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マラウィのクリスチャンには何が起きているか目ざめよ! 1973 | 6月8日
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マラウィのクリスチャンには何が起きているか
最近,世界の新聞は,マラウィにおけるクリスチャンの迫害に,繰りかえし世の注意をひきました。1973年1月14日のロンドン・サンデー・テレグラム紙が,「動乱のアフリカ史上最悪の宗教的迫害のひとつ」と呼んだものの犠牲者は,これらのクリスチャン,すなわちエホバの証人です。
「目ざめよ!」誌の読者は,1972年の後半にはじまったいちばん最近の迫害について,詳細な点をよくご存じのことと思います。1973年2月22日号の「目ざめよ!」誌は,「マラウィの残忍な迫害をのがれるクリスチャン」と題して,この迫害にかんする報告の全文を掲載しました。
その報告は数か月前までに起きた事件を伝えたものですが,それ以後事態はどうなったでしょうか。マラウィのクリスチャンたちはどんな状況のもとに置かれているでしょうか。
そのことをお知らせする前に,この事件のことをご存じない読者のために,マラウィで起きたことをあらましお伝えしておきたいと思います。
激しい迫害の波
マラウィで,エホバの証人に対する全国的規模の激しい迫害がはじまったのは1967年のことでした。当時も多数の証人が乱暴に殴打され,いく人かの証人は殺害されました。何百人という女性が強姦され,一部の婦人は幾度も犯されました。幾千という彼らの家,商店,崇拝の場所が略奪され破壊されました。彼らのすべての出版物はいうにおよばず,聖書を勉強するための平和な集会を含め,彼らのクリスチャン活動はすべて禁止されました。
昨年,すなわち1972年にもまた迫害の波が押し寄せました。このたびは1967年の迫害よりも激しく,殴打,焼き打ち,略奪,強姦,殺害は広範囲におよびました。証人たちは生計の手段を奪われ,職場から追放されました。マラウィにおける2万3,000余のエホバの証人をぼく滅するために,全国的努力がなされたのです。それでエホバの証人は自分の命を守るために逃げることを余儀なくされました。
このすべては,マラウィの一党政府のとった公の措置の直接の結果として生じたものでした。ロンドン・フィナンシアル・タイムズ紙の記者マシュー・ホワイトはその当時マラウィにいて,ブランタイアから次のように伝えました。これは10月31日のフィナンシアル・タイムズにのせられたものです。
「エホバの証人の追放は…独立後に起きた他のいかなる事件よりも国を不穏に落し入れた。同キリスト教宗派に対する反対行動は…エホバの証人から生計の手段を奪い,『入党しないかぎり村から追い出す』という決議がマラウィ会議党年次大会で採択されたのちにはじまった」。
その決議は,9月17日にゾンバ市で行なわれた大会で,マラウィ大統領H・カムズ・バンダ博士の是認を受けました。結果はどうなりましたか。ホワイト記者は次のように伝えています。
「この演説を正式な許可と見て,同党の青年同盟および青年開拓者の分隊が戸別捜索をはじめ,党員カードを示すことができない,あるいはそれを買うことを拒否したアフリカ人たちを追い立て,時には暴力を加えた。この暴力行為の全ぼうを正確につかむことは困難であり,おそらく不可能であろう…
「MCP[マラウィ会議党]の一部のメンバーを含め,当地の多くの人びとが驚いているのは,バンダ大統領が敵意をここまで完全に野放しにしていることである」。
その攻撃の野蛮さに世界中の多くの人の態度は急激に変化しました。多くの国の新聞も同様の反応を示しました。1972年12月15日のロンドン・タイムズの次の論評は,多くの新聞の報道の典型的なものでした。
「ヒトラーは彼らを強制収容所に入れた。彼らは鉄のカーテンの背後でも迫害されてきたし,アフリカの一党国家においても迫害を受けている。マラウィのバンダ博士は,1967年に同宗派を禁止し,同年に彼の青年開拓者 ― カムスの党の番人たち ― が野蛮な攻撃を加え,彼らを幾千人も隣接する国々へ追い出した」。
