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  • 貧困をどうみなしますか
    目ざめよ! 1982 | 4月8日
    • 貧困をどうみなしますか

      カルメンは16人の子供を持つ母親です。夫はアルコール中毒者で,まだ独り立ちのできない子供9人を後に残し,一銭の収入もないまま亡くなりました。この母親が生計を立て,平安な思いを保てる可能性がどれほどあったと思われますか。

      結果から言えば,カルメンは貧しいながらも自分と子供たちの幸福な生活を築いてゆけました。この母親がどのようにしてそれをやってのけ,どこからその力を得たのかは,貧困に耐えてゆかねばならない人々の励みになる例です。しかし,カルメンの経験を考慮する前に,ここで用いる用語を定義しておきましょう。“貧困”という言葉をどう理解していますか。

      それを見分けることができるか

      “貧困”は,「金銭あるいは物的資産の欠如」と定義されます。しかし,それを見分けるのは必ずしも容易ではありません。年老いたサイモン・ゴルトシュタインは貧しそうななりをし,新聞の報道によれば,「いつも薄汚れた,こじきのような生活をしていた」と言われています。ところが,その死後,警察はがらくたの散乱したこの人のアパートにお金が詰まっているのを発見しました。警察は50万㌦(約1億1,000万円)までは数えて,それ以上勘定することはあきらめました。

      もちろん,こうしたお年寄りはどこにでもいるわけではありません。しかし実のところ,世界のちまたで列をなすこじきの多くは,施しをする人よりも多くのお金を持っています。一方,実際に貧しい人々の中には,誇りや面子のために貧しさを隠す人もいます。古代の王ソロモンは次のように述べて,人間の性向に対する識見の高さを示しました。「富んでいるように見せかけて,全く何も持っていない者がいる。資力が乏しいように見せかけて,多くの貴重なものを持っている者がいる」― 箴言 13:7,新。

      自分が貧しいことを知らされる人々

      また一方,貧困を知らされることもあります。どのようにですか。では,ほとんどの人が小さな農地で生計を立てている田舎の村について考えてみましょう。その農地からは食べてゆけるだけの作物は取れますが,それ以上はほとんど得られません。が,必要な物も少なく,村人は自分の持っている物で満足しています。

      その後,村人が何人か大都会に移り住みます。そしてお金をかせぎ,郷里では手に入らなかった物を買い求めます。少ししてから,その人たちが流行の服を着て帰郷し,お金を使い,都市での楽しみについて話します。

      そうなると,村人は自分が何かを得損なっているような気持ちになります。村人の境遇は変わってはいませんが,態度が変わってしまいます。満足感は失われ,自分は貧しいと感じるようになります。こうした種類の出来事は,世界の多くの国々で起きています。

      自分が思っているほど貧しくはない

      最後に,貧困には相対的な一面があり,ある国で貧しい人も別の国に行けば金持ちとみなされることさえあるほどです。ところが,自国の他の人々と比べると,確かに貧しいのです。

      例えば,米国で一番貧しい州の一番貧しい郡では,10世帯中8世帯までが貧困のどん底にあります。ところが,その多くはテレビや電気洗たく機,場合によっては自動車まで持っています。なるほど,こうした家族の多くは自国のより裕福な人々と比べると不幸に思えるかもしれません。しかし,トニーのことを知っていれば気分がもっと和らぐかもしれません。

      トニーは東南アジアに住んでおり,7人の子供を抱える父親です。そして,8部屋ある2階建ての家に住んでいます。その家にはほかにも7家族が一緒に住んでいます。つまり,一部屋に1家族が住んでいるのです。トニーの持ち物すべては車のトランクに収まってしまうでしょう。生計を立てるために,トニーは24時間勤務のタクシー運転手をして働き,仕事の合間を見付けては睡眠を取っています。トニーの住む国には社会保障制度は存在しません。しかしその生活も,モーハンの生活と比べれば快適です。

      モーハンというのは南アジアに住む6歳の少年です。この少年の腹部は膨れ,栄養失調のために夜盲症を患っています。飲料水は汚染されており,短いその人生で満腹感を味わったことは1度もないのではないでしょうか。その小さな体には一糸もまとっておらず,医師もお手洗いも,石けんも,電球も見たことがありません。

      これがどのように助けになるか

      こうして貧困について分析してみると,貧しい人々の多くが貧しさを抱えながら生活してゆく上で役立つ,少なくとも二つの価値ある事柄が浮かび上がってきます。最初に挙げられるのは満足の問題です。自分の持っている物で満足している人は,現在のところ手に入らない物を絶えず追い求めている人よりも幸福で安定しています。

