-
クリスチャンの希望を守りなさい最善の生き方を選ぶ
-
-
10章
クリスチャンの希望を守りなさい
1 「新しい天と新しい地」はどうして非常に望ましいものとなりますか。
痛みも悲しみも死もない生活が前途にあるということを思い巡らすのは確かにすばらしいことです。しかも,不完全さと罪が取り除かれてそうした状態がなくなるということは実際にもっとすばらしいことです。結局は自分と他の人を害することが分かっている悪い性向や傾向と闘う必要がもはやなくなるということは本当にありがたいことです。その時には,わたしたちが話す言葉,考える事柄,取る行動がことごとくすべての人の益となり,天の父の属性を本当に反映し,利己的な動機がみじんもないのですから,どんなにかうれしいことでしょう。そうです,確かに,神がおつくりになる「新しい天と新しい地」には義が満ちています。これは正しく守る価値のある希望です。―ペテロ第二 3:13。
2 (イ)クリスチャンの希望が実現するのを経験するには,何をしなければなりませんか。(ロ)クリスチャンととなえる人の中に自己本位な人がいても驚くべきでないのはなぜですか。
2 クリスチャンの希望が実現するのを見るためには,その希望を絶えず目の前に置き,それに調和して生活しなければなりません。それには,わたしたちの希望をかすませたり失わせたりする影響すべてに抵抗することが必要です。そうした有害な影響は時として,神の民の会衆と交わる霊的でない自己本位な人からもたらされます。そのことに驚くべきではありません。というのは,使徒ペテロは「民[イスラエル]の間に偽預言者も現われました。それは,あなたがた[クリスチャン]の間に偽教師が現われるのと同じです」と書いているからです。(ペテロ第二 2:1 前半)生来のイスラエルの場合と同様,クリスチャンも会衆の内部から腐敗しやすいのです。
『破壊的な分派をひそかに持ち込む』
3,4 偽教師が誤った事柄を広めるやり方を,使徒ペテロはどのように記述していますか。
3 誤った事柄をとなえる人々がどのように影響を及ぼすかについて,使徒ペテロは続いてこう述べています。「実にこれらの者は,破壊的な分派をひそかに持ち込み(ます)」。(ペテロ第二 2:1 後半)使徒がここで書いていたのは,単にある事柄が理解できない人とか,大多数の人の見解と必ずしもすべての点で一致していない見解をまじめな気持ちで持っている人のことではありません。(ローマ 14:1-6と比較してください。)分裂させ腐敗させるため意図的に働く者たちのことを述べていたのです。
4 そうした者たちが隠し立てをせず,率直で正直であるということはまずありません。大抵は,ひそかに,見せかけの方法で非聖書的な見解を「持ち込み」ます。使徒ペテロが用いている原語のギリシャ語で,「ひそかに持ち込(む)」という語句は文字通りには「何々のわきに,または,何々といっしょに導き入れる」という意味です。それが彼らの手口であり,健全な聖書の教理といっしょに,自分たちの分裂させ腐敗させる見解を徐々にしかも巧妙に導入します。まず最初にいくらかの明白な真理をもって,あるいは連綿とした複雑な論議によって聞き手の思いを慣らすことにより,誤りにしか到達しないような原理を聞き手に受け入れさせることに成功する場合がよくあります。その者たちは,聖書を用いることはありますが,聖書を本当に教えることはありません。自分たちに都合の良いことを利用し,個人の利益のために推し進めようとしている事柄に合わせるために聖書の教えをわい曲します。こうして,実際には確かな聖書的根拠のない事柄がいかにも本当のように見えるのです。
5 サタンがエバを欺いたやり方は,偽りを教える教師の手口をどのように例示していますか。
5 このように進展したよい例は,サタンがへびを使ってエバを欺いたやり方に見られます。最初に,「あなたがたは園のどの木からも食べてはならないと神が言われたのは本当ですか」という一見悪気のなさそうな質問がされました。(創世 3:1,新)その質問は真理を曲解していました。至高者が,最初の二人の人間が受ける権利のあるものを差し控えて彼らに与えず,不当な制限を課しているということをほのめかしていました。へびの言葉からエバは,「善悪の知識の木」からどうして食べてはいけないのだろうと考えるようになったに違いありません。そのようにして,サタンは,答えを欲するようにエバの思いを調整しました。それから,へびの的を突いた答えが返ってきました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれから食べるその日に,あなたがたの目が必ず開け,あなたがたが必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」― 創世 3:4,5,新。
6 (イ)どんな要因でエバは偽りを受け入れやすくなりましたか。(ロ)サタンが偽りを語った結果,どのように異端組織が作られましたか。
6 エバの思いは巧妙に整えられ受け入れ態勢ができていたので,エバはその答えに驚きませんでした。あらゆる動物の中で「蛇が最も用心深かった」ということから,そのような生き物が誤った情報の源となることなどまずあり得ないように思われました。(創世 3:1,新)しかも,その木は魅力的で,その実は食物として良いように見えました。エバは完全に欺かれました。そして,禁じられた実を食べたのち,自分といっしょに神に反逆するようアダムを説得しました。(創世 3:6)このようにして,へびが語った偽りは最初の人間を天の父からうまく離反させました。実際のところ,二人の人間から成る異端組織が作られたのです。
7 (イ)会衆内に分裂を引き起こす人々はなぜキリストを否認していますか。(ロ)その者たちが「自らに速やかな滅びをもたらす」と言えるのはなぜですか。
7 同様の手口で,人が会衆内に分裂を引き起こす精神,“党派”的な競争心を助長することがあります。そのような党派は誤りを基礎としていて,故意に不一致を起こそうとするので,その立場と教えは,ご自分の血でクリスチャン会衆を買い取られた神のみ子を誤り伝えるものです。ですから,使徒ペテロはそうした偽教師について「自分たちを買い取ってくださった主人のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらす」と述べています。そうです,頭としてキリストにしっかり付くことをいったんやめると,人はキリストを否認し,道徳的かつ霊的に悲惨な道に飛び込んでしまいます。それには滅びというただ一つの結果があるのみです。有罪判決は遅れることなく下され,公正は速やかになされます。当事者たちは,自らすすんで誤りを受け入れることにより,『自らに速やかな滅びをもたらし』ます。―ペテロ第二 2:1。
8 自称クリスチャンの「不品行」は会衆外の人々にどんな影響を与えますか。
8 残念なことに,そうした者たちは,自由奔放に振る舞いながらクリスチャンであるととなえるので,神の忠実な僕たちの立派な記録に汚点を残します。クリスチャンと自称するある人々の下劣な行状を見て,多くの人はクリスチャンであると言う人すべてを悪く言ったりののしったりし始めます。ペテロは次のように書いてその点を指摘しています。「さらに,多くの者が彼らの不品行に従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう」― ペテロ第二 2:2。
「まことらしいことばで利用」されないように気を付けなさい
9 (イ)堕落した人々はどんな動機で自分たちの仲間を集めようとしますか。(ロ)そのような人々,および彼らに欺かれた人々はどうなりますか。
9 そのような背徳的な者たちはどんな動機で自分たちの仲間を集めるのでしょうか。使徒ペテロはそれに答えて,「彼らは強欲にもまことらしいことばであなたがたを利用するでしょう」と述べています。(ペテロ第二 2:3 前半)それらの者たちは自分自身のために物質的な利益を得ようとしたり,教師としてあがめられてそれに伴う力と権力と誉れを欲したりします。「まことらしいことば」,つまりもっともらしい議論を含む偽りの説を用いて,他の人々につけ込み,他の人々を利用しようと努めます。その動機も教えも悪いので,関係している者たちには破滅的な結果が臨みます。使徒ペテロはこう続けています。
「彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのでもなければ,その滅びはまどろんでいるのでもありません。神が,罪を犯したみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密なやみの穴に引き渡されたのであれば,また,古代の世を罰することを差し控えず,不敬虔な人びとの世に大洪水をもたらした時に義の宣明者ノアをほかの七人とともに安全に守られたのであれば,また,ソドムとゴモラの都市を灰に帰させて罪に定め,きたるべき事の型を不敬虔な者たちに示されたのであれば,また,無法な人びとの放縦な不品行に大いに苦しんでいた義人ロトを救い出されたのであれば ― この義人は日々彼らの間に住んで見聞きする事がらにより,その不法な行ないのゆえに,自分の義なる魂に堪えがたい苦痛を味わっていたのですが ― エホバは,敬神の専念をいだく人びとをどのように試練から救い出すか,一方,不義の人びと,わけても,肉を汚そうとの欲望をいだいてそれに従い,主たる者の地位を見下す者を,切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くかを知っておられるのです」― ペテロ第二 2:3-10。
10 (イ)『蛇の胤』に対して神の裁きの宣告が初めてなされたのはいつですか。(ロ)その執行はなぜ「手間どって」いませんか。
10 「昔から」神は『蛇の胤』となるすべての者を死刑に定めておられますが,その刑は必ず執行されます。(創世 3:15。ヨハネ 8:44。ユダ 14,15)およそ6,000年前に初めて宣言され,その後繰り返し述べられたとはいえ,その裁きは,決して執行されないかのように「手間どっている」のではありません。滅びは必ず来ます。なぜなら滅びはまどろんでいないからです。滅びをもたらすことは,神のお目的の中に依然含まれています。
