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リーワード諸島1980 エホバの証人の年鑑
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アメリカ,カナダ,カリブ海の兄弟姉妹が混じっていたこともたいへんうれしいことでした。出席者の最高数は1,717人で,バプテスマを受けた人の数は35人でした。
大会の運営すべてがリーワード諸島生まれの兄弟たちによって行なわれたことは,宣教者たちに大きな励ましとなりました。また,それは,地元の兄弟たちの霊的な成長を証明していました。統治体のカール・クライン兄弟は,その大会で主な話をしました。また,ブルックリンとロンドンのベテル家族の成員多数がプログラムを扱いました。
エホバへの奉仕をとこしえに喜ぶ
W・R・ブラウンは,この愛すべき島々で弟子を作ったのち,1922年に「それらの島へもう一度行くべきでしょうか」とJ・F・ラザフォードに書き送りました。その時,W・R・ブラウンは別の土地に派遣されましたが,それ以来何年もの間にブラウン兄弟のような他の大勢の人々が“ここの島々に幾度も渡って”きました。そして多くの愛すべき人々がエホバの家に集まり,エホバに忠実に仕えてきました。(イザヤ 2:2-4。ハガイ 2:7)しかし,将来はどうでしょうか。すばらしい見込みがあるのです! 今日,リーワード諸島には716人の王国宣明者がいます。1978年3月23日に主の晩さんが行なわれた際,出席者数は,18の会衆と二つの孤立した群れで,合計1,594名でした。
リーワード諸島で王国の証言が行なわれたこれまでの年月を振り返ると,そこには忠実さに関する消すことのできない記録のあることが明らかです。証人たちは「忠実で思慮深い奴隷」を通して,エホバの忍耐強い指導と大きな愛を受けてきました。(マタイ 24:45-47)また,証人たちはエホバに奉仕することを喜んでいます。エホバが業は終わったと言われるまで,リーワード諸島の真のクリスチャンたちは,引き続き喜びを抱きつつ,「エホバ自ら王となられた! 地は喜びに満ちよ。多くの島々は歓べ」というすばらしいたよりを広めます。―詩 97:1,新。
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ペルー1980 エホバの証人の年鑑
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ペルー
インカの里。それがペルーです。ペルーはその昔インカ帝国の領土でした。今日ペルーには約1,700万の人々が住んでおり,その中には,高度に発達したインカ文明の基礎を7世紀余り前に置いた人々を先祖に持つケチュア・インデアンがいます。
現在,ペルー人100人のうち約46人はケチュア・インデアンかアイマラ・インデアンです。残りの人口は大体,インデアンと白人の混血です。現に,そそり立つアンデス山脈はペルーの国土を西の乾燥した海岸地域と,草木が生い茂りうだるように暑い東のジャングルとに分けており,住民の民族学的な区分に多大な影響を与えてきました。ジャングルには,アンデス山脈の高地に住む“アルティプラノ”インデアンのそれとは全く異なる習慣や言語を持つインデアン部族が多数います。太平洋に面する長さが2,300㌔の海岸地域には,ペルー在住のスペイン人の大多数がいます。そのうちの相当数はペルー人と結婚しています。
ペルーの北にはエクアドルとコロンビアが,東にはブラジルとボリビアが,そして南にはチリが位置しています。
スペインの征服者フランシスコ・ピサロが16世紀にやって来たのがこの国,すなわち,いにしえのインカの里でした。ピサロに随行して,1535年に司祭と修道士たちがスペインからやって来ました。司祭たちはその新たに持ち込んだカトリックの教えを“定着”させるのに,インデアンの伝統や習慣や考えを大々的に採用するのが得策だと考えました。ペルーのカトリック教会が太陽崇拝を行なっていたインカ人の古い慣行を完全に根こぎにしたことは,一度もありませんでした。ですから心霊術,精霊崇拝,死者の崇拝のすべてはカトリック教会の信仰で薄化粧を施されています。したがって,今日のペルーの宗教は融合宗教です。しかし,この古くからのインカの里の丘や山や谷を通って,霊的な光が輝いてきました。(詩 43:3)そのすばらしい発展は,どのように始まったのでしょうか。
