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  • その「樹」は倒れて世界を震撼させる
    ものみの塔 1977 | 8月15日
    • その「樹」は倒れて世界を震撼させる

      『我かれを陰府[シェオール,新]に投げくだして墓[穴,新]に下る者と共ならしむる時に国々をしてその堕る響きに震動しめたり またエデンのもろもろの樹レバノンの勝れたるいとうるわしき者すべて水にうるおう者みな下の国において慰めを得たり』― エゼキエル 31:16。

      1 ある樹を切り倒すとき悲しみの情をおぼえることがあるのはなぜですか。

      わたしたち人間は一本の樹木にも愛情を抱くことができます。ある詩人は一本の樹にすぎないものに対してそういう感傷的な気持ちに駆られて,おのを携えていた男に抗議し,「木こりよ,あの樹を切らないでくれ! 一本の枝にだって触れないでくれ! 若い時あの樹はその陰でわたしを覆ってくれた。今はわたしがあの樹を守るのだ」と言いました。生長しきった堂々とした姿の樹木は,それを眺める者の多くに感嘆の念を抱かせます。樹木の美しさに魂を呼び覚まされた詩人は思わず,「わたしは詩を樹木ほどに美しいと見ることはないと思う。……詩はわたしのような愚か者が作るものだが,樹木は神にしか作れない」と言いました。そうした神のみ手の業に心から愛着を感じているので,特定の樹を切り倒すとなると悲しい気持ちになるのです。

      2 樹木崇拝に関連してどんな質問を自分に尋ねてみるのは良いことですか。

      2 世界のどこに行っても,樹木崇拝は珍しくありません。宗教的祝日を祝う人々の主張,つまり毎年12月25日の祝日には,はなやかに飾り明るい照明を施した常緑樹がどうしてもなければならない,という主張には,そういう樹木崇拝じみたところがあります。幾千年もの間存在していて,人類の世界全体の耳目を捕えまた嘆賞の的となってきた一本の「樹」があります。その樹に対する人類の態度と行動は,彼らがこの世界的に顕著な「樹」の崇拝者であることを示しています。しかし人は冷たい懐疑心や強い好奇心に動かされて,その「樹」というのは一体何か,自分はそれを崇拝しているか,という質問を発するかもしれません。

      3 なぜ人類は,この「樹」が倒れることはないと考えていますか。

      3 それは樹齢4,200年以上の古い「樹」です。したがって2,500年余の昔にもその樹を描写しその樹について話すことができました。そのころの文書にわたしたちはこの樹に関する優れた叙述を見つけることができます。この樹は非常に長い間身を堅固に守り,地に深く根を下ろしてきたので,人類はどんなことがあってもその樹が倒れることなどないと考えています。以下はその樹に関する叙述です。

      4,5 エゼキエル 31章3-9節によると,何がこの「樹」を比類のないうるわしいものにしていますか。

      4 『レバノンの香柏……その枝うるわしくして生い茂り その丈高くしてその頂雲に至る 水これを大いならしめ大水これを高からしむ その[大水の]川々その植われる所を環り その[大水の]流れを野のすべての樹に及ぼせり これによりてその丈野のすべての樹よりも高くなる。

      5 『その生長にあたりて多くの水のために枝葉茂りその枝長く伸びたり その枝葉に空のもろもろの鳥巣をくいその枝の下に野のもろもろの獣子を生み その陰にもろもろの国民住まう これはその大いなるとその枝の長きとによりてうるわしかりき その根多くの水の傍にありたればなり 神の園の香柏これをおおうことあたわず 樅もその枝葉に及ばず 槻もその枝にしかず 神の園の樹の中そのうるわしきことこれにしくものあらざりき 我これが枝を多くしてこれをうるわしくなせり エデンの樹の神の園にあるもの皆これをうらやめり』― エゼキエル 31:3-9。

      6 レバノンの香柏を植えたことを人間は自分の手柄にすることはできません。なぜですか。

      6 レバノン共和国のことは近年よくニュース種になって全世界に報道されていますが,レバノン山脈の香柏は幾千年の昔から有名です。(士師 9:15を参照)丈の高い,枝を広く広げるそれらの香柏はどの人間が植えたのでもありません。世界的大洪水があってから二世紀目に,バベルの塔のところで人間の言葉が乱され,塔建設者たちはユーフラテス河畔の古代バビロンから八方に散らされましたが,香柏はそれ以前からすでにその場所にありました。それらの香柏を植えた誉れはエホバのものです。ですから詩篇 80篇10節ではそれらの香柏は「神の香柏」と言われており,詩篇 104篇16節では『エホバの……植えたまえるレバノンの香柏』と呼ばれています。

      7 神はその香柏の樹の生えている場所についてどのように述べておられますか。これはパラダイスが地に回復されていたことを意味しますか。

      7 これらの香柏が樅の木やけやきの木と共にエデンの中また「神の園」の中にあったと言われているのは,西暦前2370年のノアの日の洪水後エデンの園が回復されていたという意味ではありません。この特定の香柏があった場所は非常に気持ちのよい所,非常にエデン的で,人間の最初の住みかによく似ていたために,「神の園」のようであったということです。「園」に相当するヘブライ語(ガン)の基本的な意味は,「囲いがしてある,または囲まれた場所」です。わたしたちは最初の「エデンの園」が「園の東」に道を有していたことを思い出します。不従順なアダムとエバは追い出されてその道を通り,神はそこにケルブを配置して『生命の樹の道をまもり』ました。―創世 3:24。

      8 エゼキエル 28章11-14節には,レバノンの海港ティルスの王がどこにいたと記されていますか。なぜですか。

      8 エゼキエルが預言した時代に,香柏で有名なレバノンの地は極めて美しい場所だったので,エゼキエルはティルス(レバノンの海港)の王に対し霊感の下に次のように言いました。『なんじ神の園エデンにありき……なんじは油そそがれしケルブにしておおうことをなせり 我なんじをかくなせしなり なんじ神の聖山にあり』。(エゼキエル 28:11-14)ですから,西暦前七世紀に,この特に『うるわしい』レバノンの香柏がエデンの中に,「神の園」の中にあると言われたのは極めて適切でした。それで香柏は非常に有利な,多くの優れた可能性を有する場所にあったわけです。