11 (イ)不従順なみ使いたちはどうなったでしょうか。彼らにはさらに何が待ち受けていますか。(ロ)み使いが罰せられたこと,不敬虔な人々が洪水で滅ぼされたこと,またソドムとゴモラの住民が絶滅させられたことは何を証明していますか。
11 ペテロが指摘した通り,神のみ前にいたにもかかわらず,のちに不忠実になったみ使いたちでさえ『タルタロスに投げ込まれる』こと,すなわち最も低い状態に卑しめられることを免れませんでした。不従順なみ使いたちは,神のあらゆる啓発を絶たれ,天の元の立場にもどれず,活動を制限されているので,イエス・キリストの手で処刑されるのを待ちつつ,「濃密なやみの穴」になぞらえられる状態にあります。(啓示 20:1-3,7-10と比較してください。)同様にエホバ神は堕落した人々の世全体を世界的な洪水で滅ぼすことも,ロトの日にソドムとゴモラの性的に堕落した住民を処罰することも差し控えられませんでした。ノアとその家族やロトのような義人だけに,神の裁きを免れ,不法な人々の中に住む結果受ける試練から救われる望みがあります。しかし,不道徳なことをして他の人々の肉を汚そうとする人は,たとえクリスチャンと称しても救われません。
権威に敬意を示さない人々を警戒しなさい
12,13 ペテロ第二 2章10節後半と11節に示されている通り,堕落した人々は権威に対してどんな態度を取りますか。
12 堕落した者たちの悪い動機は権威に対する態度から識別できるものです。その者たちはいかなる権威をも侮って,「主たる者の地位を見下(し)」ます。使徒ペテロは説明をこう続けています。「向こう見ずで片意地な彼らは,栄光ある者たちにおののかず,かえってあしざまに言います。しかしみ使いたちは,強さと力において勝っていながら,彼らをあしざまにとがめたりはしません。そうしないのはエホバに対する敬意からです」― ペテロ第二 2:10後半,11。
13 ですから,「栄光ある者たち」を意に介さない大胆でせん越な者たちに気を付けたいものです。クリスチャン会衆において,責任をゆだねられている忠実な人々は自分たちが高い身分にあるとは,また,仲間の信者より上であるというようには考えず,僕であると謙遜に考えます。(マタイ 23:8。テサロニケ第一 2:5-12)しかし,彼らは群れの監督もしくは「牧者」として聖霊によって任命されていますから,その奉仕の割り当ては『栄光あるもの』です。(使徒 20:28。ローマ 11:13と比較してください。)その人々は,また,栄光ある主イエス・キリストと偉大な牧者エホバ神を代表しています。(ペテロ第一 2:25; 5:4)ですから,聖書は会衆の成員が指導の任に当たっている人たちに服するように勧めているのです。(ヘブライ 13:17)ペテロ自身そうであったように,指導の任に当たっている人たちも間違うことがありますが,だからといってそれがその人たちを悪く言ってもよいという口実にはなりません。(ガラテア 2:11-14; ヨハネ第三 9,10と比較してください。)勤勉な「牧者」は会衆から尊敬されてしかるべきです。ところが人々に悪い影響を与える者たちは大胆にもクリスチャンの長老をあしざまに言います。エホバ神とみ子は,人が兄弟に向かって言う悪口やののしりの言葉を自分たちに向けられたものとみなされます。
14 忠実なみ使いたちは,偽りの教師の態度と全く異なるどんな態度を示しますか。
14 偽りを教える自己本位な教師と忠実なみ使いたちとの間にはなんと相違があるのでしょう。み使いたちは義に対して熱心です。しかし,たとえ反対者を扱う場合でも厳しい侮べつ的な言葉を用いません。例えば,「み使いの頭ミカエルは,悪魔と意見を異にし,モーセの体について論じ合った時,彼に対しあえてあしざまな言い方で裁きをもたらそうとはせず,ただ,『エホバがあなたを叱責されるように』と言いました」。(ユダ 9)このことから,他の忠実なみ使いたちはだれに対しても非難を浴びせることを決してせず,穏やかにしかも力強く事実を述べると結論づけることができます。み使いたちは,あしざまに言うことが造り主の神聖さ,あるいは純粋さに決して調和しないことを認めることによって,造り主にふさわしい敬意を示します。
15 ペテロの助言に従い,どんな種類の人を警戒しなければなりませんか。
15 他の人々をひどくけなしてから自分自身の格を上げる人々に警戒しなければなりません。そのような人物はそうした行為に対して不利な裁きを免れないということをいつも銘記しておくべきです。そうすれば,他の人に関心を抱いているように見えても,実際には自分の利益を追い求めているにすぎない者たちの言葉に耳を貸さないように気を付けることができます。使徒ペテロは,自己本位な者たちの結末について次のように評しています。
「これらの人びとは,もともと捕えられて滅ぼされるために生まれた理性のない動物のように,自分が無知でありながらあしざまに言う事がらのゆえに,まさに自らの滅びの道において滅びをこうむり,悪行に対する報いとして自らを損うことになります」― ペテロ第二 2:12,13前半。
16 堕落した人々はどのように「理性のない動物」のようですか。
16 堕落した欲情に支配される人間は「理性のない動物」のように振る舞います。動物に関してエホバは,「生きている動く生き物は皆,あなたがたのための食物としてよい」と言われました。(創世 9:3,新)あしざまに言う者たちは,そうした「理性のない動物」のようですから,正しい良心によって制御されず,したがって,神の方法や取り扱い方や活動に対して何の認識も示しません。また,霊的に貴重な事柄を正しく評価できないので,それらを無価値なものと言うこともあります。その誤った考えは身の破滅のもととなります。彼らは間違った見方を固守して自らに害を招き,不義の道の悪い結果を必ず経験するのです。確かに,わたしたちは希望をしっかりと保って,それらの者といっしょに滅ぼされないようにしたいと思います。
利己的な快楽と個人の利得を追い求める人々に気を付けなさい
17 ペテロ第二 2章13節後半から15節前半によれば,堕落した人々はさらにどんな特徴によって見分けられますか。
17 霊的でない人々は,とりわけ,安楽と快楽に対して激しい欲望を持つという悪い特徴を示します。使徒ペテロは次のように書きました。
「彼らは昼間のぜいたくな生活を楽しみとします。彼らは汚点またきずであり,気ままな喜びをいだいて自分たちの欺きの教えにふけりますが,一方では,あなたがたと宴席を共にします。姦淫に満ちた目を持ち,罪をやめることができず,不安定な魂を唆す者です。強欲さの面で鍛えられた心を持つ者です。のろわれた子らです。まっすぐな道を捨てた彼らは惑わされています」― ペテロ第二 2:13後半-15前半。
18 霊的でない人々は,イザヤ 5章11,12節に描かれている不忠実なイスラエル人とどのように似ていますか。
18 霊的でない人々は,他の人々を築き上げるために多くのことを行なえる昼間から,過度の飲食にふけってどんちゃん騒ぎをすることがあります。そのような人々は快楽のためだけに生きていた一部のイスラエル人とよく似ています。それらイスラエル人の宴会ではぶどう酒がふんだんに振る舞われました。夜が更けるにつれ,飲み騒ぐ人々は一層声高になり大騒ぎをして,情欲をかきたてる音楽を騒々しい宴会の伴奏音楽として用います。そのような人々について,預言者イザヤは次のように書いています。
「単に酔い酒を求めて朝早く起き出す者,晩の闇の中で遅くまでだらだらととどまり,ぶどう酒が燃え立たせる者たちは災いだ! そして彼らの宴には,たて琴と弦楽器,タンバリンと横笛,それにぶどう酒が必ずある。しかしエホバの働きを彼らは見ず,そのみ手の業を彼らは見なかった」。(イザヤ 5:11,12,新)
快楽を追い求める人々はこのように,創造者の偉大な業には証拠がないかのように振る舞いました。彼らはエホバ神に対する義務をすべて無視し,全く自制しなかったのです。ゆえに,エホバの裁きを免れることは期待できませんでした。
19 会衆と交わるある人々が快楽を愛する者であることは何から分かりますか。
19 今日神の僕であるととなえる人々の間で同様の事柄が生じても驚くには当たりません。結婚式のひろう宴や結婚記念日が,情欲をかきたてる音楽の大きな音に合わせて激しい感覚的なダンスをする場と化すことがあります。そのような祝いの席ではアルコール飲料がふんだんに振る舞われ,気ままで底抜けの浮かれ騒ぎが早朝まで,つまり夜明けまで続きます。ある国々では,生まれた子供の命名祝い,新築祝い,葬式,崇拝のための建物の献堂式が,あまりにも騒々しいから静かにしてほしいと近所の人から苦情が出るほど近所迷惑な,ひどく思慮の欠けた集まりに変えられます。国民が一般に慎み深いことで知られている国々でさえ,親しい者同士が大酒を飲んで「良いたより」の真理があしざまに言われるようになることがあります。確かに,真のクリスチャンはそうした行き過ぎた行為に用心しなければなりません。―ペテロ第一 4:3。
20 (イ)不節制な行ないにふける人々は会衆にどんな影響を与えますか。(ロ)高尚な機会でさえ,どのようにどんちゃん騒ぎと化しますか。
20 使徒ペテロの言葉通り,そのように振る舞う人々はクリスチャン会衆の汚点また傷のようであって,神の真の僕たちの清らかさを台なしにします。それらの人は,清潔な外衣についたしみ,あるいは美しい顔にできた目障りなしみのようです。ある人々の目的は快楽に対する欲望を満足させるために“全力を出す”ことなので,普通どこも悪くない集いをさえ騒々しいものに変えます。そして,“正常な息抜き”に過ぎないと称して自分たちといっしょに激しいダンスをしたり大酒を飲んだりするよう他の人々に誘いかけようとしたり,教えようとしたりします。ペテロの述べている「姦淫に満ちた目」がはっきり分かるかもしれません。社交の場で,男性の目はその場にいる魅力的な女性を不道徳な関心を抱いて見始めることがあります。不純な欲望があまりにも強くなると,結婚している男性の目までが罪を犯しかねません。(マタイ 5:28; マルコ 9:47と比較してください。)クリスチャンの原則をしっかりとわきまえていない女性は「不安定な魂」としてすぐに,堕落した男性のえじきになってしまいます。―テモテ第二 3:6,7と比較してください。
