも非難を浴びせられていた,ヱホバの御国の伝道者の再起の力強い印でもありました。

      1919年の3月2日,さきにクリスチャン兄弟に20年の宣告を与へ釈放を許さなかつたハーランド・ビー・ハウ合衆国判事は,グレゴリイ司法長官に電報を送りました。その電文のなかには8名の兄弟の名も挙げられて,直ちに彼らに対し減刑処置をとるようすすめていました。(グレゴリイ司法長官からの退任は1919年3月4日から有効となつていました)クリスチャン兄弟たちが上訴するのを止めさせようとする工作もこのように失敗しました。やがて1919年3月21日になつて,合衆国の最高裁判所の判事ロイス・デー・ブランデイスの監督のもとに,8名に対する釈放命令が出されました。次にニューヨーク地区の国家裁判所の3名の判事の命により,8名はアトランタアからニューヨークに移り,4月14日の上訴のための聴問会の準備がされるようになりました。3月25日の火曜日,8名の兄弟は列車によつてアトランタアを離れ,ブルックリンへと向いました。3月26日に1万ドルを払つて彼らの釈放は正式に認められ,自由の身となつたのです。彼らがブルックリンに到着したときには,歓迎会が待ち構えて居ました。後日には,当時一時的のベテルの家のあつたピッツスバーグで彼らは再会の喜びを味わつたのです。(つづく)

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1955 | 10月15日
    • 読者よりの質問

      ☆ イエスは,実際には『神の子』でありながら,なぜギリシャ語聖書の中で『人の子』と言われているのですか? ― アメリカ合衆国の一読者より

      ギリシャ語聖書の中でイエスは,『人の子』と言われますが,それはメシヤについてヘブル語聖書ダニエル 7章13,14節は『人の子』という表現を用いているからです。『我また夜の異象の中に観てありけるに,人の子のごとき者雲に乗りて来たり,日の老たる者の許に到りたれば,すなわちその前に導きけるに,之に権と栄と国とを賜いて諸民,諸族諸音をしてこれに事えしむ。その権は永遠の権にして移りさらず又その国は亡ぶることなし。』

      ユダヤ人の最高法庭議会の前にイエスはひき出されて,裁かれた時に,大祭司はイエスにこう尋ねました。『あなたは神の子キリストなのかどうか,生ける神に誓つて答えよ。』イエスは答えて『あなたの言う通りである。あなた方に言う。この後,あなた方は人の子が力ある者の右に坐し,天の雲に乗つてくるのを見るであろう。』と言われました。大祭司はこの答を聞いて,自分の衣を裂き,『彼は神を冒瀆した。どうして,これ以上証人の必要があろうか』と叫びました。(マタイ 26:63-65,新世)そのとき,イエスはダニエルの予言を御自分に適用しました。それは,こういうことを言つたのと同じです。つまり,イエスは,予定の時にヱホバから御国をいただき,そしてその御国の力をもつて来る人の子,すなわちメシヤであるということです。ユダヤ人たちはこのメシヤのしるしを見ようと欲していました。しかし,イエスは彼らの悪い邪しまな時代には只予言者ヨナのしるしが与えられるであろう,そしてヨナが魚の腹に三日三晩いたのと同じく,人の子も陰府の中に3日いるだろうと語られました。ダニエルの述べたメシヤのしるしは,その時に表われるのではありません。イエス御自身弟子たちに語られたごとく,御国の力を持つて来るのは,彼の再臨の時であります。―マタイ 12:38-40; 24:30。

      予言の中で,イエスを人の子と言い,その表現がギリシャ語聖書中で用いられているのは,適当なことです。なぜなら,イエスが地上にいたとき,彼は人間であつたからです。彼は人間の血統と系統を通して,一処女から生まれました。人の子という称号により,彼は人間に最も近い方であり,ハルマゲドンにおいて血の報復をなされる方ということが思い起される故に人の子という表現は適当なものです。

  • 発表
    ものみの塔 1955 | 10月15日
    • 発表

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      『ものみ塔』研究

      11月13日 天からの戦争は,地に平和をもたらす 387頁

      11月20日 天からの戦争の後に来る平和 392頁

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