迫害をやめるようにとの訴えもなされました。が,効果はありませんでした。それで,タイムズ紙が指摘したように,エホバの証人は自分の命を守るため,マラウィから逃げざるをえなくなりました。
問題
サンフランシスコ・エグザミナー紙は,10月17日の社説で,エホバの証人につき次のように述べました。「彼らは模範的市民とみなしてよい。まじめに税金を払い,病人の世話をし,文盲と戦っている。しかし,宗教的信念から,マラウィ唯一の政党の党員カードを買おうとしない」。
そういうわけで,この迫害の直接の原因は,これらのクリスチャンたちが,マラウィを支配する政党,すなわちマラウィ会議党に入党しようとしないことにあります。彼らは,要求どおりに党員カードを買うことをしません。それは彼らが政治に対し,聖書にもとづく中立の立場を取るからです。
この点に関し,彼らは,イエス・キリストや一世紀のクリスチャンたちと同じ立場を取ります。ご自分に尋ねてみてください。ローマ人の政党にせよユダヤ人の政党にせよ,イエスはどの政党に加入されましたか。使徒たちはどの政党に加わりましたか。聖書はこの点をはっきり示しています。彼らはどの政党にも加わりませんでした。彼らはあくまでも中立を保ち,品位ある,そして法律を守る市民として穏かにクリスチャン活動をつづけました。
エホバの証人は,そうしたことを当局者に説明しようとしてあらゆる努力を払いました。電報,書簡,電話を通して話し,インタビューも行ないました。ニューヨーク市,ブルックリンのエホバの証人の統治体は,エホバの証人の統治体の代表との会談を電報でバンダ大統領に懇請しました。しかし,マラウィ政府は,いかなる情報も国連のマラウィ政府を通して送られるべきであると答えただけでした。
統治体はそれを実行しました。13ページにわたる覚書が国連代表に送られました。それはエホバの証人の立場を説明し,いかなる政府も彼らを恐れる必要のない理由を説明したものでした。同書簡の「エホバの証人が党員カードを買わない理由」という副見出しの部分は,一部次のように述べています。
「この問題におけるエホバの証人の立場は,聖書の教えと証人たちの良心に基づくものであります。エホバの証人は,いずれかの政党にくみすることも,あるいはいかなる政治活動に参加することもせず,世界のあらゆる国で中立の立場をとっております。こうして,エホバ神の天の王国を示す良いたよりの奉仕者として公平な,よりよい奉仕を行なっております」。
党員カードを買えばその結果政治に巻き込まれるという問題に触れて,その部分は次のように述べています。
「エホバの証人は,神の律法に反しない法律であるかぎり,自分の居住する国の法律を尊重し遵守いたします。しかしながら,政治への関与は,これには党員カードを買うことも含まれますが,主イエスがご自分の真の追随者について言われた,『我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず』ということばに反すると彼らの良心は感ずるのであります。(ヨハネ 17:16)またキリストは,ヨハネ伝 18章36節に記録されているように,『わが国はこの世のものならず,若し我が国この世のものならば,我がしもべら…戦いしならん』と言われました」。
これに加えて,マラウィの国連代表あての統治体の書簡はさらに次のように述べています。
「エホバの証人は初期のクリスチャンと同様の立場をとります。『キリスト教とローマ政府』という本は次のように述べております。『クリスチャンたちは彼らの周囲の世界においては他国者であり,さすらい人である。彼らの国籍は天にある。彼らが待つ王国はこの世のものではない。ゆえに,必然的結果として,公事に関心を持たぬことが,最初からキリスト教の注目に価する特色となった』。
「しかしながら,さらに言わせていただくならば,エホバの証人は,他の人びとの政治への参与に対する態度に干渉する意図も願望も持っておりません。エホバの証人は,マラウィ政府に逆らって行動しているのでも,また政党に逆らって行動しているのでもありません。彼ら自身が,大きな苦しみを受けているにもかかわらず,政治問題への関与,すなわち党員カードの購入を辞退しているのであります。なぜなら,それはエホバの証人にとって,聖書に基づく信仰および良心の問題だからであります」。