      次に,自分の享受している祝福を数え上げるようにとの励ましが得られます。どんな祝福ですか。自分よりひどい生活をしている人々と比べれば,感謝すべきいわれが数多くあることに気付きます。

      また,多くの裕福な人は貧しい人の多くよりもひどい生活をしていることにお気付きですか。

      どちらを望むか

      貧困よりもひどい生活があり得ますか。少しの間,アンナの両親について考えてみてください。アンナの父親は裕福な実業家で,ヨーロッパの美しい地方に一家の快適な家があります。ところが,アンナは15歳の時に麻薬に手を出すようになりました。23歳の今,アンナの精神はむしばまれています。この裕福な家族の上には悲しみと不安定な状態とが暗雲のように垂れこめています。

      この家族の経験は珍しいものではありません。数え切れないほどの若者が麻薬やアルコールで自らを損なっており,その中には裕福な家庭に生まれた若者も少なくないのです。それよりもさらに悲惨なのは十代の自殺でしょう。人気者で,成績も優秀な生徒だった17歳の男の子がある日,庭の木に首をつって自殺しているのが見付かりました。その時の両親の気持ちを想像してみるとよいでしょう。米国の若者の間では,自殺が死因の第2位を占めており,自殺者の多くは裕福な家庭の出です。これらの若者が味わっている,若者を自殺にまで追い込む精神的な苦悩について考えてみてください。その若者の親の財力も,その苦悩を少しも和らげるものとはならないのです。

      それに加えて,社会調査研究家が描く家庭内暴力についての恐るべき状況があります。さらに,いやし難い精神的傷跡を残す,少年少女に対する近親相姦的なわいせつ行為の事例が悲痛なまでに広がっており,離婚や堕胎も爆発的な勢いで増加しています。今日の世界には,貧困以外にも苦しみをもたらすものの多いことがお分かりになるでしょう。

      確かに,こうした問題は貧しい家庭にも見られます。しかし,心痛を引き起こす家庭問題を抱えた裕福な人と,妻に愛され,子供たちから尊敬され,子供たちが従順を示す貧しい人とでは,どちらが望ましいでしょうか。聖書の箴言はこう述べています。「野菜の料理とそこに愛があれば,肥やし飼いにした牛とそれに憎しみが伴うのに勝る」。(箴言 15:17,新)裕福であるか否かは,多くの場合自分の意志とは無関係なものですが,裕福であるか否かにかかわらず,自分の家庭の中に幸福や愛を築き上げるためにできる事柄はたくさんあります。貧しくても,この点で成功する人は,数少ない,貴重な富を所有することになります。

      それでも,貧困は難しい問題であることに変わりありません。貧しい人の直面する状況に伴う苦難を幾らかでも減らす方法がありますか。

  • 自分の境遇 ― 改善することができますか
    目ざめよ! 1982 | 4月8日
    • 自分の境遇 ― 改善することができますか

      前の記事の中で触れた,16人の子供を持つ母親,カルメンは,ある時期非常に落胆していました。夫はアルコール中毒,生活環境は劣悪で,何の希望もないように思えました。そんなある日のこと,一人の訪問者が家にやって来て,カルメンの生活は劇的に変化し始めました。そこで生じた事柄は,貧しい人のみならず,インフレにさいなまれるこの世界で生活水準を脅かされている人々すべてを益する例となります。独り立ちしていない子供9人を抱え,収入のない状態で夫に先立たれた時でさえ,カルメンは楽観的な態度で自分の人生を最大限に活用し始めました。自分の置かれた境遇を改善するために,カルメンは具体的にどんなことを行なったのでしょうか。

      家の周りの地面を掘り起こし,わずかばかりの食糧を確保するために野菜を植えました。次いで,収入を得るため,洗たく物を引き受けるようになりました。訪問者があっても見苦しくないように,家をきちんと掃除しました。大勢の子供がいるのに,どのようにしてそれだけのことをやり遂げたのでしょうか。家事を手伝うよう子供をしつけたのです。子供たちは各々家事を割り当てられ,あたりをきれいにしておくことに全員が貢献しました。貧しいからといって,必ずしも生活が卑しいものになるわけでないことを学びました。

      では,カルメンはこうした事柄をどこで学んだのでしょうか。前述の訪問者が聖書の原則を生活に当てはめる方法を教えてくれたおかげで,カルメンはそれらの原則が本当に役立つことを程なくして悟ったのです。

