ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • アルゼンチン: 自由の擁護者 ― それとも宗教的偏狭の闘士?
    目ざめよ! 1978 | 9月22日
    • エホバの証人による,聖書および聖書文書の出版ならびに頒布は禁止されている。

      エホバの証人の子弟は幾百人となく,小・中学校から退学させられている。同様に,連邦,州,市などの政府機関,および公共企業や学校に勤める,大人のエホバの証人は給料も支払われぬまま退職させられている。

      エホバの証人の個人の家に対する警察の手入れの回数は増えており,エホバの証人は逮捕され,幾時間,幾日,あるいは幾週間も拘留されている。

      エホバの証人は,政府当局による,侮辱的言動,殴打,および未遂に終わった威嚇行為などの犠牲となってきた。場合によっては,身体的に必要とされる基本的なものさえ与えられていない。

      さて,このすべてが『アルゼンチン憲法で規定されている』宗教的寛容だというのですか。

      憲法は何と述べているか

      では,アルゼンチンの憲法は,自由に関するその市民の権利について,一体どんなことを述べているのでしょうか。その法に含まれている,以下の条項に注目してください。

      第14条はこう述べています。「当国の住民すべては,その権利の行使を管理する法律に従って,以下の権利を享受するものである。……事前の検閲を受けずに出版物を出版する権利。……価値ある目的のために集まり合う権利。各々の宗教を自由に実践する権利。教示し,学ぶ権利」。[下線は編者による。]

      第19条はこう述べています。「いかなる点でも公序良俗を乱さず,また第三者をも損なわない,人の個人的な行為は,神のためにのみ取っておかれ,行政官の権威の及ばないところである」。

      そして,第20条はこう言明します。「外国人は……自分たちの宗教を自由に実践……できる」。

      彼らは何をしたのか

      各種の自由がこれほどはっきりと確立されていながら,どうしてエホバの証人は全面的に禁令下に置かれているのでしょうか。政府の反対を引き起こすどんなことをしたのでしょうか。これまで54年間にわたって,エホバの証人はアルゼンチンでどんな事柄を教えてきたのでしょうか。その記録を検討してみることにしましょう。

      その間ずっと,アルゼンチンのエホバの証人,そして全世界のエホバの証人は,神のみ言葉のテトス 3章1節に示されている原則を細心の注意を払って固守してきました。そこにはこう書かれています。「政府や権威者たちに服し,自分の支配者としてそれに従順であるべきことを引き続き彼らに思い出させなさい」。

      この言葉には,確立した秩序を破壊することを意図した,革命的な宣言のような響きがありますか。それどころか,この言葉は,エホバの証人のように聖書を信じる人々に対して,あらゆる政府の法に従うようはっきりと述べています。聖書を信じる人々は,確立された政府を人間的な手段で転覆させようとする方法を探し求めるべきではありません。

      以上のような考えは,エホバの証人が1924年以来アルゼンチンで広めている教えの一部です。イエス・キリストの教えられた主の祈りの言葉に従って神の王国を祈り求め,それを待ち望んでいた人々に,スペインからやって来たばかりのフアン・ムニィスが,「良いたより」を宣べ伝えるようになったのはその年のことでした。―マタイ 6:9,10。

      その年以来,キリスト教の創始者が命令された,「すべての国の人びとを弟子と」する業は,アルゼンチンで繁栄してきました。(マタイ 28:19,20)アルゼンチンの人々は,数多くの言葉に訳された,聖書および聖書研究の手引き書を,熱心な態度で大量に求めました。それに加えて,直接,あるいはラジオ放送を通じて,無料の聖書講演が行なわれました。そして,1946年には,ラ・トルレ・デル・ヴィジア(スペイン語で,「ものみの塔」の意)と呼ばれる法人団体が組織され,後日,アルゼンチン政府の公式の認可を受けました。

      1950年に法的な認可が取り消される

      1949年,政府は対外関係省の中に,宗派,あるいは宗教庁を設けました。すべての宗教団体はこの新しく設けられた官庁に登録するよう求められました。ところが,1950年5月26日,エホバの証人の申請していたこの登録が拒否されたのです。そして,同年7月12日,エホバの証人に対する法的な認可が取り消されました。

