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  • 最近王の秘書官があなたを訪問しましたか
    ものみの塔 1972 | 5月1日
    • をつける仕事をしなさいとは命じませんでした。そこには,額にしるしをつけられるべき者はいませんでした。というのは,預言者エゼキエルは検査のために神殿の中を一巡したさい,そこで崇拝者が偽りの崇拝を行なっているのを,さらに幾人かの女たちが神殿やエルサレムのただ中で行なわれている憎むべきことのためにではなく,偽りの神タンムズのために泣いているのを見せつけられていたからです。(エゼキエル 8:13,14)このゆえに,『布の衣を着た者』は神殿の外に行って,「エルサレムの中を巡れ」と命じられました。エホバは不忠実なエルサレムの至る所に,そのただ中で行なわれている「諸の憎むべき事のために歎き哀しむ人」がいるのをご覧になりました。

      30 布の衣を着た者はどのようにして正しい種類の個々の人を捜し出すのですか。それらの人々にはどんな理由に基づいて所定の箇所にしるしをつけられましたか。

      30 『衣を着た者』は,こうして「歎き哀しむ」人たちを,どのようにして見つけるのですか。単に町の広場や市場に行くだけでなく,人々の家を戸別に尋ねることによってです。そうすれば,人々が心から述べることばを聞くことができ,額にしるしをつけるべきかどうかを決定できます。これは決して急いでする作業ではありません。むしろそれは,しんぼう強く,またきちょうめんに家々を戸別に尋ねて公正な調査をし,王の都の中で他の人たちが行なっているもろもろの憎むべき事を誠実な気持ちから嘆いている人々のみに,また偏ぱなくしるしをつける仕事でした。『布の衣を着た者』はそれらの人々に,胸中をあらわにしなさい,そうすれば心にしるしをつけます,とは言いませんでした。そうではなく,友にも敵にも公に見られる額に顕著なしるしをつけたのです。衣服の種類や偽善的で信心深そうな話しぶりではなく,このしるしこそ人をしてエホバの崇拝者であることを明らかにするものでした。

  • 王の秘書官の仕事を完了する
    ものみの塔 1972 | 5月1日
    • 王の秘書官の仕事を完了する

      1,2 (イ)今日その『しるし』に関してどんな質問が生じますか。その前に,わたしたちは自分がふさわしい者かどうかについてどのように自問しなければなりませんか。なぜですか。(ロ)エホバはほかにもその地にかんするどんな憎むべき事についてエゼキエルに告げましたか。

      この時代にかかわる重大な質問は,あなたは現代の布の『衣を着た者』によって額にしるしをつけられましたか,ということです。自分の額に文字どおりしるしがつけられているかどうかを見ようとして鏡に自分の顔を映す必要はありません。エゼキエルの幻の中では,それは文字どおりのしるしでしたが,今日ではそのようなものではありません。では,そのしるしとはなんですか。それはどのようにして,人々のいわば額にしるされるのですか。その前に次のように問えます。あなたは額にしるしをつけられるにふさわしい人ですか。エゼキエルの時代の当時,しるしをつけられたのはエホバの崇拝者たちでした。しるしをつけられたそれらの人々がエホバに忠節な人たちであり,エホバの清い崇拝の尊さを信じていたゆえに,聖なる都であるべきエルサレムで行なわれていたもろもろの憎むべき事のために『嘆きかなしんで』いたことを,わたしたちは知っています。その憎むべき事の中には,こともあろうにエホバの神殿で行なわれていた偶像崇拝が含まれていました。エホバはそのほかにも他の憎むべき事をエゼキエルに告げて,こう言われました。

      2 「イスラエルとユダの家の罪甚だ大なり国には血盈ち邑には邪曲充つ即ち彼等いふエホバは此地を棄てたりエホバは見ざるなり」― エゼキエル 9:9。

      3 今日そのしるしはなんですか。比喩的な意味でそれを額にしるすとは何を意味していますか。

      3 当時,しるしをつけられた人たちはエホバの忠節な清い崇拝者だったのですから,今日,『わたしたちはエホバの忠節な真の崇拝者だろうか』と自問しなければなりません。それから,自分が何者であるかを明らかにするしるしを捜すことができます。そうです,今日における象徴的なしるしは,あなたが,主権者であられる主エホバの崇拝者であることをしるしづける,あるいは明らかにするものです。それは比喩的な意味であなたの額にしるされているのであり,エホバ神に関する知識が額の中にたくわえられているとか,脳裡に刻みこまれているとかということを表わすものではありません。キリスト教世界の内外を問わず,聖書全巻を何度も読んだ人は少なくありません。しかしそうして頭の中に知識を取り入れたにもかかわらず,キリスト教世界の至る所で行なわれているエホバを汚す事柄,たとえば,不正,流血,宗教上の誤り,エホバを別として他の事物をあがめるさまざまな形式の偶像崇拝のために心を痛める,エホバの崇拝者としてしるしづけられているわけではありません。

      4 それで,単なる頭の中の知識以上の何が要求されていますか。しるしをつける仕事はいつから,だれによって進められていますか。

      4 ですから,単に頭の中にある知識以上のものが要求されています。重要なのは頭の中にあるものではなく,ひととなりの点で実際にどんな人間かということです。正真正銘の額に印を押されたように,それはあなたを見て調べる人に見えるもの,察知しうるものとなります。聖書の知識に基づくそのような人格が,あなたのうちにつちかわれなければならないのです。そして,現代における『布の衣を着た者』が関係してくるのはこの点においてです。先に述べた1931年のできごと以来,この複合的な「者」,つまりエホバのクリスチャン証人の油そそがれた残れる者は,ふさわしい人たちの額にしるしをつける仕事に忙しく携わってきました。