21 他の人々を不節制な生活に巻き込むような人は,なぜクリスチャン会衆にとって危険きわまりないでしょうか。
21 それらの男性は,弱い人を唆すのが巧みですから,危険きわまりないと言えます。使徒ペテロはその者たちのことを「強欲さの面で鍛えられた心を持つ者」と描写しています。その人生の目標もしくは目的全体は不当な欲望を満足させることのようです。それで彼らはその目標を達成する達人になります。弟子のユダもそのような者たちについて語っています。彼らは『忍び込んで』神の過分のご親切を「不品行の口実」に変え,それによってわたしたちの唯一の所有者であるイエス・キリストに不実な者となっているのです。ユダは彼らが多くの場合『自らの利益のために人物を賞賛する』こと,また分派を起こす者は「動物的な人間であり,霊性を備えてい(ない)」ことを教えています。(ユダ 4,16,19)そうした者がお世辞を言ったり見せかけの熱心さを示したりして会衆内で影響力を持つことに,あるいは目立った存在になることに成功するなら,非常に危険です。使徒ペテロが言明している通り,当然のことながら,それらの者は神ののろいを受け,滅びを受けるに値します。そのような分裂的で堕落した道を取る男たちについて言えることは,同様の道を取る女たちにも当てはまります。―啓示 2:20-23と比較してください。
22,23 他の人々を堕落させる人はどのようにバラムに似ていますか。
22 使徒ペテロは,また,堕落した男たちをバラムに例えてこう述べました。
「彼らはベオルの子バラムの道に従いました。彼は悪事の報いを愛しましたが,自分が正道に背いたことに対して戒めを受けました。ものを言わない駄獣が,人間の声でものを言い,その預言者の狂気の歩みを妨げたのです」。(ペテロ第二 2:15後半,16)
この占い師は,イスラエル人をのろうのは最高主権者の意志に反するということを十分承知していました。バラムは,エホバが自分に語らせる事柄以上のことは話さないという態度を上辺で取りながら,内心ではイスラエルをのろいたいという欲望を育てていました。バラムはモアブの王バラクが申し出た報酬を欲しがっていたのです。しかし,全能の神はバラム自身の雌ろばを用いてバラムをしっ責されました。至高者は奇跡によって,理解できる言葉を理性のない駄獣に話させました。(民数 22:1-35)石をさえ叫ばせることのおできになる方にとってそれは難しいことではありませんでした。(ルカ 19:40)バラムが利得に対して極端な貪欲さを示したことから,エホバ神は適切にも非常に珍しい方法を使ってしっ責をお与えになりました。バラムはイスラエルに関する神のご意志に抵抗しようとして,気が狂ったかのように振る舞いました。家畜からしっ責されて,イスラエルを首尾よくのろうことは無理だと分かったので,バラムはそうすることをしばらくの間思いとどまりました。―民数 23:1-24:9。
23 しかしながら,バラムはなおも報酬を得ようと心に決めていました。そして,とうとう,イスラエル人が自分たちの上に神ののろいを招くようなことをするようにしむける計画を提案し,モアブ人とミデアン人の女たちを使ってイスラエル人の男たちに偶像崇拝と不品行を行なわせることをバラクに教えました。(民数 31:16。啓示 2:14)その策略はかなり成功し,そのために2万4,000人のイスラエル人が死にました。―民数 25:1-9。
24 バラムの例から,自己本位な人についてどんなことが分かりますか。
24 バラムの例は,個人の利得のために正しいことを捨てる者たちの歩みを強力に示しています。たとえ奇跡をもってしても,その者たちが貪欲さを満足させるのをとどめることはできないのです。ですから,態度や言葉や振る舞いでわたしたちの良心をひどくかき乱すような人と親しく交わらないようにすべきです。自己本位な人は,自分の目標を達成するために他の人を害することに良心のとがめを少しも感じません。
25 ペテロ第二 2章17節の言葉は何を強調していますか。
25 ペテロは,そうした邪悪な者をさらに描写して次のように述べています。「この者たちは水のない泉,激しいあらしに吹き払われる霧であって,彼らにはやみの暗黒が留め置かれています」。(ペテロ第二 2:17)汚れた人と親しい仲間になっても,何の益も得られません。汚れた人たちは,疲れた旅人が新鮮な水を得られそうだと思って近付いてみたものの,水の源が干上がっていてがっかりさせるような井戸とか泉によく似ています。また,作物の栽培に必要な雨が降りそうだという期待を持たせながら,強い風にたちまち吹き払われてしまう薄い,霧のような雲に似ています。偽りを教える者たちは光,つまり啓発の源ではありません。彼ら自身,自分たちを待ち受ける有罪判決を表わす真っ暗やみ,すなわち「やみの暗黒」に向かっています。
「大言」に用心しなさい
26 使徒ペテロは,堕落した人々が目的を達成する方法をどのように描写していますか。
26 会衆内の危険分子は上辺は良く見えるので警戒しなければなりません。キリスト教の真理と生き方を十分身に着けていない人々は特に用心しなければなりません。自己本位な人々は強烈な印象を与える方法を使うでしょう。そのおおげさな説得にだまされる人は災いです。使徒ペテロはこう述べています。
「なんの益にもならない大言を吐き,また,誤りの中で暮らしている人びとからかろうじて逃れようとしている者たちを,肉の欲望とふしだらな習慣によって唆すからです。それらの者に自由を約束しながら,彼ら自身は腐敗の奴隷となっているのです。だれでもほかのものに打ち負かされる人は,そのものの奴隷にされるからです」― ペテロ第二 2:18,19。
27 堕落させる影響を及ぼす人々の話し方と態度にはどんな特徴がありますか。
27 誤りを採用するように,または清い良心の声に逆らう道に従うように他の人々を説得する人たちは往々にして自信たっぷりに話します。そして,自分自身と自分の言葉をひどく買いかぶり,自分が語る事柄は非常に重要であると考えます。(コリント第二 10:10,12; 11:3-6,12,13と比較してください。)謙遜な精神で確固とした聖書的な理由を提出する代わりに,自分の論議の薄弱さをからいばりで隠しながら,力強く横柄にあざけったり,ずけずけ意見を述べたりすることがあります。(コリント第二 4:2と比較してください。)聖書の光に照らして調べると,その人たちの印象的な言葉は無意味で,だれにも益とならないことが分かります。
28 会衆内の堕落した分子に影響される可能性が大きいのはどんな人々ですか。
28 残念なことに,神の言葉の基礎知識を十分に教えられていない人々はその危険に気付かない場合があります。その『知覚力は正しいことも悪いことも見分けられるように訓練されていません』。(ヘブライ 5:14)それら不安定な人々は,この世で行なわれている神の名を汚す慣行から離れたのがごく最近であるために,そうした慣行にまだいくらか魅力を感じることも考えられます。
29 娯楽と気晴らしに対して聖書はどんな見方をしていますか。正確にはどんな場合に警戒する必要がありますか。
29 言うまでもなく,娯楽や気晴らしの問題を考える際には平衡の取れた見方が必要です。聖書は禁欲生活をすることを神の僕に求めていません。また,聖書によれば,自己否定はそれ自体に美点があるのではなく,良い目的を考慮に入れてそれが行なわれるときにのみ美徳となります。(伝道 2:24; 3:1,4,13; 8:15; コリント第一 13:3; コロサイ 2:20-23と比較してください。)とはいえ,それを言い訳にして,堕落した肉のなすがままになり,またクリスチャンの自由を悪をおおい隠す手段として,極端なことをしてもよいというわけではありません。(ガラテア 5:13,14。ペテロ第一 2:16)そのようにすることは,神を愛すること,およびわたしたちに与えられている「王たる律法」すなわち隣人を自分自身のように愛するということと全く相反します。(ヤコブ 2:8,12)それとは違った事柄を説く,そして自分たちの行き過ぎに賛同しない人々をあざける人たちは,依然として自分の利己的な傾向の奴隷であることを示しています。
30 会衆内の堕落させる影響のために,ついにはどんなことが起こりかねませんか。
30 ですから,分別を保って両極端を避ける必要があります。うかつに快楽を追求する道へと導かれる危険があることは否定できません。ある期間がたつと低俗化し,だんだん極端なダンスをしたり大酒にふけったりするようなパーティーに,あるいは性の不道徳とサディズムを美化する娯楽を見ることに徐々に巻き込まれることがあります。それらの不健全な影響を与えるものを危険でないと主張するのは浅はかなことです。それには,クリスチャンの良心を弱め,道徳心を損なう影響があることはまず間違いありません。そのようなことはないとうそぶく人は,多くの場合,でい酔と性的不行跡の犠牲者になります。―箴 13:20。
31,32 会衆のある成員たちは「裁きの日」まで何を行ない続けますか。それはどんな結果を招きますか。
31 実際,使徒ペテロは,『[不義の人びとが]切り断たれる裁きの日』まで神の僕たちの間に引き続きどんなことが起こるかを正確に描写しました。(ペテロ第二 2:9)官能的快楽に対する欲望を満足させることができるようにクリスチャンの自由の限界を論外なほど広げる人々は跡を絶たないでしょう。それらの人たちは聖書の次の命令に従うことを望みません。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい」。(コロサイ 3:5)それどころか,そうした誤った欲望をかき立てる娯楽を選びます。そして他の人々を巻き込むときに,“もし自分の良心が許すなら,それは何も悪くない”と論じるかもしれません。しかし,その人たちは,汚れた良心は安全な導きにならないということを見落しています。悪い欲望に屈しており,ゆえに悪い欲望の奴隷となっているのです。彼らが他の人々に対して与える“自由”に関する約束は人を惑わすものです。
32 悪行を犯す生活にまたもや飛び込む人々はまったく悲惨な結果を見ることになります。使徒ペテロは次のように書きました。