      それ以来,これまでの28年間というもの,エホバの証人は繰り返し当局者に請願してきました。彼らは,歴代の対外関係相,知事,そして大統領にまで請願しました。その請願の一部は,少なくとも自分たちの立場を説明する機会を与えてほしいというものでした。しかし,その請願すべては無視されたのです。エホバの証人は,審理を受けることもなしに裁かれ,有罪とされたのです。

      そのような仕打ちに対する理由としてどんなことが挙げられましたか。エホバの証人は,その組織が,「軍隊に反対し,国家の象徴に対して払われて然るべき敬意を否定する教理を教えるゆえに,大憲章の神聖な原則に反している」,と告げられました。

      良心の問題

      世界中どこでも,エホバの証人は,国旗敬礼や国歌斉唱などの儀式に参加しません。なぜですか。そうした行為は,エホバの証人にとって,十戒の第一番目と第二番目の戒めに直接抵触する崇拝行為だからです。―出エジプト 20:3-5。

      エホバの証人は,バビロンで三人のヘブライ人の取ったような立場を取ります。(ダニエル 3章をご覧ください。)そのような儀式に際して,学齢期の,エホバの証人の子弟は,静かに,そして敬意を払いつつ立っています。そして,そのような儀式に他の人々が加わるのを妨害するようなことは決してありません。

      また,よく問題にされるのは,エホバの証人の男子が強制的な軍事教練を良心的に忌避することです。それでも,エホバの証人の若者たちは,義務放棄者や無政府主義者ではありません。彼らは召集された日に軍事当局に出頭します。しかし,聖書に基づくその信念のゆえに,兵役の免除を申請するのです。特に西欧世界では,そのような免除をエホバの証人に与える国が少なくありません。

      戦争のための武器を帯びることをこうして拒否する行為は,聖書の数々の原則に基づくものです。そのうちの一つは,マタイ 22章39節に見いだされます。そこでイエスはご自分の追随者たちに,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」と言われました。別の命令はマタイ 5章21節にあり,その中でイエスは,「あなたは殺人をしてはならない」と言われました。同様に,聖書のイザヤ書 2章4節(新)の中で,神の民は,『自分の剣を鋤の刃に……打ちかえることになる。……戦争を学ぶことももはやない』と告げられています。

      歴史と聖書は語る

      歴史と聖書は,一世紀のクリスチャンが今日のエホバの証人と同じ信念を抱いていたことを示しています。一世紀のクリスチャンは,自分たちが皇帝およびその国家の象徴に対する崇拝行為とみなす行為に携わろうとはしませんでした。また,兵役に服したり,戦争に参加したりはしませんでした。

      初期クリスチャンのこうした立場は,昔から数多くの歴史家たちによって確証されてきました。アルゼンチン憲法の起草者の一人,ファン・バウティスタ・アルベルディはそのような歴史家の一人です。自著「エル・クリメン・デ・ラ・グェラ」(「戦争という犯罪」)の中で,アルベルディはこう述べています。「現在の社会は二つの型,つまり好戦的な異教の[型]と,平和的な,クリスチャンの[型]の混合社会である」。

      このような「混合」のために,クリスチャンは反対を十分予期しています。イエス・キリストは,世の「カエサル」の政府が真のクリスチャンの崇拝を侵害しようとすることを前もってはっきりと警告されました。クリスチャンの使徒ペテロが,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と語ったのはそのためです。―使徒 5:29。

      有益な差引勘定

      一世紀当時のクリスチャンの小さな一団は,誤解され,そしられ,迫害されました。しかし,彼らは,人類にとって有益な差引勘定を残しました。

      真のキリスト教は,暴力や兵器に訴えることなしに,その教えを受け入れた人々の生活そのものを変革したのです。その結果,人々は自分自身および隣人を傷つけるような習慣のかわりに,最高度の道徳性と霊性を備えた有益な習慣を身に着けました。

