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永遠の生命を願うならば,古い人を脱ぎ捨てなさいものみの塔 1964 | 11月15日
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永遠の生命を願うならば,古い人を脱ぎ捨てなさい
「古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て……新しき人を着」なさい。―コロサイ 3:9,10
1,2 実を結ぶ木と実を結ばない木のたとえから,どんな興味深い事柄が考えられますか。
田舎道を旅行していた旅人は,荒れはてた農場に目を留めました。その主人は怠け者で,神を敬わない人でしたから,畑の草はのび放題であり,果樹についているのは,とうてい食用にならないほどいたんだ果実ばかりでした。「なんというひどいことだ」と,旅人はつぶやきました。しかし道の曲り角を回ったとたんにその人は目を見はりました。肥沃な畑と手入れの行き届いた果樹園のある農場を見たからです。どの木にも美しい実がたわわになっているのを見て旅人はうなりました。「これはすばらしい。まるでパラダイスだ」。
2 精力的なこの農場の主人はやがて隣人の荒れた農場を買い取り,手入れを始めました。枯れ木を切り倒し,無駄な枝を切り,肥料を施し,病虫害の予防策を講じて勤勉に働きました。そのうえ敬虔なこの人は,木によい実がついたのを見たとき,創造主に感謝しました。昔の農場が見ちがえるほどに変ったのを見て人々は感嘆し,この事は近郷近在に知れわたりました。勤勉な農夫の働きによって,荒れた果樹園は面目を一新したのです。その努力はエホバの祝福を得ました。―コリント前 3:6,7。
3 果樹園の再建よりもみごとなどんな変化が起きていますか。
3 実際問題として果樹園がこのようにたちまち変るのを見る機会はないかも知れません。しかし住むところ,話す言葉の如何を問わず,だれでも自分の周囲を見回しさえすれば,もっとすばらしい事に気づくでしょう。実を言えばこの果樹園の話は,いま世界190余の国々において160以上のいろいろな言語を話す人々の間で起きていることを示す,小さなたとえに過ぎません。これら何十万の人々は心を入れかえ,また行いを改めつつあります。永遠に生きることを目ざして,自分を完全に改革しているのです。
4 どの点において,エホバの証者は多くの人の驚きとなっていますか。
4 このようにいわば新しくされた人々は,エホバの証者と呼ばれています。エホバの証者の訪問を受けたことのある人は,証者が多くの点で他の人とは違うのに気づくでしょう。たとえば人生の見方,話し方,話す事柄,行いなどです。しかし真に注目に値するのは,これらの人々がかつては,いやおそらくはつい最近まで,周囲の人々と少しも変らないことを話し,また同じ行動をしていたという事です。ところがエホバの証者になってからというもの,全く新しい人になりました。驚くべきことではありませんか。
5,6 今日の世の中の状態を見るとき,どんな結論になりますか。
5 この場合,人間が変わったということは,比較によっていっそう明瞭になります。ご自分の周囲を見てごらんなさい。何が目につきますか。生活また仕事の上で接触する人の多くはどんな人々ですか。これらの人々は良い実を生み出していますか。それとも悪い実を生み出していますか。教会のある,こじんまりとした町か田舎に住む人ならば,生命や財産が隣人におびやかされるようなことはないでしょう。しかし外部の人に対して排他的であったり,偽善的な生活をしている人は少なくありません。他人を中傷したり,根深い反目があったりすることもまれではなく,不道徳や放縦はそこにもあります。不敬虔な話やみだらな話も人々の話題に上ります。
6 大都会に住むと,現代の人間社会の堕落を物語る悪の実がいっそう目につきます。夜間,家の戸にしっかり錠をおろさなければ安心できません。子供が誘かいされはしないかと気づかう親の心配も人ごとには思われないのが現状です。信頼できる人となると,そう多くはいません。商売の上ではとくにそうです。口約束などというものには余り意味がなくなり,何ほどかの危険を伴なう約束ごとならば,抜け道のないように特別な言いまわしを使って法律上の効力を持つ契約にします。新聞,ラジオ,テレビに報道されるニュース,犯罪と非行の統計,世論の批判を見ても,この世代が悪い実を生み出していることは明らかです。社会また公の機関のあらゆる階層において,この世の人々が利己的であり,貪欲なことは否定できません。いさかいと闘争があります。うそをつく者,奪う者,盗人,不正の利をたくらむ者は増加しています。暗黒の世界にはお尋ね者がいます。変質者,性を乱用する者が野放しの状態で,被害を受ける人を待ち受けています。淫行,姦淫,自慰,男色を行なう者がふえました。上流社会にも売春婦が出入りして一部の人々を堕落させていた例もありました。麻薬中毒者,酒におぼれる者は無数です。道徳という面から見れば,この世の大部分は他人を食いものにする闘争と混乱に陥っていると言っても,言い過ぎではありません。
世の中はなぜ悪いか
7 遺伝は人となりにどんなに大きな影響を及ぼしてきましたか。
