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    ものみの塔 1963 | 10月15日
    • 力は励ましから生まれる

      「私たちが前におかれた望みを捕えるように,力強い励ましを受けるためである。」ヘブル 6:18。

      1 励ましは,それを受ける者にどんな影響をおよぼしますか。使徒パウロは,励ましの重要さを認識していたことをどのように示しましたか。

      非常の場合に,励ましはなんと重要なものでしょう! 私たちが,自分自身の弱さのゆえに意気消沈しているとき,理解のある言葉や希望を与える言葉は,なんとありがたいものでしょう! それによって心はさわやかにされます。それは仕事の重荷を軽くし,より大きな確信をもって問題に立ち向かえるようにしてくれます。また,将来に直面するために必要な力を私たちに与えます。激しい圧迫の下でもくじけない勇気を鼓吹します。神の御言葉はことに,励ましの益を力説しています。使徒パウロは,ローマの信者たちに手紙を書いたとき,次のように述べいます。「わたしはあなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて,力づけたいからである。それは,あなたがたの中にいて,あなたがたとわたしとのお互の信仰によって,共に励まし合うためにほかならない」。(ロマ 1:11,12,新口)パウロは,ローマの兄弟たちが,彼ら自身の弱さに悩まされ,またあらゆる種類の不義で満ちた世界に囲まれていたので,励ましを必要としていたことを知っていました。そして,その励ましを彼らに個人的に与えることを熱望しました。また彼は,その益が一方的なものでないことも認識していました。というのは,励ましを与えることは,お互いを強くすることになるからです。たしかにそれは,「共に励まし合う」ことになります。

      2 励ましとへつらいの違いについて述べなさい。励ましの最善の源はなんですか。

      2 パウロが,ローマのクリスチャンの徳を高めようとして与えた言葉は,へつらいから出たものではありません。節操のない古い世は,へつらいと励ましをしばしば混同します。へつらいは偽りであり,偽善であり,ほめすぎです。虚偽や偽善が,人を力づけることはなく,人の徳を高めることもありません。どちらかと言えば,へつらいを言う者が軽べつされるという結果を生み出すにすぎません。パウロも以前に,テサロニケ人に次のように書き送っています。「わたしたちは,あなたがたが知っているように,決してへつらいの言葉を用いたこともなく,口実を設けて,むさぼったこともない」。(テサロニケ前 2:5,新口)偽りの上にたてられた確信は妄想であり,真実にもとづかない希望は落胆に終るだけです。ですから,一国の指導者が,国家の危機にさいして国民の支持を保持するために,国民にうそをつくなら,そこには真の向上,すなわち力づけはありません。同じく,牧師が死者の状態について遺族にうそを言うなら,与えられた慰めは浅い,効力のないものになります。そこに真の慰めはありません。力になる励ましを与えるには,真実を語らねばなりません。(詩 146:4。伝道の書 9:5。ヨハネ 5:28,29)この腐敗した世界の失敗や,自分自身の弱点を悲しむ人々に,神の御言葉を語ることは,彼らに勇気を与え,彼らのささえとなる希望を与える最もよい方法です。

      神は模範を示される

      3 神はどのようにご自分から率先して励ましを与えられましたか。そしてこれは私たちにどのように影響しますか。

      3 エホバ神はご自分から率先して励ましを与えられます。アダムが人類を罪に陥し入れたすぐあと,神は救い主をおこすことを発表されました。そして,そうすることによって,当時まだ生まれていなかったアダムの子孫たちのために,希望のもといを設けられました。神はその約束をお忘れになることなく,かえってそれを後代のしもべたちに対する発表のなかで強調し,拡大されました。アブラハムに対してなされた御約束については,つぎのように述べられています。「この故に神は約束を嗣ぐ者に御旨のかはらぬことを充分に示さんと欲して善を加へ給へり。これ神のいつはること能はぬ二つの変らぬものによりて,己の前に置かれたる希望を捉へんとて遁れたるたるわれらに強き奨励を与えんためなり。この希望は我らのたましひの錨のごとく安全にして動かず」。(ヘブル 6:17-19)そうです,神は,希望の確かな基礎を設けることによってご自身のしもべたちを励まし,彼らの確信を強め,彼らが恐れなく将来に立ち向かえるようにしてくださいます。聖書に記録されている多くの確かな約束は,いまこの20世紀に住んでいる私たちにとって,無限の力の源です。「これまでに書かれた事がらは,すべてわたしたちの教のために書かれたのであって,それは聖書の与える忍耐と慰めとによって,望みをいだかせるためである」。―ロマ 15:4,新口。

      4 神の与えられる希望を受け入れる人々には,どんな責任がありますか。しかしそれがわずらわしいことでないのはなぜですか。

      4 神がお与えになったこの希望には責任が伴います。神の御名を負う人々は,神の御名と御目的を他の人々に知らせる神の証者でなければなりません。彼らは,神の御旨と一致するように自分の生活を調整しなければなりません。しかし神は,彼らをかりたてて能力以上に奉仕させ,奉仕を彼らの重荷にするようなことはされません。神は,羊飼が羊の世話をするのと同じく,やさしく彼らの世話をされます。「主は牧者のごとくその群をやしなひそのかひなにて小羊をいだき,これをその懐中にいれてたづさへ,乳をふくまする者をやはらかに導き給はん」。(イザヤ 40:11)神は,過度に要求して私たちから喜びを奪うようなことはされません。また,私たちがつまずくかも知れないというだけの理由で,私たちを退けることもされません。「エホバの己をおそるる者をあはれみたまふことは父がその子をあはれむが如し。エホバはわれらのつくられし状をしり,われらの塵なることを念ひたまへばなり」。(詩 103:13,14)エホバは,あわれみ深く,愛情と同情のあるかたで,そのゆるしは,進みつづける勇気を私たちに与えます。

