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  • マラウィ 今そこで何が起きているか
    目ざめよ! 1976 | 11月22日
    • マラウィ 今そこで何が起きているか

      世界中どこへ行っても,マラウィのことが話題になると,あそこのエホバの証人はどうなりましたか,という質問がしばしば投げ掛けられます。それは,エホバの証人が近年マラウィで残虐な迫害の的となってきたからです。1973年に,アムネスティ・インターナショナルの発行した「拷問の記録」はこう説明しています。

      「十分実証された報告によると,1967年と1972年に,青年開拓者[マラウィ会議党(MCP)の青年団]とその支持者たちは,強姦,殴打,そしてビンの破片で顔をそったり,やけどを負わせたりして,エホバの証人を拷問にかけた。こうした迫害の結果,1972年の秋には大勢の人々が死に,約2万1,000人のエホバの証人はザンビアに逃れた。同地では,設備不十分な難民収容所の中で幾百人もの人が死んだ」。

      1972年12月,ザンビアにあるこのキャンプから追い出された多くのエホバの証人が故郷のマラウィに戻ると,彼らには残忍な仕打ちが加えられました。その結果,モザンビークとの国境を越えたところにやがて難民収容所が設けられました。1973年の初頭から1975年の8月まで,優に2万人を越えるエホバの証人がこうした難民収容所にやって来て生活しました。それから,アムネスティ・インターナショナルが最近報告したとおりの変化が起きました。

      「1975年6月,フレリモ政府がモザンビークで実権を握り,その後まもなく,フレリモ政府の高官たちの多くはエホバの証人を攻撃し始めた……その結果,ビラ・カンティンホ,ムランゲニ地区にある難民収容所は,八月中に閉鎖されたと見られる。アムネスティ・インターナショナルは,個別の証言から,[1975年]8月の末,多数のエホバの証人の難民が,行くあてもなくマラウィとモザンビークの国境をさまよっていることを知っている」。

      昨年,マラウィの故郷に帰ることを余儀なくされたエホバの証人に対して,大がかりな驚くべき残虐行為が加えられました。世界中の新聞がその迫害に関する報道を掲載しました。マラウィ政府当局は,そうした報道を否定したり,それらが誇張されたものであると主張したりしました。しかし,事実は何を示していますか。

      圧倒的な証拠

      これら残虐行為の中には,証拠資料によって立証されているものが幾十もあるというのが事実です。残忍な行為の被害者となったエホバの証人の氏名,加害者の身元,そうした事件の起きた場所などは明らかにされています。a R・E・S・クックは,ロンドン・オブザーバー紙がこうした残虐行為に関して大きく取り上げた記事について見解を述べ,同オブザーバー紙に次のような書簡を寄せました。

      「先週,マラウィのエホバの証人に対する残虐行為について伝えたコリン・リガムの記事は,わたしにとって少しも驚きとはならなかった。同様の報道は,数年前英国通信に寄せられた。わたしは当時マラウィで働いていたが,わたしの経験からすれば次の二点に疑問の余地はない。まず,最近の報道は事実上正確であり,次に,これまで同様,今回もこれら害のない無防備な人々を助けるために公の処置は一切取られていない,ということである。

      「わたしは,迫害が生じていたことを,マラウィ政府の公文書(地方長官が大統領府に提出する月次報告)から確認した。エホバの証人を助けるための公の処置が一切取られないということは,当時マラウィで開かれていた英連邦議員連盟の年次総会のほとんど無意味なやり取りからも明らかになった。わたしは関心を持つ傍聴人としてその会議に出席し,代表者たちに話し掛ける機会を幾度か持った。非公式の席では,エホバの証人に対する迫害のことが話題の中心となっていたが,会議の公式の席では全く触れられなかった」― 1975年12月14日付。

      セオドア・C・ピニーは,1970年代の初頭,マラウィのブンダ農業大学の学長でした。彼はエホバの証人が刑務所に連行されるのを自分の目で見ました。その中には,彼の個人的な友人もいたのです。それから,1972年11月のある朝,校庭の中にある彼の家の裏を見に来るよう言われました。そこには,六人の男と一人の女が無惨な死体となっていました。マラウィ会議党の党員は,それがエホバの証人であることを告げました。

      同学長は我慢ならなくなり,マラウィの大統領であるバンダ博士に直接会って,一再ならずそうした残虐行為に抗議しました。その結果同学長は,1972年12月に国外追放処分を受けました。今年の春,ピニーは一通の手紙の中で次のように説明しました。

