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  • 永遠の命をのぞみ見て奉仕する
    ものみの塔 1967 | 2月1日
    • ていたアブラハムを召し,知らない土地に行って奉仕することを命ぜられました。これは彼の信仰の大きな試練となりました。生活の仕方を完全に変え,それ以後は遊牧者として家畜を追って暮らさねばならなかったからです。では,アブラハムはなぜこれに従いましたか。それは彼が信仰と先見の人であったからです。「彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」とパウロは述べています。(ヘブル 11:10)アブラハムははるか前途に神の国を見,それを迎えたのです。彼はエホバの約束が自分の生涯中に成就しないことを知っていました。しかし,それによって約束に対する彼の信仰が動揺することはありませんでした。175年の地上の生涯を閉じるまで,彼はエホバへの忠実を守りました。それは彼が永遠の命をのぞみ見て奉仕していたからです。

      21 アブラハムやモーセのどんな正しい見方をわたしたちの手本とすべきですか。

      21 パロの王宮で育てられ,そこで教育を受けたモーセも,ただ神の「羊」の牧者として仕えることのために,高い地位と栄光と富とを自らすすんで捨てました。彼にこれをさせたものは何ですか。ヘブル人への手紙 11章26節はこう述べています。「それは,彼が報いを望み見ていたからである」。そうです,彼は神の新秩序に対する望みを決して失いませんでした。アブラハムとモーセはエホバの召しに答えました。それはふたりが,どこであっても,またどんな仕事であっても,エホバに奉仕することを望んでいたからです。何をし,どこに行くかということはふたりにとって大きな問題ではありませんでした。彼らはただ,エホバに仕えてそのみこころを行ない,やがて永遠の命の祝福を受けることを願っていました。

      22 自らすすんで奉仕することは永遠の命をいつものぞみ見るためにどう役だちますか。

      22 このすぐれた心の態度はいつの時代においても神の真のしもべすべてに共通なものです。私たちは物事をすすんで行なうこの精神を常に培い,エホバに仕える機会を絶えず求め,奉仕のいっそうの特権に備えて自らを訓練することにいつも努めるべきです。パウロはテモテに述べました。「もし人が監督の職を望むなら,それは良い仕事を願うことである」。(テモテ第一 3:1)私たちはこのような特権をどのように望むことができますか。勉強,奉仕,また経験をとおして円熟性を高めること,みたまの実を培うこと,エホバの組織をとおして来る召しのすべてにすすんで答えることなどによって,聖書的な資質を増し加えるべきです。そうした特権がさしのべられる時,重荷としてではなく,忠実な奉仕に対する豊かな報いとしてそれを受け入れるべきです。

      23 エホバを第一にする人は今日どのように祝福されていますか。

      23 永遠の命の望みに加えてエホバ神は,神の奉仕にすすんで応じる者に対して,今この時代においてもすばらしい報いを備えておられます。この点に関するペテロの問いに答えてイエスは言われました。「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために,また福音のために,家,兄弟,姉妹,母,父,子,もしくは畑を捨てた者は,必ずその百倍を受ける。すなわち,今この時代では家,兄弟,姉妹,母,子および畑を迫害と共に受け,また,きたるべき世では永遠の生命を受ける」。(マルコ 10:29,30)今日,幾千人もの忠実な開拓者またほかの人々は,イエスのことばの真実さを実証しています。心からの愛をもって働いたこの人々は,エホバの幼い小羊を見いだして養いました。今その羊たちの家はそうした開拓者たちに開放され,開拓者は家族の一員のごとくに迎えられています。確かにこの人々には何百もの家,母,兄弟があり,しかもその前途には永遠の命があるのです。

      24 聖書のことばは永遠の命をのぞみ見ながら奉仕をつづけるのにどんな励みとなりますか。

      24 エホバの組織に6カ月いる者にも,あるいは(ある人のごとく)60年いる者にもひとしく求められるのは奉仕を続け,忍耐することです。時おり,迫害,病気,家族の反対,あるいは自分が伝道しようとする人々の単なる冷淡ささえもが,あなたの忍耐力を大きく試みることがあるでしょう。ヤコブのことばを忘れてはなりません。「試練を耐え忍ぶ人は,さいわいである。それを忍びとおしたなら,神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。(ヤコブ 1:12)パウロも,忍耐してエホバへの奉仕を続けることをすすめています。「わたしたちは,善を行うことに,うみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる」。(ガラテヤ 6:9)エホバの約束をいつもはっきりと心に描き,何事があっても命の道から目をそらさないなら,わたしたちはエホバの望まれるかぎりいつまでも,永遠の命をのぞみ見ながら奉仕をつづけることができるでしょう。そして,そのことにはすばらしい報いがあるではありませんか。「あなたがたは耐え忍ぶことによって,自分の魂をかち取るであろう」― ルカ 21:19。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1967 | 2月1日
    • 読者からの質問

      ● 「他の羊」(ヨハネ 10:16)と「大ぜいの群衆」(黙示 7:9)という表現はいつでも同じに使うことができますか。

      聖書から見てそれは正しくありません。黙示録 7章9節の「大ぜいの群衆」のすべては「他の羊」です。しかしヨハネによる福音書 10章16節の「他の羊」の全部が「大ぜいの群衆」に属するのではありません。この二つの用語の意味は全く同じではありません。

      神の是認を受けている人はすべて聖書的に見て「羊」です。またイエス・キリストは,「私は羊のために命を捨てる」と言われました。(ヨハネ 10:15)天の生命によみがえらされる希望を持つ14万4000人の「小さい群れ」があり,他方,神の約束しておられる新しい秩序の下に地上で生命を得る希望を持つ羊のような人々がおおぜいいます。(ルカ 12:32。黙示 14:1-4。詩 37:11,29)地的な希望と前途を持つすべての人は,ヨハネによる福音書 10章16節で,天的生命を与えられる「羊」と区別するために「他の羊」と呼ばれています。アブラハム,ダビデ,ダニエルのような古代忠信者も,地に住む「他の羊」のひとりです。(ヘブル 11:8-19,32-35。ダニエル 12:13)キリストの千年統治の間に復活する他の多くの人も神に対して従順を示し,彼らもまた「良い羊飼い」の「他の羊」であることを示すでしょう。この用語はまた,現存する事物の制度の滅びを生き残る,心の正しい人の「大ぜいの群衆」に適用されます。そしてキリストの千年統治の間に生まれる彼等の正義の子孫にもあてはまります。

      ですから,「他の羊」は意味のない広い用語です。しかし「大ぜいの群衆」は「他の羊」級のごく一部にすぎません。黙示録 7章9節は次のように述べています。「この後,わたしが見ていると,見よ,あらゆる国民,部族,民族,国語のうちから,数えきれないほどの大ぜいの群衆が,白い衣を身にまとい,しゅろの枝を手に持って,御座と小羊との前に立ち……『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって,その衣を小羊の血で洗い,それを白くしたのである』」。14万4000人の霊的イスラエルと区別される「大ぜいの群衆」は,「終りの日」をしるしづける「大きな患難」を通ってきた人々であるという事実に注目しなければなりません。(マタイ 24:20,21)黙示録 7章9節の「大ぜいの群衆」は「終りの時」に初めて現われたのです。

      ゆえに「他の羊」という用語は地的希望を持つ心の正しい人々のすべてを含み,したがって「大ぜいの群衆」もその中にはいります。しかし「大ぜいの群衆」は,地的な希望を持つ,羊のような人々の中でも現在の終わりの時代にのぞんでいる「大きな患難」の時期に,エホバ神の地上の組織と交ってきた人々のことであり,またそのような人々だけに限られています。

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