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  • 迫害は始まる
  • ポーランド保安当局者の手中で
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  • 証者たちに対する援和
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
塔57 8/1 283–286ページ

共産主義のポーランドで忠実を守る

ここに述べられている事実は,ポーランドにいるヱホバの証者の監督奉仕者が,ワルソーのポーランド国家検事総長に提出した2通の書類から取つたものです。

『ソヴエット人の規則には自由も公正もない。それは各個人の意志の抹殺と無条件の服従を土台としている。しかし,我々は主人である。抑圧は我々の手に委ねられている。徹底的に手厳しくすることは我々の義務である。そしてこの義務を遂行する際に,極端な残酷さは最もいいものとして認められる。』― レーニン。

悪魔の精神を持つた者でなければ,この言葉は出ないでしよう。もちろん,1917年のロシヤ革命の指導者レーニンは良いものにしても悪いものにしても,超人間の力の存在を信じませんでした。生粋の共産主義者のすべてと同じく,彼は無神論者でした。生命と人間の存在を説明するものとして,このような人々は昔からダーウインの進化論を歓迎しています。それで,全智全能の創造者に誉を帰することは無用なこととしているのです。人間は進化論の産物であるという共産主義者の考えからすれば,人間の価値がそのように低いことも,うなずけます。彼らにとつては,人間は他の動物よりも高い進化の段階に達した動物の一つに過ぎないのであつて,共産主義者の利益の為なら,その意のままに扱うことのできるものです。

過去40年間のソ連邦の歴史や,また何百という収容所に閉じこめられてきた何百万人の奴隷労働者,そして無数の者がみじめにも死んだことを見れば,このことは証明されます。ハンガリーに起きたこと,そして起つていることを見ても更には第二次世界大戦の終了以来,ポーランドの如き共産主義者の支配下にあつて,ヱホバの証者が苦しんできた迫害を見ても,そのことは分ります。

迫害は始まる

1905年の秋に,一人の献身したクリスチャン,『聖書研究者』がスイスからワルソーに移つて来て,その地の或る編物工場の支配人となりました。このようなクリスチャン奉仕者の誰でもがするように,その人は自分が抱いている神の御国の希望を,最初は通訳を用いなければならなかつたのですが,他の人々に知らせました。ある人々は聞いてから信仰を持ち,それからヱホバに奉仕するために献身し,この良いたよりを他の人に語り始めたのです。50年程前のその小さな初まりから,ポーランドにおけるヱホバの証者の業は成長して,どんな嵐をも凌ぐことのできる美しい,強い堂々とした木になりました。この木に打ちつけた嵐の中には二つの世界大戦そしてナチ及び共産主義者の独裁支配もありました。

第二次世界大戦の終了と共に,ヱホバの証者は伝道の自由を獲得しました。しかし,それは長くは続かなかつたのです。少しづつ共産主義者の反対は表面に表われ始め,そのために1948年までには,地域及び巡回大会として知られている年一度と二度の大会を開くことは不可能となりました。ナチの強制収容所で,ヱホバの証者のある者たちは,ジョゼフ・セランキウィッチと一緒に入つていました。ところが彼は1947年から1952年まで,及び1954年3月19日以来,総理大臣の職についています。ヱホバの証者たちは彼に食物を分け与え,その他多くの方法で彼を助けました。ヱホバの証者の立派な行いに彼は深く心を打たれたのです。そのとき彼は証者たちに向つて,戦争が終つて,万一にも自分がポーランド政府の要職についたならば,そしてその時,証者たちが何かの困難に陥つたならば,是非,私のところに来るように,と語りました。1948年に証者の前途は余りにも暗いものとなつたので,その代表者たちは彼を訪れました。セランキウィッチは喜んで代表者たちを迎え,何が起つているかを知つてはいるが,自分は無力であつて如何とも為し難い,と語りました。

しかし乍ら,これより前,1946年2月にロヅにある地区保安区局は,その地にあつた協会の支部事務所の主だつた者たちを逮捕しました。その一人はこう告げられました,『あなた方は時勢の流れに沿つて行動しなければならない。そうしないならば釈放されないだろう。』その言葉の意味を尋ねたところ,役人は次のように言いました,

