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    ものみの塔 1983 | 6月15日
    • 使徒ペテロはあなたに語りかける

      今日,クリスチャンであるというのは簡単なことではありません。いろいろな圧力がかかってきます。ある国では,国家がクリスチャンの良心に反する事柄を強いて行なわせようとします。多くのクリスチャンの妻たちは未信者の夫を持っています。若い人たちはこの世の華麗さや「知恵」に魅力を感じます。また,数十年待った後,『ハルマゲドンは本当に来るのだろうか』といぶかっている人もいます。

      あなたがこのような問題に面しているなら ― クリスチャンでそのような問題に面していない人がいるでしょうか ― 使徒ペテロによって記された,聖書中の2通の手紙は,あなたに直接語りかけてくれます。ペテロは当時の会衆に手紙を書き送りましたが,それはイエスの死後30年ほどたってからのことと思われます。しかし,クリスチャンが直面する問題は何世紀たってもあまり変わっていません。ペテロが与えた助言は当時と同じく今日においても説得力があります。しかも,ペテロはそのような助言を与える十分の資格を備えていました。

      資格を備えた牧者

      福音書の記述や「使徒たちの活動」の書を読むことによって,ガリラヤから出て使徒ペテロとなったこの漁師について多くの事柄が学べます。彼は心の温かい人だったようです。イエスに対する彼の忠節な態度には一点の疑問もありませんでしたが,ペテロには衝動的なところがあり,時々間違いを犯しました。ペテロの犯した失敗の例の中に,わたしたちは自分と相通ずるものを見いだすことができるかもしれません。

      例えば,イエスが水の上を歩いておられるのを見た時にペテロの示した態度を思い起こしてください。興奮して,自分も水の上を歩きたいと願いました。しかし,自分がどこにいるかに気付いた時,彼は恐ろしくなり,助け出してもらわなければなりませんでした。また,ペテロが自分は決してつまずかないと大胆に言い放った時のことを思い起こしてください。それにもかかわらず,数時間後にペテロはイエスを3度否認しました。―マタイ 14:23-34; 26:33,34,69-75。

      しかし,これら正典として受け入れられている2通の手紙を記した筆者は,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです」というイエスの厳しい言葉を与えられた時の人と同じではありませんでした。彼は変化を遂げました。(マタイ 16:23)彼は,「わたしの小さな羊たちを養いなさい」とのイエスからの任務を託された使徒でした。(ヨハネ 21:17)わたしたちがペテロの手紙の中に見いだすのは,『羊を養う』ことに30年以上の経験を積み,人柄の練れたペテロです。

      こうして,「互いに心から熱烈に愛し合いなさい」というペテロの訓戒を読む時,わたしたちはこれを書いた人が,『わたしは自分の兄弟を何回許すべきですか。七回までですか』とイエスに尋ねた使徒であることを思い起こすかもしれません。すでにペテロは,クリスチャンが互いに対して示す愛には限度がないことを知っていました。(ペテロ第一 1:22。マタイ 18:21)また,仲間のクリスチャンたちに,「祈りのために目をさましていなさい」と勧めているところを読むと,わたしたちはペテロがゲッセマネのあの悲痛な夜以来,強力な教訓を学んだことを理解します。その時イエスは,祈っている使徒たちを離れてゆきましたが,帰って来ると,彼らは眠っていたのです。―ペテロ第一 4:7。ルカ 22:39-46。

      そうです,ガリラヤから出たこの漁師は十分な資格を備えた牧者となりました。そして,聖霊による霊感を受けているので,ペテロの牧羊の業は当時と同様に今日においても貴重なものです。ペテロの与えた助言の幾つかを考慮してみましょう。

      信仰の重要性を認識しなさい

      第1世紀のユダヤ-ローマ世界は華麗さと権力を誇っていました。クリスチャンが世の輝きによってたぶらかされたり,その圧力に負けて信仰の道を放棄したりしないようにすることは重要でした。それゆえ,ペテロは,「活動に備えて自分の思いを引き締め,あくまでも冷静さを保ちなさい」という読者に対する勧めをもって手紙を書き始めました。(ペテロ第一 1:13)どのようにしてそうするのですか。自分たちの享受している特権に対して生き生きとした認識を保つことによってです。

      ペテロは,昔の預言者たち,またみ使いたちでさえ,神がクリスチャンに啓示された事柄に深い関心を抱いたことを彼らに思い起こさせました。ペテロはクリスチャンがどんなに祝福されているかを明らかにしました。イエス・キリストの血によって買われ,神の永遠の言葉により朽ちることのない種をもって生み出され,「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民」を構成する者とされたのです。(ペテロ第一 2:9)彼らは自分たちの身分を思いに留めておくべきでした。彼らは不敬虔な世における外人居留者であり,エホバ神の偉大な憐れみを享受している民だったのです。