      「そうした迫害が政府の公式の政策となり,エホバの証人の職員を解雇し学生を放校するよう地方大臣の事務所から指示され,それに従うのが遅いからと言って校内で血が流されるなら,こうした事柄に関してもはや黙っていることはできない」。

      エホバの証人に対するこうした攻撃と迫害は,マラウィ会議党および政府当局者たちの支持を受け,依然として続いています。1976年2月20日,マサチューセッツ州選出の米国の国会議員ポール・E・ツオンガスは,選挙区の一住民にあててこう書きました。「わたしが国務省アフリカ課に問い合わせたところ,新聞報道や[ものみの塔の出版物]に載せられた記事を裏付けるような報告を受け取った」。

      1976年5月26日付の南アフリカのランド・デイリー・ニューズ紙はこう述べています。「マラウィでのエホバの証人に対する迫害は,バンダ政権の最も悲しむべき局面と言えよう。エホバの証人は,自分たちの信仰を守るため,九年近くもひどい迫害に耐えてきた。青年開拓者の暴漢による,ひどい拷問,残忍な殴打,性的暴行の中で,十分に立証されているものは幾百となくある」。

      ニューヨーク在住のアーサー・ドリッツにあてた1976年6月14日付の手紙の中で,世界教会協議会の首席報道担当官ブルーノ・クロッカーは次のように書いています。

      「我々はマラウィのエホバの証人に対する迫害についての報道を調査した。文書による報道であれ,口頭による報道であれ,独自の調査もせずに,世界教会協議会が性急に行動できないことはお分かりいただけるだろう。

      「遅ればせながら受け取った確認の知らせは,確かに好ましくないものであった。そこで,当協議会の事務局長フィリップ・A・ポッター博士は,マラウィの大統領H・カムズ・バンダ博士に親書を送った」― 当誌の8,9ページをご覧ください。

      こうした迫害の理由

      しかし,マラウィではなぜエホバの証人がいつまでも迫害されるのでしょうか。

      それは,エホバの証人がマラウィ会議党の党員カードを買おうとしないからです。そのカードには,所持者がマラウィを支配する政党の党員であることが明記されています。しかし,エホバの証人が党員カードを購入して,政党に加わるなら,自分たちが信じ,擁護しているものを公然と否認することになります。

      イエス・キリストはご自分の追随者たちに関して,「彼ら(は)世のものではありません」と言いました。また,一世紀の政治支配者に向かって,「わたしの王国はこの世のものではありません」と言いました。(ヨハネ 17:16; 18:36)ゆえにエホバの証人は,政党に加わるのは正しくないと考えているのです。彼らは強情を張っているのでも,不条理なことを言っているのでもありません。身分証明書,あるいは所持者が税金を納める国民であることを明示するカードであれば,喜んで購入するでしょう。

      マラウィの政党当局が殺意に満ちた手段に訴えて人々を政党に加入させ,聖書で訓練された良心にそむく行ないをするよう強いるのは正しいことと思われますか。ローマ帝国が,皇帝に対する犠牲として祭壇に一つまみの香をたくよう初期クリスチャンたちに求め,そうしない者たちに死刑をもって臨んだのは正しいことでしたか。信教の自由を認める国々はそうしたことをしません。しかしマラウィは,自国民の信教の自由を認めると言いながら,エホバの証人を政治に参加させるために残虐な手段に訴えているのです。

      やむことのない迫害

      モザンビークから帰国したエホバの証人が監禁されている主な刑務所はドザレカ収容所と呼ばれ,リロングウェ北方のドワ付近にあります。そこからひそかに持ち出される短い手紙は,恐るべき苦難について伝えています。

      ドザレカに収容されている一エホバの証人は,手に入る唯一の紙片,つまりトイレット・ペーパーに,次のようなことを書いて送ってきました。「重病人であっても無理やり仕事に行かされています。病気の子供はドワの病院に送られます……が,病院側はエホバに従う患者を治療しようとしません。わたしたちはドワの病院を,エホバに従う人々のと殺場と呼んでいます。病院側は,M.C.P[マラウィ会議党]の党員カードを持つ者であれば手厚く治療します」。

      今年の4月には,セメント袋の切れ端に書かれた短い手紙が届きました。それによると,ドザレカに収容されたエホバの証人のうち,65人の子供と5人の大人,合計70人が死亡しました。しかし,その手紙はさらにこう述べていました。「良い知らせ。兄弟姉妹たちすべては迫害され,石の運搬をさせられながらも,喜びに満たされています」。彼らは強制労働の一部として,石を運ばされたようです。