「たしかに,主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れたのち,再びその同じ事がらに巻き込まれて打ち負かされるなら,そうした者たちにとって,最終的な状態は最初より悪くなっているのです。彼らにとっては,義の道を正確に知らないでいたほうが,それを正確に知ったのち,自分に伝えられた聖なるおきてから離れてゆくよりはよかったのです。真実のことわざの述べる次のことが彼らの身に生じました。『犬は自分の吐いたものに戻り,豚は洗われてもまたどろの中で転げ回る』」― ペテロ第二 2:20-22。
33 (イ)人は,真理を知るようになってどのように変化する場合がありますか。(ロ)この世の道にもどることは,なぜ非常に重大な事柄ですか。
33 使徒ペテロはなぜこのように言うことができたのでしょうか。人は,主イエス・キリストの正確な知識を得ると,変化しなければならないことに気付き始めます。そして,大酒,不道徳な生活,かけ事その他の悪習をやめるかもしれません。イエス・キリストの弟子に期待されている事柄に従うために自分自身を清めることによって,「世の汚れ」から,つまり神が非とされていると分かった慣行から逃げる,つまり逃れるのです。ところが,神の名を汚すような慣行に再び陥ることによって,その者は正しいと分かっている事柄を故意に捨てるのです。イエス・キリストの知識と,聖書によって訓練された良心は当初,悪行に対する抑制力となっていました。人が,その健全な抑制力から逃れると,キリストの弟子として歩み始める以前よりもおそらくもっと悪くなることでしょう。その人は,義の道を知らない人々が行なうよりもさらに悪いことを行ないかねません。なぜなら,その人の良心は汚され,焼印を押されさえして,無感覚な組織のようになっているからです。(テモテ第一 4:2と比較してください。)仮にその人が正しい道を全く知らなかったなら,その悪い行状はそれほどまでひどくキリストの名を汚さず,知りつつ犯す場合ほど重大な罪を犯さず,神からそれほど厳しい裁きを受ける必要もなかったことでしょう。―ルカ 12:45-48; テモテ第一 1:13,15,16と比較してください。
34,35 (イ)不潔な犬と豚に関する箴言からどんなことが言えますか。(ロ)わたしたちはその箴言からどんなことを心に銘記すべきですか。
34 ペテロが引用している箴言を考えると,罪の生活を始める人々は,クリスチャンの生き方において進歩する機会を活用していないことは明らかです。(ペテロ第二 1:2-11)表面上は悪い慣行を捨てていても,それらを憎むまでに至っていない人々がいるのです。そのような人たちは,この世の「吐いたもの」,汚物を実際には捨て切れなかったのかもしれません。この世の汚物にまだ幾らか魅力を感じているので,勧められるとそれにもどる可能性があります。その人たちは,道徳的退廃というこの世のどろの中で転げ回りたいと心の中で願っているかもしれません。また,ほかにも,キリストの弟子であることの価値に対する認識を深めないで,結局,この世が提供するもののほうにもっと魅力を感じる人もいることでしょう。一度は吐き気を催すほどいやだった状態に,そのようにしてつり込まれる人々の堕落は悲劇と言うほかありません。
35 霊感を受けて書かれたその箴言の言葉は,クリスチャンととなえるすべての人にとって警告の教えとなっています。道徳的にまた霊的に清い心を培わず,この世の汚れたものを真に憎悪する気持ちに欠けているなら,霊的に破滅する重大な危険に直面しています。クリスチャンは,堕落した世の誘惑に抵抗する面で警戒をゆるめることは決してできません。悪い欲望に支配されないように,それを殺さなければなりません。また,この世が提供するものをあこがれの目で見て悪い欲望を刺激すべきでもありません。―コリント第一 10:12。コロサイ 3:5。
目ざめていなさい!
36 わたしたちの主人である方を喜ばせるには,道徳的,霊的清さを保つだけでなく,何をする必要がありますか。
36 道徳的かつ霊的な清さを保つことに加え,他の人々を物質的にも霊的にも助けて,わたしたちの主人に活発に仕える必要もあります。わたしたちの生き方全体が,霊的に目ざめていて活発であることを示しているべきです。そのことの大切さを強調して,使徒ペテロはこう述べました。
「愛する者たちよ,わたしはこれで二度めの手紙をあなたがたに書いています。この中でわたしは,最初の手紙と同じように,思い出させる意味であなたがたの明せきな思考力を呼び起こしているのです。それはあなたがたが,聖なる預言者たちによってあらかじめ語られたことばと,あなたがたの使徒たちを通して与えられた主また救い主のおきてを思い出すためです。というのは,あなたがたはまずこのことを知っているからです。つまり,終わりの日にはあざける者たちがあざけりをいだいてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日からも,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言うでしょう」― ペテロ第二 3:1-4。
37 (イ)なぜ『明せきな思考力を呼び起こす』べきですか。(ロ)預言者たちはどんな重大な出来事を指し示しましたか。
37 神の是認を得るのに肝要な事柄を正しく評価できるように,『明せきな思考力を呼び起こす』ことは今日確かに有益です。(ペテロ第二 1:12-15と比較してください。)エノクにまでさかのぼる「聖なる預言者たち」は清算の日を警告しました。ユダの手紙の14節と15節にはこう書かれています。「そうです,アダムから七代めの人エノクも彼らについて預言して言いました。『見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔なしかたで行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人がご自分に逆らって語ったすべての忌むべきことに関して有罪を証明するためである』」。幾世紀かのちに,イザヤ,ダニエル,ヨエル,ハバクク,ゼパニヤ,ハガイ,ゼカリヤ,マラキといったヘブライ人の預言者たちも同様の預言をするように促されました。―イザヤ 66:15,16。ダニエル 7:9-22。ヨエル 3:9-17。ハバクク 3:16-18。ゼパニヤ 1:14-18。ハガイ 2:21,22。ゼカリヤ 14:6-9。マラキ 4:1-6。
38 用意のできた状態を保つよう努力すべきなのはなぜですか。
38 これらすべての預言者や他の預言者たちによって予告された神の裁きは必ず成就します。ですから,わたしたちは,用意のできた状態を保つよう常に努力し,至高者のみ前での清い立場を危うくしないようにしなければなりません。
39 イエス・キリストの命令によって伝えられているのはどんな音信ですか。
39 その預言者たちによるわたしたちへの音信は,主イエス・キリストの命令によって伝えられているものと同じであり,パウロを含む使徒たちによって繰り返し語られています。神のみ子の弟子であるわたしたちは,み子への奉仕に活発であり,道徳的および霊的清さを保ち,わたしたちの主人が不敬虔な人々に裁きを執行するために来られるとき,いつでも迎えられるようにしているべきです。神のみ子は次のように言われました。
「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。
40 霊的に眠り込まないようにするには,何をしなければなりませんか。
40 そうです,霊的に眠り込まないように用心しなければなりません。それには,飲食や娯楽に気ままにふけらないようにすべきです。そうしたことに度を過ごすと,精神的および霊的知覚力が鈍り,心は罪悪感で押しひしがれ,心の良い動機が締め出されてしまいます。同様に,生計を立てることに対する過度の心配は,エホバが本当に必要なものをことごとく備えてくださるという確信を心から奪い,人を不安な気持ちにさせます。(マタイ 6:25-34)裁きの時に主イエス・キリストに是認される者でありたいということが心の主要な動機でなくなると,人は霊的に非常に危険な状態になります。主人であるイエス・キリストに,否認される状態にあるところを見付けられるかもしれません。
41 キリストが栄光のうちに必ず来られることに対する信仰は,常に,人がイエスに忠節であり続ける助けとなってきましたが,それはなぜですか。
41 ペテロのように,他の忠実な使徒たちも,裁きを執行し忠節な弟子たちに報いを与えるためにキリストが必ず来られることを常に念頭に置いておくことを仲間の信者に教えました。その主眼点は,み子が「力と大いなる栄光を伴(って)」来られるときに是認される者として見いだされるようクリスチャンを援助することでした。(マタイ 24:30)イエスもそうなさったように,使徒たちも,終わりまで忠実さを証明することの大切さを強調し続けました。その終わりとは,人が死ぬ時を意味することもあれば,「エホバの日の臨在」の時を意味する場合もあります。(ペテロ第二 3:12)聖書の中で,キリストの共同相続者の復活すらキリストの再来と関連付けられていますから,真の弟子たち全員の希望は,神のみ子が栄光に輝く天の王として到来することと切り離せない関係にあります。(マタイ 10:28; 24:13,36-44。テサロニケ第一 1:9,10; 4:14-17)ですから,クリスチャン会衆の全歴史を通じて,主が「力と大いなる栄光を伴(って)」到来することに対する揺るぎない信仰は,人が主に忠節であることを証明する助けとなってきました。
あざける者たちに欺かれてはならない
42 (イ)なぜ今日でもあざける者の声を聞きますか。(ロ)彼らはどのように論じますか。