霊的な光が輝き始める
1930年代にエホバの証人の旅行者たちは,ペルーを通過した際あちらこちらに聖書文書を置いて行きました。また,外国の人たちはペルーにいる親族へ愛情を込めてキリスト教の文書を送り,神の言葉である聖書を調べるようしきりに勧めました。やがて,そうした文書のあるものは首都リマの多くの古本屋の店先に並ぶようになりました。
ビクター・ルラが「神のたて琴」と題する本をたまたま見つけたのは1938年,古本屋でのことでした。ルラは本の題に心を奪われました。「神がたて琴を持っていたということはあり得ただろうか。実際それはどんなたて琴だろうか」と,ルラ氏は考えました。わずかな価格でその本を求めると,早速それをむさぼるように読みました。新たに入手した本は,聖書の基本的な教えを明らかにしており,十弦のたて琴でかなでられた美しい旋律のように読む人の心を喜ばせました。それらの真理は,カトリックの教理やルラが所属していたペンテコステ派の信条とあまりにも異なっていました。
まもなく,ルラ氏は例の古本屋へもう一度行き,店中くまなく調べて,ものみの塔協会の出版物を探しました。そして,数冊見つけました。その時,ルラ氏はペンコステ派の地元の集会場の管理人をしていました。月日がたつにつれ,ルラ氏は,それらの大切な書籍から進化論と心霊術を暴露している部分の抜粋をどうしても作りたくなり,熱意にかられて,その部分を自費でビラの形に印刷させました。ビラは,リマと近くのカヤオの多くの住民に行き渡りました。そのころルラ氏は,ラステニア・カサナという,やはりペンテコステ派の集会に出席していた若い婦人に会いました。そして,1939年に二人は結婚しました。二人は,共にたいへん高く評価していたキリスト教の出版物の中で非常に明解に概説されている聖書の預言をいっしょに注意深く研究しました。
1943年のある日,ビクターは胸の躍るようなニュースを持って家に走って帰り,息をはずませながら「エホバの証人が町に来ている」と妻に言いました。南米の西海岸にそって旅行していた全時間の王国宣明者フリーダ・ジョンソンがリマに立ち寄ったのです。ジョンソン姉妹が福音教会員の一女性に証言したところ,その婦人は親切にも,町はずれの大きな丘の頂上近くにあった自分の家に泊まるようにと申し出ました。その家には下水設備や水道がなく,壁は麦わらのむしろのようなものでできていました。しかし,それで十分でした。わたしたちの大胆な開拓者は,60歳代でしたが,地元の人たちといっしょにリマク川で水浴をしました。
ビクター・ルラは,早速ジョンソン姉妹に会いに行きました。やっとのことでエホバご自身の民と接したのです。さっそく,その晩に集会が取り決められ,友人と隣人が招かれました。出席者の大半はペンテコステ派の人々で,自分たちの好きな宗教用語を使ってたえずジョンソン姉妹の話をさえぎったので,ジョンソン姉妹はあまり話せませんでした。それで次の晩に開かれた集まりには,聖書の真理に対してほんとうの関心を示した人々だけが招待されました。その集まりで,ジョンソン姉妹は,1914年に天で神の王国が設立されたことにたびたび言及しながら,簡潔で的を突いた証言をしました。それを聞いた大勢の人は確信を抱きました。その中にペドロ・ガレイとビクター・ロメロがいました。
ジョンソン姉妹は,4日間リマに滞在して,証言したり新たに関心を持った人々を励ましたりしました。そして,その人々の住所氏名をニューヨークのブルックリンにあるものみの塔協会の本部に知らせてクリスチャンの使命を最後まで果たしました。そのあと,ペルー中部のワンカヨに向けてたち,それから南方に向かいました。後に,ペルーの証人たちは,ジョンソン姉妹が1945年ごろコロンビアのメデリンでマラリアに冒されて亡くなったことを知りました。
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