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これがフィリピンです目ざめよ! 1973 | 11月8日
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ました。彼らは,つやつやした茶色の肌と,光沢のある黒髪を持っていました。スペイン人のほとんどは去りましたが,島の初期の住民の子孫は今もいます。旅行者のパスポートを調べ,申告する品物があるかどうかを尋ね,それからタクシー,バス,またはジープニーで自分のホテルへ案内するのは彼らです。
フィリピン人はいくつかの人種グループから成っています。ルソン島の北部の山の中に住んでいるのはイゴロト族,つまり「原住民」です。彼らの多くはいまだに彼ら自身の異教の神々を崇拝しており,西洋風の衣服を着ない人もいます。
フィリピンを訪れる人の多くは,けわしい山道を何百㌔も旅をして,このイゴロト族の偉大な業績を見に行きます。バナウエと呼ばれる高地では,イゴロト族の一部族イフガオ族が,1,500年ほどの期間にわたり,山々の斜面全体に,幾列ものひな段式水田を作っています。それは今日でも使われています。それらの水田をつなぐと,地球の円周の半分に等しい長さになると言われています。イフガオ族は簡単な道具を使って,しんぼう強くそれらの水田を作っていったのです。確かにそれは,昔の他の国々の民が成し遂げたどんな偉大なわざとも比較しうる,すばらしい技術上の業績と言えます。
ほかにも知るべきフィリピン人がたくさんいます。ルソン島南部の美しい地域には,心の暖かい,人をよくもてなすビコラノ族がおり,さらに南へ行くと,魅力的で社交性に富むセブアノ族がいます。機敏で進歩的なタガログ族,しんぼう強くて忍耐力のあるイロカノ族もいます。北部ルソンに住むイロカノ族はよく旅行をするグループですから,あなたはすでにこの部族のだれかに会っているかもしれません。
部族的グループの数が非常に多い証拠として,フィリピン諸島には80以上の言語と方言があります。もしあなたがフィリピンに行ったなら,いろいろな人に話しかけてごらんなさい。そして,どこの出身か,どんな習慣やくせをもっているかを尋ねてごらんなさい。
意思の伝達は可能
「ええっ? そんなにたくさんのことばがあるのに? いったいどうやって話すのですか」とあなたは言うかもしれません。
確かに多くの言語や方言が使われてはいますが,英語も一般に使われています。それはアメリカが一時支配したことがあるためです。ですから,いったんアクセントになれれば,意思の伝達はさして問題にはなりません。
実際のところ,多くの言語の存在は,語学にたけた国民をつくるのに役立ちました。旅行をするフィリピン人ならだれでも,その地域のことばを習う覚悟が必要です。人びとはたいてい,3つから4つのことばをりゅうちょうに話します。
エホバの証人のある宣教者は,ずっと南方のサンボアンガ市で行なわれる聖書集会に出席した時のことを話してくれました。出席者たちが勉強していた本は英語で書かれており,研究司会者はほとんどの場合英語で話していました。やがてある人が注解を述べようとして手をあげました。そしてその口からはヒリガイノン語の注解が飛び出しました。別の人はセブアノ語で注解を述べました。また別の人はタガログ語で話し,さらに別の人はチャバカノ語で意見を述べました。みんなはそれがわかり,ちがうことばが使われていることを意識していた人はいなかったようでした。
何を予期すべきか
もしあなたが初めてフィリピンにおいでになるのでしたら,2,3のことをお話ししておかねばならないでしょう。たとえば,もしあなたが英語を話す白人であるとすれば,あなたは「アメリカノ」なのです。「あなたは英国人であるかもしれず,オランダ人,あるいはドイツ人であるかもしれませんが,この国にいる間は,「アメリカノ」と考えられるのです。
もうひとつお話ししておきたいのは,フィリピン人はとりわけもてなすことが好きだ,ということです。そしてここでは,もてなしは食べることと密接な関係があるのです。あなたはきっと,カリカリとか,ラプラプなどの土地料理をすすめられるでしょう。軽食には,いつも人気のあるパンシットやビビンカなどがあります。冷くておいしい飲み物はハロハロです。ここでは中国料理も人気があり,世界で最もおいしい料理のうちにはいると言われています。望めば,アメリカ風,あるいはスペイン風に料理してくれることも少なくありません。