      西暦1977年におけるその意義

      9 『うるわしい』レバノンの香柏の陰に何が住むかが述べられていますが,それによると香柏はどんなものを表わしていますか。

      9 現代に住むわたしたちは,2,500年以上も昔の事柄にはそれほど関心はないものの,現代の事柄,わたしたちと関係がありわたしたちに影響を及ぼす事柄には特に関心があります。それでこの『うるわしい』樹,この「レバノンの香柏」は,現代に登場した何物かを表わすのでしょうか。どのようにしてわたしたちはそれを正しく見定めるつもりでしょうか。まずその預言には,その長く伸びた枝の上にもろもろの鳥が宿り,枝の下では野の獣が子を生むだけでなく,『その陰にもろもろの国民住まう』とあります。また,『われ[エホバ]……国々をしてその堕る響きに震動しめたり』とあります。(エゼキエル 31:6,16)この言葉には政治的含みがあります。この直立する「レバノンの香柏」が政治に関係した何かを表わすことを示唆しています。それは確かです。

      10 その政治的重要性にふさわしく,「レバノンの香柏」に関する預言はだれに対してなされていますか。

      10 エゼキエルの預言の古代における適用さえ,「レバノンの香柏」が何か政治的なものを表わすことを明示しています。当時は,だれに対してこの預言が述べられたのでしょうか。エゼキエルはこう告げています。『十一年[西暦前607年]の三月[春の月シワン]の一日[ペンテコステの祭りの五日前]にエホバの言葉我に臨みて言う 人の子よエジプトの王〔ファラオ〕とその群衆に言え なんじはその大いなること誰に似たるや アッスリヤはレバノンの香柏のごとし その枝うるわしくて生い茂り その丈高くしてその頂雲に至る』― エゼキエル 31:1-3,〔新〕。

      11 ファラオとその群衆を「アッスリヤ」に例えることによって何が示されましたか。

      11 これです。「エジプトの王〔ファラオ〕とその群衆」はレバノン山上にある一段と丈の高い,そして枝の長い香柏に例えられています。彼らはまた「アッスリヤ」にも似ていると言われていますが,預言の大部分は「レバノンの香柏」に対して与えられており,「アッスリヤ」よりもその香柏のほうがどうなるかを示しています。香柏を「アッスリヤ」になぞらえたことは,強大な軍事力と政治力を想像させます。エゼキエルの預言以前の25年間,アッスリヤ帝国は時の世界強国で,その前の聖書預言の世界強国であったエジプト帝国を圧倒し,エジプトの領土の一部を占領することさえしていました。しかし預言者エゼキエルの時代に,新しい世界強国,すなわち第三世界強国のバビロニア帝国に対抗していたのは主としてエジプトでした。したがって,ファラオとその群衆を「アッスリヤ」に例えたことは,当時でもエジプトはバビロンにとって依然一目おかねばならない政治的要素であったことを物語っています。

      12 エゼキエルの時代においてさえエジプトはどのように依然としてかの丈の高い,影を投げかける「レバノンの香柏」のようでしたか。

      12 エゼキエルの時代においてさえ,エルサレムのユダヤ政府は版図を広げるバビロン帝国に当たるためエジプトに軍事援助を要請しています。(エゼキエル 17:7-17)エジプトが依然として国際的影響力を有していたことは確かです。(エレミヤ 37:5-7)それでエジプト王ファラオとその群衆は依然として,30メートルを上回る高さにまで生長するレバノンの多くの香柏をさらに上回る,高い政治的,軍事的構造物のような存在でした。下枝を非常に長く伸ばして,一番高い香柏もうずくまっているかに見せるレバノンのある香柏のように,当時のエジプトはバビロンにさえ挑戦し,ナイルの国に身を寄せて軍事援助という広く広げられた枝の下に来て保護を得ようとする国々に陰を提供していました。エホバ神が聖なる怒りを現わす道具として当時用いておられた国バビロンに服従するよりもエジプトと同盟を結ぶほうを好んでいた国々にとって,エジプトは依然として『枝のうるわしい』ものに見えました。

      13,14 今日,「レバノンの香柏」は現代のエジプトを表わしていますか。それとも何を表わしていますか。どんな聖書的根拠がありますか。

      13 こうしたことは2,500年昔にはすべて興味深く,人を興奮させるものだったでしょう。しかし今日はどうでしょうか。確かに「レバノンの香柏」に関する預言は,回教の支配下にあるアラブ共和国のエジプトが今占めている現代のエジプトには適合しません。わたしたちは同預言を今日そのようには適用できないことを認めます。霊感による聖書がそのように適用していないのでなおのことです。では今日のこの堂々とした『うるわしい』レバノンの香柏は何なのでしょうか。エジプト王ファラオとその群衆は20世紀の現在は何に,あるいはだれに似ているのでしょうか。まもなく倒れて世界を震撼させるその象徴的な「レバノンの香柏」は今日では何なのでしょうか。

      14 滅びに定められているその「樹」は,今日一般には認められていないあるものを象徴しています。それは何でしょうか。霊的エジプトです。聖書の巻末の啓示を開いてみますと,11章8節の中で,霊感を受けた使徒ヨハネは次のように書いています。「そして,彼らの遺体は,霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる大いなる都市の大通りに置かれるであろう。彼らの主もそこで杭につけられたのである」。「彼らの主」と呼ばれているのは主イエス・キリストのことで,遺体を大通りに置かれると言われているのは忠実な追随者たち,つまりキリストの弟子たちのことです。啓示 11章3節の中では主イエス・キリストのそれらの弟子は,「わたしのふたりの証人」と呼ばれており,暗い,人に好まれない音信を諸国民に宣べ伝えるために殺されます。

      15 啓示 11章8節の中の「エジプト」という語を実際のエジプトの国に当てはめるにはどんな難点がありますか。

      15 その現代の「証人」たちはどの「大いなる都市」で殺され,その遺体は放置されて衆目にさらされ辱められたのでしょうか。現代のエジプトの首都においてではありません。それらの証人の「主」イエス・キリストが一世紀のエジプトで杭につけられたのでないことは確実です。なぜなら啓示 11章8節には,主の「証人」たちは西暦33年に主が杭につけられたのと同じ場所で殺され遺棄されたとあるからです。その「大いなる都市」が象徴的なものであることと,それが「霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる」ことに注目するなら理解は容易になります。当時存在しなかった実際のソドムの都市や,当時ローマ帝国に従属していた実際のエジプトの国はこれによって除外されます。では霊的な意味で,主イエス・キリストはどこで杭につけられ,その真の弟子たちは殺され遺棄されたのでしょうか。

