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  • 誘かい事件 ― あやぶまれている命!
    目ざめよ! 1975 | 8月22日
    • 大勢の人が毎日地上のどこかで殺されているのです。また,この世代の戦争ですでに殺され,今でも殺されている無数の人々についてはどうですか。そうした人々の命は,大抵余り騒がれることもなく葬られてしまいます。

      政治,犯罪,道徳上の便宜主義などのために人命が非常に軽視されている一方で,特定な人の命が脅威にさらされると,ひどい騒ぎを引き起こすのはつじつまの合わないことです。ある人はこう述べています。「人は一個の人間の命を救うためには巨額のお金を出すが,幾百万もの人々の命を救うためにはほとんどお金を出さない!」 そのようなゆがんだ価値感は,そうしたつじつまの合わない状態を生み出した世界的なこの事物の体制のどこかに重大な欠陥があることを明らかにしているのではないでしょうか。

      したがって,神が約束しておられる世界的規模の完全な変化のみが,命に対する人類の見方を平衡のとれたものにすることができます。その変化は,必然的に広範囲に及ぶものであるため,聖書はその後に来る「新しい地」,つまり,新しい政府の取り決めの下にある新しい人間社会のことを述べています。その時には,「古い地」とそれに伴う,命を軽視する見方は「過ぎ去って」いることでしょう。その時,命の偉大な与え主により生命に付された価値が広く認められるようになり,待望の「死ももはやない」状態が実現されるでしょう。―啓示 21:1-5。ペテロ第二 3:13。

  • わたしはバチカンの宮廷近衛兵でした
    目ざめよ! 1975 | 8月22日
    • わたしはバチカンの宮廷近衛兵でした

      ローマ法王が軍隊を持っていることは,多分ご存じなかったでしょう。しかしそれは事実です。9年のあいだわたしは宮廷近衛兵の一人としてバチカンの軍隊にいました。

      もちろん,かつての法王とは異なって,今の法王は正規軍を持っているわけではありません。16世紀初めの法王ユリウス二世は自ら軍隊を指揮して戦いに臨みました。またローマ・カトリック教会は過去においては戦闘的な修道会を維持していました。これについてカトリック百科事典は次のように述べています。「これらの修道会は,すべての軍隊組織の理想である団結力において,歴史上最も有名な精鋭部隊をしのいだ」― 1911年,第10巻307ページ。

      それで現代のバチカン市国に軍隊があっても驚くにはあたりません。

      近年の軍事組織

      近年においてバチカンが維持してきた四軍団のうち,おそらく最もよく知られているのはスイス衛兵でしょう。1505年,法王ユリウス二世がスイスと条約を結び,常時250名の教皇衛兵を供給されることになって以来,スイス衛兵は法王に仕えてきました。1959年8月,法王ヨハネス二十三世はこの親衛隊に大勢の士官,二人の鼓手,親衛隊付司祭,70人の親衛兵を含めることを認めました。

      貴族近衛兵は明らかにかつてはいっそう大きな名声を有していました。カトリック百科事典は,「教皇に仕えた軍隊の中で最も殊勲ある軍団」とそれを呼んでいるからです。それは1801年に組織されました。法王の自衛軍はこのほかに教皇庁憲兵隊と宮廷近衛兵から成っていました。

      宮廷近衛兵は1850年,法王ピオ十一世によって設けられました。それは同法王の命令で二つの軍団を新しい名称の下に統合したものです。1870年以前には宮廷近衛兵は実際の戦争に参加しましたが,それ以後は主に儀式上の役割を果したにすぎません。

      しかし1968年から1971年までの間にノーブル衛兵,宮廷近衛兵および憲兵隊は解散したので,バチカンの軍隊のうち,いま残っているのはスイス衛兵だけです。

      入隊の動機

      わたしの父は宮廷近衛兵を30年間勤め,父も母もそれをたいへん誇りにしていました。それで両親はわたしが家族の伝統を守ることを望んだのです。しかしわたしが入隊を望んだ理由はほかにもありました。

      十代のわたしは学校で進化論的な教育の影響を大きく受けたために,宗教から遠ざかるようになっていました。それで法王をはじめ,世界の高名な宗教指導者に身近に接することによって,神への信仰を強められるだろうと思ったのです。

      またその地位に伴う尊敬と華やかさも,わたしが入隊を望んだ一つの理由であったことを認めねばなりません。宮廷近衛兵であれば,多くの有名な人々に会うことができ,重要な宗教儀式の際に目立つ場所を占めることができます。

      入隊を許される

      それで18歳になった1960年,わたしは宮廷近衛兵となるための入隊願いを出しました。教区司祭の推薦を受けてのち,わたしは面接のために呼び出されました。

      わたしはバチカンの荘大な建物に近づくにつれて感じた不安をよく覚えています。接見室に入ると,長いテーブルがあって,宮廷近衛隊長,将校の司祭と,ほかに4人の人が座っていました。部屋の片側には10人の法王の肖像画がかけられており,それぞれの傍らには昔の戦争を記念する,しわだらけの旗がありました。

      初めに個人的な事柄について聞かれたのち,使徒信経,信仰の業,希望の業など,幾つかのカトリックの祈りを暗しょうするように司祭に求められました。宗教の教えに余り注意を払ってこなかったわたしは,いい加減な知識が暴露するのではないかと恐れましたが,心配は無用であることが分かりました。面接は形式にすぎなかったのです。約1か月後にわたしは宮廷近衛隊に入隊を許されました。

      訓練と服装

      短い礼拝のあと,宗教に関する1時間の授業で始まる訓練を受けました。また宗教講座にも毎木曜日に出席しました。これによって神を知ることも深くなり,神の存在についての疑いも無くなるのを期待していましたが,それは期待はずれでした。むしろ教えられたカトリック教会の教義は,わたしの疑問を増し加えたにすぎません。

      しかし軍事教練はわたしにとって楽しいものでした。やがて宮廷近衛兵の印象的な軍服を着ることを許されました。それには黒い上衣,若いビーバーの柔らかい皮で作ったブルーのズボン,白いベルト,黒い靴そして,まびさしと赤い羽根飾りのついた,黒の,きっちりした帽子が含まれています。その他のアクセサリーとして太い金色のひもで作られた各種の飾り,そしてパレード時に観光客が引きちぎろうとする金文字の,きらびやかな肩章があります。

      法王に仕える

      法王は王冠の間あるいはサンピエトロ聖堂で訪問者と接見するのがならわしでした。大抵わたしは控えの間の勤務を命ぜられ,法王が訪問者と接見する部屋の入口に立ちました。訪問者には式部官あるいは従僕が付き添っているのが常で,訪問者が前を通る瞬間にわたしたちは気をつけの姿勢をとりました。わたしは特に二人の高位の訪問者の接見を記憶しています。

      その一人は黄色の衣の仏教僧侶で,彼は第二バチカン公会議の間に法王パウロ六世と会見し,ベトナムの平和を訴えました。当時,焼身自殺した仏教僧侶のことが新聞に大きく報ぜられていたので,この訪問は世間の注目を集めました。

      もう一つは英国のエリザベス女王との接見です。

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