      1978年3月31日付のブエノスアイレス・ヘラルド紙は,アルゼンチンのエホバの証人について論評し,こう述べています。「彼らの行為が政府当局者にとってどれほど腹だたしいものであったとしても,エホバの証人は長年にわたって,よく働く,謹厳実直で,神を恐れる市民であることを証明してきた。そのような種類の市民を,国は明らかに必要としているのである」。海軍の一高級将校は,その点を次のように言い表わしています。「エホバの証人の道徳性と正直さについては,一点非の打ちどころがない」。

      ところが,正直さ,道徳性,忠誠,そして法の遵守に関する,こうした優れた記録があるにもかかわらず,専らエホバの証人に,残酷で,無慈悲な仕打ちが加えられているのです。エホバの証人に対する偏狭はその激しさを増してきています。これまでに起きた幾つかの出来事は,次の記事の中で取り上げられています。

  • 激しさを増す宗教的偏狭
    目ざめよ! 1978 | 9月22日
    • 激しさを増す宗教的偏狭

      とき: 1976年7月9日。ところ: アルゼンチン北東部にある小さな,田舎の学校。催し: アルゼンチンの国の祭日。

      ヘンテという週刊誌の記者たちがその学校に来ていました。どうしてですか。特にその学校がブラジルとの国境に近かったため,記者たちは学校の不穏な状態に関心を抱いていました。以前に記者たちは,相当数の人々が不法入国していると書いたことがありました。そこで,事態がどんなものであるかを調べるために,その学校を訪れたのです。

      ところが記者たちは,その記事をもっと世間を沸かせるものにしなければならないと考えました。そこで記者たちはどうしましたか。他の生徒たちが国旗敬礼の儀式に参加している間に,幾人かの子供を国旗に背を向けて立たせました。生徒たちをその位置に立たせて,写真を撮ったのです。

      その記事は7月15日付で発行されました。ところがその記事は,国旗に背を向けて立っている子供たちはエホバの証人であると伝えたのです。本当にそうだったのでしょうか。決してそのようなことはありません。その日,エホバの証人の子弟四人は,登校さえしていなかったのです。そして,たとえその子たちがその場にいたとしても,国旗に対してそのような不敬の念を少しでも示すことは,クリスチャンとしてその子たちに与えられた訓練と相入れない行為となっていたことでしょう。

      このようにして,国旗に対するエホバの証人の敬意の欠如と見えるような,このゆがめられた記事が雑誌に掲載されました。そして,そのニュースは素早く全国に広がったのです。

      連鎖反応

      翌月,同じミシオネス州で,別の事件が起きました。その地で,高校生二人,教師一人,そしてその生徒の親たちが逮捕され,16日間投獄されました。彼らは,国の象徴に対する“[侮辱的な]軽視”の罪に問われたのです。

      どうしてそのような罪に問われたのですか。その生徒たちが国歌,および「サン・マルティンの行進」を歌えないと言って断わったからです。即座に,エホバの証人を法的に弁護するための措置が取られました。

      一方,ミシオネス,エントレ・リオス,そしてフォルモサの各州の,エホバの証人の公の集会場は強制的に閉鎖されてゆきました。こうした措置は,連邦および州の当局者の手で取られました。

      エホバの証人は,信教の自由に対する,こうした公の妨害に抗議し,8月23日に,ブエノスアイレスの連邦裁判所へ“アンパロ”(差止命令)の令状を求めました。

      正義が勝つ ― しかし長続きはしない

      数日後,8月27日に,連邦判事フランシスコ・カリクスは決定を下しました。同判事は,国家の象徴に対する“軽視”の罪に問われていた,ミシオネス州のエホバの証人を釈放するよう命じました。また,彼らに対するあらゆる非難を取り除くよう命じたのです。

      同判事は,「侮辱的な軽視というものには,実質的な行為が伴う」と述べました。そうした行為として,判事は,「破壊,焼却,破損,切断,汚損,つばを吐きかけること,破ること,踏みにじること」などを挙げています。またそうした侮辱的な軽視は,「口頭(口笛を吹く,やじを飛ばす),文書,さらには攻撃的な動作によっても」表わされることにも注目しました。