      5 聖書に記録されている信仰の人々の物語を調べるとき,私たちはどんな反応を呼び起されますか。

      5 神への奉仕において耐え忍ぶには,強い信仰が必要です。しかしエホバは私たちの信仰を強めるために,あらゆる準備をもうけてくださいました。比類のない御約束に加えてエホバは,その模範によって私たちの勇気を鼓吹する多くの信仰の人で私たちを囲み,私たちの前におかれた競走のために,力をあらたにしてくださいました。まずアベルとサムソンがいます。彼らはエホバへの奉仕に命をささげました。ノアは,不信の世にありながら忠実を保ちました。モーセは,真の神に奉仕するために,エジプトのあらゆる富を捨てました。イスラエル人は,エホバがエジプトの追跡軍から自分たちを救ってくださることを確信しました。そしてダビデは,エホバの御名においてパレスチナの巨人ゴリアテに勇敢に立ち向かいました。「こういうわけで,わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競争を耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか」。―ヘブル 12:1,2,新口。

      6 私たちの信仰の導き手であり完成者であるかたの模範は,私たちにどんな影響をおよぼしますか。

      6 信仰の導き手であり,その完成者であるかたを見つめるとき,私たちは何をみますか。やはり勇気を奮いおこさせるものです! それはイエスが,神から与えられた私たちの模範だったからです。私たちはイエスに,私たちの歩むべき道の生きた模範をみます。イエスの足跡にしたがって歩む私たちの一歩一歩は,満足と喜びの源であって,心に休みを与えます。イエスご自身こう言われています。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである」。―マタイ 11:28-30,新口。

      7 (イ)なぜ真のクリスチャンは迫害に会わねばなりませんか。しかし,なぜ勇気を出しますか。(ロ)『兄弟たちを力づけてやりなさい』というイエスの助言をペテロはどのように実行しましたか。

      7 イエスの足跡に従うと,古い世から迫害されるのは事実です。「いったい,キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は,みな,迫害を受ける」。(テモテ後 3:12,新口)イエスご自身も,「『僕はその主人にまさるものではない』…もし人々がわたしを迫害したなら,あなたがたをも迫害するであろう」と言って,そのことを警告されています。しかしこれとてクリスチャンのエホバの証者を落胆させることはできません。彼らは,イエスが死なれるまえの晩に言われた次の言葉を思い起します。「この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしは世に勝っている」。(ヨハネ 15:20; 16:33,新口)使徒たちは,たしかに勇気を出しました。ペテロがよろめいて主を知らないといったのは事実ですが,彼は悔い改めました。それはイエスが彼にこう言われていたからです。「しかし,わたしはあなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈った。それであなたが立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい」。(ルカ 22:32,新口)ペテロはそのとおりにしました。彼の忠実な奉仕は,クリスチャンの兄弟たちにとって力の源でした。ペテロが彼らに語った言葉は徳を高めるものでした。また彼は励ましの手紙を書きました。「わたしは…この短い手紙をあなたがたにおくり,勧めをし,また,これが神のまことの恵みであることをあかしした。この恵みのうちに,かたく立っていなさい」と彼は述べています。(ペテロ前 5:12,新口)ペテロは,だれも神の組織を捨てて偽りの教えにそれて行くようなことをしてほしくなかったのです。しかし彼らが,この世からの絶え間ない圧迫の下にいることを知っていました。そこで彼は,彼らを励まし,真の信仰をもっているという彼らの確信を強めるために,正典と認められている最初の手紙を書きました。

      励ましの手紙

      8 ペテロは,正典と認められている第一の手紙を書くにさいして,大きな励ましとなるどんなことを論じましたか。私たちはそれからどのように益を得ますか。

      8 ペテロは,仲間のクリスチャンを励ますのに,はたしてどんなことを述べて,互いに励ましあう模範をわたしたちに示したでしょうか。彼は,神から与えられた希望こそ自分の最も大きな力の源であることをよく知っていたので,その希望について書きました。もしその希望に対して,クリスチャン兄弟たちがより深い感謝の心をもつように激励することができたなら,彼らにとって非常にためになることを知っていたのです。ですからペテロは,彼らの望みが「生ける望み」,信頼できるもの,失望に終ることのない期待であることを強調しました。「ほむべきかな,わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は,その豊かなあわれみにより,イエス・キリストを死人の中よりよみがえらせ,それにより,わたしたちを新たに生れさせて,生ける望みをいだかせ,朽ちず汚れず,しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは,終りの時に啓示さるべき救いにあずかるために,信仰により神の御力に守られているのである」。この希望は,彼らの間に大きな,言葉に表わせないほどの喜びをもたらしました。この希望は預言者たちが,神の御霊に動かされて預言していたものでした。それは天使たちさえ,うかがい見たいと願っていたことがらでした。しかし神はそれをクリスチャンの男女に与えられたのです。彼らはどんなに感謝したことでしょう! そのことは,どんなに彼らを力づけ,ふるい立たせたことでしょう!(ペテロ前 1:3-5,8-12,新口)14万4千人でなるキリストの「小さき群れ」の成員のひとりとして天の生命に召されていようと,『地にながらえる正しい人々』に加わることを願う者であろうと,彼らが,神の御約束に心を注ぎ,聖書によってそれらを研究し,熟考し,クリスチャンの兄弟たちとそれについて討論し,また他の人々にそれを伝えることから,いちばん大きな励ましを得ることは,今日に至るまで変りません。―ルカ 12:32。箴言 2:21。

      9 クリスチャンの希望は,迫害に対抗する能力にどのように影響しますか。

      9 この信頼できる希望から生まれる力が非常に大きいために,クリスチャンは,激しい信仰の試みに会っても,喜び,かつ自分の立場を固守することができます。ですからペテロはさらにこう言葉をつづけています。「そのことを思って,今しばらくのあいだは,さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが,あなたがたは大いに喜んでいる。こうしてあなたがたの信仰はためされて,火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ,イエス・キリストの現れるとき,さんびと栄光とほまれとに変るであろう」。(ペテロ前 1:6,7,新口)パウロもまた,その前途の希望と忍耐の問題とを結びつけて,「望みをいだいて喜び,患難に耐え…なさい」と言いました。神が賜わる望みから生ずる驚くべき力の例はイエスの場合に見られます。それについてはこう書かれています。「彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥辱をもいとわないで刑柱を忍び,神の御座の右にすわったのである」。キリストの模範をつぶさに考慮する人は,疲れ果てて意気そそうすることはなく,やめることもありません。―ロマ 12:12。ヘブル 12:2,3,新世。ペテロ前 4:13,14。