7 考え深い人は,外見にあらわれた一応の証拠に満足せず,この恐るべき悪の状態の原因をさぐり,またはたして解決策を見出し得るものかどうかに思いをめぐらすことでしょう。そうすると,右に述べたような人間の悪は,遺伝と還境の二つの要素から生み出されていることがわかります。罪と死は6000年のあいだ,世代から世代に伝えられてきました。「ひとりの人〔アダム〕によって,罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいってきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである」「ひとりの人の不従順によって,多くの人が罪人とされた」。(ロマ 5:12,19)それでエホバの心にかなう人と言われたダビデも「わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」と,述べています。(使行 13:22。詩 51:5)罪人となったアダムの子孫の中で「義人はいない,ひとりもいない」のであり,ヨブも述べているように「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか,ひとりもない」のです。―ロマ 3:10。ヨブ 14:4。
8 環境は人間にどんな影響を及ぼしていますか。
8 苗木の育つ環境と気候は,その成長と結実に大きな影響を及ぼします。人間の場合でも同じことが言えるでしょう。幼少の時から子供たちの環境は腐敗した社会のそれであり,両親の下における家庭の環境がまれに良いものであっても,家の外に一歩出れば,悪の多い世が待ち受けています。良い家庭の子供も,そうでない子供と遊びます。キリスト教国の内外を問わず,公立学校の教育は,サタン悪魔と悪鬼の支配する悪の世から影響されないわけには行きません。―ヨハネ 12:31。コリント後 4:4。エペソ 2:2。
9 とくに1914年以来,状態が悪化しているのはなぜですか。
9 1914年,そして第一次世界大戦の勃発以来,災と悪の増し加わる時代が到来したことを忘れてはなりません。その年以後の成行きについて,聖書は次のように預言していました。「この巨大な龍,すなわち,悪魔とか,サタンとか呼ばれ,全世界を惑わす年を経たへびは,〔天から〕地に投げ落され,その使たちも,もろともに投げ落された。〔ゆえに〕……地と海よ,おまえたちはわざわいである。悪魔が,自分の時が短いのを知り,激しい怒りをもって,おまえたちのところに下ってきたからである」― 黙示 12:9,12。
10 パウロは,今日の人々の有様をどのように的確に述べていますか。
10 いまはこの短い時であり,悪魔の支配する組織制度の終ろうとする時です。使徒パウロは霊感の下に次のように警告しました,「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る」。ついでパウロはこの苦難の時代の様相を述べ,終りの時に出てきて害悪となる人々について書いています。その描写は今日の事実と全く符合しているので,あたかも今日の新聞記事を読んでいるかのようであり,19世紀前にパウロがテモテに宛てゝ書いたことばとは思えないほどです。「その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者,信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう」― テモテ後 3:1-5。
根拠のある希望
11,12 世の中の状態が悪くても,なぜ希望を持てますか
11 すべての人は人類に共通の罪を受け継いでおり,また怒りを抱いた悪鬼の支配する世にあって悪い環境の影響を受けています。しかしそれにもかかわらず,事態に絶望する必要はありません。イエスがユダヤ人の支配者ニコデモに与えた次のことばは,たしかな希望を与えてくれます。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである」― ヨハネ 3:16。
12 神が愛したのはどの世ですか。それは罪におちた人類すなわち背いた罪人アダムの子孫である人類の世です。罪のない者を救うためではなく,「キリスト・イエスは,罪人を救うために,この世にきて下さった」と,使徒パウロはテモテに書き送っています。またロマ人にも同様なことを書きました,「しかし,まだ罪人であった時,わたしたちのためにキリストが死んで下さった」。それでエホバの栄光にみちた,完全と正義の新しい秩序の下に生き,そのすばらしい秩序の下で永遠の生命を得る特権は,罪のない人々にではなく,罪のうちに生まれて悪鬼の支配する世にいる人々に差しのべられています。―テモテ前 1:15。ロマ 5:8。
13 悪人も神の新しい秩序の下に生きられますか。
13 それでは,エホバの復興するパラダイスに,いま横行しているような悪人も住むことを許されるのですか。そうではありません。罪の除かれた,神の正義の国に住む人には,何らかの変化,そうです,大改革がどうしても必要です。
14,15 (イ)イエスは罪人とどんな交わりをしましたか。つづいて何が起きましたか。(ロ)この事から何を学びますか。
14 イエスはガリラヤ伝道のあるときカペナウムにおいて,この点をきわめて明白に示しました。史実を伝える記録によれば,イエスは「レビ〔またの名はマタイ〕という名の取税人が収税所にすわっているのを見」ました。さて当時においても,取税人といえば苛酷なとりたてで悪評を買っていました。しかしイエスは,「『わたしに従ってきなさい』と言われた。すると,彼はいっさいを捨てて立ちあがり,イエスに従ってきた。それから,レビは自分の家で,イエスのために盛大な宴会を催したが,取税人やそのほか大ぜいの人々が,共に食卓に着いていた。ところが,パリサイ人やその律法学者たちが,イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った,『どうしてあなたがたは,取税人や罪人などと飲食を共にするのか』。イエスは答えて言われた,『健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは,義人を招くためではなく,罪人を招いて悔い改めさせるためである」。これとは別にイエスは死の何日か前にエルサレムの町で,同じ点を再び強調しました。当時の敬虔ぶった,偽善的な宗教指導者にむかって,イエスは次のように告げています。「よく聞きなさい。〔見下げられた,罪深い〕取税人や遊女は,あなたがたより先に神の国にはいる」― ルカ 5:27-32。マタイ 21:31。