      カルメンのような人が,自分たちの境遇を改善するのに実際的であることを悟った聖書の原則の幾つかを知りたいと思われますか。次にその一部を挙げることにしましょう。

      仕事: 「何をしていても,人にではなく,エホバに対するように魂をこめてそれに携わりなさい」。「すべてのことにおいて正直に行動したいと願っている(の)です」。(コロサイ 3:23。ヘブライ 13:18)どんな国でも,勤勉で正直な働き手は高く評価されます。そのような定評のある人は滅多に失業しません。どんな仕事でも受け入れ,特定の種類の仕事にこだわらなければなおさらです。同様に,本当に仕事に就きたいのであれば,その人は自分から仕事を探しに行き,家にいて職がころがり込んで来るのを待っていたりはしないでしょう。

      子供: 「少年をその行くべき道にしたがって育て上げよ」。「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め……ようではありませんか」。(箴言 22:6,新。コリント第二 7:1)男の子にも女の子にも家事の務めを与えます。衣服を片付けることやきちんと清潔にしているべきことを子供に教えます。特に食前には,子供が手や顔を必ず洗うよう見届けます。汚い水やどぶのそばで遊ばせてはなりません。子供の気晴しを簡素で徳性を高めるものにします。公園で跳ね回るほうが映画に行くより健康的で,しかも大抵お金が掛かりません。

      家: 清潔に関する上記の聖句はここにも当てはまります。簡素な家が必ずしも汚いわけではありません。身の回りがきれいだと,幸福な気持ちになり,自信がでてきます。そうした清潔さは子供に良い習慣を教え込むものとなります。ですから,床を光らせ,たなをふき,壁を洗ったりするための時間を取り(子供にもそうするようしつけ)ます。

      食事: 『野菜の料理と,そこに愛があれば,その方が勝っている』。(箴言 15:17,新)質素な食べ物を買い,バーゲンのある所を探すようにします。旬の果物や野菜の方が安く,家族の健康にも良いので,旬の物を食べるようにします。簡素でも栄養価のある食事を調えるような気遣いを示すことは,家族への愛の表われです。また,来客があった時には,平素食べているより高価なものを出さなければならないと感じることはありません。(ルカ 10:38-42)しかし,家族のためまた来客のために,食卓に出す食べ物の質を向上させる一つの優れた方法は,家の周りに空き地が幾らかでもあれば,そこに作物を植えることです。そうすれば,家族のために非常に安い価格で新鮮な野菜を備えることができます。

      悪習: 「酔いどれや貪欲な者は貧困に陥(る)」。(箴言 23:21,新)めいていは貧しい国々に広く見られる悪習です。とばくや喫煙,ビンロウジをかむことなども同様です。しかし,そのような事柄につぎ込まれるお金は家族を養うために用いられるのではないことを悟らなければなりません。

      一時的流行: 「あなたがたが道理をわきまえていることをすべての人に知らせなさい」。(フィリピ 4:5)広告はしばしば貧しい人々に働きかけて物の道理を見失わせます。貧しい人々は実際には買う余裕もなく,必要でもない物にお金を費やします。例えば,ある人々に清涼飲料はおいしく感じられるでしょう。ところが,そうした飲み物は高価であるだけでなく,健康をむしばむことさえあるのです。もっと安く,健康にもよい飲み物があります。同様に,多くの母親は赤ちゃんには調合乳を飲ませなければならないと思い込まされています。貧しい人々には大抵,それを買うような余裕はありません。しかし,エホバが赤ちゃんのために備えてくださった食物 ― 母乳 ― にはお金が掛かりません。このように,平衡の取れた,道理にかなった物の見方は有益で,お金の節約にもなるのです。

      このような考え方は,この難しい時代にお金を少しでも有効に使おうとする人すべてに役立ちますが,貧しい人の場合には,まずまずの生活と,みじめな生活との違いを生じさせることがあります。

      より良いもの

      とはいえ,現実を直視しましょう。中には1日生きてゆくための苦闘でふさぎ込み,うみ疲れてしまって,このような提案を当てはめるだけの気力を奮い起こすことさえ難しいような人もいます。そうした人々は単なる提案だけでなく,生活に対する見方を変える力を必要としています。