      10 どんな活動のために心を引きしめるようにとペテロはクリスチャンたちにすすめていますか。これに関連して私たちは互いに何をすべきですか。

      10 どのクリスチャンにも,なすべき重要な仕事があります。ですから私たちは,ペテロの第一の手紙を通して励まされ,『心を引きしめてその仕事にかかる』ようにすすめられているのです。私たちにはまた,同じような励ましをお互いに与えあう義務があります。キリストのからだを構成する油そそがれた成員の仕事は,エルサレムの宮で奉仕した祭司たちのそれに似ています。というのは,彼ら自身が「霊の家に築き上げられ,聖なる祭司となって,イエス・キリストにより,神によろこばれる霊のいけにえを,ささげ」るからです。彼らは動物の犠牲ではなく,霊の犠牲,「さんびのいけにえ,すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を」ささげます。(ペテロ前 1:13; 2:4-9。ヘブル 13:15,新口)彼らは,この世の霊的暗やみから,驚くべき真理の光に招き入れて下さったエホバ神の,愛に満ちた御目的を語り伝えるのです。そういう奉仕をするには,霊的な力がぜひとも必要です。

      11 神の御言葉を導きとしてもっている私たちは,世の人々の恐れとなっているものをどのように見るべきですか。それで何をするように要求されていますか。

      11 彼らは,自分の道を照らす神の御言葉の真理をもつゆえに,この世がもつ恐怖をもちません。また,この世の危機に心を動揺させません。彼らはつぎのいましめに従います。「彼らの恐れるものを恐れたり,心を乱したりしてはならない。ただ,心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし,おだやかに,深い尊敬をもって弁明しなさい」。(ペテロ前 3:14,15,新世)彼らは,彼らのとる立場のゆえに,なぜこの世の事柄にあずからないか,なぜほかの人たちと同じように,この世の諸制度を永続させることに専念しないのか,絶えずその理由の説明を求められます。彼らは,なぜ自分たちがこの世の一部でないかと説明しなければなりません。この世の人々の目には,彼らの立場は道義上間違っているように見えるかも知れません。ですから彼らは弁明しなければなりません。しかし,いらいらした気分でするのではなく,おだやかに,慎み深い態度で弁明しなければなりません。そして,自分たちが神とその御子に希望を置いていること,人間よりも神を支配者として従わねばならぬことを明らかにします。また,神に献身した者ですから,この世の友になろうとすることは,自分を神の敵とすることになるので,間違いであることを説明します。敵意のある世界のまっただ中で,そのような立場を維持するには勇気がいります。―ペテロ前 1:20,21。ヨハネ 15:19。ヤコブ 4:4。

      12 (イ)だれが油そそがれた残れる者たちと一緒になって伝道したり教える仕事をするようになりましたか。そしてそれはどんな影響をおよぼしましたか。(ロ)クリスチャンは,奉仕に参加するときに,お互いに強め合うことができるということを,ペテロはどのように示していますか。

      12 いまこれらの油そそがれた証者たちは,他の人々の大群衆と一緒になっています。この大群衆は,宮級と共に奉仕する献身した人々で,宮級にとって大きな励ましとなるものであり,彼らと共に,イエスの次のご命令を遂行する人々です。「それゆに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として…あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。(マタイ 28:19,20,新口。黙示 7:9,10)これは,急を要する,そして協力し,努力しなければならない大仕事です。この目的を達成するために,ペテロはクリスチャンたちに,「互の愛を熱く保ち」,「互にもてなし合」うことによって,互の徳を立てるようにすすめています。彼らは共に働かねばなりません。イエスでさえ,「見よ,私はこの組織制度の終りまでいつもあなたがたと共にいるであろう」と言われています。なんというすばらしい励ましでしょう!―ペテロ前 4:8-11,新世。

      13 使徒ペテロは,他にどんな種類の励ましを第一の手紙に書いていますか。何と言っていますか。それは私たちをどのように力づけてくれますか。

      13 ペテロはまた,世の腐敗した状態を考慮して,他の面でも励ましが必要であると考えました。それは賞賛のかたちをした励ましではなく,また彼らを希望でみたすように意図された事柄についての話でもありませんでした。むしろこれは,悪行を避けよという勧告のかたちをとった励ましでした。「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは,この世の旅人であり寄留者であるから,たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」。「過ぎ去った時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて,好色,欲情,酔酒,宴楽,暴飲,気ままな偶像礼拝などにふけってきたが,もうそれで十分であろう」。そのような助言は私たちすべての者のためになります。私たちが,腐敗した世と絶えず接していることを考えると,この助言は,何が善で何が悪かを常に心に留めて置く助けになります。それは,この世の曲がった考えに染まないように私たちを守り,また,罪深い行いに対する正しい憎しみをいっそう強くします。それは私たちが,これらの「肉の欲」とはどんなものであるかを,はっきりと心に留めておくのに役立ちます。肉の欲は,さがし求めるべきものではなく,たましいに戦いをいどむ敵です。もし私たちがゆるすなら,この敵は私たちの生活の中にずるずると入りこんできて,最後に私たちの生命,すなわちたましいを滅ぼしてしまいます。ですから私たちにはこのような励ましが必要です。そしてエホバは,使徒を通して初期クリスチャンたちにお与えになったと同じように,現代のご自身の崇拝者たちにも,励ましを与えて下さいます。―ペテロ前 2:11,12,16; 4:3-5,新口。