しかし,今に至るまで,マラウィ政府からは何の返事もありません。エホバの証人の代表が大統領に会うことも,同国の他の当局者に会うことも許されていません。
2万を超えるエホバの証人がマラウィから逃亡することを余儀なくされました。彼らの大多数は隣りのザンビアににげ,数千人はモザンビクにのがれました。
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スィンダ・ミサレの難民収容所目ざめよ! 1973 | 6月8日
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スィンダ・ミサレの難民収容所
マラウィからザンビアにのがれたエホバの証人たちは,両国の国境に近い難民収容所に集められました。この収容所はスィンダ・ミサレと呼ばれました。ザンビアの地方開発相ルベン・カマンガ氏の報告を含め,いくつかの報告の示すところによると,そこには約1万9,000人のエホバの証人が避難しています。
ザンビアがエホバの証人を自国に招き入れたのではありませんから,彼らは望まれない訪問者として扱われています。収容所は,だれも自由に近づけないように警察によって隔離されています。
いくらかの必要品は当局から支給されました。それに加えて,全世界のエホバの証人が寄付したお金や物資が支部事務所にぞくぞく送られてきました。たとえば,南アフリカだけでも1,000枚に近い帆布の防水布と,衣料品をつめた木わく157個を送りました。それらは難民のもとに届きました。
南アフリカのエホバの証人たちはその後また多くの物資を発送しました。それには,1万枚の毛布を購入するためのお金,医薬品その他の必需品などが含まれていました。自発的に奉仕を申し出た医師たちもいました。彼らは行くことができました。外国のエホバの証人たちからのこうした申し出や寄付は,ザンビアの難民の必要をすべてまかなってあまりあるものでした。
しかしながら,最初のうち救援物資の輸送は可能でしたが,その後エホバの証人は,これ以上収容所に物資を送ることは許されない,という通知を受けました。そこで赤十字を通して送る努力が払われましたが,その努力はむだに終わりました。
国連は事情調査のために代表をザンビアに派遣しました。12月19日,その代表のひとりであるエンマヌエル・ダジェ氏がザンビアにいるということを知ったエホバの証人は,あらゆる手をつくして同氏に会うことを試みました。彼らは,収容所内のクリスチャンの兄弟たちがどうなっているかを知り,救援物資を送る手はずをしたいと思っていたのです。しかしそれも果たされませんでした。ダジェ氏は,予定の仕事がぎっしりつまっているので,エホバの証人と面談する時間などないと言って,エホバの証人を一しゅうしました。
そうしている間に,報告によると,スィンダ・ミサレの収容所では350人以上の証人たちが死亡しました。悪い水,栄養不足,医療品の不足などが原因でした。死亡者の大部分は子どもでした。
ついに,マラウィとザンビアの当局者は,スィンダ・ミサレのエホバの証人たちをマラウィに送還することに決定しました。その取り決めがつくられても,収容所内のエホバの証人には知らされませんでした。
移動は偽り
12月になって,収容所のエホバの証人は,当局者から,エホバの証人はザンビアの別の場所へ移動されるということを聞かされました。そういう移動ならば彼らに異存はありませんでした。しかし彼らは事実を教えられたのではありませんでした。実際の目的地はマラウィだったのです。
証人たちが目的地のことであざむかれた証拠ははっきりしています。実際に移動させられたエホバの証人100人以上とのインタビューは,このことを決定的に証明するものです。ロンドン・サンデー・テレグラフ紙によると,証人たちは,目的地はザンビアの別の収容所だと知らされていました。