      カルメンの場合が確かにそうでした。ところが,彼女の生活に大きな変化をもたらした訪問者はその必要とされるものを与えることができたのです。その訪問の目的は,家をきれいにし,幾らかの土地を耕すよう励ますためだけのものではありませんでした。その訪問者はそれよりもはるかに重要な音信を携えていたのです。そしてその音信がカルメンに,変化を遂げる気力を与えたのです。それは希望の音信でした。

  • 貧困の問題を根本的に解決する
    目ざめよ! 1982 | 4月8日
    • 貧困の問題を根本的に解決する

      カルメンのところを訪れたのはエホバの証人でした。この証人はカルメンが自分の問題に独力で立ち向かわなくてもよいことを悟るよう助けてくれました。ほかならぬエホバ神ご自身がその困難な状態を気遣っておられるのです。聖書の中で神は次のような方として描写されています。「立場の低い者をまさしく塵の中から立ち上がらせておられる。神は貧しい者をまさしく灰溜めから高められる」― 詩篇 113:7,新。

      これはカルメンの慰めとなりました。特に,神が過去にどのように貧しい人を助け,今日どのように助け,将来どのように助けてくださるかを学んで慰められました。この情報をご自分で検討してみるなら,人生に対するカルメンの態度が根底から変化したわけを理解できるでしょう。

      過去において

      西暦前1513年にエホバ神がイスラエルの国を建てられた時に神がお与えになった律法には,貧しい人々のための,愛のこもった規定が設けられていました。まず第一に,この律法が“上層”あるいは“下層”階級なるものを設けていなかったことは注目に値します。当初,どの家族の前にも平等の機会が開かれていました。しかし,今日の多くの人々は,階級差別が今日の貧困の主要な原因の一つであると考えているのではありませんか。

      言うまでもなく,この不完全な世にあって,人々の境遇は変わり得ます。そして,中には貧困に陥る人もいるでしょう。イスラエルでもそのようなことがありました。そうしたことが起きた時に,律法はどのようにそうした人々を助けるものとなりましたか。

      律法は施しではなく,寛大な精神を示すよう他の人々に勧めていました。ですから,季節ごとの祭りを行なう際に,イスラエル人は「父なし子ややもめ」を含めるよう強く勧められていました。―申命記 16:9-11,新。

      貧しい人がお金に困っているなら,その同胞である民はその人が必要としているものを何であれ貸し与え,寛大に,利息を取らずにそうするよう勧められていました。(申命記 15:7,8; 23:19,20)ですから,比較的裕福な民はその兄弟であるイスラエル人の困苦欠乏をよいことにして甘い汁を吸うようなことはできませんでした。しかし一方,貧しい人はその負債を返済する義務を感じたことでしょう。

      収穫時に,貧しいイスラエル人は,収穫をする人の仕事が済んだ後に,他の人々の畑やぶどう園で落ち穂拾いをすることが認められていました。このようにして,家族の必要とするものを備えるために働くことができました。人が大きな負債を抱えた場合,その人は一定の期間自分を奴隷として売ることができました。奴隷といっても,それほどひどい生活ではありませんでした。その権利は法によって保護されており,そのようにして負債を返済することができ,返済している間も家族は安心して生活できました。―レビ記 19:9,10。申命記 15:12-15。

      神はイスラエル人に,「貧しい者がその地の中から絶えることはない」と言われました。とはいえ,貧しい人には貧困状態から抜け出すための助けを得る道が開かれていました。人々が神に信仰を示している間は,こうした備えが役に立ちました。(申命記 15:11,新。詩篇 37:25)エホバは今日も貧しい人々に同じような関心を示しておられますか。確かに示しておられます。

      神が今日示される関心

      ある時,イエスは大勢の群衆に話をされましたが,その群衆の中には貧しい人々も多く含まれていたに違いありません。イエスはエホバが動物や植物をすばらしい仕方で気遣っておられることを思い起こさせ,そうした人々を励まされました。次いで,このことから教訓を引き出されました。それは今日神に仕えたいと願う貧しい人々にとって本当に意味深い教訓です。

      イエスはこう言われました。「では,神が,きょうここにあってあすかまどに投げ込まれる野の草木にこのような衣を与えておられるなら,ましてあなたがたに衣を与えてくださらないことがあるでしょうか。信仰の少ない人たちよ。それで,思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものです。あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです」― マタイ 6:30-32。

      どうしたら貧しい人は神が自分のことを気遣っておられると確信できるでしょうか。自分の生活の中で神を第一にすることによってです。イエスが続いて述べておられる通りです。「それでは,[神の]王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすればこれらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです」― マタイ 6:33。