      困難な事態にもめげず,エホバの証人たちは刑務所内でクリスチャンの集会を開くよう取り決めました。一人のエホバの証人はこう書いています。「今ではすべての人が信仰にあって堅く立っています。わたしたちは毎週三つの集会を開くよう取り決め,男子用の監房で集会を開いています。そして,“X”姉妹が姉妹たち[の集会]を司会するよう取り決めました」。

      ドザレカでは,イエス・キリストの死の記念式も小さなグループに分かれて祝われました。一人のエホバの証人はこう伝えています。「話の前後には,どの監房からも歌が聞こえてきました……4月14日のこのすばらしい日に,合計1,601人が集まりに出席し,13人もの人が象徴物にあずかったことを聞けば,喜んでくださるに違いありません」。

      マラウィのエホバの証人の大半が,刑務所に入れられているわけではありません。他の国へ逃れた人も大勢おり,逃げた先の国でクリスチャン兄弟たちの親切な援助を受けています。そのようにして逃れた人の一人は,“Y”兄弟です。同兄弟は,1972年にモザンビークに逃れるまで,マラウィのモンキー・ベイにあるエホバの証人の会衆の一員でした。同兄弟は,逃れた先のアフリカ南部の国で書いた,1976年6月6日付の手紙の中でこう述べています。

      「1975年,わたしたちはマラウィ政府によって,モザンビークからマラウィへ強制送還されました。わたしたちがマラウィに着くと,彼らは迫害を開始しました。しかし,村長が迫害者たちにわたしのことを報告しなかったために,わたしは難を逃れました。しかし,それも役には立ちませんでした。わたしは水を買いに行くことも,くみに行くこともできなかったからです。そこでわたしは村を出ることにしました」。

      一方マラウィの中にも,エホバの証人がなんとか平常通りの生活を送っていると思われる地区があります。「わたしたちに対する仕打ちを見て,同情する警察官は少なくありません」と一人のエホバの証人は述べています。しかし大抵の場合,エホバの証人を捜し出して,危害を加え,投獄しようとするのは,マラウィ会議党の人々です。そうした人々がいるために,生活は危険なものとなっています。

      マラウィのチンタチェからの連絡によると,“奥地”に隠れていたあるエホバの証人は同国から手紙を持ち出すことに成功しました。その手紙の中には,「マンクホクウェ平原で気を失うまで殴打された」エホバの証人の氏名が挙げられていました。しかし,ごく最近の報告によると,エホバの証人が奥地での生活を余儀なくされることはもはやなくなり,事態は良くなる兆しを見せています。

      マラウィのヌクハタ・ベイから一人のエホバの証人は次のように書いて来ました。「ティンビリ酋長は兄弟たちに,党員カードを買って政治に参加する意志があるかどうか尋ねましたが,兄弟たちは皆それを拒みました。そこで彼はいすを後ろに押しやり,兄弟たちのところに近付いて来て,彼らを殴り始めました。酋長は,一人の兄弟の頭を押え,その兄弟の妻の頭をもう一方の手で捕らえて,二人の頭をはち合わせにしました。二人の兄弟とその妻たちは,血で真っ赤に染まっていました」。

      隣接するアフリカの国に住むエホバの証人の報道員は,要約して次のように述べています。「敵対者は,兄弟姉妹を弱めると思うことなら,どんなことでも行なっている。あるところでは,兄弟と姉妹の別なくエホバの証人を逮捕し,別の場所では兄弟たち,特に長老や,責任のある兄弟として知られている人々を選んで逮捕している。こうした逮捕は,兄弟たちを知っている地元の党関係者の手で行なわれることもあり,彼らが兄弟たちを警察に連行する。赤子についても同様である。最初は赤子を親から引き離していたが,別の時には親たちもろとも刑務所に収容した。ドザレカで赤子が死んだことが伝えられているとおりである。兄弟たちを気落ちさせるためには,どんなことでもするのである」。

      マラウィのエホバの証人に対して行なわれているこうした事柄をどう思われますか。無実でありながら苦しめられているそうした人々のために,自分の意見を述べたいと思われますか。世界各国の高官を含め,大勢の人々がそうしているのをご存じでしたか。