42 イエス・キリストが栄光のうちに表わし示されるときに生きていたいという強い願いが一つの理由となって,ある特定の期間もしくは年を不敬虔な事物の体制の終わりであると考えはじめた信者がいつの時代にも存在してきました。今の「終わりの日」にもそのような人々がいます。幾つかの期待が実現しなかったので,多くの人はつまずいて,この世のならわしにもどりました。ペテロの言葉通り,今日でも,わたしたちはあざける者の声を聞いています。(ペテロ第二 3:3,4)彼らは要するに次のように言うのです。“神のみ子が不敬虔な者を処刑し,弟子たちに報いを与えようとしておられると信じることにはどんな根拠があるのか。創造の時以来何も変わっていないではないか。人間の営みは依然元のままで,間もなく悲惨な終わりが来るというきざしは少しもない。男はめとり,女は嫁ぎ,子供たちは生まれ,人は相変わらず年老いて死んでいく”。このようにして,あざける者たちは,主イエス・キリストが裁きの執行に来ることなど決してない,あるいは,それははるか遠い先のことなのでさしあたり重要でないということをほのめかします。
43 いつの時代でも,キリストの弟子は責任を果たすことに勤勉でなければならなかったことは,どんなことから分かりますか。
43 それらのあざける者たちは,死かそれとも「エホバの日」かどちらかが必ず自分たちを襲うという事実を完全に見失っています。どちらに直面する場合でも,それ以後に立派な業という形で天に宝を積む機会はありません。(ルカ 12:15-21,31,33-40)ですから,イエス・キリストの弟子が責任にむとんちゃくでいてよい時期は歴史上一度もありませんでした。確かに,責任にむとんちゃくでいることの危険は今日はるかに大きくなっています。
44 わたしたちはどんな基本的な責任を果たすべきですか。
44 では,今日,わたしたちはどんな責任を果たしているべきでしょうか。まず第一に,わたしたちは,「すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」と命令されています。(マタイ 28:19,20)そうです,事物の体制の終結の時に,「王国の良いたより」を全世界に宣べ伝えることに参加するという特権があるのです。(マタイ 24:14)今,特にきわめて大切なのは,兄弟たちが必要としている援助を差し伸べ,思いやりを示し,励ましを与えて,すべての兄弟たちに愛を示す義務を果たすことです。(マタイ 25:35-40; ヘブライ 13:1-3; ヨハネ第一 3:16-18と比較してください。)加えて,下劣な肉の業で汚れないように絶えず努力する必要があります。―マタイ 7:21-23。ガラテア 5:19-21。
エホバは,あざける者たちの誤りを証明された
45,46 エホバは,あざける者たちが誤っていることを示すどんな証拠を備えておられますか。
45 わたしたちは引き続きイエス・キリストの弟子にふさわしい生活をしつつ,次のことを常に念頭に置いていたいと思います。すなわち,エホバ神ははるか昔に,あざける者たちが誤っていることを否定の余地なく証明する証拠を備えられたということです。使徒ペテロはそのことに注意を促してこう書きました。
「彼らの望みのままに,このことが見過ごされているからです。つまり,神のことばにより,昔から天があり,地は水の中から,そして水の中に引き締まったかたちで立っていました。そして,それによってその時の世は,大洪水に覆われた時に滅びをこうむったのです」― ペテロ第二 3:5,6。
46 神がかつて一度不敬虔な人々の世を滅ぼされたという事実は,人間の営みに大きな変化が起こることはなく,すべてのものは「創造の初め以来と全く同じ状態を」保つという,あざける者が下す判断が間違っていることを教えています。神がみ子を用いて不敬虔な人々を処罰されるという,神ご自身の約束の言葉をわたしたちは持っています。その言葉は非常な力を持っているので,成就しないということは絶対にあり得ません。
47 創造の記録は,神の「ことば」の力をどのように明らかにしていますか。
47 エホバの創造の業に関する聖書の記述は,神の「ことば」が力を持っていることを明らかにしています。創世記 1章からは,至高者が言葉を出される,つまり命令を発せられると,その目的は成し遂げられたも同然であることが分かります。(詩 148:1-6と比較してください。)二日目に関して,このように述べられています。「次いで神は,『水の間に天空が生じ,水と水との間に分離が起きるように』と言われた。そうして神は天空を造り,また天空の下にあるべき水と天空の上方にあるべき水との間を分けはじめられた。そしてそのようになった」。(創世 1:6,7,新)それから,三日目に,「神は,『天の下の水は一つの場所に集まって乾いた陸地が現われるように』と言われ(ました)。するとそのとおりにな(りました)」― 創世 1:9,新。
48 地はどのようにして,「水の中から」そして『水の中に引き締まったかたちで立つ』ようになりましたか。
48 創世記に記録されている事柄は,使徒ペテロが述べていることと完全に調和しています。乾いた陸地が地球上の水の上に現われたので,「地は水の中から引き締まったかたちで立っていました」。しかしまた,地は「水の中に」立っていました。天空(生命を維持するために必要な種々の気体を含んでいた)の上に地球を取り巻く水があったからです。(箴 8:24-29と比較してください。)このような配列は「神のことば」によって生じました。
49 (イ)『それによってその時の世は滅びをこうむった』とは,どのような出来事があったのですか。(ロ)強力な「神のことば」は将来のどんな出来事を確実なものとしていますか。
49 地上からはるか高い空中にあった水と地球上の水は,世界的な洪水の可能性を生み,実際それらは至高者が不敬虔な世を滅ぼす際に用いられることになりました。ですから,神がキリストの臨在の時に必ず人間の営みに介入されるということをあざける人々すべてにとって,その大洪水は見せしめとなっています。世界的な洪水を可能にした強力な言葉は,現在の邪悪な事物の体制の滅びを示している言葉でもあります。使徒ペテロはこう続けています。「しかし,その同じみことばによって,今ある天と地は火のために蓄え置かれており,不敬虔な人びとの裁きと滅びとの日まで留め置かれているのです」― ペテロ第二 3:7。
50 (イ)現在の古い事物の体制の滅びに関して,クリスチャン会衆に交わるある人々はどんな見解を受け入れましたか。(ロ)そのような態度はどのように表われていますか。
50 とりわけ,使徒ペテロがこの言葉を書いてから幾世紀もたっているため,また,期待していた事柄が成就していないために,クリスチャン会衆に交わる人々の中にはそうした滅びが果たして来るのだろうかと疑問に思った人々がいます。その人たちは,公然とあざける者たちに加わらないかもしれませんが,もはや「裁きの日」を考慮に入れるべき出来事とみなしません。クリスチャンの責任を果たすことにむとんちゃくになり,霊的に眠りこけます。そして,快楽や持ち物の点で現在の事物の体制からできるだけ多くのものを得ようと努めます。
エホバの辛抱に感謝する
51 キリストが刑を執行する者として来られることが手間取っているとなぜ考えるべきではありませんか。
51 人間の観点からすると,神の復しゅうを執行する者としてキリストが来られるのにずいぶん手間取っているように思えるかもしれません。ところが,エホバ神の見地からすればそうではありません。したがって,霊的に眠らないようにするためには,至高者の観点から物事を見る必要があります。そうする点で,使徒ペテロの言葉は助けになるでしょう。こう書かれています。
「しかし,愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです。しかし,エホバの日は盗人のように来ます」― ペテロ第二 3:8-10。
52,53 エホバにとって,どういう意味で,千年は一日のようであり,一日は千年のようですか。
52 エホバは人間とかかわりのある時間に対して無関心ではありません。(創世 1:14,15)神は,時間を記録するものとして人間をおつくりになりました。聖書によれば神は特定の期間を設けられましたが,それらの期間は人間の時間の数え方に従い幾年というふうに計算されています。(創世 15:13-16。出エジプト 12:40,41。ガラテア 3:17。民数 14:33,34; 32:13。申命 2:7。ヨシュア 5:6。使徒 13:20)エホバは,始めも終わりもなく,永遠から永遠に存在される神ですから,神ご自身の存在を時間で計ることはできません。(詩 90:2,4)ですから,人間にとっての一千年,つまり36万5,000日余りの期間も,比較的に言えば,永遠のエホバにとってはわずか24時間の一日のようです。
53 霊感を受けたペテロは,「エホバにあっては,一日は千年のようであ(る)」とも述べていますが,それは,地的な事柄,人間の営みに関しエホバにとって時間がものうくのろのろと進むという意味ではありません。それどころか,人間なら千年もかかる事柄を,神は24時間の一日で成し遂げることがおできになります。しかし,至高者は,物事の速度を速めることがおできになるのですが,時間を気にする必要が全くありません。そのうえ,至高者がある行動を取るまでに千年待とうと思われる場合,それは比較的に言って,わずか「一日」待っておられるに過ぎないのです。
54 (イ)エホバ神が遅いと考えるべきでないのはなぜですか。(ロ)わたしたちは,神の辛抱からどのように益を受けていますか。
54 したがって,使徒ペテロが第二の手紙を書いたとき以来幾世紀もたっていることを神の遅さの証拠と考えるのではなく,その期間神が驚くべき辛抱を示されたのだと考えるべきです。それは,あらゆる土地の人々が悔い改めて生きるよう天の父が願っておられることをはっきりと証明しています。ペテロが指摘したとおり,神の辛抱はクリスチャンにとって益となりました。クリスチャンもかつては信仰を持っていませんでした。したがって,至高者から是認される立場を得るために悔い改める必要があったのです。ところで,仮に神の裁きが不敬虔な世に執行されていたとしたら,そのときにまだ悔い改めていなかった人々は滅びたことでしょう。それで,エホバの辛抱によってクリスチャンの救いは可能となりました。そして,現在でもさらにほかの人々が悔い改めて生きる機会が神の辛抱によって引き続き開かれているのです。とはいえ,神の辛抱がいつまでも示されるわけではありません。主イエス・キリストは,不敬虔な者たちを処刑する業を始められるとき,盗人のように突然,「燃える火のうちに」表わし示されます。―テサロニケ第二 1:7-9。