      16,17 それで主イエス・キリストが杭につけられたのはどの象徴的な「大いなる都市」でしたか。

      16 一つの「都市」は政治的組織です。ですから「大いなる都市」は大いなる政治的組織,大いなる政治体制ということになります。古代のソドムはかつては政治的組織でした。また古代エジプトは強大な政治体制を持つ国で,それがために幾世紀もの間聖書預言の第一世界強国の地位を占めていました。したがって,「霊的な意味で」エジプトと呼ばれているものは,世界的政治支配体制,人間制の政府によって人間が支配する政治機構であるにちがいありません。主イエス・キリストは,西暦33年に,そのような「大いなる都市」のただ中で,エルサレムの町の外で,「杭につけられ」ました。人類の世はこの事物の体制の肝心かなめの部分です。ですからイエス・キリストが杭につけられたのは,この事物の体制を支持するこの世においてです。したがってイエスは弟子たちに次のように言われました。

      17 「わたしが世にいる間,わたしは世の光なのです」。(ヨハネ 9:5)「もし世があなたがたを憎むなら,あなたがたを憎むより前にわたしを憎んだのだ,ということをあなたがたは知るのです。あなたがたが世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなたがたは世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなたがたを憎むのです」― ヨハネ 15:18,19。

      18 イエスが犠牲の子羊として特定の日に死なれたことは,霊的エジプトで杭につけられたという考えとどのように調和しますか。

      18 イエス・キリストは子供のときエジプトから連れ出されたことがありましたが,その実際のエジプトではなく,「霊的な意味で」エジプトと呼ばれているところで,「世の罪を取り去る,神の子羊」として犠牲にされました。(マタイ 2:13-21。ヨハネ 1:29,36)西暦33年の過ぎ越しの日に主イエス・キリストが神の子羊として犠牲にされたのは単なる偶然ではありませんでした。なぜなら,古代エジプトにおける西暦前1513年の過ぎ越しの日にイスラエル人が犠牲にした子羊は,イエスを予表するものであったからです。過ぎ越しの子羊を犠牲にせず,したがってその血を自分の家の戸口に振りかけなかったエジプト人は,人と獣の初子を失いました。そのためにファラオは,自由な,解放された民として出て行くようイスラエル人を奴隷の身分から解放するに至りました。

      19 イスラエルが古代エジプトから救出されたことと調和して,キリストの弟子たちは何から救出されていますか。

      19 エホバの選ばれた民の古代のその解放において,エジプトの国は何を表わしていたでしょうか。またファラオとその群衆は何を表わしていたでしょうか。災いに見舞われたエジプトの国はこの世の事物の体制を,そしてファラオとその群衆はその体制の支配的要素を表わしていました。この「霊的エジプト」において「わたしたちの過ぎ越しであるキリストはすでに犠牲にされたのです。ですから……[キリストの弟子は]祭りを行なおうではありませんか」。(コリント第一 5:7,8)この真理と完全に調和して,子羊イエス・キリストの忠実な弟子たちが救い出されたエジプトというのは,この世の事物の体制です。そうであるからこそキリストの弟子たちはガラテア 1章3,4節で,「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストからの過分のご親切と平和があなたがたにありますように。キリストは,現在の邪悪な事物の体制からわたしたちを救い出すため,わたしたちの罪のためにご自身を与えてくださいました」と言われているのです。

      20 では「レバノンの香柏」は今日何を表わしていますか。それはいつ始まりましたか。

      20 このことから当然どんな結論が出ますか。預言者エゼキエルの日に「エジプトの王ファラオとその群衆」を表わしていた「レバノンの香柏」は,今日はさらに大きなあるものを表わしているということです。それは政治的支配要素が地の諸国民すべてを治める世界的事物の体制を表わしています。エデンのようなレバノンの地の他の樹々にうらやましがられた香柏に例えられてはいるものの,この事物の体制は,当時「神の園」のようであった実際のレバノンの地にそれらの常緑樹を植えたエホバ神がお植えになったのではありません。植樹者の記録である聖書が示すかぎりでは,その象徴的な政治的「レバノンの香柏」は,強力な猟人であったニムロデの時代にその初まりを見ました。ニムロデというのはノアの日の大洪水から二世紀目に住んでいた人物で,最初のバビロニア帝国の建設者です。ノアの曾孫ニムロデがノアの神エホバの宇宙主権に反逆したように,象徴的な「レバノンの香柏」も至高の神の主権を認めないばかりかそれに挑戦します。―創世 10:8-12。歴代上 1:8-10。

      21 世の諸国民は「レバノンの香柏」に対してどんな受けのよい行動を取ってきましたか。

      21 「レバノンの香柏」は,自分の意のままになる大水のような人的資源を利用してエホバ神の上に自らを高め,いわばその頂を雲の中に突き込みました。大枝を増やしその枝を広げて,神の「足台」である地球全体を支配しました。(イザヤ 66:1,新。マタイ 5:35)そのがんじょうな機構の陰に,すべての人間製の政府,『もろもろの国民』までが今に至るまで住んでいます。(エゼキエル 31:4-6)時がたつうちに,エホバ神が約束の地パレスチナにお植えになったイスラエルの民までが,それら世の諸国民の行く道にいざなわれ,大きな害を受けました。しかしこの人気のある道を歩むことにおいても例外はありました。その例外とは何でしょうか。わたしたちはそれに属して永遠の益を得ることを望むでしょうか。それとも『もろもろの国民』の歩む道を模倣しようとするでしょうか。わたしたちは今正しい選択をするための助けを必要としています。

  • その『うるわしい』樹の下から出なさい!
    ものみの塔 1977 | 8月15日
    • その『うるわしい』樹の下から出なさい!

      1 樹のような諸国民はどんな点で「レバノンの香柏」をうらやみましたか。

      エゼキエルの預言の31章の中でエホバが描写しておられる「レバノンの香柏」のように,この事物の体制の人間製の政治機構はほかの何よりもうるわしく見えます。エゼキエル 31章8,9節の中でエホバが述べておられる通りです。『神の園の樹のうちそのうるわしきことこれにしくものあらざりき 我これ[例えとして用いられている実際の香柏]が枝を多くしてこれをうるわしくなせり エデンの樹の神の園にあるもの皆これをうらやめり』。この世界的な政治体制は多くの枝を出し,陰を与える葉を茂らせて,この世のもろもろの国民の政治的必要を満たしまた保護してきました。樹のような各国民も世界強国となってすべての国を支配することが願いだったので,それはうらやむに値する組織でした。