「12月の20日,21日,22日に,ザンビア人の運転する52台の貨物自動車と13台のバスの集団がスィンダ・ミサレに到着した。同収容所を訪れた一アフリカ人記者によると…エホバの証人たちは,ザンビアの別の収容所に行く輸送車に乗るように言われた」。
国連代表団はこのあざむきの行為を阻止しようとはしませんでした。それどころか,彼らはその片棒をかついだのです。12月23日のザンビアのタイムズ紙は次のように報じました。
「マラウィに帰還したばかりの1万9,000人のものみの塔の難民は,『自国にもどったことを喜んでいる』。国連難民高等弁務官ヒューゴ・イドヤガ博士はきのうこのように述べた…
「イドヤガ博士は,ジュネーブから来た国連難民高等弁務官事務所の理事スコジョー・ダジェ氏とともに,自発的帰還をさしずするよう助けたと述べた」。
2週間ほどたって,1月6日のタイムズ紙は,「ザンビアの難民のための国連高等弁務官ヒューゴ・イドヤガ博士は,難民は帰国を喜んでいたと述べた」と伝えました。
しかし,それは事実ではありません。証人たちは当時のような状態のマラウィには帰りたくなかったのです。命を守るために逃げることを余儀なくされていなかったなら,彼らは最初からザンビアには行っていなかったでしょう。ですから,ザンビアのタイムズ紙が少しまえ,つまり12月18日に,エホバの証人たちは「ザンビアに残るほうを好んだ」と報道したのは正しかったのです。また,ロンドン・サンデー・テレグラフは,「当局者は保証するけれども,エホバの証人は進んで帰国したのではない」と報じました。
このようにして送りかえされた証人たちのインタビューは,そのことを証明しています。次にかかげるのは,それらの証人たちが語ったことを要約したものです。
「まず最初にそれらの兄弟たち[つまりエホバの証人たち]は,スィンダ・ミサレにいた兄弟たちがマラウィにもどることに喜んで同意したというのは事実ではないと説明した。移動を監督した警官や政府の役人が,兄弟たちをペタウケ地方の新しい場所へ移すと言って兄弟たちをだましたのである。
「役人たちは,全部の指導的立場にいた兄弟たちや他の証人たちが警官の見張っているバスに乗り込むまで待って,それから兄弟たちに彼らがマラウィへ連れて行かれることを告げた」。
証人たちは,スィンダ・ミサレからマラウィのリロングウェにある収容所に連れて行かれることになっていました。そこの古い飛行場には,何百人ものマラウィの役人と警官隊が証人たちを待っていました。
実際に何人がそこへ到着したでしょうか。現在のところ正確な数はわかりません。目撃者の報告は不十分なところがあります。
ロンドンのサンデー・テレグラフ紙がある記事で,「スィンダ・ミサレからリロングウェまでの96㌔の旅の途上で…何千人もがバスや貨物自動車を捨てて奥地へ逃げ込んだ」と報じているのは事実です。同紙はまた,―「アフリカ人記者が最後の護送車に乗ってリロングェまで行った。その護送車隊は3,000人の難民を乗せてスィンダ・ミサレを出発した。8台のバスが到着して29人の証人たちが降りただけであった」と伝えています。しかし,そうした報道はまだ確認されてはいません。
しかし確認できるのは,確かに帰国した証人たちがどうなったかということです。
[20ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
0 150キロ
ザンビア
スィンダ・ミサレ
マラウィ
リロングウェ
モザンビク
フォートミランゲニ
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再び始まった残虐な迫害目ざめよ! 1973 | 6月8日
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再び始まった残虐な迫害
エホバの証人がマラウィへもどることを望まなかったのは十分の理由がありました。それは,連れもどされた証人に起こったことがわかったときに明らかになりました。
彼らを待ちかまえていたのはあいも変わらぬ恐怖政治でした。何ひとつ変わってはいませんでした。彼らに対する悪意ある態度は依然として激しいものがありました。マラウィ政府は,事態を緩和させる措置を何ひとつ講じていなかったのです。