55 わたしたちは,キリストが裁きを執行するために必ず来られることを考えて何を行なっているべきですか。そのことは,わたしたちにとって何を意味するでしょうか。
55 主イエス・キリストはいつ何時表わし示されるか分からないので,神とキリストのみ前における自分の立場を真剣に考える必要があります。立派な業の記録を作り,その結果お二人から是認されたものとみなしていただくのに時間は限られています。主の裁きの日は油断している人々を不意に襲うことを,聖書ははっきり示しています。クリスチャンの責任にむとんちゃくでいるなら,その日は盗人のように,不用意なわたしたちを突然襲いかねません。ですから,わたしたちは,個人的な願望や快楽のためにエホバと主イエス・キリストへの忠実な奉仕をおろそかにしないようにし,毎日を自分にとって最後の日であるかのように過ごすことに努めるべきです。そうすれば,将来,時間や体力や資力の用い方で後悔することは決してないでしょう。したがって,主イエス・キリストが表わし示されるとき,わたしたちが罰を受けるに値する不忠節な奴隷としてあばかれるということもありません。むしろ,その時は,わたしたちが神のおつくりになる「新しい天」もしくは「新しい地」の一部として比類のない祝福を得る期間の始まりとなります。確かにこれは守るに値する壮大な希望です。―ペテロ第二 3:13。
-
-
約束の成就を期待して生活する最善の生き方を選ぶ
-
-
11章
約束の成就を期待して生活する
1,2 (イ)変わることのない「神のことば」によれば,これからまだ何が起きますか。それに関連してどんな疑問が生じますか。(ロ)使徒ペテロは,現在の秩序に起きる事柄をどのように述べていますか。
世界の秩序全体は変化しようとしています。人間生活のあらゆる面がそれによって影響を受けることは間違いありません。その変化は必ず起きます。なぜなら,信頼できる「神のことば」は,現在の天と地が終わること,およびそれに代わって栄光に輝く新しい天と新しい地が到来することを布告しているからです。そのような進展はわたしたちにとってどんな意味があるでしょうか。エホバ神が約束された事柄は必ず成就すると期待しながら生活していることをどのように表わせるでしょうか。
2 ノアの日の世界的な洪水に言及したのち,使徒ペテロは次のように書いています。「今ある天と地は火のために蓄え置かれており,不敬虔な人びとの裁きと滅びとの日まで留め置かれているのです」。(ペテロ第二 3:7)続けて,同使徒は,「天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう」と述べています。―ペテロ第二 3:10。
3 創世記の記録を考えると,論理的に言って,地球を含む物質宇宙に関しどのような結論に達するはずですか。
3 霊感によるこれらの言葉に基づいて,太陽や月や星ばかりか,わたしたちの住む文字通りの地球も滅ぼされると結論すべきでしょうか。その答えを得るには,ご自身の業に対する神のお考えを考慮しなければなりません。創造の期間の終わりに関して,創世記の記録は「神はその造られたすべてのものをご覧になったが,見よ,それは非常に良かった」と述べています。(創世 1:31,新)最初の人間の前途には,従順である限り地上でいつまでも幸福に生活するという見込みがありました。(創世 2:16,17; 3:3)地球は人間の仮の住みかで,結局いつかは裁きの日に滅ぼされるということを暗示する箇所は創世記の記録のどこにもありません。であるとすれば,論理的に言って,地球を含め物質宇宙が永遠に存続することが神のお目的であるということになります。
4 (イ)洪水の前と後の状態に関連して,ペテロはどのような区別をしましたか。(ロ)洪水は何をもたらしましたか。
4 さらに,使徒ペテロは,(1)『昔からの天と,水の中から,そして水の中に引き締まったかたちで立っていた地』と(2)「今ある天と地」とを区別しました。(ペテロ第二 3:5,7)とはいえ,ノアの日の洪水以前の地球は,今存在している地球と同一の惑星です。確かに,洪水は地球の様相を変えました。また,地球の上方にあった水がもはやなくなったので,目に見える宇宙の様子は,観察する人間の見地からすれば変わりました。しかしながら,それらの変化は大洪水で付随的に起きたことに過ぎません。洪水の目的は,文字通りの惑星を滅ぼすことではなく,箱船の外の不敬虔な人間の社会を滅ぼすことでした。神を信じない人間の社会が築いたあらゆる業と制度は,大洪水によって滅びました。
5 世界的な大洪水との類似という点からすると,清算の日にはどんなことが起きるはずですか。
5 したがって,世界的な大洪水との類似という点からすると,現在の邪悪な人間の社会に関連するものは,火によって焼き尽くされるかのように,ことごとく滅びるに違いありません。全くのところ,ノアの日の洪水ののちに存在するようになった人間に関する物事の全構造は滅びのため,また裁きの日,清算の日のために留め置かれてきたのです。
6 古い秩序を終わらせる「火」とは文字通りのものですか。
6 ここで「火」が完全な滅びの象徴として用いられていることは,聖書の啓示の書の中で確証されています。そこでは主イエス・キリストが戦う王として描かれており,その戦闘によって,地の表に多くの死がいが散らばり,腐肉を食う鳥がその死がいを食い尽くすと述べられています。(啓示 19:15-18)仮に地球が生物のいない文字通りの灰じんに帰することになっているなら,描かれているそのような事柄は全く成就しないでしょう。
7 ペテロ第二 3章10節の言葉から,来たるべき滅びについてどんなことが分かりますか。
7 このようなわけで,現在の地と天の滅びに関するペテロの描写は,不敬虔な人間社会の全滅と関係があります。人間社会を支配する「天」のような人間製の政府は消えてなくなってしまいます。(イザヤ 34:2-5; ミカ 1:3,4と比較してください。)それらが滅び去るときの音は,圧力を受けて吹き出る蒸気の音のように「鋭い音」と描写されていますが,それは最高に大きくなることでしょう。「諸要素」,すなわち,神を侮辱するような仕方で考え,計画し,話し,行動するよう不敬虔な人類を動かす精神は溶解し,無に帰します。(使徒 9:1; エフェソス 2:1-3と比較してください。)それは,至高者から離反した人類の精神を反映する哲学,理論,制度,企てすべてが終わることを意味します。「地とその中の業とはあらわにされる」,つまり滅びに値するものであることが暴露されるのです。「地」である邪悪な人間社会の成員は一人として逃れることができません。(創世 11:1; イザヤ 66:15,16; アモス 9:1-3; ゼパニヤ 1:12-18と比較してください。)不法行為を行なう者のあらゆる業,それに関連して築かれたものばかりでなく,制度や組織も神に非とされていることが明らかにされ,価値のないくずのように片付けられます。
8 現在の体制のあらゆる部分が滅ぼされるのですから,ペテロのどんな助言を心に留めるべきですか。
8 ですから,わたしたち神の僕は,現在の不敬虔な体制がことごとく永遠に滅びるのを本当に信じていることを生活態度に表わしたいと思います。使徒ペテロが次のように述べて,わたしたちに行なうことを勧めているのは正にそのことです。
「これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなたがたは,聖なる行状と敬神の専念のうちに,エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める者となるべきではありませんか。その日のゆえに天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです」― ペテロ第二 3:11,12。
9 永遠の祝福を目ざして,来たるべき滅びに生き残るのはどんな人々だけですか。
9 現在の体制のあらゆる部分が,主イエス・キリストを通して表明される神の怒りの「火」で溶解するとき,廉潔な行状と敬神の専念の記録を持っている人々だけが逃れます。真の崇拝は,悪行を避けるというだけの消極的なものではありません。道徳的および霊的清さを保つことは絶対に必要ですが,わたしたちには,他の人の物質的および霊的必要に進んで,また熱心に答え応じることによって同胞への愛を証明する義務もあります。しかも,そうすることは大きな喜びをもたらします。なぜなら,「受けるより与えるほうが幸福である」からです。―使徒 20:35。
終わりが近づいていることを認めた行動
10 「すべての事物の終わり」が近づいていたために,ペテロはどのような勧めの言葉を述べましたか。
10 使徒ペテロの次の言葉は,「すべての事物の終わりが近づ(いている)」ゆえに行なっていなければならない事柄を詳述しています。「ですから,健全な思いをもち,祈りのために目ざめていなさい。何よりも,互いに対して熱烈な愛をいだきなさい。愛は多くの罪を覆うからです。ぐちを言うことなく互いを暖かくもてなしなさい」― ペテロ第一 4:7-9。
11 「健全な思い」を保つには何が必要ですか。
11 この勧めの言葉と調和して,道徳的な清さ,もしくは廉潔な行状を保ち,かつ,他の人々の霊的な福祉を活発に促進するためには,『健全な思いをもつ』必要があります。それには,感情に支配されて平衡の欠けた考え方をしないように気を付けなければなりません。生活の中で真に重要な事柄を識別すること,優先させるべき事柄に対して平衡の取れた認識を示すことは非常に重要です。―フィリピ 1:9,10。
12 (イ)「祈りのために目ざめて」いることはなぜ大切ですか。(ロ)ペテロは自分の経験からどのようにそのことの大切さを認識するようになりましたか。