マニラのある場所では外国人を見なれていますから,歩いていても人びとは気に止めません。しかし,キュバオ周辺やパシグという古い町の市場のような,ちょっと辺ぴな場所に行くと,土地の人びとがあなたの興味を引くのと同じほど,あなたは土地の人びとの大きな興味の対象になります。西洋人は確かに,背がとてつもなく高いとか,皮膚の色が薄いとかで,少しばかり目立つ傾向があります。ですから小さな店で品物を見ている時に,振り向いて見たらフィリピン人があなたのそばに立って,あなたとせいくらべをしており,友だちがそれをおもしろそうに見ていた,というようなことがあっても,驚いてはいけません。
あるいは,大ぜいの子どもたちがあなたのまわりに群がり,驚きの目をみはって,じっとあなたを見つめることもあるでしょう。大胆な子どもたちは,アメリカの兵隊がみな「ジョー」だった25年前の状態を反映して,「ハイ,ジョー」とか,「ビクトリー・ジョー」などと,あなたに向かって叫ぶかもしれません。当時アメリカ軍は,日本の占領軍を打ち敗ったばかりだったので,マニラ市内でたいへん人気があったのです。
おぼえておかねばならないのは,だれもがただ親しくふるまっているだけだ,ということです。ある国では感じられるかもしれない,外国人に対する反感などはほとんどないといっていいでしょう。子どもたちはあなたの腕をたたくことさえやり出すかもしれません。それはあなたのひふの柔らかいひげの感触が好きだからです。人はこれ以上の親しみを表わすことができるでしょうか。もしその精神を理解するならば,フィリピンの特色であるうちとけた態度,くつろいだ気分,友好的な態度が楽しめるでしょう。
もしフィリピンに来ることがあるならば,「お定まりの観光ルート」をたどることをやめ,フィリピン特有のジープニーやバスで旅行してみてください。批判的な気持ちを持たずに,むしろ,ここではこういうふうなのだという考えでフィリピン人の生活様式を見てください。もちろん彼らは変わっています。しかし,もしあなたが彼らをあるがままの状態で進んで受けいれるならば,あなたが,陽光ゆたかなフィリピンで暖かい歓迎を受けることは確実です。
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注目すべき記念碑目ざめよ! 1973 | 11月8日
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注目すべき記念碑
● フィリピンを訪れる人はたいてい,マニラでいちばん有名なルネタ公園にあるホセ・リサール記念碑を見ます。しかし,訪問者の多くは,フィリピンの国家的英雄リサールの死の背景を知ることなく,その記念碑のそばを通り過ぎます。リサールは現在記念碑の建っている場所で1896年に銃殺されました。その処刑は当時権力を振っていたドミニコ会修道士たちの煽動により,彼らの面前で行なわれました。修道士たちは,フィリピンにいるスペイン人司祭の暴虐ぶりを暴露したリサールの著作に憤激したのです。その著作のひとつは,“ノリ・メ・タンヘレ”(邦題,“我に触るるなかれ”)と題する小説で,別の小説は,“エル・フィリブステリスモ”(邦題,“植民地独立運動”)という題のものでした。フィリピン議会は僧職者の強い反対を押して,スペイン統治下での人びとの生活や僧職者の尊大な態度を描いたこのふたつの小説をすべての大学で読むことを義務づけました。
マニラを訪れる人びとは多くの場合,この国における300年以上にわたるスペインの支配に終わりをもたらしたフィリピン革命の英雄のひとり,アンドレス・ボニファシオの記念碑も広場で見物します。その記念碑の基底部周囲の青銅板には,スペイン総督統治下の僧職者支配のもとでフィリピン人が受けた苦しみの記録が刻まれています。革命が勃発した時,修道士たち,特にドミニコ会士たちは難をのがれることができず,多くはその貪欲と流血行為に対する代償としてみずからの命を失いました。
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