マラウィへもどる
証人たちがマラウィのリロングウェ空港に着いた時,指導的立場にある監督として知られていた人たちは投獄されました。スィンダ・ミサレ収容所の監督だったジョン・チウェレ,彼の補佐であったラザルス・チルワもその中にいました。
空港では,マラウィ政府の役人たちが証人たちに一場の演説を行ないました。そのひとりは中央地区の大臣クンブウェザ・バンダ氏で,もうひとりは北部地区の大臣クアニソ・チバンボ氏でした。あなたがたは自らの意志に従ってマラウィを出て行き,また自らの意志でマラウィにもどったのである,と証人たちは言われましたが,いずれも事実ではありませんでした。
次に役人たちは,証人たちは各自村にもどって党員カードを買わねばならないと言いました。証人のひとりが役人に何か言おうとした時,役人はその証人に,黙れ,と言いました。警察官と,マラウィ会議党の好戦的な青年団である青年開拓者たちは,すべての証人を調べるよう指示されました。彼らは証人たちの聖書,聖書解説書,パスポートその他の書類を全部押収しました。それから証人たちは自分の村まで歩いて帰るように言われました。ごく遠くに住んでいた人たちは貨物自動車で近くの場所まで送られ,そこから歩くように言われました。
証人たちが村に着いた時,少数の人には親類がいて,寝る場所を提供されましたが,大多数の証人は野天にいてそこで眠りました。木の下で子どもたちといっしょに寝た人たちもいました。しかし,それよりもさらに悪いことが彼らを待っていました。そのことはすぐに明らかになりました。その一例は,1月14日のロンドン・サンデー・テレグラフ紙に見られます。同紙はバンダ大統領が新年の初めに,ラジオを通じて行なった演説について次のように報じました。
「エホバの証人たちは…彼ら自身の仲間にあざむかれて,『ハルマゲドンとかいう者が,11月15日にマラウィを滅ぼし,リロングウェに彼らのために新しい町を建てると信じている』と,バンダは述べた。
「同大統領が語っていた時,湖畔のヌハタ・ベイにある自分の家にもどった同宗派の中年のメンバー,ゴルソン・カマンガ夫妻は,再び党員カードを買うことを拒否したために裸にされて街路を引き回わされていた。
「また,リロングウェに近いある村では,『帰還した』別の5人の証人が,青年開拓者たちにめった打ちにされて腕や足を折った。ひとりの男は手にいく本かのくぎを打ち込まれた。リロングウェの病院では,彼らは党員カードを持っていないために治療を拒否された。
むろん,エホバの証人の教えに精通している人ならだれでも,マラウィの証人たちが,ハルマゲドンを人間と信じていたこともなければ,そのように教えられたこともなく,また,マラウィが11月15日に滅ぼされるとか,証人たちのためにそこに新しい町が建てられるといったことなど,決して教えなかったことをよく知っています。
しかし,証人に対するその敵意は,迫害のほのおをあおりたてました。党員カードの問題は再びエホバの証人に投げつけられました。政治問題にかんして中立を保つゆえにそれを買うことを彼らが拒否した時,『帰還』していた証人たちに再び激しい攻撃が加えはじめられました。
目撃者の説明
こうしたことが生じている証拠は,外国の新聞が示しているだけではありません。迫害の犠牲者であるエホバの証人自身もその証拠を提出しています。再びテロの波にのまれた『帰還者』と多くのインタビューが行なわれました。
その証人たちの報告が示すところによると,難民たちが各自の村にもどったとき,政府の役人は言うにおよばず,しゅう長,村長,党の役員などが,党員カードを買うよう証人たちに要求しました。次の例はその典型的なものです。
エホバの証人のひとりである,チモンゴ村のギルバード・ジュライは次のように報告しました。「1973年の1月3日にムチンジ地区の村長会議が開かれました。議長は,ムチンジ地方の議員チェウチェ氏でした。この会議で,もしスィンダ・ミサレからもどったエホバの証人たちが依然として党員カードを買おうとしなければ,か酷に扱う,という決議が行なわれました。この会議があってから,チモンゴ村(村長はヅワ)にあったカンダマ会衆の兄弟姉妹たちは,党員カードを買わなかったために追い出されました。兄弟姉妹たちは奥地に向かいました」。
