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    ものみの塔 1963 | 7月15日
    • 世間の人がこの運動をもてはやしたわけではありません。クリスチャンはエルサレムからはじめて「地のはてまで」証人となり,力強い音信をひろめる使命を与えられ,またそのために力を与えられたのです。今日でも同じく,設立された御国の福音は,この組織制度の終る前に「すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられ」ねばなりません。聞く耳のある人々は,欽定訳にあるような「わが民よ,彼女〔バビロン〕の中から出て来よ」といった単なる訴えを聞くのではなく,新世界訳の言う如く「わが民よ,その中を出て離れ去れ」という緊急な命令を聞きます。聞く耳を持つ人はキリスト教国を捨てて,神の制度シオンに逃れるために行動をおこします。この制度の人々すなわち天の希望を持つ真の教会の忠実な残れる者は祝福され,イエスと同じく「喜びのあぶら」,エホバの御霊をそそがれています。この人々と交わりを共にすることは,「新しき人を着」,真の宗教を実践するための大きな助けとなり,励みとなるでしょう。―使行 1:8。マタイ 24:14。黙示 18:4。イザヤ 61:3。エペソ 4:24,新口。

      11 黙示録 1-3章は,今日の私たちにとってどのように特に役立ちますか。

      11 エホバとその言葉に対して正しい評価を得るべき第二の理由は,黙示録のはじめのほうの章に示されています。そこにくわしく書かれた事柄は,正義を愛して不法を憎む気持ちを心の内奥に強め,聖書とその著者にかたどった人となりをつちかうための指針となっています。イエスは終りの時を迎えた世の有様と,そのとき弟子たちに臨む試練を先見されました。そこで七つの会衆に宛てた音信をヨハネに与えたのです。これらの音信はヨハネの時代においてそれぞれ適切なものでしたが,この「主の日」に住む真のクリスチャンの会衆のすべてにとって,なお真実の意義を持つのです。(黙示 1:10)天の希望を持つ人々におもに与えられたと言っても(そこに与えられている約束はすべて天のものです),そこに描かれたさまざまの状態,イエスの与えた警告と助言は,神に献身した僕で神の国における地の希望を持つ人々にも等しくあてはまります。

      12 (イ)七つの教会に宛てられた音信は,何が必要であることを強調していますか。(ロ)新しい人格は何から成り立っていますか。

      12 約束のものは異なっても,それぞれの音信にある同じさとしに注目して下さい。「耳のある者は,御霊が……言うことを聞くがよい」。またそれぞれの音信の最後にある言葉,「勝利を得る者には……」に注目して下さい。これは集団としてではなく,ひとりびとりがかなわなければならぬ要求です。加えて「死に至るまで忠実であれ」「堅く守っていなさい ―」などの言葉と共に「忍耐」という言葉が数回出てきます。堅く立ち,忍耐して勝利を得るには,たしかに強固な人となりが必要です。これは外見だけのものではなく,エホバに対する愛と深い認識に根ざした決意,エホバのために生き,そのみ心を行なう心底からの決意が必要です。み父の心を行なうことを常に喜んだキリスト イエスは完全な模範でした。それで「御子のかたちに似たもの」になることは神のみ心です。パウロの述べているように,これは神のかたちにならう事でもあります。「造り主のかたちに従って新しくされ,真の知識に至る新しき人を着たのである」。その意味はこうです,「あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい……これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。強い心,そうです,しかしごう慢になることではありません。問題は正しい動機を心に持つことです。―黙示 2:7,10,13,19; 3:11。ロマ 8:29。コロサイ 3:10-14,新口。

      13 (イ)敬虔な人となりは,どのようにして得られますか。(ロ)この点で,パウロはどのように良い例ですか。

      13 聖書の正確な知識を得てのみ,敬虔な人となりを作りあげるさまざまの性質のおりなす美しい調和に達することができます。使徒パウロはそのよい例です。クリスチャンになる前のパウロは確かに強い心の持ち主でしたが,真理に盲目だったので調和に欠けていました。そして自ら言う通り「神をそしる者,迫害する者,不遜な者」でした。ひとたび目ざめてのち,パウロはその後の一生涯を通じてなお強固な意志を持っていましたが,今度は異なった動機を持ち,美しい釣合と調和を見せました。テサロニケ人に書き送ったパウロの言葉は,その事を示しています。「あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。このように,あなたがたを慕わしく思っていたので,ただ神の福音ばかりではなく,自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに,あなたがたを愛したのである」。たしかに大きな相違です。いまパウロを動かしたのは,無私の献身と愛でした。―テモテ前 1:13。テサロニケ前 2:7,8,新口。

      14 どのようにして,私たちの人格を神のかたちに造り変えられますか。

      14 以前にどんな気質を持っていた人も,気落ちする必要はありません。「われわれのかたちに,われわれにかたどって人を造り」と御子に言われた父なる創造主は,おふたりにかたどった「新しき人」をその人の中に造ることができます。それは人を変える力を持つ神の御霊,「心の深みまで新たに」する力と,神のことばの力によって可能となるのです。聖書全巻がおひとりの神から出たものであることを悟り,また確信すればするほど,その著者エホバの大いなる性質を認識できます。またその事は「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」助けとなります。―創世 1:26。エペソ 4:23,24,新口。

  • 真の教会は何を基礎に建てられるか?
    ものみの塔 1963 | 7月15日
    • 真の教会は何を基礎に建てられるか?

      聖書が明らかにしている事は多くの人の驚きとなるかも知れません。しかし,確かな答を得る事は大切です。

      真の教会はどれかという問題になると,ローマカトリック教会の牧師は好んでマタイ伝 16章18節を引用します。その聖句は次の通りです。「汝はペテロなり,我この磐の上に我が教会を建てん,黄泉の門はこれに勝たざるべし」。カトリック訳聖書の中でこの部分は次のようになっています。「あなたはペトロである。私はこの岩の上に,私の教会をたてよう。地獄の門はこれに勝てないだろう」。(バルバロ訳,口語訳新約聖書)イエスのこの短い言葉から,ペテロが神とキリストとの教会をその上に建てるべき基礎の岩となる事をイエスはここで明らかにしたのであり,また,これによってペテロは初代の法王,我らの主イエス・キリストの後継者となり,ローマカトリック教会はこの時に始まり,最初にして,唯一真の教会であるとローマカトリック教会は結論しています。

      ギボンズ枢機卿は,自著「我らが教父の信仰」の100頁で次のように述べています。「我らの主イエズスはたゞ一つの教会を設立され,ペトロをその基とする事を喜ばれた。それゆえ,いかなるものであれ,ペトロが教会の基礎石なる事を認めぬものはキリストの教会でなく,また,神の御業によらぬゆえ存続し得ない。以上は明白である」。1953年トーマス・ネルソン社発行の「カトリック版聖書の注釈」には次の一節が見られます。「この啓示により,天主はペトロを御自分の御子の社会の礎として抜てきせられた」。

      しかし,これが,「この磐の上に我が教会を建てん」と言われたイエスの言葉の真の意味ですか。また,この言葉の中でイエスはペロテの事を言っていましたか。ペテロは神の会衆の頭になる事になっていましたか。

      まず第一に,多くの聖書訳の中に見られる「教会」という言葉には石の建築物というような意味が少しも含まれていない事をはっきり知らぬばなりません。神は「手にて造れる宮に住み給はず」と聖書は述べています。(使行 17:24)マタイ伝 16章18節において,「教会」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「エクレシア」です。これは人手による石造や木造の建物とは少し

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