      2 人類の世は,「レバノンの香柏」を何物にも勝ってうるわしいと考えていることをどのように示しましたか。

      2 エホバ神から独立して自治を行なう能力が人間にあることを信じている人々は皆その象徴的な「レバノンの香柏」を嘆賞し,美の極致と考えます。心ある人なら,国家主義と国家主権に対する熱情が世界中に見られることに注目するだけで,そのことを理解します。この熱情に伴って生ずるのは,世界支配を目ざす,大きな国家ブロック間の激しい権力闘争です。国家崇拝が世界的な規模で生じています。それは地の住民すべてに要求されています。象徴的な「レバノンの香柏」に対するこの種のねたましげな嘆賞は,聖書巻末の本である啓示の13章3,4,15節の中で予告されている崇拝的な嘆賞に類似しています。そこには次のように記されています。

      3 啓示 13章3,4,15節には,国家崇拝がどのように表わされていますか。

      3 「全地は感服してその野獣に従った。そして彼らは,野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し,また,『だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか』と言って野獣を崇拝した。またそれには,野獣の像に息を与えることが許された。それによって野獣の像はものを言うようになり,また,野獣の像をどうしても崇拝しない者たちを殺させるようにするのである」。

      4 唯一の生ける真の神の崇拝者たちがそのような崇拝に参加できないのはなぜですか。

      4 きたらんとする事柄に関するこの預言的描写からわたしたちは,その強制的崇拝がいかに広範囲に及び,世界的なものになるか,またいかに極端になり,人類がエホバ神ではなくて地上の被造物とその偶像のような「像」とを崇拝するようになるかが予告されていたことを知ります。それで現在はそれはどうでしょうか。生ける唯一真の神,専心の献身を求める創造者の崇拝者たちは,そのような被造物崇拝に参加してよいでしょうか。いいえ,よくありません。(出エジプト 20:1-6)アメリカ標準訳聖書の言葉によると,この創造者はご自分のことをこう言われました。「わたしはエホバである。これがわたしの名である。わたしはわたしの栄光をほかのものに与えず,わたしの誉れを,刻んだ像に与えない」― イザヤ 42:8。

      5 神のその言葉に関連して,わたしたちが今日従うことのできる安全な模範を残したのはだれですか。なぜですか。

      5 2,700年以上昔に言われた言葉ではあっても,わたしたちは,国家主義的な考えの強い今日の世界でその言葉を個人的に真剣に受け取るでしょうか。この点で,わたしたちが見倣える何にもまして安全な模範を残した人がいます。それはイエス・キリストです。象徴的な龍である悪魔サタンが,悪魔を崇拝する行為を一度行なうならそれと引き換えに世界を支配させよう,と申し出たとき,イエスは「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,彼だけに神聖な奉仕をささげなければならない」とお答えになりました。―マタイ 4:8-10。

      6 神は「レバノンの香柏」をどのようにご覧になりますか。したがってわたしたちはどんな二者択一を迫られていますか。

      6 イエスがサタンの申し出を拒絶されたことは,象徴的な「レバノンの香柏」がイエスの目には『うるわしく』見えなかったことを物語っています。この事物の体制のその人間製の政治機構はキリストの真の弟子たちにとっても,今日に至るまで,魅せられるほどに『うるわしい』,崇敬すべきものには見えません。なるほどエホバ神は象徴的な「レバノンの香柏」の『うるわしさ』を世の人々の見地から描写しておられますが,ご自分にとっては,「レバノンの香柏」が象徴するもの(エジプトの王ファラオとその群衆)は『うるわしく』見えません。それは邪悪なものです。そのためにエホバ神はこう言われています。『その悪のために我これを打ち棄てたり』。(エゼキエル 31:11)今日わたしたちはその象徴的な「香柏」をエホバ神がご覧になるのと同じように見ているでしょうか。そしてエホバの言葉がまもなく最終的に間違いなく成就することを信じているでしょうか。この事柄に関するわたしたちの確信次第で,諸国民と共に歩み象徴的な「香柏」の下に住むか,それともその下からすぐに出るかの問題が決まるでしょう。

      その「樹」が倒れることは確実

      7,8 エホバが「レバノンの香柏」に関し何を決意しておられるゆえに,わたしたちの行動が緊急に必要となっていますか。

      7 この問題に関して正しい決意をすることは本当に急を要する事柄です。象徴的な「香柏」(ファラオとその群衆の今日における対型)がすさまじい音をたてて倒れることは確実です。この世界的重要性を持つ事件が起こることは,神がお定めになったのです。エゼキエルを通して与えられた預言は,象徴的な「香柏」のうらやまれる『うるわしさ』を描写したあと,次のように続きます。

      8 『このゆえに主エホバかく言う 汝その丈高くなれり これはその頂雲に至り その心高く誇れば 我これを万国の君たる者の手にわたさん 彼これを処置せん その悪のため我これを打ち棄てたり 他国人 国々の暴き者これを切り倒して棄つ その枝葉は山々に谷々におち その枝は砕けて地のすべての谷川にあり 地の万民その陰を離れ[(山を)下り,新]てこれを遺つ その倒れたる上に[倒れた幹の上に,新]空のもろもろの鳥とどまり その枝の上に野のもろもろの獣おる これ水のほとりの樹その高さのために誇ることなく その頂を雲に至らしむことなからんため また水にうるおう者の高らかに自ら立つことなからんためなり それこれらは皆死にわたされて下の国に入り ほかの人々のうちにあり 墓[穴,新]に下る者どもと偕なるべし」― エゼキエル 31:10-14。

      9 エホバは「レバノンの香柏」を切り倒す者をどのように選定されますか。香柏の下に宿る諸国民はその者たちのことを言われて影響を受けますか。

      9 高い山腹の空にそびえる「レバノンの香柏」は一組の木こりたちによって切り倒されることになっていました。その陰に住む『もろもろの国民』は,『そんなことは不可能だ』と考えるかもしれませんが,エホバ神はご自分の言葉が遂行されるように計らわれます。この象徴的な「樹」に敵対してエホバ神は『万国の君』と呼んでおられるものを送られます。この混成の「君」は,象徴的な「香柏」の下に住んでいない,異邦の民すなわち「他国人 国々の暴き者」で構成されるでしょう。「香柏」の下に住む『もろもろの国民』は,この多国家で成る恐怖を起こさせる者たちを防いで自分たちを庇護している機構を切り倒させないようすることはできないでしょう。それらの伐採者たちは『万国の君』,『国々の暴き者』と言われていますから,彼らのことを聞くだけで,その丈の高い,枝を長く伸ばした「香柏」の下に住む者たちは,心に恐怖を抱くはずです。

