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正しい宗教を見いだせますかものみの塔 1982 | 6月1日
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さて,ほとんどの宗教は口ではそのような愛があると言います。しかし,ある宗教の会員の間に商売の上での欺き,不道徳,あるいは利己主義などが広く見られるなら,その人たちは本当に互いに愛を示しているでしょうか。また,革命や戦争で互いに殺し合うのをいとわないとすれば,その愛はどれほど純粋ですか。同様に,別のしるしとして,「その信条はすべて聖書に基づいている」というのがあります。言うまでもなく,キリスト教世界の大抵の宗教の会員は自分たちの属する宗教団体についてそう言えると考えています。しかし,会員すべてが自分たちの聖書をわざわざ開いて,自分たちの信じている事柄が確かに聖書に基づいているかどうか調べる宗教をご存じですか。
それを探すのに問題があるように思われるなら,エホバの証人は喜んでお力になります。
確かに,真の宗教を探し求めることには努力を払うだけの価値があります。人間は本能的に,自分が現在享受しているよりも良い生活を必要としていると感じるものです。真の宗教はそうした生活へとわたしたちを向かわせます。「わたしたちはどうしてここにいるのだろうか」とか「人生の目的とは何か」といった疑問が起きるのは当然のことです。わたしたちは真の宗教により,すべての命の源であられるエホバ神と接することができるようになり,神はわたしたちのこうした質問に答えてくださいます。さらに,わたしたちすべては日ごとに直面する様々な問題を解決するのに導きがどうしても必要になることがあります。真の宗教はそうした導きを与えてくれます。
確かに,真の宗教は存在するのです。そしてそれを見いだすことは可能なのです。そうすることは,とこしえの益をもたらします。聖書は次のように約束しているからです。「エホバを求める者たちは,良いものに少しも不足しない」― 詩篇 34:10,新。
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「重い荷」を軽くしてくださったかたものみの塔 1982 | 6月1日
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「重い荷」を軽くしてくださったかた
イエスは書士やパリサイ人に関してこう言われました。「[これらの者は]重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません」。(マタイ 23:4)これが確かにその通りであったことの証拠として,ジェームズ・ヘイスティングズ編の「聖書辞典」の中に次のように書かれています。
「書士たちは哲学者ではなく,聖なる律法の解釈者であった。……生活のあらゆる分野がそれによって規制されていた。……聖書の律法おのおのの周りには細かい規則が網の目のように巡らされていた。状況の変化のゆえに情状が酌量されることはなかった。ユダヤ人すべてには律法をその詳細な点すべてに至るまで完全に守ることが容赦なく求められた。成文化された律法の条項に加えて,“ハラカー”つまり伝承法の戒律が付け足された。それらは聖なる義務として代々伝えられ,最終的にはタルムードに組み込まれた。……人を抑え付けるような厳しい規則によって人間の行動全体を規制するあわれみのない論理をもって,考え得るあらゆる事例を律法のわく内に収めようとする試みはこうして行なわれた。法的な細かい規則が増えてゆき,宗教が商売にまでなり,生活は耐え難い重荷になっていった。人は道徳的な機械人間になりさがってしまった。良心の声は押し殺され,神の言葉の生きた力は骨抜きにされ,延々と続く規則の塊の下に埋もれてしまった。ゆえに,わたしたちの主はパリサイ人がその伝統によって律法を無効にしていると非難されたのである」。
神のみ子が崇拝に関してパリサイ人のような見方を持っておられないことを知って,謙遜で,誠実な人々は大いに励まされたに違いありません。そうした人々はイエスの次の言葉を聴いて本当に喜んだことでしょう。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなたがたをさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負ってわたしの弟子になりなさい。わたしは柔和で,心のへりくだった者だからであり,あなたがたは自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきはここちよく,わたしの荷は軽いのです」― マタイ 11:28-30。
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