      問題のエホバの証人はこうした行為のいずれかについて罪ありとされたでしょうか。同判事は,「被疑者のいずれかに,そのような意図があったことを示す重要性の高い要素は,審理の中から出て来ていない」点に注意を向けています。そして,こう付け加えています。「反対に,彼らは異口同音に,国家の象徴すべて,および法律に対して自分たちは敬意を表明していると主張している」。

      確かにその日,正義は地歩を占めました。しかし,その勝利は短いもの,実に短いものでした。それはわずか四日間続いたにすぎなかったのです。

      激しい攻撃が加えられる

      1976年8月31日,政府はそのとどめの一撃を加えました。政府は大統領令1867号を発令したのです。

      この政令は一部次のように述べています。「国の憲法第14条と第20条で聖なるものとされている信教の自由は,当然のことながら,その宗教思想が暗に法律を犯すよう人をそそのかしたり,公序良俗,国家の安全,道徳などに反する行為をほのめかしたりすべきではないという意味で,制限されたものである」。

      しかし,フランシスコ・カリクス判事がその判決の中で示しているとおり,エホバの証人に対するそのような疑いが確証されたことはありませんでした。

      にもかかわらず,その政令はさらにこう述べています。「この理由で……アルゼンチン国大統領は以下のとおり布告する。

      「第一条: 『エホバの証人』または『ものみの塔聖書冊子協会』として知られる宗教団体,および当該団体と直接,または間接に関係のあるグループ,存在,および団体すべては,当国の全域において禁止された」。

      「第二条: 次のものも同様に禁止されている。(イ)公であろうとなかろうと,考慮の対象となっているこの教理を支持する,文書,雑誌,およびすべての出版物。(ロ)改宗者を作ったり,教えを吹き込んだりする行為。

      「第三条: 前述の団体が集会を開いている場所すべて,および第二条に挙げられているような資料が印刷,頒布,および販売されている場所は閉鎖される。

      「第四条: 内務省を通して,この政令を実施するための規定が採用され,指示が与えられる」。政府の措置と関連して,内務省の法務監督総局の提出した訴訟事件覚書は次のように主張していました。「この宗派は,専ら宗教上の崇拝行為を行ない,そのような崇拝行為が我々の道徳や良俗に従ったものである……という点は証明されていない」。

      もちろん,事実はそれとはまさに正反対です。今世紀を通じて,エホバの証人は熱心にその宗教上の崇拝行為に専念することがはっきりと示されてきました。そのような崇拝は,最高度の道徳性を備えています。それはまた,他の人々の選ぶ崇拝の方式を妨げることも,その人々が実践したいと思う習慣を妨害することもありません。米国の最高裁判所を含む,世界中の当局者たちは,以上の事柄が真実であることをずっと昔に確証しています。

      この訴訟事件覚書には,次のような驚くべき陳述が含まれていました。「人肉嗜食,儀礼的殺害,あるいは一夫多妻を認めるような宗教の場合に,それに自由を与えることなど考えられない。その上,この場合に問題になっているような宗教は,いかなる形を取ろうと,認めることはできない」。

      この陳述の言葉遣いからすれば,事情を知らない人々はエホバの証人が何らかの仕方で人肉嗜食や儀礼的殺害や一夫多妻と関係していると思うかもしれません。しかし,それは全く根も葉もない虚偽の言葉です。それでも,このような当てこすりは,確かに害をもたらします。エホバの証人のことをよく知らない,大勢の人々は,こうした当てつけにはある程度の根拠があると考えるかもしれないからです。

      法廷闘争は続く

      エホバの証人の起こした訴訟は幾つかの法廷を経て,審理されてゆきました。1977年3月10日,連邦判事,ホルヘ・E・セルメソニ博士が判決を下しました。同博士は,禁令の第一条を違法と宣し,この政令を発行するに当たって,行政権がその権限を越えたことを示しました。しかしながら,判事は,「宗教団体登録部に登録されていないことの結果として……同派はすでにその活動を禁じられている」とも宣告しました。

      内務省はその判決を不服として控訴し,エホバの証人も同様の立場を取りました。内務省は,行政権には憲法で保障されている権利を制限する権限があると主張しました。エホバの証人がその決定を不服として控訴したのは,それがエホバの証人に対する禁令を除くものとならなかったからです。