エホバの証人であるライトウェル・モーゼスはカチジェレ村の出身で,この村の村長はムベルワといいます。モーゼスの報告によると,証人たちは村に着くが早いか,党員カードの購入を拒否したためにめった打ちにされ,そこの会衆の監督であるヘイスチング・ムザモはひどくたたかれたために耳が聞こえなくなりました。
ライトウェルは,つぎのようなくわしい報告をつけ加えています。「わたしたちが家に着いてから二日後,議員のマハラ・バンダ氏が村にやってきて集会を開き,党員カードを持たない者は村にとどまることを許されない,と人びとに警告しました。それから1973年の1月1日,マハラ・バンダ氏は,ふたりの若者を自分の車に乗せてきました。その若者たちの姓はジェレおよびテンボといいました。マハラ・バンダ氏は村のはずれに車を止め,若者たちが村にいる間そこで待っていました。村にはいってきた若者たちは,私の娘のジョイシーとオリバー姉妹に近づき,党員カードを見せろ,と言いました。もちろん姉妹たちは見せることはできません。そこで若者たちは彼女らをなぐりはじめました。彼らはその若い姉妹たちの衣服をむりやりにはぎ取り,裸にしてむちで打ちたたきました。彼らは兄弟たちもつかまえてたたきはじめました。そして疲れてきたときに,きょうは帰るが,また来て兄弟姉妹たちをたたいてやる,と叫びながら車のほうへもどってゆきました。それで,彼らが行ってしまうと兄弟姉妹たちは直ちに村を脱出して奥地にのがれ,そのあとマラウィを去りました」。
別の婦人のエホバの証人,ライクネス・カマンガは,チンジという人が村長をつとめるビサンド村に送りかえされました。彼女は次のように報告しています。「村にもどるとすぐにわたしたちは,ブラエで行なわれる集会に来るように言われました。集会で話をしたのは,マラウィ会議党の地区の議長アダムソン・ジンジでした。それは1973年1月4日のことでした。私をいれて12人のエホバの証人たちが集会に出席していました。私たちは全員,党員カードを買うように命令されました。でも私たちはそれを買わないことを説明しました。ジンジ氏やそのほかの人たちはもうかんかんに腹を立て,今直ぐ,この場でマラウィから出て行け,と命令しました。何も持ってゆくことはゆるされませんでした。私たちは小さな群れに分かれて全員奥地に向かいました。逃走中私は親類の者から,前日私たちといっしょに集会に出ていた証人のひとりが殺されたということを聞かされました」。
ムエレケラ村出身のエホバの証人,ゲレソン・エサヤは次のように語りました。「1973年の1月2日に,私たちはムエレケラ村で開かれる集会に来るようにと言われました。集会を司会することになっていたのはロンブワ村長でした。私たちエホバの証人は全部で20人いました。集会中に私たちはマラウィ会議党のカードを買うように命じられ,買わなければ死を覚悟せよ,と言われました。私たちはカードを買わないことを説明しました。それで村長は,直ちに村から出るように私たちに命じました。私たちは,私たちを村から追い出す理由を説明した手紙を書いてほしいと,ていねいな,しかしき然とした態度で村長に頼みました。村長は聞き入れてくれませんでした。そこで私たちはムチンジ警察署に行くことにしました。でも警察署の担当官は私たちの訴えを聞こうともせず,村へ帰れ,と命令しました。ですから私たちはマラウィを去るほかはなかったのです」。
他の多くの目撃者たちの説明も,証人たちが同様の虐待を受けたことを証拠づけるものでした。インタビューされた100人以上の証人はひとり残らず,政府が迫害をやめさせる措置を何ひとつ講じていなかったことを認めました。そして彼ら全部が,事態は悪化する恐れがあると述べました。
モザンビクの難民
1972年に迫害の火の手が上がった時,何千というエホバの証人はすでに隣国のモザンビクに逃げていました。そして今,最近『帰還』して再びマラウィから逃げることを余儀なくされた証人たちも,モザンビク方面に向かいました。
