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クリスチャン崇拝と美徳の保存ものみの塔 1957 | 2月1日
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は,新しいものを発展し始めましたが,それは模型的なイスラエルの神権国家とは違うもの,すなわち実際の神権的なクリスチャン制度です。イスラエルとの律法契約は,キリスト・イエスと共に終結してしまい,イエスが杭にかけられて,昇天して後は,実施されませんでした。しかし,律法の正義の原則は,全部存続したのです。実際のところ,それらの原則は,クリスチャン制度の者たちに対して,以前よりも大きな力と効果をもたらしています。ヱホバは,イエス・キリストの,贖の犠牲を基礎にして,新しい契約の下にクリスチャン会衆を発展せしめました。
20 クリスチャンの美徳に関して,どんなことをはつきり言うことができますか。
20 『神は私たちに力を与えて,新しい契約に仕える者とされたのである。それは,文字に仕える者ではなく,霊に仕える者である。文字は人を殺し,霊は人を生かす。』(コリント後 3:2-6,新口)注意すべきは,律法の文字と律法の霊があり,そしてこの二つは対照をなして著しい相違をなすものである故,私たちは神の律法の文字を破ることができる,しかしその霊を守らねばならない,などとパウロは言つていません。そうではありません。パウロがここで指摘していることは,モーセを通してイスラエル人に与えられた律法の書かれた文字と,神の霊には著しい相違がある,ということなのです。クリスチャンたちに注がれる神の霊は,クリスチャンたちに正義の実を生ぜしめ,かつクリスチャン達に,処罰されたこの不敬虔な世から分離することを可能ならしめています。書かれた文字は,イスラエル人を死に定めました。しかし,キリスト・イエスのあがないに基づく新しい契約の働きを通して注がれる神の霊は,人々を永遠の生命にみちびます。これは,著しい相違です。私たちは,一瞬間でも次のように推定することができますか,すなわち,律法契約下にいたイスラエルの国民の一人一人は,当時の一般人類が行つていた堕落した行を禁ぜられていた,しかしクリスチャンたちがそのような行をつつしむ必要性はイスラエル人の時ほど大きくない,などと推定できますか。もちろん,そのように推定することはできません。それとは逆に,正義をすすめる積極的なクリスチャンのいましめは,モーセの律法の消極的ないましめよりもはるかに強烈です。そして,現在新しい世の社会の活動をしつつクリスチャン崇拝を行つて神に仕える人々には,神の霊が注がれるのです。この霊によつて,彼らは忠実を保つことができ,かつ栄光に輝く将来において完全になると共に正義に達する,という確かな希望を持つことができるのです。
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子供たちはこらしめに応ずるものみの塔 1957 | 2月1日
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子供たちはこらしめに応ずる
ひとりの母親は,4人の子供たちを訓練した努力について,次のような手紙を送つてきました,『良く言うように,子供たちの行儀を直すため,私はできるだけの手をつくしてきた,と思いましたが,毎日いろいろな事柄で子供たちは言うことを聞かず,親に手向うのでした。私は5年間ヱホバの証者でしたが,夫はひどく反対しており,子供たちに「ものみの塔」の出版物を読んではいけないと言っていました。子供たちに聖書を毎日教えるのは両親の責任である,と強調されたとき,私は毎日聖書を読む為の時間を設けようと決めました。丁度その時間は子供たちが一番楽しむ時にカチ合つたため,7歳,5歳,3歳の男の子は,猛然と反対しました。創造の記録が終つた後は,子供たちは興味を失つてしまい,私が毎晩テレビジョンを切つて,さあ聖書を読む時間ですよ,と言うと,大声でわめき散らして反対しました。片手に聖書を持ち,片手に鞭を持つて座つたことは,しばしばでした。しかし,日が経つにつれ,子供たちは反対しなくなり,3年後の今では,子供たちはよろこんで聞くどころか,子供たちの方から聖書を読みたいと言つてきて,代わるがわるに読んでおり,読んだところについて質問してもらいたい,と私に願う程です。この習慣の結果は,本当に大きいものでした。聖書についての子供たちの知識が深まるだけでなく,家の中も大へん良くなり,こらしめる必要がずつと少くなりました。そして,子供たちは学校の級で首席になつています。それも,難しい言葉を声を出してはつきり読んできたお陰です。』
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対照ものみの塔 1957 | 2月1日
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対照
聖ペテロ大会堂でなされた15分間の話の中で,ローマ・カトリック教会は政治を排斥することができない,と法王は最近に語りました。1956年7月23日のニューヨーク・タイムス紙によると,『法王ピオ12世は,ローマ・カトリック信徒が政治に積極的な参加をするよう,今日強くすすめた。』しかし,キリスト・イエスは,御国の福音伝道に積極的な参加をするよう弟子たちに強くすすめたのです。政治については,キリストの一人の弟子は,霊感を受けて次のように書きました,『世を友とするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ,世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである。』― ヤコブ 4:4,新口。
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