15 この問答から2,3の大切な点を学ぶことができます。罪人が召されてイエスの追随者となりました。マタイの場合には12使徒の一人に選ばれています。しかしこのような罪人は招かれてのち,罪と不法の行いをつづけても良いというのではありません。招かれたのは悔い改めるためです。取税人や遊女が神の新しい秩序に永遠の生命を得るのは,けんそんに自分の罪を認めたというにとどまらず,更に大切なのは以前の考え方と生き方つまり人間全体を変えたからです。彼らは熱心に,また喜んでそのことをしました。
16 永遠の生命を願う人には,従って何が要求されていますか。
16 従って新しい人になることは,神の新しい秩序の下に永遠の生命を得ようとする人すべてに対する神のご要求です。しかしこれはエホバがサタンを滅ぼし,人間社会に及んでいるサタンの力を除いてのちに初めて要求されるのではありません。むしろこれはハルマゲドンを生き残ることを望むすべての人がハルマゲドンの戦い前のいま,すなわち「エホバの烈しき怒のいまだ汝等に臨まざる先」にはたすべき要求です。―ゼパニヤ 2:2。
新しい要求ではない
17 古い人を脱ぎ捨てるというのは,この頃はじめて要求される事柄ですか。どうしてそれはわかりますか。
17 新しい秩序のためのこの要求すなわち全く新しい人となることは,ハルマゲドンを目前にした20世紀のクリスチャンだけに要求されているのではありません。1世紀にキリストの追随者となった人々も,生き方を変えて新しい人となるために勤勉な努力をしました。西暦55年に使徒パウロがコリント会衆に書き送った事柄に注目して下さい。「それとも,正しくない者が神の国をつぐことはないのを,知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,男娼となる者,男色をする者,盗む者,貪欲な者,酒に酔う者,そしる者,略奪する者は,いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には,以前はそんな人もいた」― コリント前 6:9-11。
18 これに関して,パウロはコロサイ人になんと書き送っていますか。
18 西暦60年か61年にパウロは別の会衆すなわち「コロサイにいる,キリストにある聖徒たち,忠実な兄弟たちへ」,次のことを書いています。「だから,地上の肢体,すなわち,不品行,汚れ,情欲,悪欲,また貪欲を殺してしまいなさい。食欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために,神の怒りが下るのである。あなたがたも,以前これらのうちに日を過ごしていた時には,これらのことをして歩いていた。しかし今は,これらいっさいのことを捨て,怒り,憤り,悪意そしり,口から出る恥ずべき言葉を,捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない」― コロサイ 1:2; 3:5-9。
19 神のこの要求にかなう事に関して,パウロは自分を例外と考えましたか。
19 主キリスト・イエスの使徒であったパウロも例外ではありません。パウロは初期クリスチャンに次のことを書き送ったとき,自分をその中に含めているからです。「わたしたちも以前には,無分別で,不従順な迷っていた者であって,さまざまの情欲と快楽との奴隷となり,悪意とねたみとで日を過ごし,人に憎まれ,互に憎み合っていた」。別の手紙の中でも,キリストのこの使徒は次のことばの中にやはり自分を含めています。「さてあなたがたは,先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって,かつてはそれらの中で,この世のならわしに従い,空中の権をもつ君,すなわち,不従順の子らの中に今も働いている霊に従って,歩いていたのである。また,わたしたちもみな,かつては彼らの中にいて,肉の欲に従って日を過ごし,肉とその思いとの欲するままを行い,ほかの人々と同じく,生れながらの怒りの子であった」― テトス 3:3。エペソ 2:1-3。
20 これについて,パウロはなんと書いていますか。
20 使徒ペテロもまた,1世紀の真のクリスチャンが自分をつくりかえて新しい人となったことを述べています。「過ぎ去った時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて,好色,欲情,酔酒,宴楽,暴飲,気ままな偶像礼拝などにふけってきたが,もうそれで十分であろう。今はあなたがたが,そうした度を過ごした乱行に加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしっている」― ペテロ前 4:3,4。
21 古い人をその行いと共に脱ぎ捨てるのは,今日真のクリスチャンにとって任意の事柄ですか。