      10 エホバが刑執行用斧としてお用いになった『万国の君』はだれでしたか。その「香柏」がどんな脅威を与えることはついにやみましたか。

      10 偽ることのない全能の神は,古代のかの象徴的な香柏の上にご自分の預言を成就させられました。「エジプトの王〔ファラオ〕とその群衆」に敵して,新たに台頭した世界強国のバビロニア帝国を差し向けられたのです。この『万国の君』はファラオとその群衆の友などではなく,彼らにとっては『他国人』である者で成り立っていました。それら敵対する者たちは「香柏」のエジプトに対し,『国々の暴き者』のように行動しました。彼らは圧制によって世界を従えることをもくろんでいました。それでエホバは彼らを,ご自分の刑執行用斧としてお用いになりました。エジプトの王ファラオとその軍隊の群衆は,ゼデキヤ王の要請により,包囲されたエルサレムを助けようとして来ましたが,荒々しいバビロニア人に打ち負かされて退きました。それで西暦前607年,ファラオとその軍隊はエルサレムとその聖なる神殿の破滅を目撃することになりました。16年ほどあとになって,エホバはネブカデネザル王に,ご自分の用いる刑執行者としての彼の功労に対する報酬としてエジプトの地をお与えになりました。(エゼキエル 29:17-20)そのときには,ファラオの強い腕は確かに折られて直すことが不可能となり,再び世界支配の脅威を与えることはありませんでした。―エゼキエル 30:20-26。

      11,12 恐れを抱かせるどんな国家ブロックが脳裏に浮びますか。しかしそれはなぜ神に用いられる現在の『万国の君』ではないのですか。

      11 しかし,それは2,500年以上も昔の歴史です。今日わたしたちの関心を捕えるのは,現代の『万国の君』はだれか,『他国人 国々の暴き者』はだれか,ということです。それは人々に恐れを抱かせる共産圏諸国ではないのですか。

      12 これに対してわたしたちはきっぱり,否,と答えます。というのは,共産主義諸国も,自由な民主主義諸国と同じように,象徴的な「レバノンの香柏」の広がった枝の下に住んでいるからです。共産主義諸国もこの世の一部であって,この事物の体制の人間製の政治機構に従って運営されています。そして国家主義的で国家を崇拝し,自らの政治イデオロギーと方法をもって世界を支配することに心を向けています。したがって,それらの国が古代エジプトの王ファラオとその群衆の現代の対型である象徴的な「レバノンの香柏」を切り倒すことは期待できません。それらの国は自ら滅ぼすようなことはしないでしょう。ダニエル 11章40節から12章1節(口)が示すところによると,それらの国は,「国が始まってから,その時にいたるまで,かつてなかったほどの悩みの時」に,他のすべての国と共に捕えられます。

      13 なぜエホバのクリスチャン証人たちは,万国の「君」もしくは「暴き者」が行なうような業を成し遂げるために神がお用いになる者ではないのですか。

      13 では,依然地を支配している象徴的な「レバノンの香柏」を切り倒すのに,だれがエホバの道具となって,預言者エゼキエルの時代の『万国の君』,または『他国人 国々の暴き者』がしたような業をするのでしょうか。それは今日,世界の210の国に散在する,わずか200万余りのエホバのクリスチャン証人ではありません。彼らは暴君のようでもなければ荒々しくもなく,人々の心に恐れを抱かせることもありません。そうであるがために彼らは,助けのない,無防備の少数派宗教者として公然と迫害されているのです。エホバがお用いになるのは地に属する微弱な道具ではなく,天に属する強大な道具です。

      14,15 ではエホバは,マタイ 24章29-31節の中でイエスが示しておられるように,だれをお用いになりますか。

      14 エホバのお用いになる道具は,栄光を受けられたイエス・キリストとその天のみ使いたちの軍隊です。抜け目のない今日の政治家たちはそういう考えを笑うかもしれません。しかし,古代アッスリアのセナケリブ王も,エホバのみ使いがセナケリブの精鋭部隊18万5,000人を一晩のうちに皆殺しにするという考えを,同じように笑おうと思えば笑えたでしょう。(列王下 19:35,36)ですからイエス・キリストは「事物の体制の終結」に関する預言の中で次のように言われました。

      15 「天の諸勢力は揺り動かされるでしょう。その時,人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わ…すでしょう」― マタイ 24:29-31。

      16 神は「香柏」とその下に宿る者すべてをだれの手に渡されましたか。それと共に滅びないためには,わたしたちは何をしなければなりませんか。

      16 エホバは「事物の体制」全体を,その下に逃れたこの世の諸国民すべてと共に「主の主,王の王」であるみ子イエス・キリストの手にお渡しになります。イエス・キリストは,天のみ使いたちと共に,うるわしく見える「レバノンの香柏」を切り倒します。(啓示 11:15; 17:14; 19:11-16)ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で得た勝利を記念するものとして,その象徴的な「レバノンの香柏」,「エジプトの王〔ファラオ〕とその群衆」の現代の対型,『倒れた幹』は地面に横たわるでしょう。(啓示 16:13-16)それらは,死んで『下の国』に,埋葬の『穴に』下る者たちのようになります。(エゼキエル 31:14)それで問題は,この「事物の体制」の真ん中に住んでいるわたしたちは,彼らと共にそこに下りたいかということです。もしそうなることを望まないなら,確かにわたしたちは滅びに定められているその「樹」の下の宿り場また避難所から出なければなりません。その樹が倒れることがわたしたちの滅びを意味することにならないようにしなければなりません。

      「樹」が倒れる時の嘆き

      17,18 エゼキエル 31章15-17節によるとまもなく世界的な悲しみが訪れますが,それはなぜですか。

      17 まもなく世界的な悲しみの日がやってきます。それは多数の観光客に嘆賞されてきたうるわしい「レバノンの香柏」よりもさらに重要なものの滅亡に対する悲しみです。それは世界的な事物の体制とその運営者たち,現代の「エジプトの王〔ファラオ〕とその群衆」の滅亡に対するものです。このことについてはわたしたちには何のあいまいな点もありません。神の預言はさらに次のように続いているからです。

      18 『主エホバかく言いたまう 彼が下の国に下れる日に我哀哭あらしめ これがために大水[底知れぬ深み,七十人訳]を蓋いその川々をせきとめたれば大水とどまれり 我レバノンをして彼のために嘆かしめ野のもろもろの樹をして彼のためにやせ衰えしむ 我かれをして陰府[シェオール,新]に投げくだして墓[穴,新]に下る者と共ならしむる時に国々をしてその堕る響きに震動しめたり またエデンのもろもろの樹 レバノンの勝れたるいとうるわしきもの すべて水にうるおうもの[樹々]皆下の国において慰めを得たり 彼らも彼とともに陰府[シェオール,新]に下り 剣に刺されたる者のところにいたる これすなわちその助者となりてその陰に座し 万国民のうちにおりしものなり』― エゼキエル 31:15-17。