      14 圧制的な主人に雇われて働いている人々のために,どんな励ましの言葉が述べられていますか。今日でもこの助言は,どのように多くの人の益になりますか。

      14 ペテロはまた,兄弟たちが直面する,そして彼らの崇拝に影響する勇気をくじくような家庭内の問題や雇用の問題を励ましの手紙の中でとり上げています。たとえば,ある者は,主人が苛酷なために苦しんでいました。主人の所有物としてのどれいだったある人々は,神の御旨を行なうことを望んだために,ひどく虐待されたようでした。彼らは「神に対する良心」のゆえに苦しんでいました。それは,今日多くの人々が,キリスト教の信仰をもつゆえに,この世の雇主から差別待遇を受けるのと同じことでした。彼らはそういう事態をどうみるべきでしたか。「善を行なって苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである」とペテロは書きました。そしてひきつづき,彼らの状態とキリストご自身の状態とを比較してこう述べています。「あなたがたは,実に,そうするようにと召されたのである。キリストも,あなたがたのために苦しみを受け,御足の跡を踏み従うようにと,模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず,その口に偽りがなかった。ののしられても,ののしりかえさず,苦しめられても,おびやかすことをせず,正しいさばきをするかたに,いっさいをゆだねておられた」。従うべきそういう模範があることは,ほんとうに大きな励ましになります!―ペテロ前 2:18-23,新

      15 (イ)ペテロはクリスチャンの妻たちへの励ましとして,彼女たちの注意を何に向けさせていますか。(ロ)夫たちには,励ましとしてどんな助言が与えられましたか。(ハ)お互いに力づけ合い,助け合いたいなら,夫と妻の両方が何に心をそそがねばなりませんか。

      15 クリスチャンの妻なら,神を信じない夫と結婚している人でも,この同じ服従の立派な模範に従うようにすすめられています。なぜならペテロは,妻たちへの助言を始めるまえに,「同じように」という表現を用いて,服従にかんする前述の言葉に彼女たちの注意を引いているからです。彼女たちもやはりキリストを模範にすることができるのです。そして,現在でも第1世紀におけると全く同じく,彼女たちの模範となります。忍耐の結果について彼女たちを励ますために,ペテロはこう助言しています。「夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによって,救に入れられるようになるであろう」。夫たちも,彼ら自身の問題をもっていて,励ましを必要とします。そこで,既婚者であり,またエホバの聖霊に動かされたペテロは,彼らが直面していた問題について論じ,理解をもって妻に対するようにつとめること,また妻を「自分よりも弱い器で,かよわい者」であることを認めるように夫たちにすすめています。ですから夫は妻に男と同じ感情的反応を期待したり,男と同じように働くことを期待すべきではありません。夫と妻の両方が,常に心に留めておかなければならないほんとうに大切なことは,神と彼らとの関係です。そして,永遠の生命という賞を捕えるために互いに助け合うという気持が家庭のいざこざで弱くなるようなことが,絶対にあってはならないわけです。なんという実際的な助言でしょう! すべての人が,自分のもっているむずかしい問題を取りあげてもらえたこと,導きになるキリスト教の原則を指摘してもらえたこと,また困難な状態の下にいながら彼らの忠実さによって成し遂げられていた善いことが強調されたことは,すべての人にとってどんなに大きな助けになったことでしょう! 霊感によって書かれたこの同じ手紙は,困難の多いこの時代に住む私たちにとっても力になります。―ペテロ前 3:1-9。

      16 ペテロ前書 5章では,どんな事柄が監督たちと論じられていますか。なぜですか。

      16 ペテロの手紙には,監督たちのことも述べられていて彼らは励ましなどいらないかのように見のがされてはいません。それどころかペテロは,彼らが特に感謝するであろう事柄について彼らと論じました。奉仕に対する正しい見方,神と兄弟たちに対する関係,むずかしい問題や迫害に対処する方法などがそれです。「神の資産である」「あなたがたにゆだねられている群れを牧しなさい」とペテロは言いました。いまでも,自分の監督の下にある会衆内の人々が,神のものであることを思い起すとき,深く感動しない監督はいません。問題をこのように見るなら,監督は『群れの上に権力を振う』こともなければ,ごうまんになることもなく,かえって次の助言に注意します。「だからあなたがたは,神の力強い御手の下に,自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから,自分の思いわずらいを,いっさい神にゆだねるがよい」。自分ひとりで全部の荷を負わなくてもよい,ということを知るのは,けんそんな監督にとってほんとうに大きな励ましです。監督は,問題の処理について神の導きに頼り,自分の思いわずらいをいっさい神にゆだね,神の御言葉を調べて導きを求め,祈りのうちに神をさがし求めるようにすすめられています。またサタンの世から迫害される時でも監督はひとりではありません。なぜならペテロが次のように言っているからです。「同じ苦難は,全世界にいるすべての兄弟にも降りかかっていることを知り…なさい。しかし,あなたがたを,キリストにある永遠の栄光に招き入れてくださったいつくしみ深き神は,あなたがたのしばらくの苦しみの後,あなたがたの訓練をご自身で終わらせて,あなたがたをかたくし,強くされるであろう」。(ペテロ前 5:1-10,新口,新世)監督は勇気を出すよい理由があります。

      17 それで実際にはだれが偉大なる力の与え主ですか。なぜそう言えますか。

      17 エホバご自身が,その民に勇気を与えるかたであることは疑問の余地がありません。エホバこそ,私たちがいままで検討してきた励ましの言葉を書くように霊感を与えたかたです。神ご自身の御言葉である聖書にのせられている御約束こそ,私たちを希望で満たすものです。エホバは私たちが,生活の諸問題に首尾よく対処できるように,私たちを教えてこられました。エホバが後援してくださるのですから,たとえ世界の反対に面しても,私たちは自分の立場を固守することができます。ですから私たちはダビデと共に言います。「エホバはわが力わが盾なり,わが心これに依頼みたれば我たすけを得たり,然る故にわが心いたくよろこぶ,われ歌をもてほめまつらん。エホバはその民のちからなり」。―詩 28:7,8。