21 はじめこれらの言葉を聞かされた1世紀のクリスチャンが永遠の生命の希望を抱き,その実現を願って自分を全く変える必要があったとすれば,暴力と腐敗の時代である20世紀に住み,しかも待ち望まれてきた新しい秩序を目前にしている私たちは,なおのことそうしなければなりません。それは理の当然です。エペソ人とコロサイ人に告げられた次のことば,またすべてエホバの律法は私たちにも等しく適用されます。「あなたがたは,以前の生活に属する……古き人を脱ぎ捨て……新しき人を着るべきである」「あなたがたは,古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て……新しき人を着たのである」― エペソ 4:22-24。コロサイ 3:9,10。
バビロン的な人をいま脱ぎ捨てなさい
22 古い人を脱ぎ去てるのが可能なことは,どうして明らかですか。
22 悪い人間の腐った実を平気で生み出している人の多くは,その主人である悪魔のわざを行なって満足しています。(ヨハネ 8:44)それでエホバのクリスチャン証者はそれらの人々とは著しい対照をなしているのです。エホバの証者はエホバとキリスト・イエスのしもべとなり,その導きに従っています。すでに100万人を越えたエホバの証者はなお全世界で非常に大きな増加をつづけています。エホバのしもべとなってそのみ心を行なうために献身したことをバプテスマによって象徴した人の数は,1963年だけで6万2000人に上りました。
23 (イ)増加する一方のエホバの証者は,どこの人々ですか。(ロ)人となりについていえば,どんな人々でしたか。
23 これらの証者はどんな前歴を持つ人々ですか。その多くは,聖書の中で「大いなるバビロン,淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」と呼ばれているこの世の宗教組織に属していました。そしてエホバの証者となったとき,「彼女から離れ去」れとの神の命令に従い,また悪の世に身を委ねていた時の以前の行いに属する古い人を脱ぎ捨てたのです。バビロン的な以前の考え,ことば,行いを本に書いて公にしたならば,それは人を慄然とさせるものとなるに違いありません。ある人々もかつてはそしる者,ねたみに満たされて争う者,貪欲な者,憎しみの心でうわさ話をする者でした。また以前には偽りを語り,盗み,殺し,男色をし,姦淫を行なう者,売春婦,麻薬中毒者,酒に酔う者などさえいたかも知れません。その行いは神の目にも人の目にもいまわしいものでした。―黙示 17:5; 18:4。
24 バビロン的な人を脱ぎ捨てたエホバの証者は,いま世界中でどんな人々と見られていますか。
24 ところがこれらの人々がエホバの証者と交わるようになって以来の評判に注目して下さい。キリスト教国,異教国,共産主義の国を問わず,エホバの証者はどの国においても清く正しい,正直な人,誠実な人,女子供でも信仰と勇気のある,清廉な人として認められています。このように上品な実を生み出す人々は,うるおいのない社会の荒野にあるオアシスにもたとえられるでしょう。「義の樹エホバの植え給ふ者」だけが,生命に至るこの貴重な実を生み出し得るのです。―イザヤ 61:3。
25 どんな緊急なすすめがすべての人にさしのべられていますか。
25 地に行なわれる憎むべきことのために嘆く人,永遠の生命を願う人は大いなるバビロンの中から出て,エホバの新しい秩序の下に自由と生命を享けるために大いなるバビロンから離れ去ることができます。またバビロン的な人を,死に至るその行いと共に脱ぎ捨てることができます。しかし急がねばなりません。神がこの醜悪な「淫婦どもの母」とその中に留まるすべての人を裁いて滅ぼす時は迫っているからです。―黙示 17:1,2,15,16。
26 どんな疑問が生じますか。たしかな答えはどこにありますか。
26 しかしこのような人間の大改造はどうして可能となるのですか。考え方でも行いでもこの世の道に従わせようとする圧力をすべての人が感じている現在,それはどのようにして可能となりますか。あらゆる国民に及ぶ何十万のエホバの証者の場合に,これはどのようにして成し遂げられたのですか。永遠の生命を願うすべての人は,これらの大切な質問に対する聖書の答えを次の記事の中から見出すことでしょう。
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み霊の実によって新しい人となりなさいものみの塔 1964 | 11月15日
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み霊の実によって新しい人となりなさい
「悔改めにふさわしい実を結べ……良い実を結ばない木はことごとく切られて火の中に投げ込まれるのだ」― マタイ 3:8,10。
1 山上の垂訓の中で,イエスは良い木と悪い木の見分け方をどのように述べましたか。
「その実によって彼らを見わけるであろう」。これは一つの格言であってよく口にされることばですが,これがイエスの有名な山上の垂訓の一部であることは,あまり知られていません。山上の垂訓の中で,偉大な師はたとえを用いてこの原則を更に説明しています。「茨からぶどうを,あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように,すべて良い木は良い実を結び,悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし,悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて,火の中に投げ込まれる。このように,あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」「善人は良い心の倉から良い物を取り出し,悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを,口が語るものである」― マタイ 7:16-20。ルカ 6:45。