      19 イエスは,ご自分が来る「しるし」を見て地のすべての部族はどうすると言われましたか。彼らはどんな事実に衝撃を受けますか。

      19 エホバ神のこの言葉の精神を考えるなら,主イエス・キリストが,邪悪な者たちに神の復しゅうを行なうエホバの器としてのご自分の到来を示す「しるし」が天に現われるとき,地のすべての部族が悲嘆のあまり身を打ちたたくであろうと言われたのは正しいことでした。(マタイ 24:30)エホバのクリスチャン証人たちによる世界的な伝道よりも雄弁に語る多くの徴候により,地のすべての部族は,この事物の体制が近いうちに滅びる定めにあることを認めるでしょう。体制を維持するためのあらゆる努力も,その崩壊を防ぎえないことを,彼らはついに納得するでしょう。そしてその破滅が天地の創造者の手からくるものであることに気づいて大きな衝撃を受けるでしょう。堂々たるかまえのいとも『うるわしい』ものと自分たちが嘆賞してきたものが,迫り来る破滅に直面しているのを嘆くでしょう。それを失うときが迫っているので彼らは苦悩します。

      20 象徴的な「香柏」はどうして多くの『水にうるおう者』でしたか。

      20 諸部族,すなわち諸国の民は,象徴的な「レバノンの香柏」にとって「大水」もしくは底知れぬ深みのような存在でした。その水はこの世界的な事物の体制の根に送られてきました。この事物の体制の根は,同体制の繁栄維持に人々が提供しうるものに大いに依存しています。その点でこの象徴的な「レバノンの香柏」は多くの『水にうるおう者』でした。それは大いなるバビロン,すなわち偽りの宗教の世界帝国に似ています。大いなるバビロンは,「多くの水の上に座る」と言われています。実際の水ではありません。「あなた[クリスチャンの使徒ヨハネ]の見た水,娼婦が座っているところは,もろもろの民と群衆と国民と国語を表わしている」とあります。(啓示 17:1,15)今日,諸国民,すなわち世界人口は40億以上に増加しています。ですから象徴的な「レバノンの香柏」は莫大な量の「大水」を有していて,支持をそれに頼っています。

      21 どのようにしてエホバは象徴的な川々をせきとめ,大水をとどめて象徴的な「香柏」に流れて行かないようにされますか。

      21 地球最大の人口も,香柏のような「事物の体制」を数の力だけで維持できるでしょうか。いわゆる「プロレタリア」支配,大衆側の支配によってそれができるでしょうか。天地のすべてのものに及ぶ主権をお持ちになるエホバは,否,と言われます。わたしが『川々をせきとめる』ので「大水」は『とどまる』と,エホバは述べておられます。(エゼキエル 31:15)どのようにしてそうなるのでしょうか。一般大衆の反対にもかかわらず,エホバがその象徴的な「レバノンの香柏」を切り倒させるのです。

      22 倒れた樹の幹にとってその下の「大水」は何の役に立ちますか。

      22 しかし,樹が切り倒されたなら,『倒れた幹』にとってはその下に「大水」のあることが何の役に立つでしょうか。その川々はせきとめられ,根系から切断されて横たわる樹の幹には流れて行きません。大水は,倒れた巨木の方に行かないようにとどめられます。民の意志ではなくてエホバの意志が支配的になります。ローマのことわざ,ボックス ポプリ,ボックス デイ(民の声は神の声)は真実ではありません。

      23 エホバがその「香柏」を切り倒すことはなぜ事物の体制に組み込まれている小さい機構すべてを仰天させますか。

      23 エホバの手段によって切り倒されるがゆえに生ずるこの「現在の邪悪な事物の体制」の崩壊は,全世界を仰天させるでしょう。なぜなら,すべての国民,民族,部族,国語がそれに巻き込まれるからです。それも不思議ではありません。全体制が,神の下される致命的一撃のもとに倒壊するとき,世界的体制の中に組み込まれていた小さい機構が存続すること,持ちこたえることなど,どうして期待できるでしょうか。(ガラテヤ 1:4)最も大きく,最もうるわしい樹が立ち続け全地を支配し続けることを許されないのであれば,他の樹々はどうして香柏のような体制の保護なしに持ちこたえることを期待できるでしょうか。彼らは『やせ衰え』,気を失い,心臓まひを起こします。彼らに予期される事柄を,エホバの言葉はよく表わしています。『野のもろもろの樹をして彼のためにやせ衰えしむ』― エゼキエル 31:15。

      24 「レバノンの香柏」が倒れるときに国々が震えることは,彼らに関して何を意味しますか。

      24 「レバノンの香柏」が「エジプトの王〔ファラオ〕とその群衆」を表わすことを考えておられたエホバは,次のように言葉を続けられます。『我かれを陰府[シェオール,新]に投げくだして墓[穴,新]に下る者と共ならしむる時に国々をしてその堕る響きに震動しめたり』。(エゼキエル 31:16)いわば,その象徴的な「レバノンの香柏」があまりにも大きな音をたてて倒れるので,地は震動し,その衝撃波が国々に伝わるということです。「現在の邪悪な事物の体制」の主権のほうを好んだ国々が震えるということは,彼らも倒れること,彼らが倒れ荒廃して除かれることを意味します。こうして領土所有権の主張は一掃され,国家主権は姿を消します。(ヘブライ 12:26,27。ハガイ 2:6,7)このような方法で,気取った「レバノンの香柏」はやむなく捨てられます。―エゼキエル 31:12。

      25 国々がその「レバノンの香柏」をこのようにして捨てることはいつ生じますか。

      25 このことはいつ起きるのでしょうか。それは戦争の時です。といってもそれは武装化された,互いに張り合う国家ブロック間の核兵器による第三次世界大戦ではなく,ハルマゲドンの戦場で行なわれる「全能者なる神の大いなる日の戦争」の時です。戦争は『剣』で象徴されています。象徴的な「レバノンの香柏」は,剣によって滅びた国々や世界強国と墓を共にさせられます。エホバの次の言葉がそのことにわたしたちの注意を促します。『またエデンのもろもろの樹 レバノンの勝れたるいとうるわしきもの すべて水にうるおうもの[樹々]皆下の国において慰めを得たり 彼らも彼[象徴的な香柏]とともに陰府[シェオール,新]に下り 剣に刺されたる者のところにいたる これすなわちその助手[胤,新]となりてその陰に座し 万国民のうちにおりし者なり』― エゼキエル 31:16,17。新世訳,ギリシャ語セプトゥアギンタ(LXX),シリア訳,ロザハム訳。