      この問題は控訴裁判所へ持ち込まれました。6月23日,アルベルト・アズコナ,フアン・カルロス・ベカール・バレラ,そしてバレリオ・R・ピコの三人の連邦判事は,下級裁判所の判決を部分修正し,大統領令を無効と宣したのです。

      その理由として判事たちの挙げた事柄は,6月24日付のラ・ナシオン紙に報じられました。それは次のようなものです。「信教の自由は最も重要な人権の一つであり……結果として,エホバの証人の場合,……その実践が道徳や公共の秩序に悪影響を及ぼさないかぎり,その宗派の活動を正当な根拠のもとに制限することはできない」。判事たちは,「[エホバの証人]の規則によると,その団体の目的が『至高の神とキリスト・イエスに対する,クリスチャンとしての公の崇拝』である」という点に注意を引いています。

      こうして,アルゼンチン憲法に表明されている,高潔な理想は尊重され,適用されたのです。しかし,法律はさらに上級の裁判所へ控訴するために,10日の猶予期間を置いています。問題は,国は控訴するか,ということでした。

      最高裁判所へ

      猶予期間の終わる間際になって,政府は最高裁判所へ控訴の申し立てを提出しました。この訴訟は,アルゼンチン内外の,自由と人権を気遣う人々の間に多大の関心を引き起こしました。そのような人々は,同国の最高法廷は憲法で保障されている自由を擁護するものと確信していました。

      1978年2月8日,最高裁判所の五人の判事はその判決を下しました。彼らは禁令を無効にすることを拒んだのです。

      その判決は,一般の人々にとっては矛盾そのものと映るような法律用語でぼかされていました。判事たちは,『政令1867号は,専横なところも,明らかに不法なところも示していない』と主張しました。それでもその政令は,憲法と全く相反するので,専横で不法なものだったのです。

      判事たちは,『エホバの証人には自分たちの権利を守るための行政上,および司法上の手段が別にあった。それはすなわち,宗教登録部に登録することである』と述べました。しかし,エホバの証人はそれまでに九回もこの宗教登録部に含めてもらえるよう政府に請願し,その度に却下されてきたのです。

      それに加えて,判事たちは,『エホバの証人の具体的に示した要求の正当性についても,その業を禁ずる政令の中で採用された措置の正当性についても判断を下したのではない。裁判所は,エホバの証人の用いた法的な経路を認容できないと宣言しているにすぎない』と言明したのです。しかしながら,法廷はエホバの証人が適切なやり方で用いた法的な経路だったのです。

      最高裁判所はどうしてそのような論法を採用するという挙に出たのでしょうか。司法長官を含む同国の法律専門家,および事件の審理に当たった連邦判事たちは,15か月間にわたってこの問題を注意深く研究していました。ところが,エホバの証人の求めた法的な援助は,ただの一度も問題にされることも,議論の対象になることもなかったのです。

      最高裁判所は,ポンテオ・ピラトがイエスの場合に行なったように『手を洗って』いたにすぎないのですか。最高裁判所は,憲法上の問題をはっきりと定めるという責任を回避しようとしていたのでしょうか。

      アルゼンチンの有名な教育者で,政治家でもあった,ドミンゴ・F・サルミエントが一世紀前に言い表わした態度は何と異なっていたのでしょう。サルミエントはこう語りました。「少数派がいて,たとえそれが一人だけであっても,その人が正直に,また誠実な気持ちで多数派の感情に同意しないのであれば,その人が法を犯そうとしない限り,法はその人を保護するのである」。サルミエントはさらに,「そのような人の考えを守るために……憲法が作成されているのである」と言明しています。

      このようにして,自らの責務を回避した最高裁判所は,自由に対して,またエホバの証人に対して容易ならぬ一撃を加えました。最高裁判所のしたことと言えば,1976年9月に最初に禁令が課されたときすでに見られ,またの判決の後に起ころうとしていた偏狭に満ちた行為の数々に,その是認の印を与えることだけでした。では,そのような偏狭に満ちた行為にはどんなものがありますか。

      [9ページの図版]