      カルメンと同様,エホバの証人の宣べ伝える『王国の良いたより』に耳を傾ける他の貧しい人々も,神が貧しい人をも含めご自分に仕える人すべてを愛し,守ってくださることを学びます。(マタイ 24:14)そして,神は本当に助けてくださるのです。前の記事に挙げられていた聖書中の実際的な助言を備えるだけでなく,神はご自分の崇拝者を見守り,彼らが生きてゆけるように取り計らわれます。神が,「きょうこの日のためのパンをわたしたちにお与えください」という祈りに文字通りの仕方で確かに答えてくださった,と証言する人は少なくありません。―マタイ 6:11。

      しかし,『王国の良いたより』に耳を傾ける人々はそれよりもさらに重要な教訓を学び知ります。イエスはこう言われました。「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」。(マタイ 4:4)こうして,霊的な事柄の価値を学ぶのです。

      神の言葉聖書を通して,家庭内で幸福を得る方法を学びます。神との緊密な関係を持つことや自分に対する神のご意志を行なう方法を学びます。そして,「いっさいの考えに勝る神の平和」を得るのです。(フィリピ 4:7)今日の裕福な人々のほとんどはそうした平安な思いを持っていません。しかし思いの平安には,物質の富を幾ら積んでも,それをはるかに上回る価値があります。

      「良いたより」に耳を傾ける人は別の価値ある事柄をも学びます。自分の貧しい状態は必ずしも恒久的なものではないことを学び知るのです。

      この問題の解決策

      不平等な経済体制が貧困をもたらすこともあります。また,戦争・ききん・病気・人種および社会的偏見・「時と予見し得ない出来事」あるいは単なる人間の不完全さが貧困をもたらすこともあります。(伝道之書 9:11,新)人間が貧困を根絶できないのも全く無理のない話です。

      しかし,クリスチャンは今日至る所で,『王国の良いたより』を宣べ伝えています。この良いたよりは,神の王国がすでに天に設立され,間もなくこの地上の支配権すべてを掌握するというたよりです。クリスチャンは,幾世紀もの間この王国を求め,こう祈ってきました。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」― マタイ 6:9,10。

      この王国は世界政府になります。そして不公平な経済体制を撤廃します。そこには人種的および社会的な偏見の入り込む余地はありません。その政府の最も重要な法律は,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という命令をも含む愛の律法になるからです。―マタイ 22:39。

      さらに,戦争が人類に貧困をもたらすことももはやなくなります。神は「地の果てに至るまで戦いをやめさせる」からです。(詩篇 46:9,新)病気や人間の不完全さもやがてはなくなります。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」と書かれているからです。(啓示 21:4)その時,貧しい人々は働いて貧困から永久に抜け出す機会に恵まれ,ずっと昔から存在してきたこの重荷はついに人類から除き去られるのです。

      待つことで満足する

      こうした「良いたより」を聞いて,カルメンのような人が人生に対して全く異なった見方をするようになった理由がお分かりになりますか。響きが良いだけでなく,真実な音信がここにあるのです。神の王国によって,神が成し遂げると言われた事柄すべてが行なわれることを示す圧倒的な証拠があります。テロ行為のために難民になった,大勢の子供を抱えた別の婦人が心を動かされて次のように語ったのももっともなことです。「霊的な生活の豊かさのゆえに,私たちはこの[貧しい]境遇で満足しています。確かに,満ち足りた気持ちで敬神の専念を保つことは大きな利得と言えます」。―テモテ第一 6:6-8もご覧ください。

      つつましい生活を送る人々の多くは,貧困の問題に対する神の解決策を調べ,この重荷を完全に除き去る神のご予定の時を喜んで待っています。待っているその間,同様の信仰を抱く人々と交わり,その信仰を他の人々に分かつためにあらゆる機会を捕らえています。このようにして,物質的には貧しいものの,霊的な富を享受しています。

      世界の貧困に悩まされていますか。もしそうなら,カルメンや他の無数の人々に役立ったその同じ情報を調べてご覧になってはいかがですか。そうすればあなたも,もはや貧困がなくなる時を目にする機会にあずかることになるでしょう。

      『その神エホバに望みを置く者は幸いだ。神は天と地,海およびそれらの中にあるすべてのものの造り主,定めのない時に至るまで真実を守られる方,だまし取られる者たちのために裁きを執行してくださる方,飢えた者たちにパンを与えてくださる方。……エホバは盲人たちの目を開き,エホバはかがんだ者を立ち上がらせておられる』― 詩篇 146:5-8,新。

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