  • 残虐行為に対する世界的な抗議
    目ざめよ! 1976 | 11月22日
    • 残虐行為に対する世界的な抗議

      エホバの証人は,ここ数か月間に文字通り幾万通もの手紙を,バンダ大統領を含むマラウィ政府当局者に書き送りました。それらは,自分たちのクリスチャン兄弟姉妹の被っている苦難を和らげる処置が取られるよう求めるものでした。しかし,この残虐行為が広く知られるようになり,数多くの独自の調査によってそれが確認されるに及んで,エホバの証人以外にもますます大勢の人々がマラウィの当局者に対する抗議の声を上げています。

      例えば,米国のチャーチ上院議員はこの迫害を非難し,米上院で次のように語りました。「エホバの証人に起きている事柄を明らかにした,ウォール・ストリート・ジャーナル紙の社説とダイヤル・トルガルソンがザンビアで書いたロサンゼルス・タイムズ紙の記事を[連邦議会]議事録に転載することについて,満場一致の同意を求める」。異議は唱えられませんでしたので,それらの記事は連邦議会議事録,1976年1月21日,S224ページに載せられました。

      さらに,米国の下院議員ジョージ・E・ブラウン二世は,議会で次のように語り,その言葉は連邦議会議事録,1976年1月28日,E262ページに載せられました。「一党独裁の政府を持つマラウィの法律によれば,国民はすべて政党カードを所持しなければならない。エホバの証人はそれを携行しようとしないため,迫害を受けている」。

      ブラウン下院議員はさらにこう述べています。「この問題に関する以下の記事を読むよう議員諸兄に強くお勧めする。そして,この記事は連邦議会議事録にも入れていただきたい。また,議員諸兄が,マラウィ政府高官と直接に連絡を取ったり,我が国の外交政策の優先順位を変更したりして,このような出来事の流れを変えるために,より積極的な役割を果たすよう求める。我が国の政策は,そうした事柄に対する我々の憎悪感を反映するべきものであり,無関心を反映するものであってはならない」。

      さらに,エホバの証人に加えられている迫害に関する新聞報道を,単に連邦議会議事録に入れる以上のことがなされました。米国政府当局者の多くは,この問題に関して,マラウィのバンダ大統領に直接書簡を送りました。そうした手紙のうちの一通をこのページに掲げます。

      国会で,エホバの証人に対する迫害について意見を表明した政府はほかにもあります。1976年2月17日,デンマークの国会議員ベント・オノーレは,同国のエホバの証人の支部事務所に電話を入れました。同議員は,デンマークの国会でマラウィのエホバの証人の惨状について話し合われたので,「自分たちが忘れられてはいないことを彼らが知り,この知らせが励みになるよう願っている」ということを,マラウィのエホバの証人に知らせて欲しいと述べました。

      また,マラウィのエホバの証人に加えられた残虐行為は,1976年3月,西ドイツのボンで開かれたドイツ国会下院の長期にわたる論議を促すものとなりました。例えば,答弁に立ったビシュネウスキー国務相は,一部次のように述べました。「連邦政府は,マラウィのエホバの証人に対する迫害の報告を機会に,大使を通してマラウィ政府にドイツの見解を表明するつもりである」。

      調査の結果

      前の記事にも示されていたとおり,世界教会協議会の首席報道担当官は,同協議会がエホバの証人に対する残虐行為について独自の調査を行なったと述べました。その結果,世界教会協議会の長であるフィリップ・A・ポッター博士は,「目ざめよ!」誌のこの二ページに転載されている書簡をバンダ大統領に送りました。

      さらに,1976年6月,世界教会協議会はこの問題に関して新聞発表を出しました。その発表によると,ポッター博士は,「現在,収容所に拘禁されていたり,逮捕され,拘置所に入れられていたりする同派の会員を釈放するよう,マラウィの大統領H・カムズ・バンダ博士に呼び掛けた。ポッター博士は,彼らを郷里の村に送り返し,正常な暮らしをさせるよう強く求めた」。

      それに加えて,その新聞発表は次の点をも取り上げていました。ポッター博士は,「エホバの証人に対する同国政府および会議党の態度や政策を再検討するよう求め,この問題の永続的かつ最善の解決策を見いだすために,エホバの証人の指導者と話し合うよう勧めた」。

      さらに多くの抗議

      エホバの証人を支持して,マラウィ政府になされる抗議は,様々な形を取っています。例えば,1976年4月6日付のザ・エグザミナー紙の記事があります。米国ミズーリ州インディペンデンスで発行されている同紙は,マラウィのブランタイア市がインディペンデンス市の姉妹都市であることを説明し,こう述べています。