      アルゼンチン政府,国内の諸宗教団体に登録を命令,応じぬものは活動停止

      ニューヨーク・タイムズ 1978年2月15日 水曜日

      これは上記英文刊行物の記事を訳したものです

  • 禁令後に起きた出来事
    目ざめよ! 1978 | 9月22日
    • 禁令後に起きた出来事

      エホバの証人に対する禁令は,1976年9月上旬に実施されました。9月7日の明け方,連邦警察は内務省の命令に従って行動し,ブエノスアイレスにある,エホバの証人のアルゼンチン支部へやって来ました。

      警察は,印刷工場,事務所,発送部門,そして倉庫を封鎖しました。警察の見張りも立てられました。また,その同じ日に,アルゼンチン全国で,約600か所のエホバの証人の王国会館が次々に閉鎖されました。

      自由がなくなる

      禁令が敷かれて以来,北の果てのミシオネス,フォルモサ,そしてサルタの各州から,リオネグロ,チュブト,サンタクルスの南部諸州に至る,38の都市や町々で,宗教的な偏狭の火の手があがりました。今日までに,320人余りが逮捕されていますが,その多くは年老いた男女や幼い子供たちです。他の人々は,単にエホバの証人の親族や友人であるというだけの理由で拘留されました。

      こうした処置は,自由を擁護すると唱える国にふさわしいものでしょうか。ブエノスアイレス・ヘラルド紙は,「宗教上の迫害」と題する社説の中で,勇気ある答えを提出しました。同紙はこう述べています。「[エホバの証人の逮捕に関する]こうした報道は,アルゼンチンが今や独立国としてのその歴史上最大の宗教的迫害のさなかにあることを示している。これは,それ自体遺憾なことであり,外部の世界に対してアルゼンチンの評判を高めるのに何の役にも立たない」。

      同紙の社説はさらに,政府の取った措置は,「武装警官が祈祷集会を解散させるという醜態を世界にさらすことになった。こうした行為はソ連では日常茶飯事として受け入れられるかもしれないが,多元論のアルゼンチンには占めるべき場所が全くないはずである」と述べています。

      しかし,この「醜態」は実際に起きたのです。次に掲げるのは,アルゼンチンにおける宗教上の迫害と偏狭の現実を読者がご自分で見定めるのに役立つ事例のごく一部にすぎません。

      事実は語る

      「エホバの証人30人捕らわる」。これはアンダルガラ市(カタマルカ州)から寄せられた,1978年3月29日付の新聞記事です。レーモン・アルバレズとその家族,そして招かれた客たちは,年ごとのクリスチャンの祝祭である主の夕食の閉会の祈りの直後に逮捕されたのです。彼らは6日間拘留されました。最初の夜は,男女共に警察署の中庭で夜を明かしました。そして,逮捕された人々の個人用の聖書と聖書文書は没収されました。

      海辺の保養地マール・デル・プラタ市では,大人19人,子供3人でなる一グループが聖書を研究していました。突然,15人ほどの警官が踏み込み,全員に手を頭の上にあげて外へ出るよう命じました。ヘクトル・マリーニョ等の大人たちは45時間留置されました。他の四人のエホバの証人が自分の友人たちのために食物と衣服を差し入れに来たところ,その四人も逮捕されたのです。エホバの証人ではない一人の男の人は,「私は自分の父がエホバの証人であることを誇りに思っている」と語りました。そのために,この人も逮捕されました。

      プエルトリコ市(ミシオネス州)で起きた事件は広く知られています。その地では,国旗敬礼の問題で退学処分になった生徒の親たち16人が投獄されました。彼らは,あらゆる種類の法律違反者たちと共に,55日間拘留されました。こうして,父親である人々は自分の家族を扶養するために働くことができなくなりました。また,投獄された母親たちは,幼い子供たちの世話を他のクリスチャンの家族にゆだねなければなりませんでした。

      同じ州の別の場所では,兵士たちがエホバの証人の家を家宅捜索し,エホバの証人による翻訳ではない版の聖書をも含め,彼らの文書を押収しました。警察は15人の人々を逮捕しましたが,そのうちの一人はエホバの証人ではなく,単にエホバの証人の文書を持っていたにすぎませんでした。兵士たちはその近所の家々を訪問し,家の人が持っているかもしれないエホバの証人の文書を焼かなければ,だれでも逮捕すると脅しました。