2 パウロのことばによると,どんな実を結ぶ人は永遠の滅びを受けますか。
2 パウロもガラテヤ人への手紙の中で,台木の腐っていることはその悪い実によってわかると述べています。それで淫行,汚れ,放縦にふける人,偶像崇拝者,霊媒術を行なう者,憎しみ,争い,ねたみにみたされている者,怒りにもえる者,争いと分派をおこす者,宴楽,乱行またそのたぐいにふける者があるならば,それは腐った木と同じであり,たちまちに切り倒されて永遠の滅びの火に投げ込まれてしまうでしょう。パウロは警告しました,「わたしは以前も言ったように,今も前もって言っておく。このようなことを行なう者は,神の国をつぐことがない」― ガラテヤ 5:19-21。
3 これらの聖句からどんな結論が出ますか。
3 従って当然に次の結論になります。悪い木はまず良い木にならなければ,良い実を生み出すことができません。良いことを話すためには,まず心がよくなければなりません。改めようとしないならば,滅びる結果となります。そのうえ人間を変え,行ないを改めることが不可能ならば,ガラテヤ人に対するパウロの警告は無意味なもの,目的のないものとなります。
4 全く新しい人になることは,今日どうして可能ですか。
4 しかし心の持ち方,生活の習慣,話し方と行いを全く改めて,新しい人と言えるほどに自分をを変えることはどうして可能ですか。かつては淫行の者,姦淫をする者,盗人,酒に酔う者,ののしる者,奪う者であったといわれるコリントのクリスチャンの場合に,この大きな変化はどうして可能となりましたか。霊感の聖書はその問いに答えています。「しかし,あなたがたは,主イエス・キリストの名によって,またわたくしたちの神の霊によって,洗われ,きよめられ,義とされたのである」。それでこの同じ神の手だて,すなわちエホバの活動力によって,今日でも主イエス・キリストの追随者は同じ変化を遂げることができます。―コリント前 6:11。
5 (イ)「み霊の実」とはどんなものですか。(ロ)それを表わすことができるのはだれですか。
5 エホバの活動力すなわち聖霊は,真のクリスチャンにふさわしい良い実を生み出します。ガラテヤ書 5章22節から25節のことばは,その保証です。「御霊の実は,愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制であって……キリスト・イエスに属する者は,自分の肉を,その情と欲と共に〔杭〕につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら,また御霊によって進もうではないか」。「この世の霊」を持つ限り,人は御霊の実を生み出せません。「神の御霊」を受ける人だけが,み霊の実を結びます。―コリント前 2:12。
新しい人の美しさ
6 新しい人になったことは話すことばにどう表われますか。
6 エホバの霊の力によって,全く新しい人となることが可能です。たとえば,温和で寛容また自制心のある人となれば,話す事柄や話し方も当然によくなります。舌をおさえるならば,ののしりや憎まれ口,人の心を傷つけることばを口に出さないでしょう。また反対する者や,ののしる者に対しても柔和な答えができます。(ペテロ前 3:15)エホバのみ霊に導かれるならば,エホバのことば聖書とその教えを尊重するゆえに,汚ない言葉,下品な話や愚かな話を口から出すことはありません。「悪い言葉をいっさい,あなたの口から出してはいけない……また,卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい」「怒り,憤り,悪意,そしり,口から出る恥ずべき言葉を,捨ててしまいなさい」と,聖書は命じています。―エペソ 4:29; 5:4。コロサイ 3:8。ヤコブ 3:8-12。箴言 15:1。
7 (イ)どんな他の面において,エホバのみ霊は人を変えることができますか。(ロ)節制を守ることによってどんな有害な欲望を避け,従って生命を救うことになりますか。
7 エホバのみ霊の力によって新しい人となるとき,性に心を奪われ,スリルを求め,不道徳におちた世の中にあっても,自制することができます。そして「地上の肢体,すなわち,不品行,汚れ,情欲,悪欲,また貪欲を殺して」しまえるでしょう。麻薬やタバコにおぼれるのも,「悪欲」の一つです。飲食の習慣においても,節度と節制を守るならば,食べ過ぎ,飲みすぎはありません。大酒を飲むことが豪傑のふるまいでそれが何か良いことでもあるかのように話すのは間違いです。どんなレッテルを貼っても,内容に変りはありません。聖書によれば,神のもたらす正義の清い秩序の下に生きるには,節制することを知り,新しい人となることが必要です。―コロサイ 3:5。コリント前 6:10。箴言 23:20,21。
8 家庭において神のみ霊をどのように表わすことができますか。どんな結果になりますか。
8 エホバのみ霊につちかわれた新しい人柄を,とくに人との交渉において,感じさせることは大切です。経済問題また社会的な要請に対処しながら,まず家庭において,家族が真理にはいっていてもいなくても,この事を始めてごらんなさい。節度を知り,柔和であり,信仰を示し,善と親切を行なうならば,また忍耐強く,家庭に平和と喜びを与えて祝福をもたらすならば,またとくにすべての人に愛を示すならば,使徒ペテロも述べているように,この世の考えを持つ不信者の夫でさえも,「あなたがたのうやうやしく清い行ないを見て,その妻の無言の行ないによって,救に入れられるようになる」かも知れません。―ペテロ前 3:1,2。
