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  • ペテロは神の真理と原則を擁護する
    ものみの塔 1977 | 1月1日
    • ペテロは神の真理と原則を擁護する

      使徒ペテロは,その第一の手紙と同様,第二の手紙の中にも,『兄弟たちを強める』多くの事柄を書きました。(ルカ 22:32)しかし今度は,迫害を耐え忍ぶように励ますのではなく,むしろ神のみ言葉と原則を大胆に擁護することにより,兄弟たちを強めています。

      文体や主題となっている事柄に大きな相違が見られることから,キリスト教世界の聖書学者たちは,この第二の手紙を書いたのはペテロではないと論じます。もしそうであれば,この手紙は偽作ということになります。ペテロ第二 1章1節は,はっきりとこう述べているからです。「イエス・キリストの奴隷また使徒であるシモン・ペテロから……信仰を得ている人びとへ」。筆者はまた,変ぼうの場面の目撃証人であること(ペテロはそれを目撃した三人の使徒の一人だった),イエスがご自分の死を予告しておられたこと,そしてこれが自分の二度目の手紙であることなどを書いています。―ペテロ第二 1:16-21; 3:1。マタイ 17:1,2。ヨハネ 21:18,19。a

      ペテロ第二の手紙の主題や力強さは,第一の手紙の場合と同じではありません。しかしペテロは,冒頭の部分で「神の性質にあずかる者となるよう」召された人々に,彼らの前にある輝かしい希望を思い起こさせています。(ペテロ第二 1:3,4)次いでペテロは,クリスチャンたちに,『信仰に徳,知識,自制,忍耐,敬神の専念,兄弟の愛情,愛を加える』ようにと述べ,神の原則を擁護しています。クリスチャンが培うことのできる何と多くの事柄をペテロはここで述べているのでしょう。最善を尽くしてこれらのことを行なうなら,倒れることなく,神の王国へ入ることになります。もっとも,クリスチャンたちはこうした事柄を知ってはいましたが,ペテロは常にそうした事柄を思い起こさせたいと考えていたのです。ペテロは,イエスについて宣べ伝えた際に,「巧みに考え出された作り話」をしていた訳ではないと述べ,神の真理を擁護しています。ペテロは,神ご自身がイエスについて「これはわたしの子,わたしの愛する者,わたし自らこの者を是認した」と天から話された,変ぼうの場面を目撃していたからです。ペテロはまた,聖書の預言が人間から出たものではなく,「人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったもの」であることを強調しています。この事に関して疑問の余地はありません。クリスチャンの信仰は,作り話や想像上の事柄にではなく,事実,つまり真理に基づいて築き上げられているのです。そうであるからこそ,『わたしたちが,暗い所に輝くともしびのように,霊感による預言に注意を向けるのはよいことです』― ペテロ第二 1:16-21。

      二章でペテロは,背教者たちに対して語調を強め,神の真理,および義にかなった原則を擁護しています。そうした者たちは,まことらしい言葉を用いて仲間のクリスチャンを利用しようとします。彼らは当然の報いとして,ノアの洪水前の邪悪な世やソドムとゴモラの都市に臨んだと同じ種類の滅びを被ることになります。しかし,敬神の専念を抱く人々は,ノアとその家族と同じように保護されます。そうした偽教師たちはバラムの欲得ずくの道に従います。彼らは肉の欲望とふしだらな習慣によって他の者たちにより大きな自由を約束しながら,実際のところ自らは腐敗の奴隷となっているのです。ひとたび真理を知って後,それから離れるなら,義の道を知らなかった場合よりもさらに悪い状態にあることになります。―ペテロ第二 2:1-22。