      ピラネ市(フォルモサ州)の警察署長は,エホバの証人であるモスコーニをその自宅から連れ出し,町はずれまで連れて行き,モスコーニがあえて自宅に戻るなら,刑務所行きだと警告しました。同じ州で,武装した兵士が個人の家を占拠し,殴打を加えたり下品な言葉を用いたりして,一家七人を逮捕し,三日間監禁しました。

      ビヤコンスティテュシオン(サンタフェ州)では,個人の家が家宅捜索され,他の宗教団体の印刷した聖書をも含む文書が押収されました。その家にいた人々すべては警察署へ出頭するよう命ぜられました。その人たちは,エホバの証人の文書を所持しているところを再び見付けられるなら,懲役10年の刑を受けることになりかねないと警告されました。

      コルドバ市の一エホバの証人は,13日間投獄されました。そして,多くの場合に,尋問者を識別できないように目隠しをされて長時間にわたる尋問を受けました。

      ルイザ・モレティ夫人とその女性の同伴者は,バイアブランカ市の警察に十日間拘留されました。その罪名ですか。何と,他の人々に聖書について話したことがその罪だったのです。

      ずっと南へ下って,ピコトルンカド市(サンタクルス州)では,あるエホバの証人の家が家宅捜索されました。その人の聖書文書は没収され,当人は五日間独房へ入れられました。

      ラスカティタス市(メンドサ州)では,一エホバの証人は警察の尋問を受けるため,自分の職場から連行されました。その人の答えが警察の意にかなったものではないと,彼は血が出るまで顔面を殴られました。

      破壊活動の要素はない

      個人の家に踏み込んだり,支部事務所やアルゼンチン中のエホバの証人の集会場を閉鎖したりしたとき,警察はどんな証拠品を見いだしましたか。一つの武器も,破壊活動を示唆する一片の文書も見いだせなかったのです。

      それに加えて,エホバの証人はだれ一人として抵抗しませんでした。また,警察や他の当局者に対して敬意の欠けた態度を示すこともありませんでした。

      アルゼンチンにいる,3万3,000人の活発なエホバの証人の中に,一人の破壊活動分子をさえ見いだすことはできません。

      しかし,それもエホバの証人をよく知っている人々には,少しも驚くべき事柄ではありません。エホバの証人の生活は,世界中のエホバの証人にとって基礎となる教科書,聖書に示されるキリスト教の原則に従って形作られているのです。聖書の原則にそった生活は,確かに破壊的ではありません。ところがアルゼンチンでは,この聖なる書物を研究し,それについて他の人々に話すことは,今や犯罪とみなされるのです。

      職を失う

      禁令が敷かれて以来,多くのエホバの証人が解雇されました。公立学校当局は,国旗敬礼のような儀式に参加しない教職員を,即座に停職処分に付すよう指示しました。

      ブエノスアイレス州では,三年生を教える補助教員,エンリクェッタ・ドミングェス夫人が48時間前の事前通告で停職処分になりました。別の学校では,エルシダ・ダコスタ夫人が副校長の地位を追われました。

      ベアトリス・ムニョス夫人は,西の果てのメンドサ州で24年の教員歴を持つ,幼稚園の園長でした。同夫人は二人の幼い子供を抱えた未亡人です。ところが,自分の署名した愛国的な誓いの言葉に条件を付したところ,その場で解雇されました。

      メルセデス・ダレサンドロ夫人は国営電話会社での職を追われました。ローマンとフェルナンデスという名のエホバの証人は,ブエノスアイレス市役所での職を失いました。トゥクマン州立刑務所の民間人従業員,エルネスト・ナバロとホルヘ・ブランも同じく停職処分を受けました。しかも,長年にわたるその勤務に対する代償は全く与えられませんでした。このリストには,さらに多くの例を加えてゆくことができます。

      学校教育を受けられない

      300人余りの子供たちは,公立および私立の学校から退学させられたり,あるいは単に入学を拒否されたりしています。しかし,地域によっては,連邦判事がこうした評判の悪い差別を非として,エホバの証人の子供を復学させるよう命令した所もあります。そして最近,最高裁判所は,単に宗教団体に加入しているというだけの理由で,生徒を退学させるのは違法であると裁定しました。

