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パプア・ニューギニアとソロモン諸島1979 エホバの証人の年鑑
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英国およびニュージーランドの兄弟姉妹たちがここに来て奉仕しました。それらの兄弟たちが監督というおもな責任を担わねばならなかったのです。しかしながら,現在,会衆と孤立した群れが128あり,226人の長老と218人の奉仕のしもべがいますが,そのうちの大半は原住民の兄弟たちです。実際,原住民の兄弟が少なからず巡回監督に任命されています。
振り返ってみると,ソロモン諸島およびパプア・ニューギニアの本島やマヌス島,ニューブリテン島,ニューアイルランド島,北ソロモン諸島における王国の業を豊かに祝福してくださったことに対してエホバに感謝せずにはいられません。1951年にたった二人しかいなかった伝道者が,1977奉仕年度には2,096人という王国宣明者の最高数に達したのです。それら王国宣明者たちの努力とエホバの祝福により,同年の記念式には7,491人が集まりました。
なすべき業はまだたくさんあります。(コリント第一 15:58)ほんの6年前の1971年に,この地域の人口のほぼ9割の人は証言を聞いたことがありませんでした。その後事情は大いに改善され,恐らく150万人余りの人が良いたよりの伝道を相当程度受けていますが,なすべきことはまだたくさんあります。人口285万408人の46%に当たる130万人ほどの人に良いたよりを伝道する必要があるのです。したがって,「エホバ自ら王となられた」というたよりに『喜ぶ』よう,ここの多くの島の住民を援助する業に引き続きいそしんでゆきたいと思います。―詩 97:1。
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フィリピン諸島1979 エホバの証人の年鑑
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フィリピン諸島
中国大陸の南方,太平洋上1,854㌔にわたって真珠のように並んでいるのは,フィリピン共和国をなす7,083の島々です。フィリピン諸島の多数の島は日本ほど大きくありませんが,大英国ほど小さくもありません。群島の海岸線をつないだ長さは,アメリカ合衆国の海岸線の優に2倍はあります。30を超す良港のうち最も際立っているのはマニラ湾で,その海岸線は160㌔に及びます。マニラ湾が,アジアで有数の自然の良港であるとする人は少なくありません。
フィリピン諸島は赤道のすぐ北にあるので,気候は熱帯性ですが,海から心地よい風が吹くため,年平均気温は摂氏26度から29度です。高温多湿の気候に加えて雨量が多いので,熱帯性の植物が生い茂り,完全な不毛地帯はありません。どの島も岩の多い山地です。この群島は実は沈下した山脈の海面に出ている部分なのです。人口の大半は沿岸の平野部や,肥よくな山間に住んでいます。フィリピン諸島は太平洋を囲む火山帯に含まれているので,活火山が幾つかあります。そのうちで最も畏怖の念を起こさせるのはマヨン山で,人によってこの山は世界で一番美しい円錐状火山であるとされています。
この国は地理的に三つの主な部分,すなわち,ルソン島,ビサヤ諸島,ミンダナオ島に分けられます。北に位置するルソン島は最も大きく,その南東部は“しっぽ”のように細長くなっています。次に大きいのは南のミンダナオ島で,その二つの島にはさまれているのがビサヤ諸島です。
フィリピン諸島をなすこれらの美しい島々に4,200万人のフィリピン人が住んでいます。フィリピン人は主としてマレー人の血を引いており,親しみ深く,外向的また社交的で,ユーモアを解する人々です。そして,考えられるほとんどどんな事柄についても話したり意見を交換したりするのが好きです。生に対する彼らの関心は,音楽と踊りの好きなことに表われています。家族は非常に固く結ばれていますが,フィリピン人は見知らぬ人をも快く受け入れる人たちで,近所の人や訪問者をいつでも迎え入れます。都市部の外の農村地帯の生活は今でものんびりしています。人々のこうした性格は,フィリピン諸島で神の真理の音信が急速に広まったこととあながち無関係ではありません。
回教徒のマレー人がフィリピンへ移って来たので,西暦16世紀までにこの国の多くの地方で回教が優勢になっていました。ところが,スペインが占領し,カトリックが導入されて非常に広まったため,現在人口の83%はローマ・カトリックの信徒であると唱えています。アメリカ合衆国の援助の下に起きた1898年のフィリピンの革命で立ち退くまで,スペインは300年余りここを支配しました。後にフィリピン人は政府を作りましたが,アメリカはそれを承認しませんでした。1898年12月10日にパリで調印されたスペインとの平和協定により,フィリピンはアメリカに譲渡されたのです。こうしてこの国は一つの植民地支配者から別の植民地支配者の手に移りました。
アメリカの支配によって,英語が話されるようになり,また,宗教に関して比較的自由な気風が持ち込まれました。こうした事柄は,20世紀の初頭に聖書の真理の種を植え育てる業に大きな影響を及ぼさないはずはありませんでした。フィリピンではそれまで87の言語や方言が使われていましたが,それらに加えて,英語が教育と商業の分野で用いられるようになり,それは今日まで続いています。したがって,今のフィリピン人が英語の外に一つかそれ以上の言葉を話すのは普通のことであり,それによって様々な人種間の意思の疎通がなされているのです。
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