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    1980 エホバの証人の年鑑
    • 数は1万9,772人に達しました。したがって,N・H・ノア兄弟とM・H・ラーソン兄弟の短い訪問中に,支部事務所の隣の空き地を購入することが取り決められたのも不思議ではありませんでした。

      支部の拡張工事は1973年3月に始まりました。その計画は兄弟たちの良い支持を得,建築資材の不足が深刻化したにもかかわらず,新しい建物はどんどん出来上がっていきました。1階は300人をゆったりと収容できる広い王国会館になっていました。近隣の会衆で働くよう割り当てられた宣教者の居室は2階にありました。増築部分の献堂式は,1974年1月19日に行なわれ,N・H・ノア兄弟は,その時,456人の喜びに満ちたエホバの証人の聴衆に話をしました。

      その月の間に,リマで「神の勝利」国際大会が開かれました。証人の業がペルーで拡大するのを長年にわたって見守ってきた人々にとって,その大会は確かに注目に値しました。1万9,738人の出席者(その時までの大会出席者の最高数)の中には,カナダやアメリカやヨーロッパの代表者がいました。それらの訪問者のために,英語による興味深いプログラムと観光が企画されました。歴史を扱った有益な催しの最後ははなやかな民族舞踊で飾られました。確かにその大会は外国からの代表者とペルーのクリスチャン双方にとって楽しい大会でした。

      拡大が続き,ほとんどの会場は大会を開くには小さくなりました。また,宗教的な集まりが禁じられているため,スポーツ競技場は大抵使用できませんでした。そこでリマの巡回区は委員会を設け,ほどなくして,首都の中心地から車でわずか20分ほどのカムポイという未開発地域内の,大会会場として理想的な土地を購入しました。その閑静な環境の中で,自発奉仕者たちは熱心に働き,必要な設備の整った大会会場を完成させました。それは,1976年の二つの地域大会に間に合いました。その時の出席者は合計1万8,914人でした。それからほぼ1年後に,大会用の敷地と種々の建築物の献堂式が行なわれ,エホバの証人の統治体の一員であるA・D・シュローダーがその話をしました。その献堂式には,リマおよびその近隣の比較的大きな都市の96の会衆から1万4,353名の人が出席しました。

      1977年中,ペルーの証人たちは統治体の愛と気遣いに深い感銘を受けました。その年に統治体の成員の訪問が一度だけでなく二度もあったからです。グラント・スーター兄弟と妻のエディスは支部事務所で目まぐるしい六日間を過ごしました。スーター兄弟は,また,カムポイの大会会場で1万5,056人の大勢の人々に話をしました。

      『照らす者として輝き続ける』

      1978年はペルーのエホバの民にとって非常に忙しい年でした。ペルーで開かれた四つの「喜びに満ちた働き人」地域大会には,合計2万8,063人が集まり,エホバ神への献身の象徴として全部で636人がバプテスマを受けました。現在この古い歴史を持つインカの里に,霊的な光と真理を広める王国の宣明者は1万2,925人います。

      兄弟たちは,長年にわたって受けたエホバの数々の霊的な備えにどれほど感謝しているかしれません! 例えば,ギレアデ学校の訓練を受けてペルーに派遣された宣教者の活動から益を受けたばかりか,ペルー人の証人も何人かギレアデ学校で訓練を受けました。また,1962年から開かれている王国宣教学校は,大いに益を与えています。そして,現在開かれている開拓奉仕学校も実にうれしい備えです。愛のある天の父による他の数々の豊かな霊的備えと共に,その有益な学校教育すべてのおかげで,兄弟たちは効果的に光を輝かす者として引き続き奉仕してゆくことができます。

      このようなわけで,ペルーのクリスチャンたちは,エホバに信頼を置きつつ将来を待ち望んでいます。そして,そそり立つアンデスの中であれ,入り組んだジャングルの道に沿ってであれ,つまり,ペルーの広大な区域のどこであれ王国の奉仕にまい進する決意をしています。「世を照らす者として輝き」,世界中の信仰の仲間と共に忠実に奉仕することは確かに大きな喜びです。―フィリピ 2:15。

  • セネガルとその近隣の国々
    1980 エホバの証人の年鑑
    • セネガルとその近隣の国々

      セネガルは様々な対照の見られる国で,アフリカの西部の大きくふくらんだ部分に位置しています。北方にはサハラ砂漠の熱風が絶えず吹き,西方と南方には大西洋の涼しいそよ風が吹いています。北の広々とした砂漠地帯は,南へ伸びるにつれて湿度の高いジャングル地域へと変化していきます。しかし,対照的なのはそれだけではありません。人々とその祖先,習慣や宗教にまで及んでいるのです。

      北モーリタニアの漂浪する遊牧民族は,明らかに,命を保つための水を大きなセネガル川に求めて,西暦11世紀ごろ少しずつ南下しました。それに伴い,回教ばかりかそれら遊牧民族のアラビア語や習慣が持ち込まれました。その遊牧民族は,ベルベル人もしくはゼネガ族と呼ばれ,そのゼネガ族というのが“セネガル”という名前の起源になったと考えられています。しかし,やはりアフリカ大陸に移り住んでいた,ハムの子孫も様々な対照の見られるこの国に引きつけられました。南部のアフリカ人の部族が,

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