      26 「レバノンの香柏」の陰に住んだそれらの国々はどんな意味で『その胤』と言えますか。

      26 万国民の中にあって「レバノンの香柏」の陰に住んだ『その胤』は,「現在の邪悪な事物の体制」の子孫もしくは後裔としてそれから発達した政治的,軍事的国家組織を象徴しています。当然彼らはこの世の事物の体制の後援のもとに成長しました。つまり自らを築き上げました。それらの国家組織の多くはすでに滅び,死んで下の国,死者の領域に下り,絶滅しました。

      27 すでに下の国にいる国家組織は,「レバノンの香柏」が倒れたことで慰められますか。

      27 それで彼らは象徴的樹々としての存在ではなくなりました。しかし事物の体制全体は存続しており,それ自身の滅びにいよいよ近づいています。体制自体が切り倒されて永久に滅びるとき,それは下の国,一般の「穴」,シェオールすなわち死者の領域にいる他の象徴的樹々すべてにとって大きな慰めになります。わたしたちは皆,「苦悩が連れを喜ぶ」ことを知っています。ですから,暴力の『剣』ですでに切り倒されているそれらの象徴的な『もろもろの樹』は,堂々たる「レバノンの香柏」が死んで自分たちの連れになるのを大いに喜ぶでしょう。この世界を支配する事物の体制も,エホバの刑執行の『剣』の前では自分たちと同様に弱いのを見て慰められます。―イザヤ 14:9-12と比較してください。

      28 したがって「レバノンの香柏」は,将来のどんな「神の園」を陰で覆うことを許されませんか。

      28 それで事物の体制が,その保護の陰の下に逃れる支持者たち以上に強いのでないことが明白になります。エホバは,この象徴的な「レバノンの香柏」が,ハルマゲドンの戦闘のあと,また「この事物の体制の神」悪魔サタンを捕縛して底知れぬ深みに入れたあと地に回復される真の,文字通りの「神の園」を陰で覆うことを望まれません。―コリント第二 4:4。

      人間の目に『うるわしく』てもそれは救いにはならない

      29,30 この「邪悪な事物の体制」はレバノンの最も美しい香柏に似てはいますが,エホバはそれが最後にどこに行き着くとそれに伝えておられますか。

      29 人間は被造物を偶像視する傾向があります。人間はうるわしい象徴的な「樹」,ひゆ的な「レバノンの香柏」の崇拝にふけりました。この世界的な事物の体制は自らを,メシアなる神のみ子イエスの手中にある神の王国よりもうるわしく望ましいものと見ています。人間の目には,「現在の邪悪な事物の体制」のうるわしいことは,そびえ立つ「レバノンの香柏」に似ているのです。しかし,それがレバノンの実際の香柏を植えたかたにどれだけの相違をもたらすでしょうか。それを植えたかたは地球全体にわたる事物の体制にこう言われます。

      30 『エデンの樹のうちにありて汝はその栄とその大いなることいずれに似たるや [それにもかかわらずどうなりますか] 汝はかくエデンの樹と共に下の国に投げ下され剣に刺しとおされたる者とともに割礼を受けざる者のうちにあるべし〔ファラオ〕とその群衆はかくのごとし 主エホバこれを言う』― エゼキエル 31:18,〔新〕。

      31 「〔ファラオ〕とその群衆」の独善的な態度は神にとって重きをなしますか。それで彼らもだれと同じような最期を遂げますか。

      31 古代において「〔ファラオ〕とその群衆」は割礼を行なったかもしれず,そのために自分たちは清い民で,ヘブライ人アブラハムの子孫であるイスラエル人と同じほど義にかなった者であると考えたかもしれません。自分たちは割礼を受けない諸国民や世界強国と運命を共にし,彼らと共に葬られることはないと「〔ファラオ〕とその群衆」は考えたかもしれません。しかし彼らの独善的な態度もエホバ神にとっては物の数ではありません。ナイルの国古代エジプトに対するハム族の支配はそのうちに終わりました。ですから「〔ファラオ〕とその群衆」の割礼も,人間製の組織のこの世的なうるわしさも,他の小さな組織すべてに臨んだ最期から彼らを救うことはできませんでした。

      32 この『うるわしい』事物の体制はどのように「〔ファラオ〕とその群衆」のした経験をしますか。なぜですか。

      32 主権者なる主エホバは,「〔ファラオ〕とその群衆」がご自分の用いる者によって処刑され,他の清くない人間の死者すべてと所を共にすることを定められました。彼らの政治組織は悪いものでした。ですからエホバは,『その悪のために我これを打ち棄てたり』と言われました。(エゼキエル 31:11)現代の「〔ファラオ〕とその群衆」の場合も同じようです。ファラオとその群衆が表わした事物の体制はエホバ神に非とされました。心酔する人類の世にとってそれがどれほど『うるわしく』見えても,神はその中の悪を見やぶられます。それは一段とうるわしい「レバノンの香柏」と同じ扱いを受ける,つまりハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」という『剣』によって切り倒されるに値するものです。(啓示 16:13-16)それが倒れるとき,地の国々は皆震え,自分たちも全世界の「事物の体制」の場合と同じく存続しえないことを知ります。神のメシア王国の道をふさいでかたくなに立ち続けるので切り倒されるのです。

      今正しく行動することが急務

      33 どんな意味で斧は今その美しい「レバノンの香柏」の「根もとに置かれて」いますか。

      33 バプテストのヨハネが当時のユダヤ教の事物の体制について,「すでに斧は木の根もとに置かれています。それで,よい実を生み出さない木はみな切り倒され」ると言ったように,象徴的な「レバノンの香柏」についても同じことが言えます。(マタイ 3:10)『他国人 国々の暴き者』が「現在の邪悪な事物の体制」の上に斧を振るう,神の定めた時は近づいています。それが倒れる時はいよいよ近くなっています。この人類の世の目にそれがどれほど『うるわしく』映ろうとも,それはエホバが植えたものではなく,エホバの組織に属するものではありません。それは悪魔サタンの組織の,目に見える部分です。『その悪のために我これを打ち棄てたり』とエホバは言われます。―エゼキエル 31:11,12。