9 (イ)家庭のほかにも,どこにおいてクリスチャンの人となりを示すべきですか。(ロ)敵対する者から悪く言われるとすれば,それは何のためですか。
9 この点で偽善的にうわべだけを飾ることはできません。新しい人は,見せるためのうわべの飾りではなく,時に応じて着けたり,はずしたりできるおおいではないからです。この世の霊ではなく神の霊を持っているならば,この新しい人はその人と切り離すことのできないものとなります。それで自分の会衆内でも,世界旅行に出ても,家庭の内でも外でも,どこに行っても,キリストに似た美しい人となりを失なってはなりません。家から家に伝道して隣人に語るとき,仕事の場所で,学校で,事実どこにいても,新しい人となったことをすべての人の前で示さねばなりません。こうして友人,隣人,職場の同僚,受持ちの先生,学校の友だちなどは,エホバの証者を新しい人につくり変えたみ霊の力を認めることでしょう。もし他の人から悪く言われるとすれば,それは証者が自制を失なわず,偽りを語らず,盗んだり欺いたりせず,淫行,姦淫を犯さず,タバコや麻薬におぼれず,酒に酔わず,「今はあなたがたが,そうした乱行に加わらない」ためでなければなりません。―ペテロ前 4:3,4。
10 クリスチャン会衆に属する人々は,どんな人ですか。
10 「新しい人」となったことを表わすべきもう一つの場所またその事が注目され,喜ばれる場所は,エホバの民の会衆です。わずかな人々から成る小さな会衆であっても,エホバの証者の国際大会のような大きな集まりであっても,「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き,できる限り謙虚で,かつ柔和であり,寛容を示し,愛をもって互に忍びあい,平和のきずなで結ばれて,〔神の〕聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」と,命ぜられています。(エペソ 4:1-3)コロサイ書 3章12節から14節も,エホバの会衆と交わる人々に次のことを告げています,「だから,あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい。互に忍びあい,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから,そのように,あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。
自分の責任
11 (イ)新しい人となる責任のありかについて言えば,それは人間にありますか,創造主にありますか。(ロ)イエスはこの点をどう強調していますか。
11 自分を造りかえて新しい人になるという点で,自分自身にはどんな責任また務がありますか。神のみ心を行なうために献身したとき,あとはエホバにたのんでさえいれば新しい人になれますか。神への献身を象徴するバプテスマを受けて水からあがったとき,自動的また即時に新しい人となりましたか。そうではありません。変化はこのように起きるのではなく,また即座に起きるのでもありません。言うまでもなく,エホバの働きはまず第一に必要です。この変化を可能にする活動力すなわち聖霊はエホバから与えられます。しかし聖霊を与えられるのは,それを望む者,それを求めて神に願う者だけです。イエスは山上の垂訓の中でこの原則を強調しました。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。すべて求める者は得,捜す者は見いだし,門をたたく者はあけてもらえるからである」。すすんで求める者に対して,エホバは「求めまた思うところのいっさいを,はるかに越えてかなえて下さることができるかた」です。―マタイ 7:7,8。エペソ 3:20。
12 古い人を脱ぎ捨てる責任を受け入れるとき,どのように自己過信を避けられますか。
12 ゆえにみ心を行なうために献身して,聖霊を受けるのにふさわしい者であることを証明すると同時に,まず聖霊をエホバに求めるのは,その人のなすべきことです。こうして神からの助けと力を受けたならば,み霊の実を結んで新しい人となる責務を負うのもその人自身です。古い人をその行いと共に脱ぎ捨てるのはその人の責任です。これは容易なことではありません。これは大仕事であって,各人が大きな努力を払わなければできないことです。しかしたとえどんなに努力しても,エホバの活動力すなわちみ霊がなければ,それは不可能です。自ら罪を犯したアダムの子孫である人間は,みな無力な者に過ぎません。そのことを忘れないで下さい。自分に頼ることなく,エホバのみ霊を求めつづけ,エホバの助けを求めつづけなさい。
13 新しい人になる責任を回避しようとして,ある人はどんな言いわけをしますか。
13 自分のこの責任をのがれようとする次のような言訳を聞いたことがありますか。「私はこういう人間なのだ。いまさら自分を変えることはできない」。酒飲み,アルコール,タバコ,麻薬の中毒者は,よくこのような事を言います。「私はこういう人間なのだ」という言葉は,たしかにその通りでしょう。しかし「自分を変えることはできない」という言葉の本当の意味は,「自分を変える意志はない」ということなのです。これはカインが示したのと同じ態度,同じ精神です。カインは,正しい道に立ち返るようにとのエホバのいましめに従わず,自分を変えることはできないとの間違った考えを捨てませんでした。それで自分を変えようとしなかったカインは,暴力と不従順の道に進んで自らの滅びを招きました。―創世 4:6-8。ユダ 11。