      「ブランタイア市からは助成金の要請があり,それは同市に送られた。バンダ博士も1968年にインディペンデンス市を訪れ,ステファンソン・リンゴ園で開かれた昼食会の席上,棒の先に付けたライオンの尾を振ってすべての人を祝福した。好むと好まざるとにかかわりなく,我々と,悪名高い同博士およびその町ブランタイアとの間にはかなり深い関係がある」。

      それから,ザ・エグザミナー紙の記者キース・ウイルソン二世は,次のように抗議しています。「わたしは市議会が,この関係を即刻解消するか,さもなくば,バンダ博士の哲学にのっとって,4月20日のヒットラー誕生日を祝うためのしかるべき式典を準備するよう提案する」。

      そうです,バンダ大統領を直接知る人々の多くは,マラウィで起きている事柄を深く憂慮しています。その中には,米国や英国で学生時代を送ったころのバンダ博士を覚えている人もいます。同博士は,英米両国で幾つもの大学に通い,医学上の訓練を受けました。ウイルバーフォース・アカデミーで同博士を教えたことのあるフローラ・イサベル・アスキューは,エホバの証人に対するバンダ博士の仕打ちを聞いてこう叫びました。「なんということなのでしょう。彼がここまで身を落としてしまうとは」。彼女は,1960年代にバンダに会った際,「彼の願いは自国民を解放するということだけ」であったことを思い起こしました。

      考慮を求める訴え

      バンダ大統領にあてられた手紙の多くには,不当な苦しみを受けている無実なマラウィ市民のために救済措置を講ずるよう同大統領に求める,説得力のある訴えが含まれています。例えば,以前英国で同博士と一緒に働いたことのある,フュナリーのマクラウド卿は,去る二月バンダ博士に書簡を送りました。その中で彼は,バンダを博士と呼んだのが間違いであれば許してほしいと述べ,こう説明しました。「[しかし,]ずっと昔,グラスゴーのクライド街にあるコミュニティー・ハウスで,私たちはあなたをそう呼んでいました」。

      マクラウド卿はエホバの証人ではありませんが,その手紙を書く動機となったものは「マラウィのエホバの証人に関して,最近当地で伝えられている新聞報道」であると述べました。そして,エホバの証人について次のように記しました。「彼らは,その平和的で勤勉な生活態度をもって全世界に知られています。……どうか私に直接ご返事ください。もしあなたの部下からの儀礼的な返事しかいただけないのであれば,この問題に関してあなたに近付くことはできないとみなし,自分なりの結論を出さざるを得ません」。

      ウォルター・キング博士は,1976年5月26日付でバンダ大統領にあてて書いた手紙の中で,特に説得力のある訴えをしています。

      「私が深く憂慮しております問題について,ぶしつけにもお話しする前に,私の立場を明らかにしておかねばなりません。私は,1968年当時,米国ノース・カロライナ州グリーンズボロにあったピエドモント病院が閉鎖された際,同病院の医務局長をしていた外科医です。

      「私たちは,(エホバの証人をも含む)特定の教会関係者を通して,開発の途上にある優秀な貴国が,当時他の国々にも増して医療設備を必要としていたので,当病院の資材が……この小さな病院で役立ってきたと同様,人のために利用され得ることを知りました。……私たちは,マラウィの医療上の必要を満たすため,このわずかながらも心のこもった贈り物を発送することをすぐに決定しました……

      「貴殿も私も科学者であり,輸血をするよりもむしろ死を選ぶほど,一つの宗教に対して深い信仰をどうして持つことができるのか不可解に思います。しかし,当国における私たちの経験から,この人たちが自分たちの宗教に全く献身しており(そして,政治や戦争から離れていることもその信条の一つなのです),それに対する違反行為を犯すよりはむしろ死を選ぶということをはっきり申し上げておきます。彼らは最も危険な手術の場合にも,輸血を受けようとしません。貴殿も私と同じようにお考えかもしれませんが,こうした種類の献身の念を国の誇りや市民としての行動に結び付けることができれば,その報いは彼らの強情とも思える信条を容認することを補って余りあります。ゆえに,私がマラウィの大統領という貴殿の立場にあるとすれば,どんな国でも誇りに思うような良い市民であることをマラウィで証明するよう,エホバの証人の団体としての一致した努力を勝ち得ることは,政治上の天才的手腕と言えるのではなかろうかと考えました。彼らは自分たちの宗教上の確信に対して貴殿が寛大さを示すことを望んでいるので,その寛大さに対する感謝の念に動かされて,それに答えるに違いありません。