『お前たちは我々と協力しなければならない。それから宣言書に署名して我々はそれを金庫の中に保存する。お前たちは匿名とそれを用いて署名した報告書を与えられるだろう。そしてそれをこの役所又は私の家に持参するか,あるいは誰かが,それをお前たちの家に行つて受け取る。ローマ・カトリックの全部の礼拝に出席して,牧師の説教を注意深く聞くように,ヱホバの証者を組織しろ。そうすれば人民支配に敵対する言葉とか,国家に偏見を抱かせる言葉に気がつくだろう。』

証者は拒絶しました。そして,証者たちは聖書の真理のみによつて,その敵と戦うのであり,かつ隣人を愛していると述べました。その逮捕された証者は,スイス・ベルンのポーランド大使に提出された抗議によつて,後に釈放されました。

1946年の6月に,ロヅの役人は支部事務所に来て,証者たちの協力を要求しました。役人は,もし拒否するなら恐ろしい結果になると警告し,協力するなら方々の市にある一ばん良い会館を,ヱホバの証者の集会のために提供すると約束しました。そして『何人といえども我々を邪魔することはできない。』と証者に告げました。証者は頑として立場を変えなかつたので,共産主義者の手先は,大そう怒つて帰りました。次の日その証者は誘拐されましたが,それは余りにも巧妙に行われたため,誰も気がつきませんでした。しかし政府の検察官に呼び出されると同時に,彼は釈放されました。

1950年4月21日の午前10時30分,保安局の役人たちは支部事務所を襲い,主だつた者たちを逮捕しました。何の令状も出されませんでした。このことは政府検察官の認知なしに逮捕が行われたことを示すものです。それから程なくして,支部事務所に働いていた者全部が逮捕され,業はポーランド全土に亘つて公式に禁示されました。

ポーランド保安当局者の手中で

逮捕された証者たちは,どんな仕打ちを受けましたか。典型的な例をここに挙げます。ついでですが,次の事を知るのは興味深いことです。ウラディスロー・ゴムルカの支配下にある現ポーランド政府は,スターリン主義者の『社会主義者の法律尊重主義』違反を非難して居り,保安省の以前の役人を召喚して,その悪行の調査を決定したのです。

証者たちはロヅにある保安地区事務所に連れて行かれ,『第三種』なる拷問の方法が直ちに適用されました。証者Aは8日の間,昼も夜も休みなしに尋問され,虐待されました。証者Bも6日間,同じような取り扱いを受けました。

証者Aはあざだらけになるまで続けさまに殴打されました。スパイであつたと白状すれば,拷問は止むと何度も彼は言われたのです。拷問者たちは,1通の書類に署名することを要求しました。その書類の要旨はつまり彼がポーランドの利害に反する情報を知らせるために,ラジオ放送局建設を命令したということです。全くのつくり事であるこの書類に,とうてい署名できないと答えたところ,『作り事であろうとなかろうと,署名すればよいのだ。さもなければ自由は得られないぞ。』と言われました。

彼が殴打のために意識を失うと,意識を回復するまで,そして衣服についた血が洗い流されるまで冷い水がかけられました。一度,彼は72時間の間,ひざまづいた姿勢のままでいるように強制されました。その後,彼はワルソーにある保安省に送られました。ロヅでの拷問は彼をくじくことが出来なかつたからです。この虐待のために,彼は一生の間回復できないほどに健康を害しました。しかし,その忠実は害われなかつたことに注意して下さい。それは更にも増して輝いているのです!

証者Cは3日間,食物を絶たれました。彼は仲間の証者に対する偽りの告訴状に署名することを拒絶したため,棒で打たれました。彼らは絞殺するとおどしましたが,そのおどかしは功を奏しませんでした! 彼は床の上に投げ倒され,打たれ,役人の足で踏みつけられました。そして彼の足の裏はゴムのこん棒で打たれたのです。彼の鼓膜は破られ,肋骨は折られました。全部で32日もの間,このような虐待に苦められたのです。

ワルソーで証者Aは裸のまま,暗い小さな穴に入れられました。その中で坐ることも,横になることも,真直ぐに立つこともできないのです。24日間,彼はそこに入れられたままでした。再三再四,拷問者たちは,屈服するようにと要求し,最後にはその妻と子供を殺して,彼を粉々にしてしまうとおどかしましたが,彼は,たとえ自分や妻子に何をされても,神に不忠実となることはできないと告げました。