14 いわゆる二重人格の人は,時おりの放縦を許されますか。
14 また自分は「二重人格」で,それをどうすることもできないとあやまって思い込み,また他の人にもそう思い込ませようとしている人があります。そのような人は責任を逃れた気になり,ちょっとした事に激怒したり,時おり放縦な行ないをしても,自分には仕方のないことだと,言います。しかしそう考えるのは大きな間違いです。このような「二重人格」は神を喜ばせるものではありません。「ジキル博士とハイド氏」は,エホバのクリスチャン証者の神権社会の中には受け入れられません。「わたしの味方でない者は,わたしに反対するものである」と,イエスは言われました。また「〔エホバ〕の杯と悪霊どもの杯とを,同時に飲むことはできない。〔エホバ〕の食卓と悪霊どもの食卓とに,同時にあずかることはできない」と,書かれています。世の霊と神の霊を同時に持つことはできません。自分の吐いたものに時おり戻り,泥の中にころがっても,なお清い者でいられると思うのは愚か者だけです。―マタイ 12:30。コリント前 10:21。ペテロ後 2:22。箴言 26:11。
15 光の子として,クリスチャンの人はどう振舞うべきですか。
15 ひると夜を任意に細分して両方を適当に混ぜ合わせることなどはできません。それと同じく,暗やみの中から出て神の驚くべき光の中に来た以上,光の子である私たちがやみの子のわざをすることはできません。ロマ人に対して,パウロはこのように論じています。「夜はふけ,日が近づいている。それだから,わたしたちは,やみのわざを捨てて,光の武具を着けようではないか。そして,宴楽と泥酔,淫乱と好色,争いとねたみを捨てて,昼歩くように,つつましく歩こうではないか。あなたがたは,主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」― ロマ 13:12-14。ペテロ前 2:9。
円熟と完成を目ざして成長
16 新しい人になることは即座に,また完全にできますか。
16 コロサイ書 3章9節の言葉を述べた使途パウロの語調はきわめて強調的であることから,古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着るのは即座に,また完全にできることだと考える人があるかも知れません。しかし聖書から見ても,事実を見ても,そうではありません。これは春にうえて秋に収穫する作物と同様です。作物はいっぺんに成長するわけではありません。また農夫の労苦は大変なものです。少しずつ成長して遂に完全に育つという原則を認めて,ペテロは次のことを述べました。「あなたがたの信仰に徳を加え,徳に知識を,知識に節制を,節制に忍耐を,忍耐に信心を,信心に兄弟愛を,兄弟愛に愛を加えなさい」。またパウロも,「ただ,わたしたちは,達し得たところに従って進むべきである」と述べています。―ペテロ後 1:5-7。ピリピ 3:16。
17 ヨハネとヤコブは,改善するために絶えず努力することの必要をどのように述べていますか。
17 それで新しい人になるのは時間のかかることであり,不完全な人間には完全に成し遂げ得ないことです。エホバの建てる正義の新しい秩序が到来しないうちに完全を期することは,望めないでしょう。ゆえに常に改善を図る努力が必要です。ヨハネとヤコブは霊感の下に次のことを書きました。「もし,罪がないと言うなら,それは自分を欺くことであって,真理はわたしたちのうちにない。もし,わたしたちが自分の罪を告白するならば,神は真実で正しいかたであるから,その罪をゆるし,すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし,罪を犯したことがないと言うなら,それは神を偽り者とするのであって,神の言はわたしたちのうちにない」「わたしたちは皆,多くのあやまちを犯すものである。もし,言葉の上であやまちのない人があれば,そういう人は,全身をも制御することのできる完全な人である」― ヨハネ第一 1:8-10。ヤコブ 3:2。
18,19 パウロの例からもわかるように,クリスチャンは終わることのないどんな戦いに携わっていますか。
18 使徒パウロでさえも,肉の弱さを持つ以上,人として完全の域に達することはできませんでした。そうであればこそ,次の言葉を述べているのです。「そこで,善をしようと欲しているわたしに,悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち,わたしは,内なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があって,わたしの心の法則に対して戦いをいどみ,そして,肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る」。そこでキリスト教のこの偉大な戦士も,死に至るまで戦うことの必要を認めていました。「すなわち,自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない」― ロマ 7:21-23。コリント前 9:27。
19 私たちの場合にも,使徒パウロと同じことが言えます。罪の傾向を持つ弱い肉体を打ちたたいて,新しい人の命ずるままに服従させることをしなければ,またエホバのみ霊の結ぶ実を表わすことをしなければ,エホバの是認を失ない,悲しむべき結果となります。