  • 他のひとびとを励ます
    ものみの塔 1963 | 10月15日
    • 他のひとびとを励ます

      1 他の人を励ますのはなぜクリスチャンの責任と言えますか。この点においてどんな立派な模範がありますか。

      ほかの人々を励ます機会はだれにでもあります。そしてその機会を有効に用いるなら,どんなに感謝されることでしょう! エホバは,だれにもまして励ましを与えるかたです。私たちの弱点をゆるし,私たちの希望を強くし,また試みに耐え,前途に横たわる仕事を行なっていくために,私たちを力づけてくださいます。エホバの御子イエス・キリストも同じく,病気の者や苦しむ者にあわれみを示し,良いたよりを宣べ伝えるときに弟子たちと共に働いて模範を示し,彼らのために命を捨てることさえして,良い心の人々を励ますかたであることを証明されました。(ヨハネ 15:13)使徒たちも,自分の使命を果たすには,能率的に伝道活動を行なうというだけでなく,仲間の働き人を愛をもって励まさねばならぬことをよく認識していました。そして彼らは,徳を高める手紙や,個人的な訪問,諸会衆に対する心をふるい立たせる話などをして,励ましを与えました。(ペテロ前 5:12。ヘブル 13:22。使行 11:23; 20:2)何というすぐれた模範でしょう。私たちはぜひともそれらの模範に従わねばなりません。私たちは聖書から,神にならう者になること,御子の足跡に従うこと,使徒たちがキリストにならったと同じく使徒にならうことをすすめられているからです。それで,私たちには互いに励まし合う義務がある,ということになります。―エペソ 5:1。ペテロ前 2:21。コリント前 11:1。

      2 私たちの周囲の世界では,どんながっかりするような事が行なわれていますか。なぜそういうことが一般的になっているのでしょうか。

      2 しかし,私たちの周囲の世界では,人々は互いに悩まし合い,自分が出世したいばかりに,他の人の方針や技両をけなす傾向があります。他人を突き落として,自分の競争相手になれないようにします。使用人が仕事を立派にするときでも,ほめ言葉一つ与えずにおいて,一つでも間違いをすればただちに呼びつけて叱る,ということはよくあることです。主婦もまた,夫が自分のすることを当然と考えるなら,がっかりします。そのような精神は,家庭においてであろうと,実業界においてであろうと,人々が以前もっていたかも知れない仕事への喜びを奪って,彼らを落胆させ,孤独にします。その結果,世界中で毎日1万人以上が自殺すると報告されています。故意にするにせよ,無関心のためにせよ,それは仲間に対するなんという恥ずべき利己的な行為でしょう! どこが間違っているでしょうか。何が欠けていますか。励ましです。しかしなぜ励ましですか。なぜなら,励ましは愛にもとづいて与えられるものだからです。そしてこの世は愛のない世です。私たちの住むこの終りの時代に,人々が「自分を愛する者」となり,対人関係においては「恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情なる者」になるということは,ずっと昔に預言されていました。―テモテ後 3:1-3。

      与えるという面から考える

      3,4 人が励ましを与えてくれない場合,私たちはどういう態度をとるべきですか。

      3 私たちの接する人がすべて励ましになる人でないことはいうまでもありません。ある人々は,自分のことばかり考えて,人に親切にする機会などわからない人かも知れず,また別の人は,他人を苦しめてもなんら良心のとがめを感じない人かも知れません。そういう人々が私たちに思いやりを示さないなら,私たちも彼らにならって愛のない者になるべきですか,それは非常に愚かな行いです! 私たちの従うべき模範は,キリストであって,利己的な人間ではありません。キリストは虐待されても,そのしかえしに虐待するようなことはされませんでした。自分の教え励ましてきた弟子たち,仲間の崇拝者たちが,彼を捨てたとき,キリストは彼らを非難し,わざを止めてしまいましたか。そうではありません。キリストは,天の御父の御旨を行なうことこそ重要なことと知っておられました。そして天の御父にご自分をゆだねられました。

      4 イエスは,私たちもまた受けるよりはむしろ与えるほうの面から考えるようにすすめられました。「受けるよりは与える方が,さいわいである」。(使行 20:35,新口)多くの場合それは真実です。また励ましになることも事実です。自分を励ましてくれるべきだと考えているときに人がそうしないからといって,そのことをひどく気にするなら,落胆するでしょう。それよりむしろ人を励ます機会を求め,他の人から受ける励ましは余分のわけ前くらいに考えてはいかがでしょうか。できるときに励ましを与えない人ですら,彼ら自身が気落ちしているために与えない,ということもしばしばあることを考えてください。彼らも励ましがいるのです。そういう人々にがっかりしたり,失望するよりも,自分を落胆させるような人にでも,同情的で,力づけになるくらいのほうが,どんなにかましでしょう。励まされるのはたしかにうれしいことです。しかし励ますほうがもっとさいわいです。

      5 励ましを与えるにはどんな方法がありますか

      5 励ますには,多くの方法があります。心のこもった賞賛の言葉は,働く者にとって大きな意味があります。自分に示された親切やサービスに対する心からの感謝の言葉だけでも,同じことをもっと多く,しかも上手にしようという気持を人に持たせます。親切な行為が,言葉よりも雄弁に語って,関係者一同の士気をささえる場合も少なくありません。友情もまた,失望した,あるいは孤独な人々を励ますでしょう。そして,そういう人たちに良いたよりを分かつなら,彼らの見方も明るくなるでしょう。親しいほほえみだけでも人の心を暖かくします。けれども,こうしたことよりもっとよいのは,神の御言葉から希望を与えること,また言葉と手本の両方によって勧めをなし,善を行なう力と勇気を他の人にもたすことです。もし私たちが励ましを与える面から考えさえすれば,思いの外に多くの機会を見つけることができるでしょう。

      家庭内で

      6 ほかの人を励ます習慣をどこでつけるべきですか。なぜですか。

      6 まず機会を見つける手始めとして好適の場所は自分の家です。家の中で習慣づけておくと,ほかの場所でもそれが自然に出てきます。励ましの基礎になるものはもちろん愛です。愛はまた家族を結びつけるものです。そのことについてパウロはコロサイ人に次のように書き送っています。「だから,あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい。互に忍びあい,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。主も[エホバ=新世]あなたがたをゆるして下さったのだから,そのように,あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。(コロサイ 3:12-14,新口)この神の助言を受け入れる人々が一緒にいるということは,どんなにお互いを力づけることでしょう!