モザンビクのエホバの証人の難民は現在どんな状態にあるでしょうか。ここでも事態は容易でないものがありますが,露骨な迫害はないようです。生活は苦しく,就業日は非常に長くて骨が折れますが,この国の政府は証人たちを虐待していません。
証人たちは国境に近い,証人たちに与えられた特定の地域に収容されています。彼らは土地を開こんし,作物を植えるように言われています。そうすれば食糧を自給することができるからです。ほかの場所のエホバの証人たちもそれらの地域へ物資を送る努力を払いましたが,当局者は自分たち自身で扱うといって申し出を辞退しました。
ポルトガル当局も親切に,フォート・ムランジェニの近くに,キャンプ建設用地100ヘクタールを難民に提供してくれました。当局者は,証人たちがすぐに仕事に取りかかり,てきぱきとキャンプを組織したのに感心しました。証人たちは,男子用,女子用,子ども用の便所をつくりました。また自分たちの病院もつくり,助産婦たちがそこでお産の世話をしました。12月15日までに78人の赤ちゃんが生まれました。当時,そこには7,670人のエホバの証人がいたと報告されています。
12月の後半に,エホバの証人のある地域の監督がこれらの地域のいくつかを訪問する機会を得ました。その監督の報告によると,証人たちは非常に激しい労働をしていますが,迫害されてはいません。また証人たちは,クリスチャンの集会や聖書研究を行なうことを許されています。
事実,12月中に217人がエホバの証人によるバプテスマを受けました。ということは,逃げた人たちの中には,聖書に関心を持つ,しかしまだバプテスマを受けていない人たちがいたことを意味します。
心ある人びとはきょうがくした
エホバの証人に対するマラウィの迫害は,全世界の心ある人びとをきょうがくさせました。そしてそれと同時に,マラウィの評判は大きな打撃を受けました。
エホバの証人でない多くの人びとが同情を表明しました。エホバの証人たちは神を心から愛する,品位ある,そして法律を守る人たちであることをわたしたちは知っている,とその人たちは言います。バハマ諸島に住むある人のそのような感想が,英国の有力紙ザ・ガーディアンに掲載されました。この手紙は,以前にガーディアンが掲載した,エホバの証人に対する残虐な迫害を説明した記事を見て,編集者に送られたものです。
「『殺害される証人たち』という記事を読んで,涙がとめどなく流れました。私はこの人たちがどんな人たちかをよく知っています。彼らを知っている人ならだれでも,エホバの証人の中には,世界のどこに住んでいようと,あのような扱いに価する者はひとりもいないことを知っています…
「彼らは地上の何ものよりも神を愛していると言えないでしょうか。ある人が,神のことばに大いに違反する人殺しの群れに加わることを拒否して残虐にも殺されたとしたら,わたしたちは直ぐにその人に何かがあることに気づかないでしょうか。
「その人は神を信じ,愛し,信頼している人です。その群れに加わって生きつづけるほうがたやすかったにはちがいありません。しかし,もしそうしたなら,その人が教えていたことはもの笑いとなったでしょう。したがって真のクリスチャンの信仰に逆行することになります。…
「別のことばで言えば,彼らがこよなく愛した神のために死ぬことは,彼らにとっては誉れであったのであります。…
「彼らは自分の居住する国の法律を破らないように細心の注意を払います。しかし,神の律法も破らないのです。
「私はエホバの証人ではありませんが,近くにいて彼らをよく観察してきた者であります。彼らは,私が今までに会ったいちばん良い人びとの中にはいります。彼らの目を見るならば,彼らが非常な忍耐と精力的な働きとによって人びとに教えようと努めている彼らの神を愛し,信じていることがわかります」。
またアメリカの出版物,クリスチャン・センチュリーは次のように述べています。
「多くのクリスチャンにとって証人たちは干渉がましく思えるかもしれないが,迫害や暴力に直面し
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