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『あらゆる祈りと祈願を用いなさい』ものみの塔 1980 | 9月1日
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や神の愛ある親切についての黙想を深め,愛ある父であると同時に正しい事には毅然としておられる神について思いめぐらすことにより,わたしたちは祈りの中に一層の温かさと感情を込めることができるのです。確かに,心から,謙遜に神に話しかけたい,というのがわたしたちの願いです。したがって祈りを早くすませることがないように注意しなければなりません。ほかのことはともかく,祈りをゆるがせにすることが決してあってはなりません。
17 同じ言葉や言い回しを何度も繰り返さないようにすることによっても,祈りの質を向上させることができます。(マタイ 6:7)このような反復は祈りを真情や意味の欠けたものにしてしまいがちです。記憶した言葉は,心からではなく頭から出やすいものです。家族の祈りで毎日家族を代表するクリスチャンは特に,この点に気を付けなければなりません。くる日もくる日も同じ言葉を使うなら,それを聞く人の思いはさまよいだしてしまうでしょう。日ごとに聖書的な考えを黙想し,わたしたちに示されるエホバの過分のご親切に対する認識を一段と深めることは,祈りを温かく意義深いものにすることに貢献するでしょう。
直接,間接の報い
18 受け入れられる祈りに関する神のご要求にかなっていない一部の人が,自分たちの請願が聞き届けられたと結論づけることがあるのはなぜですか。
18 祈りは世界中で行なわれている崇拝の一形態です。自分たちの請願が祈りに対する神のご要求と一致しなくても,神は自分の祈りに答えてくださると信じている人も少なくありません。この矛盾とおぼしきものをどのように説明できますか。一つには,それは単に確率的なものかもしれません。その一例ですが,たこつぼ壕の中の兵士は一人残らず祈ると言われています。その中の大部分が通常生き残ることから,生き延びた人々が,神は自分たちの祈りに答えてくださったと結論する場合があります。しかし,それは偶然の一致の問題だったのかもしれません。ないしは,身心相関の原則,つまり心が身体に対して及ぼす影響で説明がつくことなのかもしれません。
19 ご自分のまことの民であり祈りに関するご自分の要求にかなっている人々の祈りにエホバ神が確かにお答えになることを示すどんな証拠がありますか。
19 しかし,祈りに関する神のご要求にかなう人々には,エホバ神が祈りに確かにお答えになったことを示す動かし難い証拠が伴っています。彼ら個人の,あるいは彼らの一致した努力の上にエホバの祝福が見られたのです。その結果,『その小さい者が千となり,その弱小な者が強大な国民となりました』。(イザヤ 60:22,新)彼らの祈りに答えてエホバは,『彼らに敵して形造られるどんな武器といえども効を奏さない』よう,物事を巧みに誘導されました。―イザヤ 54:17,新。
20 ご自分に向けられた誠実な請願に,エホバはどんなさまざまな方法でお答えになりますか。
20 エホバは,ご自分に向けられた誠実な請願に答えるに際し,ご自分の天的な僕たちと地的な僕たちの双方を用いられます。時として,祈りを込めて神を探し求めている人の家をエホバの僕の一人が訪問するように物事を導くのは,み使いです。(使徒 10:30-33; 17:26,27)それから,ご自分の地上の機関を用いて多くの祈りに答えることもエホバはなさいます。切実に助けを必要としているふさわしい人に愛を差し伸べ,親切を示したいとの願いを,ご自分の民の一人の心に植えつけられる場合もあります。また,祈りに対する答えが,聖書に基づいた出版物を精読することにより,つまり神の言葉の研究から得られることもあれば,会衆の長老たちによって注意するよう促された事柄から得られることもあるでしょう。エホバの僕たちの祈りが,大抵の場合,特定の状況に対処する際の霊的な啓発や知恵を求めるものである以上,これは当然のことです。
21 祈りの間接的な益にはどんなものがありますか。
21 加えて,祈ることからは間接的な益も得られます。天の父エホバに自分の心中を打ち明けたという事実そのものが,エホバを身近に感じさせるものとなるのです。賛美と感謝を捧げて神に対する認識を言い表わすことで,わたしたちはどうにもならない自分の境遇に甘んじるための助けを得るのです。熱烈にエホバに祈願することにより,謙遜になるよう,自分自身の理解や力よりも神に頼るよう助けられます。(箴 3:5,6。フィリピ 4:13)そしてもちろん,祈るときは築き上げる事柄に自分の思いを留めましょう。(フィリピ 4:4-8)例えば,夜の寝つけない時などには,王国の関心事や霊的な事柄について祈る方が,心配したりいらいらしたり,不平の種を思いめぐらしたり,とりとめのないことを考えたり,肉的な事柄に思いを向けたりするより数段勝ったことであるに違いありません。わたしたちは『自分の思い煩いをすべてエホバにゆだね』たいと思います。『神はわたしたちを顧みてくださるからです』。天の父に何も隠し立てをしないことは,わたしたちの自己吟味の助けとなり,神に一層近づき神とますます親密になるための力となります。―ペテロ第一 5:7。コリント第二 13:5。
22 祈りを真剣に考慮するとはどんな意味ですか。その結果どんな確信を抱けるようになりますか。
22 確かに,賛美,感謝,祈願などの祈りは貴重な特権であり,わたしたちは,自分の祈りを真剣に考慮するなら多大の益が得られる立場にいます。祈りは,間違いなく信仰を持っていることの表われです。わたしたちは何としても自分の祈りに調和した行動を取りたいと思います。急いで終わらせないように,いつも質の向上を追い求め,単なる決まりきった言葉の反復に堕することがないようにしたいと思います。そうすれば,間接的な益にもあずかり,エホバ神はご意志に調和した祈りにお答えになることによりわたしたちに報いてくださる,との確信を抱くことができるのです。
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欺かれた最初の女性ものみの塔 1980 | 9月1日
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欺かれた最初の女性
女性の中でもこの人のような女性はいません。幼児期・少女時代・一人前の女性になる変化の時期を人生で経験したことがないのです。その人は存在した当初から成熟した女性でした。事実,存在するようになった最初の日はその女性にとって結婚の日だったのです。
その女性を見たとたん,男性であるアダムは感動のあまり次のように言いました。「これこそついにわたしの骨の骨,わたしの肉の肉。これは“女”と呼ばれよう。男から取られたのだから」― 創世 2:23,新。
生まれて初めて目にした女性について,アダムはなぜそのように言ったのでしょうか。アダムはしばらくの間,生きるのに必要な物がみな備わっている美しい楽園,園もしくは公園に住む唯一の人間でした。アダムは,様々な動物を観察し,それぞれに適切な名前を選んだとき,動物がみなつがいになっていることに気づきました。しかし,親密な交わりを持ち,愛を分かち合える自分と同じ人間を動物の中に見いだせませんでした。(創世 2:19,20)ですから,アダムはその女性が自分にふさわしいつれ合いであり,自分を補う者であることをすぐに悟りました。そして,後にその女性の名を「生きている者」という意味を持つエバと
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