      34 この「現在の邪悪な事物の体制」の大官はだれの「胤」ですか。

      34 この邪悪な事物の体制の中で,「エジプトの王〔ファラオ〕とその群衆」の現代の対型は,ニムロデの時代の古代バビロンの建設から今まで4,000年以上活動してきました。これらのこの世的な支配分子は,主権者なる主エホバによってその地位につけられたのではありません。彼らは天の父の「胤」もしくは子孫ではありません。神は最初の「エデンの園」で神の「女」の「胤」について希望を与える約束をされましたが,彼らはその神の「女」の「胤」でもありません。彼らはむしろ大いなる龍の「胤」,すなわちサタン悪魔の胤です。(創世 3:15,新)これは激しい言葉のように聞こえるかもしれませんが,イエスが当時の反対者たちに言われた次の言葉と全く一致しています。「あなたがたは,あなたがたの父,悪魔からの者であり,自分の父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理のうちに固く立ちませんでした。真実さが彼のうちになかったからです」。(ヨハネ 8:44)神の大いなる敵のこの現代の「胤」が神に仕えないのは,古代のファラオとその群衆が神に仕えなかったのと同じです。それは霊的「エジプト」ですから,彼らに似ているのです。―啓示 11:8。

      35 明らかにされた以上の事実に照らして,わたしたちはこの不気味な時代に何をすべきですか。どうすればそれができますか。

      35 明らかにされたこれらの事実や,「レバノンの香柏」に関するエゼキエルの預言の成就が目前に迫っていることを考えるとき,わたしたちには何をする義務が生まれますか。自分のために何をすべきですか。この不気味な時代に何をすべきですか。これです。象徴的な「樹」の下から出ることです。わたしたちはその樹の倒壊によって永久に苦しむことは望みません。ですから「エジプトの王〔ファラオ〕とその群衆」の実体である「現在の邪悪な事物の体制」を捨てる必要があります。エホバの組織の側に立つ必要があります。この罪人の世の一部であるかぎり,わたしたちはその組織に対して命のない者です。わたしたちは「自分の罪過と罪にあって死んでいました……[わたしたちは]この世の事物の体制にしたがい,また空中の権威の支配者[悪魔サタン]……にしたがって,一時はそうした罪のうちを歩んでいました」。(エフェソス 2:1,2)わたしたちは『この世の事物の体制にしたがって』歩むことをやめなければなりません。「〔ファラオ〕とその群衆」によって予表されていたものの庇護の陰の下に住むことをやめなければなりません。

      36 サタンの見える組織の下からいったん出たなら,イザヤ 31章1節の助言にどのように注意すべきですか。

      36 神の大いなる敵の見える組織の下からいったん出たなら,助けや保護をまたそれに求めるようなことをすべきではありません。霊感による次の言葉に注意を払うことは常識にかなったことであり,また神の知恵の道を歩むことでもあります。『助けを得んとてエジプトにくだり馬により頼むものは禍なるかな 戦車おおきが故にこれにたのみ 騎兵はなはだ強きがゆえにこれにたのむ されどイスラエルの聖者をあおがずエホバを求むることをせざるなり』― イザヤ 31:1。

      37,38 エルサレムが荒廃したとき後に残ったユダヤ人の残りの者たちの場合は,どんな警告を与える例ですか。

      37 エジプトが滅びに定められているにもかかわらず,エジプトに助けを求めることを戒める例があります。エゼキエルの預言は,彼が捕えられてから11年目の第三の月の一日に与えられました。(エゼキエル 31:1)第四の月の九日(西暦前607年,タンムズの九日)に『万国の君』バビロニア人がエルサレムを包囲しました。翌月彼らはエルサレムを破壊し,生存者のほとんどをバビロンに追放しました。第七の月(西暦前607年のチスリ)には,後に残された者を治める総督が暗殺されました。

      38 そこでバビロニア人の出方を恐れたそのユダヤ人の残りの者たちはユダの地を捨ててエジプトに逃げ,象徴的な「レバノンの香柏」の下に避難所を求めました。預言者エレミヤはこれに反対して助言を与えました。バビロンの王はエジプトを征服するので,彼らもいずれは彼の支配下に置かれる,と警告しました。残りのユダヤ人はエレミヤの警告には耳を貸さず,エホバの預言者を伴ってエジプトへ逃げました。しかしエジプトは彼らの力にはなりませんでした。というのは,それから幾年かたって,バビロンの王は実際にエジプトを自分の領土に加えたからです。またもやエジプトは,過去におけると同じように,不忠実なユダヤ人の力にはなりませんでした。しかし神の言葉は実現しました。―列王下 25:1-26。エゼキエル 29:17-20。エレミヤ 40:7から43:13まで。

      39 では人類の希望は何にありますか。なぜですか。

      39 この世の事物の体制は今終わりの日にあります。古代エジプトは,象徴的な「レバノンの香柏」の長い枝の下に宿った者たちの力になりませんでしたが,同様にこの世的な事物の体制も,あくまでもそれに頼りそこにくだって軍事援助や経済援助を求める者たちの力にはなりません。地の事柄に対するその支配は切り倒されねばなりません。やがて来るエホバの王国が,エホバの王なるみ子イエス・キリストによってそれを切り倒します。人類の希望は神のその王国にあります。その王国は本当に『うるわしい』,新しい,そして義にかなった事物の体制をもたらすからです。それは地に「神の園」,つまりエデンのような実際のパラダイスを再興し,全地をその栄光と美で装うでしょう。

      40 この世とのきずなはわたしたちにとって良いものではありませんが,わたしたちがイエスやイエスの使徒たちのようであることは,わたしたちにとって何を意味しますか。

      40 滅びに定められたこの不敬虔な人々の世およびその事物の体制とのきずなは,この絶望的な世界情勢の中にあってわたしたちが執着すべきものではありません。王なるイエス・キリストがその臣民に与える永遠の祝福にあずかりたいなら,わたしたちはイエスがご自分とその使徒たちについて言われたのと同じ状態でなければなりません。「わたしが世のものでないのと同じように,彼らも世のものではないからです」。(ヨハネ 17:14,16)そのようにして世から離れていれば,この「不敬虔な人びとの世」の滅びにあずかることはありません。(ペテロ第二 2:5; 3:6)わたしたちは救われて,正義の新しい事物の体制の下で永遠に楽しく暮すのです。その新しい事物の体制においては,ファラオとその群衆ではなく,イエス・キリストおよび栄光を受けたその共同相続者たちが,王また神の祭司として奉仕し,人類に祝福を与えます。―啓示 20:4,6。

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