      7,8 夫が妻を励ますにはどんな機会がありますか。それはなぜ大切ですか。

      7 夫が妻を喜ばせたいと思い,妻が夫を喜ばせたいと願うのはしごく当然です。(コリント前 7:33,34)けれども,非常に大きな意味をもつものがしばしば軽視されることほどがっかりさせられることはありません。妻が,家の掃除をしたり,家族の食事を準備したり,その他夫を喜ばすために一生懸命働いても,それをただあたりまえのことと考えられるなら,がっかりするでしょう。しかしあなたは,妻がそうするのは当然なのに,いまさらほめる必要があるだろうか,と言われるかも知れません。聖書はこう答えています。「その子らは立ち上がって彼女を祝し,その夫もまた彼女をほめたたえて言う,『りっぱに事をなし遂げる女は多いけれども,あなたはそのすべてにまさっている』と」。―箴言 31:28,29,新口。

      8 たとえ弱点のある場合でも,それを不当に誇張することによっては,家族の愛のきずなは強化されません。必要ならその問題を取りあげることもできます。しかしことにこれまでのよい働きを見,それに対する感謝の気持を表わすことを忘れてはなりません。たとえ小さなことに対する賞賛の言葉でも,これからもそういうことをもっと多く,上手にしようという気持と力を人に与えるものです。同様に,事故が起きた場合にも,励ましを与える機会があります。「彼らはもはや,ふたりではなく一体である」という言葉の意味をよくわきまえている夫は,手をかそうともしないで「お前はどうしてこうも無器用なんだ」と妻をしかったりなどしません。彼女はすでにそのことをひどく悲しく思っているかも知れません。なぜそれに油をそそぐのですか。なぜ妻の気持を自分の気持同様に重視しないのですか。親切な言葉と,ちょっとした援助は,真の励ましになります。それは小さなことですが,愛の表れです。そして愛こそ完全な一致のきずなです。―マタイ 19:5,6。

      9 クリスチャンの妻は,どんな方法で夫の徳を高めることができますか。

      9 良い妻はまた,その勤勉さにあって,夫の徳を高めます。「その夫の心は彼女を信頼して,収益に欠けることはない。彼女は生きながらえている間,その夫のために良いことをして,悪いことをしない。彼女は家の事をよくかえりみ,怠りのかてを食べることをしない」。(箴言 31:11,12,27,新口)そういう妻は,夫のかしらの権からのがれようとする競争者ではなく,夫に協力し,進んで夫の指示のもとに働きます。また目前の幸福ばかりでなく,自分たちの永遠の福祉についても考えます。彼女は「エホバを畏るる女」です。(エペソ 5:22,23。箴言 31:30)そういう性質ですから,家族の霊的福祉を第一にし,物質については,「ただ衣食があれば,それで足れりとすべきである」という見方をします。そのようにして彼女は,物質主義のわなを避け,また神への奉仕をさまたげる過度な経済的負担から生ずるわずらいを避けます。(テモテ前 6:6-8。マタイ 13:22)そして,他の関心事を表面に出さないことと,霊的な事柄に関する彼女自身の強い関心とによって,夫がそれらの霊的事柄に当然の注意を向けるように励まします。

      10 子供たちは何に努力をそそぐように励まされるべきですか。なぜですか。

      10 子供の場合でも,霊的事柄の価値を学ぶのを助けてやる以上に大きな励ましはありません。もし子供たちが,神の原則を徹底的に教えられていないなら,彼らの人生に起こってくるわずらいや失敗によって,絶え間ない焦燥と悲しみを感じさせられるでしょう。(コロサイ 3:21。エペソ 6:4)物質を追い求め,すべての精力を経済面の仕事にそそぎ込むように教えられてきたなら,それは子供たちにとって祝福にはなりません。だれがするにせよその悪のゆえに神に滅ぼされることになっている世界の中で,建てることにあらゆる努力をかたむけるのは,なんと残念なことでしょう! 神への奉仕に,そしてできれば全時間開拓奉仕者として,献身するほうが,どんなにかよく,どんなにか大きな報いがあり,どんなにより大きな励みになるでしょう。それは詩篇記者が神に向かって,「あなたの大庭にいる一日は,よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは,むしろ,わが神の家の門守となることを願います」。(詩 84:10,新口)そのような生き方を追い求めるように子供を励ますことは,子供への愛の表われです。もちろん子供も,励ますことを学ばねばなりません。

      11,12 若い人々が両親を励ます機会がありますか。どのように?

      11 若い人々もやはり与えるほうの側から考えるように学ぶことができます。みんなが自分の世話をやいてくれるべきだ,という考えかたをすべきではありません。一生懸命働いている両親に感謝を示し,両親が話すときにはよく聞いて従い,また両親の指示の下に必要な家事を進んで手伝い,そのうえに,しなければならない仕事を見つけたなら,自分から進んで手伝いを申し出ることを学ぶ必要があります。家庭の外にいるときの行いによっても,子供たちは,自分とほかの人たちを幸福にすることができます。「あなたを生んだ父のいうことを聞き,年老いた母を軽んじてはならない。正しい人の父は大いによろこび,知恵ある子を生む者は子のために楽しむ。あなたの父母を楽しませ,あなたを産んだ母を喜ばせよ」。―箴言 23:22-25; 10:1; 15:20; 19:13。

      12 この助言に従うなら子供たちは,両親が老いた時でも,両親の愛に対して必ず感謝を示すでしょう。テモテ前書 5章の4節と8節には,その助言がしるされています。「やもめに子か孫かがある場合には,これらの者に,まず自分の家で孝養をつくし,親の恩に報いることを学ばせるべきである。それが,神のみこころにかなうことなのである。もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい」。年老いても子供に忘れられないということは,両親にとってなんという励ましでしょう!