脅迫した通りに,彼らは妻と子供を逮捕しました。ひどい虐待のために,彼の妻は5年間も出血に苦しみました。娘はもつとひどく虐待され,そのために精神が異常になつたほどです。彼と隣り合わせの独房に,彼らは彼の娘と似た声の少女を入れて,少女は『あの人たちに罪はないのだから,あの人たちを出してあげて! お母さんのところに行かせて!』などと叫び,嘆願しつゞけていました。その間中,証者Aはそれが自分の娘の声だと思つていたのです。

一度,その証者は次のように言われました。共産主義者のために働くなら,自分の苦しみ,妻と子供の苦しみは終るというのです。考えるために3日間の考慮期間が与えられました。その証者は答えました,『私は決してスパイや情報提供者となつたことはないし,これからも決してなりません。3日たつても答は同じです。たとえ私の生命,妻と娘の生命を失おうとも,これが私の最後の答えです。』その証者は後に,それよりも更に残酷であるといわれているモコトウの刑務所へ移されました。

モコトウの刑務所がそれ以上に悪いということなどがあり得るでしようか。ほんとうにそれ以上の苦しみなどはあり得ません。しかし,そこで証者Aは胸をひどく殴打されたために,その後長年の間,深い息をする毎に胸が痛むようになつたのです。そこでは,共産主義者はむしろ,犠牲者を陥れるような質問を仕組むことに特にたけて居ました。彼らは犠牲者が言つたことを歪曲し,法廷に出たときには,そのような証言に基づいて刑が宣告されたのです。

証者Bも同じような目に遇いました。頭と腹をめつた打ちにされた上に,あごの靭帯をさかれたため,彼は何日もの間,食べることができませんでした。そしてこのように言われたのです,『お前はヒトラーに反対したため,殆んど5年間もドイツの強制収容所にいたかも知れないが,我々は,しようと思えば,お前を一流のドイツ秘密警察官として告訴するだろう。』証者DもAと殆ど同じような目に遇わされました。打たれた上に小さな穴に入れられ,スパイ行為を白状するようにと,繰り反し要求されました。彼は頑としてそれを拒否したのです。

忠実な殉教者たち

前述の証者たちや,同じような苦しみを受けた多くの証者は生き延びて,その受けた苦しみを語りましたが,他の者たちは生き延びませんでした。このように,1950年8月2日に,証者Fはサイエスツエンの保安局に出頭するように命ぜられました。共産主義者に仕え,仲間の証者たちに害を加えることを拒絶して,その証者は将校に2度,射たれました。病院に運ばれ,彼は1時間後に死にました。死の直前に,彼は附添いの医者に次のように語りました,『私はヱホバに忠実に仕えた故に,保安省の将校に射たれました』死ぬまで忠実な証者です。

1950年8月15日,コルブツオフの保安隊は,アメリカ市民である証者Gを逮捕しました。彼は頭を殴打され,次に背骨を踵で踏みつけられたのです。精神を冒されて,6日後に彼は死にました。

証者Hは1953年1月12日に,ピスコフの保安局によつて逮捕されました。一人の者が別の一人に次のように言うのが聞こえました,『妻に別れを告げるように言え,彼はもう帰つてこないだろうから。』8日後に彼は殺されました。

リブニクの保安隊は,1950年8月10日に証者Iを逮捕しました。1950年9月12日に,その妻は彼がスパイとして処刑されたとの通知を受けました。遺骸を見たいという妻の願いは,却下されました。そしてまた葬式の時に棺を開けたいという願も却下されました。約4ヵ月の投獄の後に死んだリューブリンの証者Mの親類も同様な願いをしましたが却下されました。彼は首を吊つたと主張されています。

1950年6月20日に,バイアルストクの役人は証者Jを逮捕しました。彼は余りにもひどい苦しみを受けたので,歩くこともできなくなりました。そして逮捕されてから5週間後に,文字通り打たれて死んだのです。しかし1年半たつた1952年の2月に,その母親は初めて息子の死を知りました。

1950年6月19日の晩に,ルビスツフの役人は証者Kを逮捕しました。尋問の3日目に,彼は紙に印刷された聖書の句を説明するようにと求められ,説明している間に射たれて殺されました。その体はあざだらけで,傷つけられていました。

同じ日に証者Lは,サンドミエルツの役人に逮捕されて,キールスの保安隊に連れて行かれました。取り調べの間に,彼は床に投げ倒され,頭を蹴られた上に踏みつけられたため,肺と腎臓が破れて口と直腸から血が流れ,遂に死にました。