      最後の章でペテロはさらに,昔から物事は全く同じ状態を保っているではないかという,あざける者たちの主張の偽りを暴露することにより,神の真理を擁護しています。しかし,その主張は正しくありません。そうした者たちはノアの日の洪水を見過ごしているのです。それで終わりの日に,エホバの日は突然,夜の盗人のように臨み,その時神は邪悪な者たちを処罰されます。確かに,その日の来るのが遅く思えるかもしれません。しかし,結局,神にとって千年は一日のようです。実際のところ,エホバはすべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,辛抱しておられるのです。―ペテロ第二 3:1-10。

      ペテロは,神の辛抱が救いを意味していることを,クリスチャンたちに思い起こさせています。使徒パウロもまた,この真理を自分の手紙の中に記しています。ある人々は,聖書の残りの部分についてもしているように,パウロのそれらの手紙を曲解していますが,ペテロはここでパウロの手紙が霊感によるものであると述べ,それを擁護しています。また,神のみ言葉は非常に信頼できるものであり,現在の邪悪な体制は溶解するのですから,わたしたちは献身した者としてどのように生活すべきでしょうか。聖なる行状と,敬神の専念のゆえに知られているべきではありませんか。そうです,わたしたちは神により「汚点もきずもない,安らかな者として」見いだされるよう力をつくして励まねばなりません。―ペテロ第二 3:11-16。

      このように神の真理,および義にかなった原則とを擁護することにより,ペテロは確かに,真理と原則に対するわたしたちの信仰,およびそれに従って生活しようとする決意を強めてくれています。真理と原則に従って生活することにより,わたしたちは確信を抱いて『義の宿る新しい天と新しい地』を待ち望むことができます。―ペテロ第二 3:13。

      [脚注]

      a この点についてさらに詳しくは,「目ざめよ!」誌,1975年5月22日号,29,30ページをご覧ください。

  • ユダは邪悪な者が入り込むことについて警告する
    ものみの塔 1977 | 1月1日
    • ユダは邪悪な者が入り込むことについて警告する

      「悪をにくめ」。「邪悪なことは憎悪し(なさい)」。神のみ言葉はなぜこうした警告をわたしたちに与えているのでしょうか。悪い事柄や邪悪な事柄は,大抵,快楽やこの世での報いを約束してくれますが,エホバの義の規準に従うことからわたしたちを引き離す場合があるからです。―詩 97:10。ローマ 12:9。

      聖書歴史のどの時代を見ても,神の忠実な代弁者たちは,悪い事柄,邪悪な事柄に対する強い憎しみを言い表わしました。その優れた例の一つは,聖書の中でも短いユダ書に見られます。

      ユダとはだれのことですか。ユダは自らをヤコブの兄弟であるとしています。このヤコブは,イエスの異父兄弟であった,著名なヤコブ(使徒たちの活動の後半に登場する)であるとしか考えられません。確かにユダは自分がイエスの異父兄弟であるとは述べていませんが,それはヤコブの場合と同じです。ユダがそうしなかったのは,ヤコブと同じ理由,すなわち慎み深さのためであったと思われます。またユダは,自分の異父兄弟イエスが今や天で霊者となっているゆえに,肉的な関係を主張することはふさわしくないと思ったのかもしれません。

      ユダの手紙は,神によって召され,神との愛された関係にあるクリスチャンたちにあてて書かれています。ユダはこの手紙を,エルサレムで,西暦70年に同市が滅びる前に書いたものと思われます。その滅びが起きたことに全く触れていないからです。さらに,彼はペテロの第二の手紙から引用しているようなので,ユダは西暦65年ごろにこの手紙を書いたものと思われます。

      ユダは,ある邪悪な者たちがクリスチャン会衆に入り込んだために,激しい憤りを示し,「不敬虔な者たちが,わたしたちの神の過分のご親切を不品行の口実に変え……イエス・キリストに不実な者となっている」と述べています。(ユダ 4)それからユダは,警告となる例を引用しています。それは,信仰の欠如のゆえに荒野で滅ぼされたイスラエル人たち,人間の女性と共に住むため人間の形を取ったがゆえに,『神が裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密なやみのもとに留め置いておら

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