      監督の責任

      13 (イ)なぜ監督には励ましを与える特別の責任があるのですか。(ロ)これに関連して,どんな点に考慮を払うのはよいことですか。

      13 特に親しい間柄の者や自分の家族の者はもちろん,それ以外にも,だれでも自分の仲間を励ますことができますが,とりわけ監督の地位にある人たちは,励ますにせよ落胆させるにせよ,他の人々に対していちばん大きな影響力をもっています。そのために監督は,機会を敏感に認める義務があり,責任があります。この点彼らは,偉大なる監督であられるエホバ神とイエス・キリストから多くのことを学ぶことができます。その真理の御言葉によってエホバは私たちに希望を与え,私たちの徳を高め,能力以上の働きをしいられることもありません。かえってご自分の民に愛に満ちた心づかいを示されます。あなたは監督として,自分と一緒に働く人々の徳を高めるためにあなたの言葉を用いますか。また,ひとりびとりの体力や能力の限界を思いやりますか。仕事について話すために人々の家に立ち寄るとき,彼らはほんとうにあなたが来たのを喜びますか。それとも,こんどはいったいどんな悪いことだろう,と心配しますか。イエスの弟子たちは,イエスが交わって下さるのを感謝していました。彼らはイエスを主とか先生とか呼びましたが,イエスは自分が同労者であることを証明されました。イエスは彼らの監督でした。しかし,なすべき仕事を彼らと一緒にすることによって手本を示す監督でした。(ペテロ前 2:25)イエスは弟子たちが,へりくだることを学ばねばならぬことを知っておられました。そして彼らを絶えずはずかしめることではなく,ご自身が生活において実際にへりくだってみせることによって,それを教えられました。(ヨハネ 13:1-17)イエスと一緒に働いた人々は,イエスが苛酷で辛らつな言葉を使ったり,急いでいるからといって彼らの言葉に耳をかさないような人ではなく,「柔和で心のへりくだった者」であることを知り,またイエスとの交わりにおいて『魂に休み』を得たのでした。―マタイ 11:29,新口。

      14 (イ)監督は自分が教える者であることをどのように示しますか。そして兄弟たちにどんな影響を与えますか。(ロ)能率が愛によって調節されているなら,それは人を扱うさいにどんな影響をおよぼしますか。

      14 ですからキリストにならう監督は,ほかの人にこうこうしてくださいと言うだけでなく,資格ある教師として,彼らと一緒に働きながら,それを行なって見せます。監督は群れの模範です。(テモテ前 3:2)また,自分はクリスチャンの兄弟たちの上にいるというような考えかたをしないので,群れは監督に親しみを感じ,彼から援助が得られるという確信を得ます。(マタイ 23:8)彼らは監督が,わざを成し遂げることの重要さをわきまえており,また能率的に行なうように努力していることを知っています。しかしまた,監督に愛があるから,仲間の働き人を忍耐と理解とをもって扱うのだ,ということも知っています。

      15 ある人が十分な働きをしない場合,あるいは実際に間違ったことをする場合,監督はそれにどのように対処し,またどんな目的をもって対処するように聖書は勧告していますか。

      15 人々が時に,十分なことをしなかったり,間違ったことをする場合があるのは事実です。そしてその事態が適切に処理されるようにするのは監督の責任です。それは,間違いをした人を叱ったり,罵倒するときですか。それは必要ですか。その人は無意識に間違いを犯したかも知れません。そういう事態の扱い方について聖書がどう言っているか注意してください。「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら,霊の人であるあなたがたは,柔和な心をもって,その人を正しなさい。それと同時に,もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと,反省しなさい」。(ガラテヤ 6:1,新口)目標は,間違いをした人を元に戻すことであって,むち打つことではありません。それには柔和な心が必要です。柔和な心で対処すれば,間違いをした人の徳を高める結果になるでしょう。

      16 エリフはヨブに助言するにさいし,正しい見解をどのように示しましたか。

      16 この点に関連して,エリフがヨブに向かってどのように助言を切り出したかに注意してください。「だから,ヨブよ,今わたしの言うことを聞け,わたしのすべての言葉に耳を傾けよ。見よ,わたしは口を開き,口の中の舌は物言う。わたしの言葉はわが心の正しきを語り,わたしのくちびるは真実をもってその知識を語る…。あなたがもしできるなら,わたしに答えよ,わたしの前に言葉を整えて,立て。見よ,神に対しては,わたしもあなたも同様であり,わたしもまた土から取って造られた者だ。見よ,わたしの威厳はあなたを恐れさせない。わたしの勢いはあなたを圧しない」。こう言っておいて彼は,事態についてヨブに説きすすめます。しかしエリフがどのように問題をとりあげたかに注意してください。彼はヨブに熱心に頼みました。また,神のみまえでは自分がヨブよりすぐれているとは少しも考えないこと,自分が言おうとすることに対してヨブが恐れる必要のないことをはっきり述べました。なんと立派な措置の仕方でしょう!―ヨブ 33:1-7。

      17 他の人を戒しめることについて,使徒パウロはテモテにどんな助言を与えました。ある人が故意に罪を犯してやめないことがわかったなら,どのような処置をとるべきでしたか。

      17 パウロがテモテにすすめたのも,ちょうどそれと同じ方法でした。「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように,話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように,年とった女には母親に対するように,若い女には,真に純潔な思いをもって,姉妹に対するように,勧告しなさい」。(テモテ前 5:1,2,新口)しかし非行者が常に罪を犯して,心からの悔改めを示さない時,励ます必要のあるのは正しい行いであって,非行者ではありません。意識的に罪を犯しているということが十分に証明された場合,それは同じ章のあとのほうすなわちテモテ前書 5章20節の次のいましめを適用する時です。「罪を犯した者に対しては,ほかの人々も恐れをいだくに至るために,すべての人の前でその罪をとがむべきである」。―ヘブル 12:7-11,新口。