証者Nは1951年1月17日に,カリスツに近いストウで逮捕され,6日に瓦る虐待を受けて,彼は殺されました。その地の証者たちが受けた虐待の典型的なものです。彼は突先きのある一本足の椅子に無理に座らされ,その先は直腸に突きささりました。足とあごに電流が流されました。意識を失うまで吊り下げられてから,水槽の中に投げ込まれました。正気に返ると,再び拷問が続けられ,スパイ行為を白状するようにと迫るのでした。

1月25日に彼の妻は夫の遺体を見ることを願い出ましたが,拒否され,夜になつてから,遺体を引き取つて葬るようにと,電話で知らされました。国家検事はその妻が死体公示所に入ることを許しました。証者Nは28歳で,6日前には強健そのものであつたのに,骸骨のようになつていました。その体は頭から足先まで赤く腫れたところがあつて,虐待された跡をまざまざと残していました。その生殖器も傷つけられ,腫れているという具合です。

スタッテインの保安隊は,1952年5月20日に証者Oを逮捕して,ワルソーの刑務所に連れて行き,二,三ヵ月後にロズの刑務所に連れて行きました。2年後に,彼の妻は夫が病院にいることを知り,遂に面会の許可を得ました。彼は骸骨のようになつていたために,妻は夫を見分けることができませんでした。弁護士は,『取調べ』の一時中止を願い出ることを,彼女にすすめました。それが遂に許されて,彼女は1954年9月3日に,夫を家に連れて帰ることができました。彼は家と子供を再び見ることができて喜びましたが,8日後に死にました。2000人が葬式に列式して,今では普通に『ベリヤ主義』と呼ばれている残酷を極めた共産主義警察の仕打ちに抗議したのです。

証者たちに対する援和

他の証者は虐待されて視力を失い,他の者は全部の歯を失つたり,更に多くの者は一生涯の不具となつて,生計を立てることさえもできなくなりました。『非スターリン化』運動の初めとなつた,モスコーにおける第20回共産党会議の後で,スパイ行為という告訴は取り下げられました。少くとも当分の間,ポーランドに関してはベリヤ主義は過去のものとなりました。ポーランドの政府当局者は,ヱホバの証者をも含めて,何千人という無実の人に為された悪行に対しては,司法部ができるだけの手を尽くして,償いをすると語りました。

ここに1957年度『ヱホバの証者の年鑑』から次の抜粋を載せるのは,適切なことです。『一人の政府高官は語りました,「私はあなた方の立場には心を打たれる。」そして言葉を続けて次の如く述べました。ポーランド政府がヱホバの証者を再考慮したのには,三つの主な理由があり,それは次のようである。(1)6年聞の禁止にも拘らず,ヱホバの証者の教えは変らなかつた。(2)逮捕その他多くの困難にも拘らず,彼らは勇気を以て恐れずに,その宗教を実践した。(3)禁止の全期間に,その数は4倍になつた。』

たしかにポーランドのヱホバの証者は,共産主義の支配者がなした,あらゆる事にも拘らず,忠実を守りました。彼らは次の言葉を述べたヨブと同じ気持ちを表わし示したのです。『彼われを殺すとも我は彼に依り頼まん。』― ヨブ 13:15。

ヱホバの証者だけでなく,全世界にいる正義愛好者たちは,ポーランドの証者たちが忠実を守りつづけたことによろこぶと共に,そのことからはげましを受けています。彼らはそのことに予言者の次の言葉の成就を見ます。『すべて汝を攻めんとて作られし,うつわものは利あることなし,興り起ちてなんじと争い訴うる舌は,なんじに罪せらるべし,これヱホバの僕等のうくる産業なり,是かれらが我よりうくる義なりとヱホバのたまえり。』― イザヤ 54:17

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多くの人々はクリスチャン制度に入つて来ますが,それと共に私たちは古い世の行が持ちこまれることに警戒しなければなりません。講演者,制度,そして神の霊は肝要な知らせを持つています。それはすぐに提出されねばなりません。集会からはできるだけすべての益を得るべきです。集会は霊的な学校のようです。学校の生徒が授業をさぼつたり,廊下をぶらぶら歩いていたり,またひんぴんに欠席するなら,他の生徒からはずつと後れます。そのようであつてはなりません。正しい知識は,きわめて大切なものです。この事柄については更に293頁の大会で敬意を示しなさい,に述べられています。

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