      5 やがて油をそそがれた残れる者は,何を行なう必要を認識するようになりましたか。1936年までには,彼らは何を行ないはじめましたか。なぜですか。

      5 確かに,献身してバプテスマを受けたクリスチャンの油そそがれた残れる者は家から家に戸別訪問を行ない,市町村に出かけて行っては聖書文書を頒布し,さらに『入場無料で献金を集めず』に公の演壇から聖書の講演を行なってきました。しかし,聖書を理解する助けとしてのそうした文書類を単に人々に読んでもらう以上のことが必要なのです。それを読む人は,読む事柄を理解し,それを適用するには個人的にさらに援助してもらわねばなりません。この点の必要性が時たつうちにさらに十分に認識されるようになり,1936年までには,文書を求めた人を再訪問するわざが行なわれるようになりました。次いで,やがて家庭聖書研究が関心のある人々と取り決められるようになり,油そそがれた残れる者の成員がそれを司会し,その目的のために毎週あるいはさらにひんぱんに再訪問が行なわれました。

      6 人々はキリスト教世界に見られる「憎むべき」事柄をはっきり見分けられるようどのように個人的に助けられましたか。それらの人はどのようにしてしるしをつけてもらいましたか。

      6 それら新たに関心を示した人々は,キリスト教世界の中で見られる事柄にすでに嫌悪の情をいだいていたかもしれません。しかし,唯一の生ける真の神への清い崇拝に関する聖書の真理に目を見開かれるや,彼らはキリスト教世界の中で宗教上の偽善者たちによって行なわれている「憎むべき事」をより深い認識の目をもって見るようになりました。そしてそうした事柄を目にした彼らは,キリスト教世界から手を引き,その世界との提携関係を一切断ち切り「憎むべき事」を犯すキリスト教世界に対するいっさいの精神的支持を撤回する必要を悟りました。エホバに忠節なそれらの人々は油そそがれた残れる者の助けを得て,知識と理解を深め,ついには個人的な決定を下し,み子イエス・キリストを通してエホバ神に献身し,その献身を水の浸礼によって象徴するに至りました。このようにして,エホバのみ子イエス・キリストの「弟子」となることにより,彼らは額にしるしをつけてもらったのです。―マタイ 28:19,20。

      7 1935年,油そそがれた残れる者は,だれにしるしがつけられようとしていることを悟りましたか。それらの人々は,額のしるしとしての役割を果たす何を身につけることになっていましたか。

      7 1935年,油そそがれた残れる者は,黙示録 7章9節から17節に基づいて,もろもろの国,族,民,国語の中から出てくる『大いなる群衆』が額にしるしをつけられるべきことを悟りました。この群衆は,神と犠牲にされた小羊イエス・キリストとの王座の前に公に立ち,「救いは御座に坐したもふ我らの神と羔羊とにこそ在れ」と言う者としてしるしをつけられるのです。象徴的に言って,この『大いなる群衆』に属する者たちは『白い衣』によって見分けがつきます。なぜなら,黙示録 7章14節はこう述べているからです。『彼らは羔羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者』であり,「神の御座の前」で是認を得ているばかりでなく,『昼も夜もその聖所にて神に事へ』ているのです。それには,彼らは聖書の次の命令に従うことが要求されています。「汝ら主イエス・キリストを衣よ,肉の慾のために備すな」。(ロマ 13:14)したがって,あたかもその額にはっきりとしるしをつけられているかのように,彼らを公に顕著にさせる是認されたしるし,つまり彼らが身に帯びるしるしはキリストのような人格なのではありませんか。まさにそのとおりです。

      8 この『大いなる群衆』の人たちは,しるしをつけられた自分の額を公に示すよう,どのようにして積極的な援助を受けていますか。『大いなる群集』の数が年ごとに増加し続けている理由を説明する事柄を述べなさい。

      8 『大いなる群衆の』それら献身してバプテスマを受けた成員たちはさらに助けられて戸別訪問のわざに携わり,キリスト教世界の中で行なわれている「もろもろの憎むべき事のために歎き哀しむ」他の人々を捜し出しています。このようにして彼らは,油そそがれた残れる者の監督のもとでしるしをつける仕事にあずかっているのです。そうすることにより,彼らはキリスト教会の内外を問わず,全世界の人々に自分の額にある象徴的な『しるし』を公に示しています。その結果,エホバ神の清い崇拝を求める他の人々が幾千人となく,容易に人の目につく額に,自分が何者であるかを明らかにする『しるし』をつけられるにふさわしいことを実証しています。たとえば,1970奉仕年度だけでも,全世界で1億2,122万6,605件の再訪問が関心のある人々に対して行なわれ,16万4,193人がエホバ神への献身を表わすために水のバプテスマを受けました。『大いなる群衆』の数が年ごとに増加し続けているのはこのためです。それにしても,当人が何者であるかを明らにするこのしるしには,どんな価値があるのですか。

      「六人の者」による刑執行の仕事は迫っている

      9 エホバが次にお告げになったどんな命令のことばを考えれば,この『しるし』には価値のあることがわかりますか。

      9 わたしたちが地上での命をたいせつにするのであれば,その『しるし』に伴う価値に関心を払うはずです。王エホバが,何をすべきかを『布の衣を着た者』に告げた後に,ご自分の王座から述べた事柄を聞くならば,その価値を認識することを学べます。預言者エゼキエルは幻の中でエホバが次になんと述べたかを告げています。「我聞くに彼またその他の者等にいいたもふ 彼にしたがひて邑を巡りて撃てよ 汝らの目人を惜み見るべからず 憫れむべからず 老人も少者も童女も孩子も婦人も悉く殺すべし 然ど身に記号ある者には触べからず先わが聖所より始めよと」― エゼキエル 9:5,6。

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