      すべての人の機会

      18 (イ)どのくらいの人々が実際に他の人々の生活に影響をおよぼしますか。それで,その影響力をどのように用いるべきですか。(ロ)クリスチャンの監督のことを話したり,また奉仕の特権を拡大することを希望している人々と話をするとき,私たちはどのように相手の徳を高めることができますか。またどんな例がその重要さを示していますか。

      18 家庭内であろうとほかの場所であろうと,会衆のしもべであろうとなかろうと,互いの徳を高め励まし合う機会はだれにでもあります。だれもが自分の周囲の人々に影響を与えるものです。人の徳を高めることもできれば,それを破壊することもできます。刺激を与えることもできれば,無関心をかもし出すこともできます。人は,望む望まぬにかかわらず,影響力をもっています。ですからその影響が,有益なものであるようにしましょう。コロサイ書 3章8,9節にしるされている立派な助言に従うなら,私たちの言葉は良い影響力をもつものになるでしょう。「怒り,憤り,悪意,そしり,口から出る恥ずべき言葉を捨ててしまいなさい」。もし良いものを心に取り入れたなら,そして心が健全な望みで満ちているなら,私たちの話すことは人の徳を高めるでしょう。なぜなら,心に満ちることを口が語るからです。(マタイ 12:34,35)もし心が正しいなら私たちは,クリスチャンの監督や,エホバの制度を通してくる助言を,デオテレペスがしたようになみしたり,軽視したりせず,神の会衆を忠実に監督している人々は「二倍の尊敬を受けるにふさわしい」と考えるでしょう。(ヨハネ第三書 9。テモテ前 5:17,新口)そして,全時間開拓奉仕をするとか,御国奉仕者の必要の大きい地方に移住するなどして奉仕の特権を拡大したいと思っている人々に向い,勇気をくじくような話しかたをすることもないでしょう。また,敗北主義者的な報告をもたらしてイスラエル人の勇気をくじき,約束の地に向って進むよりもエジプトに引き返したいという考えをイスラエル人に持たせたあの信仰のない探偵のようにもならないでしょう。むしろ,忠実なヨシュアやカレブのように,彼らに開かれている奉仕の特権を捕えて勇気を示すようにすすめるでしょう。―民数 13:27–14:9。

      19 私たちはほかにどんな方法で互いに励まし合うことができますか。

      19 私たちは,神への奉仕に対する熱意と忠実さによって,お互いに力になることができます。奉仕に熱心に参加して手本を示すことにより,他の人がそうするように援助できます。奉仕で得たよい経験を他の人々に話したり,聖書の研究から集めた知識の珠玉を彼らに分かつことは,ちょうど使徒たちがクリスチャンの兄弟たちを訪問したときのように,互いを励ますことになります。(使行 15:3,30,31)また私たちは,病気の人や苦しんでいる人,義のために投獄されている人々のことを心配し,できる所であれば彼らと連絡を保つことによって,彼らの心を強めることができます。(コリント後 7:6,7。使行 28:15)サタンの世と妥協しないことによっても,他の人々が自分の立場を固守するように援助できます。また,自分の都合を考えないというだけでなく,互いの徳を高めるために必要とあらば命や自由を危険にさらすこともあえて辞さないまでの進取的な気持があれば,私たちは恐れることなく神の御言葉を話すように互いに勇気を与え合うことができます。献身したエホバの証者がみな,そのような機会を十分に利用して,互いに励まし合いますように。

      20 「相互の徳を高め」ることについて,テサロニケ前書 5章11節から15節にはどんな助言がありますか。

      20 ですから私たちは,自分の周囲の人々の必要をよく考え,天の御父とその御子の手本にならって互いに励まし合いましょう。「だから,あなたがたは,今しているように,互に慰め合い,相互の徳を高めなさい」。クリスチャンである監督たちについて人と話す時は,監督に対する彼らの考えかたをよくするように,また監督と一緒に働くさいには,監督の徳を高めるようにしなさい。「兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか,あなたがたの間で労し,主にあってあなたがたを指導し,かつ訓戒している人々を重んじ,彼らの働きを思って,特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい」。一方監督である人々は,兄弟たちを落胆させないでむしろ励ましなさい。「怠惰な者を戒め,小心な者を励まし,弱い者を助け,すべての人に対して寛容でありなさい」。私たちが何であろうと,また自分の家や,会衆内や,世俗の職場で接する人がだれであろうと,「だれも悪をもって悪に報いないように心がけ,お互いに,また,みんなに対して,いつも善を追い求めなさい」。(テサロニケ前 5:11-15)そうです,私たちは互いに励まし合いましょう。

      訂正: 1963年10月1日号「ものみの塔」592頁,17節4行目の「宗教」は「宣教」の誤植でした。

  • 雑誌を定期的に届ける
    ものみの塔 1963 | 10月15日
    • 雑誌を定期的に届ける

      ◇ 雑誌を毎号届ける取りきめをつくっている伝道者なら,雑誌配布の目標を達成できないということはめったにありません。一人のオーストラリアの開拓者は自分の経験を次のように話しています。「自分の雑誌配布の活動を調べてみたら,月の目標の半分にも達していないのに気付いて驚きました。早速私はきちんとすわり,自分が雑誌を配布した人の記録を調べました。その記録を研究したのち,1日野外で奉仕するつもりで,かばんに雑誌をつめました。自分の記録についている人のほとんど全部に話しました。楽しい1日の奉仕ののちに,自分の配布を数えてみました。エホバの助けにより,8時間半の間に以前に配布した人をたずねて100冊の雑誌を配布していました」。このような方法は予約の目標を達成するのにも役立ちます。「協会の提案に従い,雑誌配布の経路を作り,最新号をいつも届ける14軒の家を見つけました。予約運動が始まった時,それらの家を順にたずね,いつかはこうして届けられなくなるかも知れないし,皆さんは雑誌を喜んでおられるようだから,是非郵便で受け取られるようにすれば良いと提案しました。その結果7人の人が予約をしました」。―1963年エホバの証者の年鑑から

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