12 いつまでも神の忠実な僕でありたいと願っているなら,自分自身の力でそれができると考えてはなりません。「祈りのために目ざめ」,エホバ神に援助を仰ぐ必要があります。使徒ペテロは,祈りに関して『目ざめている』こと,注意深くあること,機敏であることの大切さを自分の経験から学びました。ゲッセマネの園で武装した暴徒に捕らわれる直前,神のみ子イエス・キリストは,誘惑に陥らないために祈るようペテロとヤコブとヨハネを励ましました。ところが,その重大な時に使徒たちは3人とも眠ってしまいました。(マタイ 26:36-46。マルコ 14:32-42。ルカ 22:39-46)祈りに関して『目ざめている』ことに失敗して弱くなったペテロは,のちにイエス・キリストを3回否みました。(ヨハネ 18:17,18,25-27)ですが,それより前に,ペテロは自信を持ってこう言明していたのです。「主よ,わたしはあなたとともに獄にはいることも死ぬことも覚悟しているのです」。(ルカ 22:33)「ほかのみんながあなたに関してつまずいても,わたしは決してつまずきません!」―マタイ 26:33。
13 「祈りのために目ざめて」いることに失敗したときのペテロの経験から,何が学べますか。
13 ペテロに起きたことには大切な教訓が含まれています。自信過剰になることの危険を銘記させてくれます。わたしたちには限界や弱点がありますから,神の助けがあって初めて誘惑に抵抗できます。ですから,機敏な精神と,エホバ神およびイエス・キリストへの愛情の点でゆるぐことのない心とをもって祈り続けたいものです。
14 クリスチャンの責任を果たす際の動機はどのようなものであるべきですか。信仰の仲間を扱う際にそれはどのように表われますか。
14 クリスチャンの弟子として機敏であり平衡を保つことに加えて,その責任を果たすのに愛が動機となっているかどうかを考えるのはよいことです。(コリント第一 13:1-3)使徒ペテロは,仲間の信者に対して「熱烈な愛」をいだくことを勧めました。そうした熱烈な愛は,許す精神を持つことによって示されます。そのようにして熱烈な愛を表わしているなら,兄弟たちの欠点を大げさに話したり,兄弟たちの失敗に不当な注意を向けたりしません。また,他の人の過ちを悪い方に解釈して,あらさがしをしません。そのようにして許す精神が示されるので,愛は,多くの罪を他の人々の目の前にあばかないでそれらを覆います。
15 もてなしの精神はなぜ必要であると言えるでしょうか。どのような態度でもてなしをするべきですか。
15 もてなしの精神を示すことも愛の表われです。他の人々,ことに困っている人々と食物や必需品を分かち合うのは本当にすばらしいことです。(ルカ 14:12-14)仲間の信者が天災や迫害であらゆる物を失ったなら,しばらくの期間自分の家を開放することもできます。それはわたしたちにとってたいへん不都合な場合もあります。そして,資産や体力を余分に使わなければならないことに不平を言いたくなるかもしれません。そのような時,そうすることは,神から愛されている人々に愛を示す優れた方法であることを認めて,もてなしの精神をたびたび示さなければならないことに不平を言わないように気を付けるのはよいことです。
16,17 (イ)自分が持っている賜物をどのようにみなすべきですか。(ロ)パウロはどんなすばらしい態度を勧め,また,自らもそれを示しましたか。
16 わたしたちすべてには,他の人の益のために用いることのできる賜物,才能が確かにあります。いつまでも神の是認された僕でありたいならば,自分の賜物を熱心に,そして喜んで用いなければなりません。自分を他の人と比較しないようにするのは賢明なことです。自分を他の人と比較しなければ,他の人が自分よりも多くのことをする能力があるのを見てがっかりするようなことはないでしょう。また,自分が他の人よりもある面で多くのことを成し遂げられる場合でも,優越感を持たないでしょう。(ガラテア 6:3,4)使徒ペテロの次の言葉に注目してください。「おのおのが受けた賜物に応じ,さまざまなしかたで表わされる神の過分のご親切を扱うりっぱな家令として,互いに対する奉仕にそれを用いなさい」。(ペテロ第一 4:10)したがって,たとえどんな賜物を持っていようとも,わたしたちにはそれを十分に活用する責任があります。わたしたちがどんな者であれ,また何を持っていようとも,それは神の過分のご親切によるのです。ですから,わたしたちの体力,能力,才能すべてを,エホバの過分のご親切によって自分に与えられ,至高者に賛美と誉れを帰すために用いるべき賜物とみなすことができます。
17 使徒パウロは次のような質問をして正しい態度を強調しました。「だれが人を他と異ならせるのですか。実際,自分にあるもので,もらったのではないものがあるのですか。では,たしかにもらったのであれば,どうしてもらったのではないかのように誇るのですか」。(コリント第一 4:7)パウロ自身は,他の使徒たちすべてより「多く労し(た)」と言うことができたにもかかわらず,自分の手柄にせず,「といっても,わたしではなく,わたしとともにある神の過分のご親切がです」と言い添えました。―コリント第一 15:10。
18 自分の賜物をどのような仕方で用いるべきですか。
18 わたしたちは,忠実な家令として,なんであれ自分が持っている賜物を十分活用して他の人を霊的にも物質的にも助けることに心掛けたいと思います。それを行なう方法も非常に大切です。その点について,ペテロは次のように書きました。
「語る者は,神の神聖な宣言を告げるかのように語りなさい。仕える者は,神が備えてくださる力に頼る者として仕えなさい。こうして,すべてのことにおいて,イエス・キリストを通して神に栄光が帰せられるためです。栄光と偉力はかぎりなく永久に神のものです。アーメン」― ペテロ第一 4:11。
19 他の人々を霊的かつ物質的に援助する際,神をどのようにたたえることができますか。
19 ですから,他の人を霊的に援助している場合,わたしたちが語る愛情のこもった慰めの言葉の源はエホバ神であることを示すような仕方で是非とも話したいと思います。そのようにするとき,宣べ伝えて教えることが築き上げるものとなり,援助しようと努めている人々に劣等感を抱かせたり恥ずかしい思いをさせたりすることはありません。同様に自分の時間と体力を惜しみなく提供して物質的な援助をする場合でも,神の力に頼りたいと思います。そうすれば,わたしたち自身の能力をあまり強調しないようにして,神がわたしたちの能力を用いて良い事柄を行なわせておられる点を際立たせることになります。このようにして,天の父は栄光をお受けになります。(コリント第一 3:5-7)わたしたちがみ子の弟子であるゆえに,そうした栄光と誉れがみ父に帰せられるのですから,「イエス・キリストを通して」エホバ神に「栄光が帰せられる」と言えます。良い事柄を成し遂げる能力と力をわたしたちに与えてくださったのはほかならぬ至高者です。
20 なぜ,エホバの大いなる日の到来を待ち望むべきですか。したがって,わたしたちは何をしているべきですか。
20 他の人々を援助するために時間や資力や体力を用いることによって,わたしたちは霊的に用意のできた状態にあること,神の大いなる日を迎える用意ができていることを示しているのです。実際,神の復しゅうの執行者として主イエス・キリストがいつ何時来られるか分からないことを認識しているなら,霊的に目ざめていたいという気持ちになるはずです。それゆえに,エホバの大いなる日が必ず来ることを常に念頭に置いていたいと思います。その日の到来は,イエス・キリストの忠節な弟子すべてにすばらしい機会を開きますから,わたしたちは当然,期待に胸をふくらませてそれを待ち望むことができます。エホバの日は,現在の事物の体制の不義と圧迫から永遠に解放されて,「新しい天と新しい地」の祝福を楽しむことを意味します。その日を切望し,「しっかりと思いに留め」続けるのはきわめて大切です。(ペテロ第二 3:12,13)神の目的を他の人々に熱心に知らせることは,正しい態度を持っている証拠となります。また,それは,エホバの日が来るということ,そして,他の人々もその事実を知り,その重要な知識に従って行動する必要があるということに対するわたしたちの確信を示すものです。
21 (イ)「新しい天と新しい地」に関する神の約束に関連して,何を確信できますか。(ロ)それはわたしたちにどんな影響を与えるはずですか。
21 預言者イザヤを通して初めて語られた,「新しい天と新しい地」に関する神の約束は,完全な意味で成就するでしょう。(イザヤ 65:17; 66:22,新)イエス・キリストと仲間の王なる祭司たちが,神の律法に従う地上の社会に対して行なう支配は,必ず現実のものとなります。(啓示 5:9,10; 20:6)それは確実なことなので,わたしたちはその結果もたらされる祝福にあずかる人々の一人となるため行動するよう促され,最善を尽くすよう動かされるはずです。使徒ペテロはこう警告しています。「愛する者たちよ,あなたがたはこれらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力をつくして励みなさい」。(ペテロ第二 3:14)神の僕であるわたしたちの関心事は,この世的な態度や慣習や行ないによって汚点を付けられたり損なわれたりすることなく,主イエス・キリストによって是認されることです。また,罪というしみも付けたくないと思います。罪はわたしたちと神との間の平和を損なうので,罪が贖われ得る状態にとどまることによってのみ,わたしたちは神の大いなる日が来るとき「安らかな者として」見いだされることができます。
神の辛抱を感謝しなさい
22 神の約束の成就に関してもどかしく感じてはならないのはなぜですか。
22 「新しい天と新しい地」を待ち望むのは正しいことですが,約束の成就をもどかしく感じるようにはなりたくありません。エホバの大いなる日がはるか以前に来なかったことから,わたしたち自身の救いが可能になりました。使徒ペテロは次のように述べました。
「わたしたちの主のしんぼうを救いと考えなさい。それはわたしたちの愛する兄弟パウロも,自分に与えられた知恵にしたがってあなたがたに書いたとおりであり,彼はそのすべての手紙の中でしているように,これらのことについて述べているのです。しかし,彼の手紙の中には理解しにくいところもあって,教えを受けていない不安定な者たちは,聖書の残りの部分についてもしているように,これを曲解して自らの滅びを招いています」― ペテロ第二 3:15,16。
23 (イ)神の辛抱に付け込むべきでないのはなぜですか。(ロ)一世紀のある人々は,神の辛抱の理由をどのように認め損ないましたか。