      エホバの証人の若者たちを弁護するために提出された弁論趣意書には,アルゼンチンの著名な,憲法問題の一権威者の言葉の中から取った,次のような非常に興味深い引用文が含まれていました。「各人に自らを表現する権利があるとすれば,その人には,自分の信念や願いと一致しない表現を忌避するという,対応する[権利]がある。……場合によっては,ある行為が行なわれる際にその場に臨むよう求めるだけでも,受動的であるとはいえ,その人の好まない儀式や状況に参加するよう専制的に強要することになりかねない。これは,自らを表現しない自由を冒すものである。人の宗教上の信念や良心を冒すような誓いをする責務を課すことは,同じような結果をもたらし,専制的な原則である」―「マニュエル・ド・デレチョ・コンスティテュショナル」(「憲法便覧」),220/221: 355ページ。

      退学させられた後,幾人かのエホバの証人の生徒は,特別な委員会の実施する学年末試験を受けたいと考えました。ところが,この権利もエホバの証人には認められませんでした。ミシオネス州の教育総審議会の覚書が次のように述べていたからです。「生徒が『エホバの証人』という宗教に属していると唱えている場合,そのような試験は認定されない」。

      皮肉なことに,アルゼンチンの国中の公立学校は,「ディオス,パトリア,イ・オガル」(「神,国家,そして家庭」)という標語をモットーにしています。ところが,エホバの証人の子弟は,そのスローガンの述べるとおり,神を第一にしているために,学校教育を受けられないでいるのです。

      さらに厳しい処罰

      大抵の民主国家は,その法律の中に,良心的兵役忌避者に軍事教練を免除する規定を設けています。

      ところが,1977年2月17日,アルゼンチンはその軍法に一つの新しい条項を加えました。武器を携行するのを拒否することに対して現在ある罰則(エホバの証人は通例三年半の懲役刑を受けている)に加えて,そうした兵役忌避者たちは,今や政府関係の仕事や公職に就く資格を恒久的に失い,あらゆる公民権をはく奪されるかもしれないのです。

      これは,殺人行為を学びたくないと思う人に対する処罰のほうが,殺人や器物破損などの憎むべき犯罪を手がけた一般の犯罪者に対する処罰よりも重くなることを意味しているのです。

      「釈明罪」

      1977年5月,1948年からアルゼンチンに住み,ものみの塔協会の支部の調整者であるチャールズ・アイゼンハワー,およびエホバの証人の長老である,アルゼンチン生れのルシオ・アントヌチオは,軍法判事,アルベルト・マルティネスの前へ出頭するよう召喚されました。同判事は,二人に,軍事教練を拒否した若いエホバの証人について尋問しました。後日,二人はエホバの証人の信条について陳述するよう連邦法廷の前に召喚されました。

      これらの審理の結果,二人は「釈明罪」で罪ありとされ,三か月から三年までの懲役刑を言い渡されました。そして,上級裁判所はその判決を支持しました。

      この「釈明罪」とは一体何ですか。ウェブスター新国際辞典第三版は,「釈明<アポロジー>」をこう定義しています。「他の人々には誤りと思える事柄を擁護したり,正当化したりするために,言われたり,書かれたりする事柄」。―下線は編者による。

      ですから,アルゼンチンでは,聖書に基づく自分の信念を法廷で擁護することが犯罪になったとしか思えません。

      軍事基地でそのエホバの証人の兵役忌避者に会う日まで,チャールズ・アイゼンハワーはその若者と一度も会ったことがなかったという点にも注目しなければなりません。服役者のいとこで,当人と聖書を研究した,ルシオ・アントヌチオは,兵役について当人に助言したことは一度もありませんでした。

      このすべての証拠からして,アルゼンチンのエホバの証人が,残忍で,激しい,宗教的な偏狭の犠牲になっていることに,一点の疑いでもあるでしょうか。

      それに関して,どんなことができますか。そうです,それについてあなたにはどんなことができますか。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする