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落胆したり,人につまずいたりして自分の信仰を破船させてはならないものみの塔 1975 | 11月15日
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が,わたしたちは,そのあらしを乗り切って落胆の犠牲とならないようエホバが助けてくださることを,確信をもって期待することができます。「主は彼らをその悩みから救い出された。主があらしを静められると,海の波は穏やかになった。こうして彼らは波の静まったのを喜び,〔エホバ〕は彼らをその望む港へ導かれた」― 詩 107:28-31,口〔新〕。
人物も人の信仰を破船させることがある
14 人物は,人の信仰をどのように破船させることがありますか。
14 クリスチャンはまた,自分の信仰を,または他の人の信仰を破船させるような仕方で仲間のクリスチャンと衝突する危険にも,直面します。そのうえ,聖書は,クリスチャン会衆の中の少数の人が信仰から離れ,他の人々をも自分に従わせようとするだろう,と警告しています。別の面からいえば,クリスチャンは,試みられた忠実な兄弟姉妹を信頼し,尊敬し,また自分たちの忠実な牧者の指導や模範に感謝しますが,しかし他の人間のすることによって,「自分の信仰に関して破船を」経験するようなことをしてはならないのです。ですから,神のしもべは,自分の歩む道の計画を立てる際に,人の影響や感化を過度に受けないようにすることが非常に必要です。―テモテ第一 1:18,19。
15 ユダは,追放されなければ会衆内の脅威として存在し得るある者たちを,どのように描写していますか。
15 ユダは,クリスチャン会衆内に忍び込んで「わたしたちの神の過分のご親切を不品行の口実に変え」ようとしたある者たちに言及し,彼らのことを,「あなたがたの愛餐における水の下の隠れた岩」と描写しています。「この者たちはつぶやく者,自分の境遇について不平を言う者であり,自らの欲望のままに進み,口で大げさなことを語りながら,自らの利益のために人物を賞賛します」。(ユダ 3,4,12,16。ペテロ第二 2章と比較してください)そのような人たちは,発見されるなら,会衆内にいるに値しない者として,追放,すなわち排斥されます。しかし,もしだれかが,神のことばを退け,一方で自分の背教を隠すことに努めながら,絶えず不満をならべ,人物を賞賛することによって他の人々を誤導するなら,わたしたちはその人に従って真理から出,滅びに行くべきですか。それは,なんと愚かなことでしょう。あなたの信仰が,これら「水の下の隠れた岩」の一つに打ち当たって破船しないように,注意してください。
16 (イ)長老が,神のことばに従うようわたしたちを助けるとき,わたしたちの態度はどうあるべきですか。(ロ)イエスの弟子のある者たちは,どんな対照的な態度を示しましたか。
16 これと対照的に,会衆内の牧者や教える者たちが,神のことばの真理の面で進歩するようわたしたちを助けるために努力するとき,わたしたちは人物につまずきますか。イエスの弟子になった者の多くは,イエスの教えのあるものを好み,奇跡による食物やいやしを受けることを喜びました。しかし,『人の子の肉を食べ,その血を飲まねばならない』と聞いて,彼らはショックを受け,その結果,「弟子のうち多くの者が後ろのものに戻って行き,もはや彼とともに歩もうとは」しませんでした。彼らは,この重要な教えに関する理解が与えられるほど長くとどまりませんでした。―ヨハネ 6:48-69。
17,18 (イ)使徒たちは,受け入れるのが困難であったかもしれないある教えに関係して,どのように正しい態度を示しましたか。(ロ)ユダ・イスカリオテの不忠実は,他の使徒の信仰をゆるがす理由にはなりませんでしたが,なぜですか。このことからわたしたちは何を学ぶことができますか。
17 エホバの「忠実で思慮深い奴隷」の組織から,神のことばに基づいて新しい解釈が提示されるとき,わたしたちは発表されたことの意味を十分に理解しにくく感じることがあるかもしれません。しかし,どうすべきですか。批判的になり,例えば,これは本部にいる少数の人たちが感じていることにすぎない,と結論しますか。それとも,弟子の多くが離れ去ったその同じときに,イエスから質問されたさいの使徒たちと同じ態度を示しますか。「主よ,わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。そしてわたしたちは,あなたが神の聖なるかたであることを信じかつ知るようになったのです」。
18 使徒たちは,イエスの教えおよび生き方を,ヘブライ語聖書と比較してみて,イエスが本当にメシアであることを確信していました。それで,イエスがその当座受け入れにくいある新しい教えを紹介したからといって,イエスに従うのをやめるつもりはありませんでした。もちろん,一人は後ほど離れていきました。それはユダ・イスカリオテです。貪欲が彼の頭と心を変えてしまいました。しかし,選ばれた使徒たちのうちの一人の不忠実によって,他の11人の信仰が損なわれたでしょうか。イエスの逮捕と刑柱上の死によって彼らの信仰は幾分動揺したとはいえ,損なわれはしませんでした。彼らは霊的に立ち直りました。そしてエホバは,西暦33年のペンテコステ以降,その聖霊によって彼らを強められました。
19 (イ)クリスチャン会衆内の指導者について,わたしたちはどんな事実を常に意識しているべきですか。(ロ)長老たちにはどんな責任がありますか。そして人物については,どんなことが起こるのを許してはなりませんか。
19 わたしたちは,使徒たちのように,イエス・キリストに従っているのであって,地上のある人間または人間のグループを指導者としているのでないことを,決して忘れないでください。そうです,統治体からわたしたちの会衆の長老に至るまで,不完全な人間が,わたしたちを助けるために用いられています。しかし彼らには,神のことばに厳重に一致して教える重い責任があるのです。彼らは使徒パウロに倣わねばなりません。彼はエフェソスの長老たちに次のように言いました。「わたしは,なんでも益になることをあなたがたに話し,また公にも家から家にもあなたがたを教えることを差し控えたりはしませんでした」。(使徒 20:20)パウロは,長老としてのテモテに対し,ある者たちが「健全な教えに堪えられなくなり,自分たちの欲望にしたがい,耳をくすぐるような話をしてもらうため,自分たちのために教え手を寄せ集める」ときが来るので,そのときのために会衆を備えさせ,会衆の信仰を築くため,神の「みことばを宣べ伝え」るよう,厳粛に命じています。(テモテ第二 4:1-4)わたしたちは何を望みますか。わたしたちの耳をくすぐり,問題があるかもしれないときに,万事申し分ない,と言う人ですか。それとも,わたしたちに真実を,しかも親切に告げ,神に喜ばれる道を歩むようわたしたちを助けてくれる人ですか。(エフェソス 4:11-15)あなたと,あなたの天の父エホバおよびクリスチャン会衆の頭キリスト・イエスとの間に,人物を入り込ませないようにしましょう。
愛をもって互いに円満にすごす
20,21 (イ)どんな要因は,わたしたちが互いに忍耐と寛容を示し合うことを必要にしていますか。(ロ)パウロは,コロサイ 3章13,14節で,会衆内の平和と愛のきずなを維持するためのどんな助言を与えましたか。
20 わたしたちはみな罪のうちに生まれていて不完全ですから,神のことばの真理を学ぶとき,古い人格的特徴を捨てて新しい人格を着るよう,勤勉に努力する必要があります。(エフェソス 4:23,24)わたしたちが神のご意志を行なうかぎり,エホバは引き続き,新しい人格の形成を助けてくださるでしょう。それでも,望ましくない人格的特徴は,それを克服しようとするわたしたちの努力にもかかわらず,容易にはなくなりません。エホバのご意志を行なうべく献身したことを表わしてから何年もたっていても,依然として,そうした特徴の一つを改める努力をしているかもしれません。したがって,互いに寛容であることが必要です。さらに,人格的特徴の違いは,必ずしも弱さを表わすものではなく,単に,エホバが人間に配された多様性にすぎないかもしれません。
21 愛と寛容は,神経過敏にならないようにする助けになります。ある兄弟は,差し迫った問題を抱えているために,ことばもかけずに通りすぎるかもしれず,時にはきつい口のきき方をすることもあるかもしれません。あるいは,別の人のくせまたは特徴にどうかするといらだちを感ずることもあるでしょう。いずれにせよ,聖書は次のように助言しています。「だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなくゆるし合いなさい。エホバが惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたもそのようにしなさい。しかし,これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」― コロサイ 3:13,14。
22 (イ)兄弟の不完全さに腹を立てると,どんなことをする危険がありますか。(ロ)自分のあやまちを神に許していただくには,まず何が必要ですか。
22 ですから,性格の違いのために信仰の破船に遭うことがないようにしましょう。兄弟たちとの衝突を避けるようにかじを取って進みましょう。悪魔は,あなたが集会を休んだり,王国の良いたよりを宣べ伝えようとしないほど,あなたの兄弟の不完全さに対して,あなたに腹を立てさせることができれば,非常に喜びます。ちょっとしたいらだちや誇りの精神のゆえに,敵を喜ばせることを望みますか。あなたとエホバとの関係は,兄弟たちの一人が間違いをしたために奉仕をやめたり,奉仕の手をゆるめたりするほど,取るに足りないものですか。もしエホバが今あなたの兄弟に対して完全さを要求されるとすれば,エホバはあなたにもそれを要求される,ということを忘れないでください。もしあなたが自分の欠点を神に許していただきたいなら,あなたは,あなたの兄弟の欠点も進んで許さなければなりません。イエスは,わたしたちが進んで他の人々を許すことが,わたしたちの罪の許しの基盤となるとされました。―マタイ 6:12,14,15。
他の人々をつまずかせないようにする
23,24 (イ)舌は適切にもどのように船のかじに例えられていますか。(ロ)聖書は真実を,しかも人の徳を築き上げる真実を語ることについて,どんな助言を与えていますか。
23 舌は,正しく制御しないと,大きな害を及ぼす可能性があります。ヤコブはそのことを,例えで次のように説明しました。「ご覧なさい,船でさえ,あれ程の大きさがあり,また激しい風に押されるものが,非常に小さなかじによって,かじ取りの思いどおりの場所へ操られるのです」。どうしてわたしたちは,自分の舌に,狂ったかじのように,言いたい放題のことを言わせて,エホバを賛美する仲間と衝突するのでしょうか。「祝福とのろいが,同じ口から出て来るのです。わたしの兄弟たち,こうした事がこのようにして続いてゆくのは正しくありません。泉が同じすき間から甘いものと苦いものをわき出させることはないではありませんか」― ヤコブ 3:4,5,10,11。
24 怒りを含んだことばを出したり,人を傷つけるうわさ話や中傷をする傾向があるなら,かじによって船の進路を支配するのは船長であることを思い出しましょう。兄弟たちのことを心で悪く思っていないなら,傷つけることばを舌で語るように動かされることはありません。「あなたがたは偽りを捨て去ったのですから,おのおの隣人に対して真実を語りなさい」。「腐ったことばをあなたがたの口から出してはなりません。むしろ,必要に応じ,どんなことにせよ築き上げるのに良いことばを出して,聞く人たちに恵みとなるようにしなさい」― エフェソス 4:25,29。
25 個人的な争いを解決することについてはどんな助言が与えられていますか。
25 争いは早く解決しましょう。多くの場合,小さな事柄は問題にせずに見逃せます。問題が長びくなら,感情を害している兄弟のところへ行って,愛のこもった親切な態度で,問題を二人だけで話し合ってください。またもし兄弟が不満の理由を話しにあなたのところへ来るなら,自制心を働かせ,状況をよく理解するように,まず話されることに耳を傾け,性急に自分を弁護したり,非難しかえそうとしたりしないようにしてください。―エフェソス 4:26,32。
26 やがてくるあらしの時代を乗り切って航海を首尾よく完了し,エホバの新しい事物の体制に入り得ることを,わたしたちは神のことばからどのように確信していますか。
26 神の敵悪魔サタンは,自分の時が短いのを知っているので,人類の海の波を日増しに激しくします。(ダニエル 7:2,3。啓示 13:1)神のこの大敵対者は,わたしたちに落胆という波をかぶらせることにより,あるいは人との衝突を起こさせることによって,わたしたちの信仰を破船させたいと考えています。しかしわたしたちは,自分の信仰を耐航性のあるものに保ち,信頼できる神のことばに従って航行するように細心の注意を払うことによって,エホバの確実な助けと過分のご親切を得,このあらしの時代を通過し,「大患難」をも通り抜けて航海を完了し,「海はもはやない」エホバの新しい事物の体制に入るでしょう。(啓示 21:1)その時には,どんな誘惑や困難に出会っても信仰の破船をきたさなかったこと,そして全き献身によって神を愛する人々が永久に楽しむすばらしい祝福を退けるようなことをしなかったことを,どんなにかエホバに感謝することでしょう。「しかしわたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰をいだいて魂を生き永らえさせる者です」― ヘブライ 10:39。
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アフリカでの良いたよりを宣べ伝える業ものみの塔 1975 | 11月15日
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アフリカでの良いたよりを宣べ伝える業
● アフリカのボルタ地区でのこと,「王国ニュース」の冊子を配るよう割り当てられたある伝道者は,冊子を配る場所として遠方の幾つかの村を選びました。ところが,全部の場所を巡って配るには,冊子の数は足りないことに気づきました。そこで,自分では行けない村々の長老あるいは酋長たちに冊子を一部ずつ郵送しました。その封筒の表にはエウェ語で「重大なお知らせ」と記し,また冊子の1ページの下欄には,「どうか,老若を問わず,ご家族全員を集めて,この冊子を皆さんに読んで聞かせてください。これは重大な音信です」と書いておきました。ある村では,酋長が村の人々全員を集め,出席者全員に向かって自分の孫にその冊子を読ませました。そして,聖句が指摘されるたびに,別の人が聖書を開いて,それぞれの聖句を大声で読みました。世界の危機に関するその知らせ全部が読まれるのを聞いた人々は皆,当惑させられました。というのは,冊子の中で提起されている疑問にだれ一人として満足のゆく答えを述べられなかったからです。そこで,その村の代表者が一人派遣されて伝道者に会い,自分たちはもっと学びたいので村に来てほしいと願い出ました。そのとおりにするよう取り計らうのは,その会衆にとって何という喜びだったでしょう。―「エホバの証人の1975年の年鑑」より。
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読者からの質問ものみの塔 1975 | 11月15日
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読者からの質問
● 箴言 8章22-31節の「知恵」に関する記述は,本当に神の子イエスに当てはまるのですか。
ヘブライ語聖書だけしか受け入れない人やイエス・キリストを信じない人は大抵,箴言 8章22-31節を擬人化された知恵に比喩的な仕方で当てはまるにすぎないものと説明します。しかし,この聖句をそのように当てはめることは,神について知られている事柄と調和しません。その上,箴言を含めて聖書全体は神の霊感を受けたものであるという道理にかなった見解を受け入れるなら,箴言に記されているこの「知恵」に関する記述が,聖書の他の箇所で神のみ子について述べられている事柄と合致していることに気付きます。箴言には次のように書かれています。
『エホバいにしえそのみわざをなしそめたまえる前にその道の始めとして我をつくりたまいき……山いまださだめられず丘いまだあらざりし前に我すでに生まれたり……かれ天をつくり……たまいしとき我かしこにありき……我はその傍らにありて〔熟達した働き手,新〕となり 日々に喜び 常にその前に楽しみ……また世の人を喜べり』― 箴 8:22-31。
この聖句をメシアとしてのイエスに適用することを拒むユダヤ人の聖書注釈者たちは,この聖句は文字通り知恵を擬人化しているにすぎない,と考えるのが常です。ゆえに,W・グンター・プラウトは,自著“箴言の書 ― その注釈”の中で,これらの聖句は「単に比喩的な仕方で擬人化された」知恵に当てはまる,と語っています。しかし,この聖句が神の知恵や抽象的な知恵そのものについて語っているはずはありません。なぜですか。ここに描写されている「知恵」は,エホバの道の初めとして“創造された”もしくは『つくられた』(ヘブライ語,カーナー)a からです。聖書は,エホバ神は常に存在
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