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前途の試練に備えてあなたは今訓練をしていますかものみの塔 1971 | 6月1日
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「どれほどのはずかしめや殴打を受けたにしても,数秒後には,打たれ続けているにもかかわらず何も感じませんでした。エホバ神がいつもわたしたちとともにいてくださるのだと感じられました」。エホバはなんと驚くべき仕方で,のがれる道を設けてくださるではありませんか。悩み苦しんでいたロトを昔救出されたように,エホバは,「敬虔な専念をいだく人々をどのように試練から救出するかをご存じで(ある)」ことを,今日においてもくり返し証明してこられました。―ペテロ後 2:6-9,新。
26 今何をすることが絶対に必要ですか。
26 あなたの信仰も,まちがいなく試みられます。その理由は,悪魔サタンが自分の終わりの近いのを知っており,神への奉仕からあなたを引き離そうとして試練をもたらすからです。したがって,定期的に神に祈り,みことばを研究し,神の組織の民と定期的に集まり合って,自分を強めるための神からの備えを活用することが絶対に必要です。そうするならば,エホバの是認を得,どんな試練が臨もうとも,それを成功裏に耐えぬくことができるのです。
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わたしたちの信仰をこころみる試練に耐えるものみの塔 1971 | 6月1日
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わたしたちの信仰をこころみる試練に耐える
『あなたがたはさまざまな試練によって嘆き悲しまされてきました。それは,試みられたあなたがたの信仰の質が,賛美のいわれとなるためです』― ペテロ前 1:6,7,新。
1 試練は楽しいものですか。試練のもとでの忠実さは,どのように賛美のいわれとなりえますか。
試練は楽しいものではありません。きわめて悲痛なものである場合もあります。たとえば,イエスがつばをかけられ,嘲笑され,最後には打たれたうえ,刑柱にくぎづけにされて苦しみの死を遂げた時,それは決して楽しいことではありませんでした。(マタイ 26:66-68; 27:26-30)彼の信仰を最も極端な試みにあわせたそれらの試練は,確かに悲痛なものでした。しかし,試練のもとでのイエスの忠実な歩みは,賛美のいわれとなりました。そのために,まず神の名前に賛美がもたらされました。イエスの忠実さは,悪魔サタンが彼を神の崇拝から引き離しえないことを実証したからです。さらに,神がイエスを死から天の命へ復活させられた時,イエスは自分の忠実さの報いとして賛美と誉れを受けました。―ピリピ 2:9-11。
2,3 (イ)試練にあっている時でも,どのように幸福でありえますか。(ロ)試練にはどんな益がありますか。
2 神の名前にもたらされる賛美と,忠実さに対して神が与えられるすばらしい報いを常に見つめるなら,試練にあっていても真の幸福を維持できます。事実,イエスは山上の垂訓の中でこう言われました。「人々が,わたしのためにあなたがたを非難し,迫害し,偽ってあらゆる邪悪な事柄を言うとき,あなたがたは幸福です。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいからで(す)」。(マタイ 5:11,12,新)弟子ヤコブも同様に次のように書いています。「試練に耐え続ける人は幸福です。なぜなら,是認されると,その人は命の冠を受けるからであり,それは,ご自分を愛し続ける者たちにエホバが約束されたものです」。(ヤコブ 1:12,新)そうです,試練のもとでのわたしたちの忠実さが神を喜ばせ,また神からの永遠の命の報いをもたらすことを知るのは喜びの源と言えます。さらに,試練が天の父に対するわたしたちの愛を実証する機会を提供することをも喜べます。
3 したがって正しい見方をするならば,試練を実際に歓迎することができます。それは有益な結果をもたらすからです。このことは走者や水泳選手にとって必要な訓練について確かに真実です。それらの人々は必要な忍耐の資質をつちかうために,多くの過度な試練や試みを経ねばなりません。そうした試練を乗り越えた後にはじめて,激しい競争の繰り広げられる陸上および水泳競技で,勝利を望みうることができます。クリスチャンの場合も同様で,試練は信仰においてさらに強くなるのに役だちます。弟子ヤコブが次のように書いたのはそのためです。「わたしの兄弟たちよ,さまざまな試練にあうとき,それをただ喜びとしなさい。あなたがたの知るとおり,試みられたあなたがたの信仰の質は忍耐を生み出すからです」― ヤコブ 1:2,3,新。
4,5 (イ)使徒たちはむちで打たれたあと,なぜ歓喜することができましたか。(ロ)わたしたちはどういう方法で,試練によって強められますか。
4 使徒たちの経験は,信仰の試みがどのように忍耐を生み出すことができ,実際に喜びに帰するかを例証しています。ある時,サンヘドリンの議員たちは使徒たちを召喚し,「之を鞭ち,イエスの名によりて語ることを堅く禁じ」ました。彼らはそれにどう応じましたか。聖書はこう述べています。「使徒たちは御名のために辱しめらるるに相応しき者とせられたるを喜びつつ,議員らの前を出でされり」。(使行 5:40-42)使徒たちは,キリストと彼の天の父に対する忠節を実証する機会を得たことを幸福に感じました。さらに,自分たちの信仰がきびしい試練によってこころみられ,真正の質のものであることが証明された事実も,使徒たちにとって喜びの源でした。試練の経験が自分たちのうちに忍耐を生み出したことに,彼らは歓喜することができました。