23 エホバの辛抱を感謝する者としてわたしたちは,神の大いなる日はまだ遠い先のことだろうという理由で,特定の利己的な道を正当化してその辛抱に付け込まないよう注意したいと思います。エホバの辛抱に付け込む信者が西暦一世紀にいたことは明らかです。使徒ペテロはそれらの人のことを,神の言葉の明確な理解に欠け,キリスト教の教理と実践に関して安定していないため,「教えを受けていない不安定な者たち」と言いました。その人たちは,霊感を受けた使徒パウロの手紙や聖書の他の部分に書かれている事柄を用いて自分たちの間違った行ないの言い訳をしようとさえしました。そして,良心を働かせることについて,またモーセの律法を守る業でなく信仰によって義と宣せられることについてパウロが書いた事柄を指摘し,それゆえに神の意志に反するあらゆる行為が許されると述べたかもしれません。(ローマ 3:5-8; 6:1; 7:4; 8:1,2; ガラテア 3:10と比較してください。)次のような点を悪用したことが考えられます。
「キリストは,このような自由のためにわたしたちを自由にしてくださったのです。ですから,しっかり立ち,再び奴隷のくびきにつながれないようにしなさい」。(ガラテア 5:1)「わたしにとって,すべての事は許されています」。(コリント第一 6:12)「清い人たちにとってはすべてのものが清いのです」。(テトス 1:15)
しかし,その人々は,パウロが次のようにも述べたことを無視しました。
「ただこの自由を肉のための誘いとして用いることなく,むしろ愛を通して互いに奴隷として仕えなさい。律法全体は一つのことば,すなわち,『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』の中に全うされているからです」。(ガラテア 5:13,14)「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」― コリント第一 10:24。
24 会衆内においてさえ交わりに気を付けなければならないのはなぜですか。
24 一世紀の会衆におけると同様,今日でも,クリスチャンの自由の限界を広げ過ぎて罪の奴隷になってしまう人々がいます。ですから,不健全な影響を受けて迷い出ないために,交わりに気を付けるのはよいことです。使徒ペテロはそのことに注意を促して,こう書きました。「したがって,愛する者たちよ,あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから,無法な人びとの誤りによってともに連れ去られ,自分自身の確固たる態度から離れ落ちることのないように警戒していなさい」― ペテロ第二 3:17。
クリスチャンとして進歩する
25,26 ペテロ第二 1章5-7節に従って信仰を得たのちに何をしているべきですか。
25 エホバ神がわたしたちのために用意してくださっている祝福を得損なわないためには,クリスチャンとしての生活と活動の面で進歩したいという気持ちを持つべきです。(ペテロ第二 3:18)そうすることは,使徒ペテロの次の励ましと調和します。
「そうであればこそ,真剣な努力をつくして答え応じ,あなたがたの信仰に徳を,徳に知識を,知識に自制を,自制に忍耐を,忍耐に敬神の専念を,敬神の専念に兄弟の愛情を,兄弟の愛情に愛を加えなさい」― ペテロ第二 1:5-7。
26 エホバ神は,み子を用いて,わたしたちが信仰を持てるようにしてくださいました。ですから,わたしたちのためになされた事柄に答え応じて,あるいはその当然の結果として,真の信仰を持っていることを表わす他の優れた特質を培いたいと願うべきです。神の言葉と神の霊の力がわたしたちの生活に十分働くようにして,そのことをするのです。(ペテロ第二 1:1-4)天の父がわたしたちを完全なクリスチャンにするうえで行なっておられる業と協同するよう『真剣な努力をつくし』,あらん限りの力をもって精力的に努力することを,使徒ペテロは勧めました。―コリント第一 3:6,7; ヤコブ 1:2-4と比較してください。
27 信仰に徳を加えるとはどういう意味ですか。
27 信仰に徳を加えるとは,わたしたちの模範者キリストに見倣って道徳的に優れた人となるよう努力するということです。そのような徳,つまり道徳的な卓越性は,積極的な特質です。それを持っている人は,悪を行なったり仲間の人間に害を加えたりしないようにするだけでなく,他の人々の霊的,物質的,感情的必要に積極的に答え応じて,善を行なうようにも努めます。
28 知識を増し加えることはなぜ大切ですか。
28 道徳的な卓越性は知識なくしては存在しません。正邪を見分けるには知識が必要です。(ヘブライ 5:14)また,一定の状況下で善をどのように積極的に行なうかを決める場合にも知識がなくてはなりません。(フィリピ 1:9,10)知識を軽く見たり,知識に反したりさえする軽信とは異なり,しっかりとした根拠に裏付けられた信仰は知識に基づいており,常に知識から益を受けます。ですから,エホバ神とみ子に関する知識を増し加えながら,勤勉に聖書を適用するなら,信仰は強くなります。
29 (イ)自制を培ううえで,なぜ知識は欠かせませんか。(ロ)自制と忍耐にはどんな関係がありますか。
29 エホバ神とみ子に関する知識があれば,罪深い欲情に屈して節度のない放縦な行状を示さないように助けられます。また,その他の仕方で神の像を反映し損なうという罪を犯さないようにも助けられます。知識があれば,自制を示すことすなわち,己を制し,言動を抑制する能力を持つことは容易になります。自制を働かせ続けることによって,忍耐という大切な特質を持つようになります。忍耐が生み出す内面的な強さも,罪深い欲情に屈しないようにするうえで,また迫害に遭って妥協したり,日ごとの思い煩いや快楽や物質的な所有物のことに気を奪われたりしないようにするうえで,助けになります。このような忍耐は,至高者に力と導きを仰ぐことによって生じます。―フィリピ 4:12,13; ヤコブ 1:5と比較してください。
30 (イ)敬神の専念とは何ですか。それはどのように表われますか。(ロ)敬虔であることと兄弟の愛情とが切り離せない関係にあることは何から分かりますか。
30 敬神の専念,つまり敬虔であることが忍耐に加えられるべきです。そうした態度は真のクリスチャンの全生涯の特徴です。そして,それは,創造者に対する健全な敬意や誉れ,さらに,献身的に仕えるべき親や他の人々に対する深い敬意および関心という形で表わされます。(テモテ第一 5:4)しかしながら,兄弟の愛情がなければ,敬虔であるとは言えません。使徒ヨハネはこう述べました。
「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです」。(ヨハネ第一 4:20)
自分は敬虔で献身的であると自負している人でも,兄弟たちに愛情や親切を示さず,親しみ深くないなら,まだ重大な欠陥を持っていることになります。神に対して温かい感情を抱きながら,兄弟たちに対しては冷淡になるということはあり得ません。
31 だれに対して愛を示すべきですか。それはなぜですか。
31 愛は,わたしたちの生活の中で特に顕著でなければならない際立った特質です。この種の愛はクリスチャン兄弟たちだけに示されるべきではありません。わたしたちは霊的な兄弟に愛情を抱くべきですが,すべての人に愛を示さなければなりません。愛は,その人が道徳的にどんな評判を得ているかということには関係なく,示されるべきものです。敵に対してさえ示されるべきであり,特に,敵対する人々を霊的に助けたいという願いとなって表われなければなりません。―マタイ 5:43-48。
32 ペテロ第二 1章5-7節の助言を適用するなら,どんな結果になりますか。
32 徳,知識,自制,忍耐,敬神の専念,兄弟の愛情,愛が信仰に加えられると,どんな結果になりますか。使徒ペテロは次のように答えています。「これらのものがあなたがたのうちに在って満ちあふれるなら,それはあなたがたが,わたしたちの主イエス・キリストについての正確な知識に関して無活動になったり,実を結ばなくなったりするのを阻んでくれるのです」。(ペテロ第二 1:8)ですから,静止したり,無活動になったり,霊的に死んだりすることはありません。敬虔な特質が心に宿り,それが本当にわたしたちの一部になっているなら,神に是認されるような仕方で考え,話し,行動するように動かされるでしょう。(ルカ 6:43-45と比較してください。)このことがわたしたちについて真実であるなら,主イエス・キリストが地上の物事を完全に支配するために来られることは,現在では想像もできないほどのすばらしい祝福の始まりとなるのです。
33-35 イエス・キリストの弟子として生活することから,どのように益を得ますか。
33 ですから,行状において,あるいは,神の音信を他の人々に知らせるという重要な業を含むクリスチャンの義務を果たすうえで,決して不注意にならないようにしたいものです。もしわたしたちがイエス・キリストの弟子としての生き方を選んだのであれば,清い良心を持つことに加え,信仰の仲間との健全な交わりを楽しむことができます。また,試練の時に神が援助を差し伸べて強めてくださることを経験できます。さらに,聖書の原則を良心的に適用するにつれて,自分と他の人々との関係は改善されていきます。
34 神の言葉に従おうと努めるなら,家庭,職場,あらゆる関係の政府当局者との交渉など,生活のあらゆる面で良い影響が及ぶはずです。また,そのように努力するなら,聖書の慰めとなる音信をできるだけ多くの人に心を込めて伝えることの大切さに一層気付くようになります。そして,わたしたちは同胞の必要,特にその霊的な必要に答え応じることに大きな幸福を感じ,本当に何事かを成し遂げたという自覚を得ます。
35 何よりも大切なことですが,イエス・キリストの真の弟子として生活することは,将来永遠にわたって幸福に暮らせることが約束されている唯一の道です。わたしたちはすでに得ているものを決して失いたくはありません。どうか,わたしたちの主が完全に勝利を収めた王としていつ来てもよいように用意のできた状態で一日一日を送れますように。そのようにしてのみ,エホバ神に忠実に仕えるという誓約を守り抜くことを選んで得られる限りない喜びにあずかれるのです。
-