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エスペラントの見通しは暗くなる
● “国際語”であるエスペラントが生まれてから,昨年の12月で100年が経過しましたが,その事実はほとんど注目されずに終わりました。ロンドンのデーリー・テレグラフ紙は,「祝典もバースデーカードもなく,英国エスペラント協会の1,500人の会員からは一本の電話も入らなかった」と伝えています。エスペラントの発案者は,すべての戦争を終わらせるのに役立つ世界語となることを願ってこの言語を作り出しました。(この語は字義通りには「希望する者」を意味する。)同協会の書記長は,「我々は考案者が誤っていたと考えるようになっている」と述べています。
確かに,すべての人が一つの言語を話せば,本当に有益でしょう。しかし,同一の言語を話す人々の間にさえ憎悪や戦いがあるのですから,良い意図を持った人間のアイデアも,戦争を終わらせることにならないのは明らかです。わたしたちの創造者で,「地の果てに至るまで戦争をやめさせようとしておられる」方だけが,必要とされる事柄を遂行する力を有しておられます。神はいかなる社会計画も用いることをせず,むしろ,同胞間の分裂を助長している,『不敬虔な人びとの裁きと滅び』によってそれを行なうと約束しておられます。―詩 46:9,新。ペテロ第二 3:7。
教皇の宣言の内面を見る
● 新教皇,ヨハネ・パウロ二世は次のように語りました。「数多くの市民に対して,抑圧的で,差別的な措置が取られる(ことがある)。それらの市民は,自分たちの持つ霊的に価値あるものを守るだけのために,あらゆる種類の抑圧を味わい,死さえ甘受しなければならなかった。それにもかかわらず,これらの人々は,自国の真の市民的,また社会的な進歩に役立つ事柄であれば,何にでも協力を惜しまなかった」。
この言葉を取り上げた論説の中で,アルゼンチンのブエノスアイレス・ヘラルド紙はこう述べています。「教皇は,明らかに,共産圏諸国における宗教上の迫害を指して述べていた。しかし,実に残念なことに,教皇の言われた言葉の一語一語は,今日のアルゼンチンにほぼ当てはまる。……幾千人[3万人以上]にも上る,この国のエホバの証人には信教の自由が与えられていない」。
この論説によると,エホバの証人は逮捕され,殴打され,その子弟は放校処分に付されているものの,彼らは「勤勉で,正直な,神を恐れる人々である。……そしてその宗教は聖書の教えに基づいている。世界の近代的で,安定した,多元論的な他の民主政体が,いずれもエホバの証人の信仰を許容できるのであれば,この国の政府がそうすることのできない理由はない」。
「幾つかの分別ある措置を講じて,教皇の求めた信教の自由をエホバの証人に与えれば,この問題全体は解決される。国に仕えると同時に自分たちの神にも仕えることが許されるように,ただそれだけを願う善良なアルゼンチン人がここにいる。確かに,象徴に対する表面的な敬意よりも,国や憲法に対する内面的な献身や誓いに重きが置かれるなら,アルゼンチンの愛国心は強化されるであろう」。
インドのカトリック・ヒンズー教
● ボンベイのインディアン・エキスプレス紙の伝えるところによれば,「信じ難いことではあるが,司祭や修道女は,はだしで床に座り込んでバーヤンズ[奉納歌]を歌い,スラブル[キリスト教のつり香炉]を振るかわりに“アラーティ”[香としょうのうの炎を入れた皿を振ること]を行なう」など,ヒンズー教の慣行に従っているようです。同紙はさらに次のように述べています。「今やケララ州の諸教会では,2,000年にわたるその古式ゆかしい伝統とともに,『アサト・マ・サド・ガマーヤ,タモソ・マ・イオティルガマーヤ,ムルタボラーマ・アムルタム・ガマーヤ』というウパニシャド賛歌が神聖なミサの前に詠唱されるのを耳にするのは珍しいことではない」。
「教会のインド化の強力な推進者」とされる,インドのローマ・カトリックの枢機卿,ジョセフ・パレカティルは,「この運動は究極的には必ず勝利を収める」と言明しています。エキスプレス紙によると,パレカティル枢機卿は,この運動について,インド人の間で行なわれているカトリック崇拝のある特色に,「ヒンズー教の豊かな富を引き寄せるのに適切なことであった」と語りました。
そのような哲学は心の広いもののように聞こえるかもしれませんが,それは崇拝に関する真のクリスチャンの見解を反映しているでしょうか。決してそのようなことはありません。カトリックのバルバロ訳聖書は次のように命じています。「釣り合わないくびかせを,未信者といっしょに持つな。正義と不義とに何のつながりがあろう。光と闇とに何のまじわりがあろう。……信者と未信者とに何のかかわりがあろう」― コリント第二 6:14-18。