5 少し考えてみてください。わたしたちの信仰をくじこうとするサタンからのそうした経験は,実はわたしたちを建て起こしうるのです。試練に忠実に耐える時,わたしたちの思いは,神に喜ばれているとの自覚の念に満たされます。神の是認に対するこの自覚がわたしたちを強め,希望をさらに確かなものにします。つまり,試練やかん難は一種の“連鎖反応”を引き起こし,それにより悪魔のわたしたちに対する試みは完全にざ折させられてしまうのです。使徒パウロは次の勧めのことばの中で,この点をいみじくもこう説明しました。「かん難にあって大いに喜ぼう。わたしたちの知るように,かん難は忍耐を生み出し,ついで忍耐は是認された状態を,是認された状態は希望を生み出し,その希望は失望に至らないからです」。(ロマ 5:3-5,新)エホバは,なんと勝利に満ちた組み合わせをわたしたちに与えてくださったのでしょう。そうです,苦難と試練は,わたしたちが忠実を保つなら,わたしたちを建て起こし強めうる以外の何ものでもありません。
6 (イ)わたしたちを神の奉仕から引き離そうとする試みにおいて,悪魔が別に新しい方式を持っていないことはどうしてわかりますか。(ロ)悪魔は,人によってそれぞれ異なった試練をもたらします。なぜですか。
6 わたしたちを神の奉仕から引き離そうとして悪魔サタンが用いる方式や方法には,何ひとつ新しいものがないのは意義深いことです。それゆえ使徒パウロはサタンについてかつてこう語りました。「我等はその詭謀を知らざるにあらず」。(コリント後 2:11)また,コリント前書 10章30節(新)では次のように告げられています。「人間に共通でない誘惑〔試練〕はあなたを捕えませんでした」。聖書の中には,エホバを退けるよう誘惑するさまざまな試練がわたしたちのために多く記録されています。聖書のそうした例を調べることにより,何を期待すべきかに関しての警告を得られます。事前に警告を受けるなら,事前に警備をするものです。サタンが非常にこうかつであることも,わたしたちは忘れたいとは思いません。サタンがだれにも同じ試練をもたらすとはかぎりません。ある人にとってはきびしい試練でも,他の人にとっては比較的耐えやすいものかもしれません。ですから,サタンがわたしたちの一番もろい点をねらって攻撃してくることは確実です。この点を銘記しながら,わたしたちの信仰をこころみるために臨む試練のいくつかを考慮してみましょう。
神への忠節に関して試みられる
7 (イ)悪魔は人々にどのように神の律法を破らせようとしますか。(ロ)サタンが人々に破らせようとしばしば試みる,神の一つの律法はなんですか。
7 わたしたちの信仰は神の律法に対する従順に関して試みられます。悪魔サタンは,神に従うのを非常にむずかしくさせる,きびしい試みとなる事態を作り出そうとします。サタンが神のしもべに破らせようとするエホバ神の律法あるいは命令の一つはこれです。「あなたはわたしの顔に向かっていかなる神々をも持ってはならない。…それらに礼をしてはならず,いざなわれてこれに仕えてはならない。あなたの神である我エホバは専心の献身を求める神であるからである」。(出エジプト 20:3-5,新)。イエスはこの命令を次のように述べました。「あなたが崇拝しなければならないのはあなたの神エホバであり,あなたが神聖な奉仕をしなければならないのは彼だけである」。(マタイ 4:10,新)神のしもべたちは,神に専心の献身をささげるというこの要求に忠実を保つかどうかを試みる,きびしい試練に何度となくあってきました。
8 前述の神の律法に関して,3人のヘブル人はどのように試みられましたか。
8 たとえば,古代バビロンが世界強国であった時,その支配者ネブカデネザル王は巨大な黄金の像を建てました。そして次の命令が出席者全員に発布されました。「汝ら喇叭 簫 琵琶 琴 瑟 篳篥などの諸の楽器の音を聞く時はひれふしネブカデネザル王の立てたまへる金像を拝すべし 凡てひれふして拝せざる者は即時に火の燃ゆる炉の中に投こまるべし」。(ダニエル 3:5,6)出席者の中には3人のヘブル人で,エホバのしもべであるシャデラク,メシャク,アベデネゴがいました。それは彼らにとってなんときびしい試練,なんという信仰の試練だったことでしょう。神は,『礼をしてはならない』と命令されていましたが,バビロニアの王の命令は,『ひれふして金像を拝せ』,さもなくば炉の中で死ぬというものでした。これはその3人のヘブル人に国家,つまり国家の像に礼をさせることにより,神の律法を破らせようとする悪魔サタンの周到な試みでした。
9 現代,諸国家はしばしばどんな像や象徴に礼拝をささげることを要求しますか。
9 悪魔の方式は変わっていません。彼は今日でも同じような苦しい境遇に神のしもべを陥れます。たとえば,古代バビロンの時代と同様,今日の諸国家も象徴物を設け,そうした物に敬礼をしたり,拝したり,その他の崇拝の行為をもってほまれを帰するよう市民に命令します。現代における諸国家の顕著な象徴に関して,カトリックの歴史家カールトン・ヘイズはこう評しています。「国家主義信仰の主要な象徴かつ崇拝の中心となっているのは旗であり,旗に『敬礼したり』,旗を『ちょっと上げたり』,『下げたり』,『掲げたり』するための,奇妙な礼拝的な形式が考え出された。男子は旗が通り過ぎる際には
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