      今日,当時の古代の世は人の記憶の中に存在するにすぎません。しかし,わたしたちは依然として不敬虔な世に住んでおり,その世は様々な誘惑によってわたしたちを唆し,また様々な圧力によってわたしたちの注意を散らそうとします。ペテロの助言には今も説得力があります。わたしたちは自分の得ているものを決して見失ってはなりません。今日の世のすねた物の見方や俗悪な態度に圧倒されないようにするため,わたしたちは「み言葉に属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い,それによって成長して救いに至るように」しなければなりません。―ペテロ第一 2:2。

      問題があっても歓ぶ

      わたしたちは不敬虔な世に住んでいるために,ペテロの時代と同じくしばしば問題が生じます。ペテロは三つの状況について述べています。(1)国家に対するクリスチャンの責任。(2)クリスチャンである家僕と主人との関係。(3)クリスチャンの妻が未信者の夫を柔順な態度によって援助すること。

      その当時そうした問題は生死にかかわる事柄でした。支配者たちは多くの場合,ローマ市民でない者を拷問にかけたり処刑したりする権威を持っていました。家僕は所有者に残酷に扱われても,保護を求める手段をほとんど持ち合わせていませんでした。妻は夫の持ち物であって,法的権利はほとんど認められていませんでした。

      状況は必ずしも主人対奴隷の関係と同一でないとはいえ,今日でも,「カエサル」あるいは雇用者に接する際にクリスチャンは様々な困難な事態に遭遇します。また,未信者の夫を持つ多くのクリスチャンの婦人たちは大きな問題に直面します。したがって,使徒ペテロの助言は貴重なものです。ペテロは何と述べているでしょうか。

      要約すると,ペテロはわたしたちに三つの事柄を銘記するように助言を与えています。まず,服従に関して正しい見方を持つ必要があります。すべての人は政府に,従業員は雇用者に服すべきであり,妻は夫を敬い,これに従うべきです。そうすれば,わたしたちの振舞い方は,キリスト教が最善の生き方であることを未信者に示すものとなるはずです。(ペテロ第一 3:1; 4:15)最後に,わたしたちはエホバ神の前で正しい良心を保ち,わたしたちの行動の理由を温和な仕方で説明できるよう常に備えをしていなければなりません。―ペテロ第一 3:15,16。

      そうすればすべてのわたしたちの問題が解決するのでしょうか。そうではないことをペテロは知っていました。クリスチャンが受け入れることのできない事柄を世が要求する時が来ます。それゆえ,わたしたちは義のために苦しみに遭わなければならないかもしれません。しかし,ペテロは次のように述べています。「神に対する良心のゆえに悲痛な事柄に耐え,不当な苦しみを忍ぶなら,それは喜ばしいこと」です。―ペテロ第一 2:19。

      実際,正しい見方をするならば,義のゆえに苦しみに遭うことは歓びのいわれなのです。ペテロはこのことを自分の個人的な経験を通して知っていました。それより何年も前に,ペテロは信仰のゆえにむち打たれたことがありました。その後,ペテロと,苦しみに遭った仲間の者は,「彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ,……出て行った」のです。(使徒 5:41)それゆえ,ペテロは迫害に苦しんでいるクリスチャンたちに今度は次のように書いています。「キリストの苦しみにあずかる者となっていることを歓びとしてゆきなさい」― ペテロ第一 4:12,13。

      ペテロは兄弟たちに,彼らが実際にはエホバから訓練を受けているのだと述べました。彼はこう述べました。「それゆえ,神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となりなさい」。ペテロはまた,兄弟たちが互いに愛し合うよう,そして,長老たちが正しい動機をもって会衆を牧すべきであることを告げています。そして,間もなく,「あらゆる過分のご親切の神は,自らあなた方の訓練を終え,あなた方を確固とした者,強い者としてくださるでしょう」とペテロは約束しています。―ペテロ第一 5:1-3,6,10。

      この助言は当時と同じく今でも時宜にかなったものではないでしょうか。ペテロが直接あなたに話しかけているようではありませんか。ペテロの時代のクリスチャンたちがどんなに強められたかを想像してください。しかしその後ほどなくして,老齢のこの使徒は,兄弟たちを脅かすものとなる邪悪な要素について警告するために2番目の手紙を書かなければなりませんでした。

      邪悪な脅威に対抗する

      ペテロはこの第二の手紙の中で,自分はもはや長く生きられないので,仲間のクリスチャンに警告を与える必要はさらに緊急なものになったと述べています。ペテロは,クリスチャンが強さを保つために培わなければならない特質を列挙し,彼らを弱めようとして会衆内に現われる勢力について述べています。―ペテロ第二 1:5-8,14,16。