20,21 イエスが警告したように,み霊の実を結んで新しい人になることをしなければ,どんな結果となりますか。
20 エホバの是認を失なうという事の意味を十分に知っていますか。イエスはあの最後の夜,捕えられる少し前に弟子たちに一つの警告を与えました。すなわち油そそがれた追随者がエホバのみ霊の実を結ぶことをせず,従って是認されない者となるならば,おそろしい結果になるという事です。イエスは次のように言われました,「わたしはまことのぶどうの木,わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは,父がすべてこれをとりのぞき,実を結ぶものは,もっと豊かに実らせるために,手入れしてこれをきれいになさるのである……枝がぶどうの木につながっていなければ,自分だけでは実を結ぶことができないように,あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない……人がわたしにつながっていないならば,枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め,火に投げ入れて,焼いてしまうのである」― ヨハネ 15:1-6。
21 エホバは豊かに産出する農夫です。それで神権組織内の者が一人残らずみ霊の実を生み出すようにされます。次のことは間違いありません。すなわちクリスチャンの人にふさわしい実を結ぶことをしなければ,エホバのクリスチャン証者の神権社会にいることはできません。実を結ばない,不法な存在である無駄な枝は,神の耕やす組織の中から切り取られて捨てられ,干からびて遂に永遠の滅びである火の中に投げ入れられます。「生ける神のみ手のうちに落ちるのは,恐ろしいことである」― ヘブル 10:31。
22 愛の父エホバのこらしめを,なぜ軽んじてはなりませんか。
22 従って天の父のこらしめを受けるのは,はるかに良いことです。私たちが肥沃な神の組織に留まり,主キリスト・イエスと一致して霊の実をますます結ぶために,偉大な農夫である天の父はそのことばにより,またその施す処置によって,ご自身の民を清めます。矯正するためのこらしめを受け,また清められることは,パウロがヘブル人に書き送っているように悲しみとなっても,「後になれば,それによって鍛えられる者に,平安な義の実を結ばせるようになる」のです。「主〔エホバ〕の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき,弱り果ててはならない。主〔エホバ〕は愛する者を訓練するのである」― ヘブル 12:5-11。
祝福を数えることを始めなさい
23 エホバの民と共に,いまどんな大きな祝福を豊かに受けられますか。
23 ハルマゲドン前のいま,み霊の実を結んで新しい人になるならば,現在の悪の世にあっても,御国の祝福を多く受けることができます。そしてエホバの証者と共に特権や祝福に与ることができるでしょう。霊的な食物は常に豊かにあり,欠乏に悩むことはありません。杯には喜びと幸福があふれます。御国を第一に求める正しい人が糧を乞い歩くようになることは決してありません。(マタイ 4:4; 6:31-33。イザヤ 25:6。詩 37:25)また人間を恐れることもありません。エホバは正しい者を救って勝利を与え,死から救い出すことさえできるからです。(詩 118:6。ルカ 12:4。ヨハネ第一 4:18)サタンと悪鬼の組織に対する束縛につながれることもありません。真理を知って自由となった人は,いま喜んでエホバとキリスト・イエスのしもべとなったからです。(ヨハネ 8:32。ロマ 6:6,16。コリント前 7:23。ガラテヤ 1:10。コロサイ 3:23,24。ペテロ前 2:16)何千人と集まるエホバの証者の大会でも,鉄のカーテンや竹のカーテンの背後でひそかに行なわれる集まりでも,キリスト・イエスを中に迎えて集まることは可能であり,崇拝の自由を持ちつづけることができます。(マタイ 18:20)祈りによって父なるエホバに直接に語り,み霊,導き,力および保護を求めるのは,何時でもあなたの特権であり,自由です。(マタイ 6:6。ヨハネ 14:13,14)永遠の福音を全地に宣べ伝える証者また伝道者として奉仕しながら,大いにして畏るべきエホバの名をひろめるほまれと自由はあなたのものです。
24 み霊の実をますます結ぶならば,どんな目的をはたすことになりますか。
24 何よりも見過してならないのは,人間の持ち得る最大の特権と祝福すなわち父なるエホバの聖なるみ名と聖なるみことばの立証に与ることです。イエスは,ぶどうの木と枝のたとえの中で,み霊の実を結ぶことの第一の目的を強調しました。「あなたがたが実を豊かに結び,そしてわたしの弟子となるならば,それによって,わたしの父は栄光をお受けになるであろう」― ヨハネ 15:8。
25 そこで私たちは常に何をすべきですか。それはどんな結果となりますか。
25 ゆえにみ霊の実によって新しい人となることを常に努めなさい。ますます豊かに実を結んで下さい。キリスト・イエスの真の追随者であり,イエスの人格にならう者であることを常に証明して下さい。脱ぎ捨てた古い人がどんなに汚れたものであっても,エホバのみ霊によって造り出された新しい人となるとき,だれでもがあなたと交わることを喜ぶでしょう。この新しい人になるのは,宇宙で最も栄光あるかたエホバをきよめ,エホバにほまれと賛美を帰することです。
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