      「大統領閣下,私は貴殿に対してこうした要請を行なう特異な資格を持っていると思えます。というのは,私はこれらの人々を医者としての立場から見て知っているからです。私はカトリック教徒ですが,彼らの病気に外科的な処置を施す際,輸血を拒否する彼らの権利を尊重することがあります。そうすると彼らは,早目に歩行するようにとの私のささいな求めに至るまで従い,医学上の助言を信頼し,私の誠意に全幅の信頼を置くことによって,その寛大さに報いてくれます。エホバの証人との交渉を通して,私は,彼らが100%正直で,驚くほどの勇気を示し,必要とされる以上の忠節さを示すことを知りました。もし私がこれらの人々からなる一国民全体の指導者であれば,その考えの自由を認めることから多くの益が得られるという点を心から信じるでしょう。彼らは,その勤勉さ,キリスト教,そして正直さ,さらには納税の点でも他の人々の模範となって,国の誇りを高揚させます」。

      1976年5月31日,バンダ大統領は12人から成る新内閣を組閣し,バンダ博士自身法務大臣を兼任することを発表しました。これまでバンダ博士がエホバの証人に関して誤った情報を与えられてきたということがありうるのではないでしょうか。同大統領は,これまでの,あるいは現在の閣僚たちによって,エホバの証人は強情で法律を守らない民であると信じ込まされてきたのでしょうか。エホバの証人を個人的に知っている人々は,そうした非難が不当なものであることを悟っています。

      確かに,高くもない,単なる党員カードを買わないということは,エホバの証人の見地から物事を見ようとしない人々の目には強情な行為に見えるかもしれません。しかし,エホバの証人にとっては,神への崇拝が関係しているのです。それは,ヘブライ人ダニエルを憎む人々がある法律を制定したときに起きた出来事を思い起こさせます。その法律は,30日の間,王以外の神や人間に請願を行なう者をライオンのただ中に投げ込むよう命じるものでした。

      今日のエホバの証人が投獄されたり殴打されたり強姦されたりすることを望まないのと同様,ダニエルもそれらライオンと相対したいなどと思いませんでした。それでもダニエルはすぐさまエホバ神に祈りました。彼は,法を守らない,強情な人などではありませんでした。しかし,神への崇拝が関係しており,そうした崇拝はいかなる一時的な権威よりも優先されるべきものです。(ダニエル 6:4-10)イエスの使徒たちも,同様の事態に直面した際,こう述べました。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」― 使徒 5:29。

      考えられる解決策

      実際のところ,この問題には簡単な解決策があります。単なる身分証明書となるようなカードが準備されれば,マラウィのエホバの証人は喜んでそれを買い求めるでしょう。他の多くの国々でエホバの証人は,自国の法律に従い,そうしたカードを買い求め,それを携行しているからです。

      しかし,最善の解決策は,信教の自由を擁護するためにも,エホバの証人が政党のカードを買わない権利を認めることであると言えるでしょう。自国民が迫害されることなく様々な見解を自由に持てる,という事実を誇りにしている国は少なくありません。そうした国々は,様々な思想を容認しているゆえに,他の国々から敬われています。

      すべての人の益を考え,世界中のクリスチャンはバンダ大統領について祈ることでしょう。彼らは,「王たちや高い地位にあるすべての人びとについて」祈るようにとの聖書の励ましに従ってそうします。「それはわたしたちが敬神の専念を全うし,まじめさを保ちつつ,平穏で静かな生活をしてゆくためです」。(テモテ第一 2:2)2万人余りのマラウィのエホバの証人は,悩まされることなくそのクリスチャンとしての崇拝を行なってゆけるようになれば,同国に益と平和をもたらす強力な力となるに違いありません。

      エホバの証人は,公式の文書をもってバンダ大統領に呼びかけ,そのような可能性についてマラウィの代表と話し合う用意のあることを明らかにしました。バンダ大統領に対して,電報や手紙などでこの問題に関する自分の考えを明らかにしたいと思われる方もおられるでしょう。同大統領の住所は下記のとおりです。

      His Excellency the Life President of Malawi

      Ngwazi Dr. H. Kamuzu Banda

      Central government offices

      Private Bag 301

      Capital City

      Liiongwe 3

      Malawi, Central Africa

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