      「あなた方の間に偽教師が現われる」と,ペテロは警告しています。(ペテロ第二 2:1,2)それらの偽教師は不品行を助長し,「まやかしの言葉」を巧みに用います。しかし,彼らは一つの重要なことを忘れているのです。『エホバは,敬虔な専心を保つ人々をどのように試練から救い出すか,一方,不義の人々を,切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くかを知っておられるのです』。(ペテロ第二 2:3,9,10)彼らは一時的には栄えるかもしれませんが,その裁きは確実でした。

      他の者たちはあざけってこう言います。「この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日から,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか」。彼らはまた,エホバの時がわたしたちの時とは違うということを都合よく忘れているのです。また,エホバは辛抱しておられます。しかし,ノアの時代に終わりが来たのと同じく,この体制の終わりは必ず到来します。―ペテロ第二 3:4-10。

      最後に,ペテロの時代においてさえ会衆内のある者たちは『聖書を曲解して』いました。しかし,そのために彼ら自身が滅びることになりました。―ペテロ第二 3:16。

      脅威となるこうした要素を考え,ペテロは兄弟たちの「明せきな思考力を呼び起こし」たいと願いました。(ペテロ第二 3:1)彼らは,エホバが邪悪な者を滅ぼし,義なる者たちを救い出すことがおできになるという歴史的な証拠を忘れるべきではありませんでした。彼らは「エホバの日の臨在を……しっかりと思いに留める」べきだったのです。(ペテロ第二 3:12)その日は現実のものです。それは到来しつつあるのです。この事実は,彼らが行なうすべてのこと,あるいは計画するすべてのことに影響を与えて然るべきです。―ペテロ第二 1:19-21。

      わたしたちはその日が非常に間近な時に住んでいるので,ペテロの次の勧めはいよいよ重要性を帯びてきます。「あなた方は……最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい」。(ペテロ第二 3:14)これらの言葉は真実にわたしたちに当てはまります。使徒ペテロは,エホバの約束された「新しい天と新しい地」に望みを置くすべての人に語っているのです。それゆえ,ペテロの最後の勧めは,使徒としての権威の力すべてが込められており,今に至る幾世紀もの間,力強く鳴り響いています。「無法な人々の誤りによって共に連れ去られ,自分自身の確固たる態度から離れ落ちることのないように用心していなさい。そうです,むしろ,わたしたちの主また救い主なるイエス・キリストの過分のご親切と知識において成長しなさい」― ペテロ第二 3:13,17,18。

  • 『普通を超えた力』に支えられる
    ものみの塔 1983 | 6月15日
    • 『普通を超えた力』に支えられる

      セイディ・ルイス・ハダドの語った経験

      「どのようにしてなさったのですか」と私は時々尋ねられます。何をしたというのでしょうか。それは9人の子供を育て,そのうち下の7人を女手一つで育てたということです。現在生きている8人の子供のうち7人はもう長い間,献身したエホバ神の忠節な僕として奉仕しています。

      振り返ってみますと,子供たちを神の真理のうちに育てられたのは,自分自身の力だけによるものでないことがよく分かります。自分の力だけでは不可能だったことでしょう。エホバのご援助があったからこそできたのです。コリント第二 4章7節にありますように,エホバに仕えエホバのご意志を行なうことを本当に願う人々は,神の聖霊を通して神から与えられる『普通を超えた力』を得ることができます。

      それにしても私はどうして自分の子供のほとんどを女ひとりで育てることになったでしょうか。どのようにしてエホバとエホバの目的を知ったでしょうか。その背後の事情を少しお話ししましょう。

      幼いころレバノンで受けた学校教育

      私は1892年にレバノンで生まれました。90年以上も前のことです。父は祖父と同じくギリシャ正教の司祭でした。父の心からの願いは,息子たちの中の少なくとも一人が自分の足跡に従って司祭になることでした。しかし息子の中にはこの仕事に就くことを希望した者は一人もいませんでした。

      父はこのことをとても悲しんでいました。しかし,「死人をよみがえらせてくださる」エホバのご意志であれば,神が楽園の「新しい地」をお造りになる時,復活によって死人の中から戻ってくることでしょう。(コリント第二 1:9。ペテロ第二 3:13)その時私は,息子の中には神の奉仕者になった者は一人もいないけれど,娘のセイディ,そしてセイディの子供たちや孫たちはほとんどみな,確かにエホバの奉仕者になったと父に話すことができます。

      母は私が3歳の時に亡くなりましたので,母のことは全く知らないと言っていいほどです。でも,母の希望で父は私をある寄宿学校に入れました。その学校ではドイツ・ルーテル教会の尼僧がアラビア語とドイツ語で授業を行ないました。私はイエスを愛するようにと教わりましたが,神や神の目的についてはほとんど何も教えられませんでした。

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