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  • 活動的なヨハネ・パウロ二世 ― 分裂状態にある自分の教会をまとめられるか
    目ざめよ! 1980 | 4月8日
    • 憶断もしくは主張した。こうしてペテロの司祭職を価値のないものとしたのである。使徒の定めた規準が否定されてしまっている。……

      「ペテロの後継者として旅行をする法王ヨハネ・パウロが,司祭の独身制の大切さを米国で強調するのは奇妙に思える。ローマはいつの時も使徒たちの中で聖ペテロを重視してきたが,そのペテロは妻を伴って自分の使徒職を行使していたのである」。

      このようなわけで,不当にも人間の作り出した律法を押し付けられていると感じて,多くの司祭や修道女がその職を去りました。中には,カトリック教会から完全に離れた人もいます。それらの人々は,聖書に記されている次の警告を知り,その決意を強められたに違いありません。「聖霊は,後の時にある人々が信仰から遠ざかり,まどわしの霊と悪魔の教えとにつくであろうと,あきらかにおおせられている。……かれらは……婚姻を禁じ(る)」― テモテ第一 4:1-3,カトリック・バルバロ訳。

      まとめているのか分断しているのか

      もちろん,法王はこの訪問によってカトリック教会をいやし,一致させることを望んでいました。しかし,それとは逆の結果になったようです。ノートルダム大聖堂の高位僧職者ジョン・E・エガンは次のように語りました。「我々は互いに語り合い,60年代の傷をいやし始めていた。再び耳を傾け,人々の見解を聞くようになっていた。我々は今や再び傷口を広げてしまった。法王に賛辞を送ることでは全員が一致しているが,教会の諸問題をめぐって再び分裂してしまっている」。

      しかし,単に宗教上の教義に関する法王の見解が分裂や懸念を引き起こしているのではありません。問題となっているのは,法王の友人であるポーランド人の司祭マイケル・M・ゼムブルズスキを巻き込んだスキャンダル事件に対する法王の対処の仕方です。これは1979年9月21日のナショナル・カトリック・リポーター誌に取り上げられました。ゼムブルズスキは米国の聖パウロ修道会の長でした。ところが,ゼムブルズスキは清貧の誓いを破り,財政を「牛耳って」,慈善寄付金を幾百万㌦も浪費した,と非難されました。

      ジョージ・H・ギルフォイル司教と当時シカゴの御受難会[修道会]の長であったポール・M・ボイルがバチカンの調査官として任命されました。問題が複雑であったため調査には数年を要し,二人の調査官は,ゼムブルズスキの生活態度が「不道徳で」,「こうかつ」,かつ「醜聞を買う」ものであったことを突き止めました。二人の調査官は一部次のように書きました。

      「ゼムブルズスキ神父は巨額の金銭を自分や友人のために湯水のように使って楽しんでいた。同神父は修道会の基金をふんだんに使ってある女性を扶養していたが,この女性との交友関係が多くのうわさや非難を巻き起こした」。

      ギルフォイルとボイルは,1979年2月にバチカンに送った最終報告書の中で,できるかぎり強い言葉を使って,ゼムブルズスキと彼に忠節な司祭たちは解任されるべきであることを強調しました。しかし,法王はその勧告を無視しました。それどころか,ゼムブルズスキは,6月に行なわれた法王のポーランド訪問の際に,公式の側近の一員に選ばれるという厚遇を受けています。

      このような行動は,多くの人に,ヨハネ・パウロ二世は本当はどのような種類の人物なのだろうか,という疑念を抱かせています。ヨハネ・パウロ二世は矛盾する幾つかの異なった顔を持つ人物であるように思えます。一方では,評判の悪い過酷な教え,時には非聖書的でさえあり人々を苦しめる,カトリック教会の教えを支持します。そうかと思うと,群衆,それも特に子供たちの前では,思いやりと愛に富む人物のように映ります。

      法王は,都合の良い時には,神の言葉やキリストの模範に訴えます。革命的な破壊活動とかかわりを持たないようメキシコの司祭たちを諭した際,法王はこう語りました。「イエスにとって,ヤハウェ[エホバ]の僕としての自分の使命を変えさせようとするものは,いかなるものであっても誘惑であったことを,福音書は明らかにしている」。

      しかし法王は,自分がここで説いたことを実行しますか。法王自身キリストの模範に従いますか。『全世界を治める至高者,ヤハウェ』のみ名と目的を法王がふれ告げるのをこれまでに幾度耳にしたことがありますか。しかしイエスは,ヤハウェに対する祈りの中で,「わたしは……み名をあらわしました」と語られました。―詩 83:18,エルサレム聖書。ヨハネ 17:6,口。

      法王は神のみ名を知らせず,神の言葉に忠実に付き従おうとしません。この事実は,幾度旅行しようと,ヨハネ・パウロ二世には分裂しているカトリック教会を首尾よくまとめ上げる力のないことを物語っています。

  • 強く印象に残る,インカ族の世界
    目ざめよ! 1980 | 4月8日
    • 強く印象に残る,インカ族の世界

      私たちを乗せた飛行機はリマの町を後にし,アンデス山脈の方向へ急上昇しました。程なくして私たちは,古代インカ世界の中心であるクスコに降り立ちました。

      インカ帝国は,わずかな領土の国から,ベルギー,ルクセンブルク,オランダ,フランス,スイス,イタリアのすべてを併わせたほどの領土を持つ国へと急激に拡大しました。そしてそのめざましい興隆の速さをしのぐ速さで,ほんのわずかな数のスペイン人冒険家たちの手にかかって突然に滅んでしまいました。

      インカ族とはどんな人々だったのでしょうか。どんな生活を送っていたのでしょうか。彼らが滅び失せてしまったのはなぜですか。

      帝国の黎明期

      ペルー人のガイドの説明によると,最初のインカ皇帝マンコ・カパックがクスコの町を太陽の神のお告げどおりの場所に建設した,と言われているそうです。しかし史実から言えば,インカの歴史が始まったのは西暦1200年ころのことです。その当時のインカ族はクスコを支配していた部族

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