祈りを聞かれるかたのもとに来る
「祈りを聞かれるかたよ,すべての肉なる人はあなたのみもとに参ります」― 詩 65:2,新。
1,2 (イ)すべての人はどんな招きを受けていますか。(ロ)祈りを聞くことは神にとってむずかしいことですか。神はだれの祈りを聞かれますか。
あなたは自分の言語能力をどの程度用いますか。確かにあなたは,そのすばらしい言語能力を用いて,他の人々のよい助けとなることができます。しかし,それに加えて,言語と声の造り主は,祈りによってわたしのもとに来なさいとのすばらしい招きを差し伸べておられます。感謝の念の深い人々はその招きに応じ,言語の造り主に向かい,感謝を表わす賛美と願いの声を上げます。―詩 150:6。
2 エホバという名の神にお祈りするとき,あなたの周囲では,ほかの人たちの声や音楽その他いろいろなもの音がしているかもしれません。それでも,話すことを可能にされた方は,請願をするようにとの勧めにこたえる者の祈りの意味をつかむことがおできになります。神はそれを聞くのに音波に依存されません。放送機関が,神を信じない人々の無意味なおしゃべりでふさがっていても,支障をきたすことはありません。祈りを聴かれる神の能力について,わたしたちは次のような保証を与えられています。『エホバよ汝はくるしむ者の懇求をききたまえり……なんじは耳をかたぶけてきき(たまわん)』― 詩 10:17。
3 正しい祈り方というものがありますか。なぜ分かりますか。
3 祈りは世界中で行なわれている一般的な宗教行為で,その方法についてはたくさんの考え方があります。祈りはするけれども果たして自分は真の神に近づく正しい方法を用いているのだろうかと迷っている人は少なくありませんが,もしかしたらあなたもそのひとりでしょうか。エホバと語る敬虔な方法があることは明らかです。ご自分の意志を伝達される神は大きな愛をお持ちですから,あらゆる国家的背景の人々のために,どうすれば祈りのうちに『神に近づく』正しい,そして敬意の念に満ちた方法を知るようになるかに関し,十分の情報をその霊感によるみことばの中に盛り込まれています。―ヤコブ 4:8。
4 神に祈りを聞いていただくために満たさねばならない条件をいくつかあげなさい。
4 祈りをささげるとき,あなたはなんでもない相手に話しているのではなく,「天におられる威光」に申し上げているのです。(ヘブライ 8:1)このことだけを見ても,人が自分の不完全な身分を認める必要のあることがはっきり分かります。誠実さと信仰も必要条件の中に数えることができます。次のイエスのことばに,信仰と祈りの密接な関係が示されていることに注意してください。「このゆえにあなたがたに言いますが,あなたがたが祈りまた願うことすべては,事実上すでに受けたのだとの信仰を持ちなさい」。(マルコ 11:24)自分が心配していることを考えやことばで説明しようとするときには,「心をつくして」それを行なってください。―詩 119:145。
神のもとに来る方法
5,6 (イ)エホバは以前,だれがご自分に祈ることを許されましたか。(ロ)コルネリオの祈りはどのように答えられましたか。
5 霊的援助の必要を悟るとき「すべての肉なる人」は,そしてあらゆる国籍の人々は,神のもとに来ることができます。イスラエル国民が神の『私的な所有財産』であった時でさえ,外国人もエホバに近づくことができました。彼らは来て,エルサレムのエホバの家に向かって祈ることができ,神が天からそれを聞いてくださることが約束されていました。(歴代下 6:32,33)使徒ペテロはコルネリオの家でその事実を認め,次のように言いました。『神は不公平なかたではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられる』― 使徒 10:34,35。
6 コルネリオは諸国民のひとりで,「部隊の士官……篤信の人……神を恐れ」る人でしたが,自分の信仰を表明した人でもありました。み使いがコルネリオに,あなたの祈りとあわれみの施しは神の好意ある応答を得た,と確信をもって言ったときのコルネリオの喜びを想像してごらんなさい。彼はペテロの証言を喜んで受け入れ,家族と共にバプテスマを受けました。―使徒 10:1-4。
7 神はどんな人に知識を与えられますか。
7 今日霊的に飢えている人々も,コルネリオと同じように神を模索し,真剣に探し求めているはずです。(使徒 17:27)彼らは神のご意志と,神のご意志にかなう者となるために神が人に要求しておられることとを知ろうと,懸命に努めているはずです。ですから神も,義に傾く心を持ち誠実な信仰を表明する者たちに答えてそのような知識をお与えになり,恵みとあわれみを示されます。
8 (イ)エホバはわたしたちが神のもとに行けるようにどんな備えを設けられましたか。(ロ)イエスはなぜご自分の名によって祈るように言われましたか。
8 天の父と速やかに霊的交流を行なうには,人はキリスト・イエスを主として受け入れなければなりません。神との平和は,定められた道,すなわち主イエスによる贖いの備えを通してのみ来ます。(マタイ 20:28。テモテ第一 2:5,6)イエスは,祈りのうちに神に近づいて神と和解するための備えです。イエスが,「わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と言われたのは正しいことでした。(ヨハネ 14:6)イエスは,わたしたちが祈りを聞かれるかたに近づくさいに重要な役割を演ずる「助け手」です。(ヨハネ第一 2:1,2)したがって,神のもとに来る道は,大祭司としてのキリストの公の奉仕およびイエスが人類のために備えられた贖いに基づいています。ですから,わたしたちがイエスの名を通して祈り,父のもとへ来ることは,「命の主要な代理者」としてのイエスの役目を認めていることになります。神に祈りをささげるのに他の仲介者は必要ではありません。―使徒 3:15。ヨハネ 14:13,14。ヘブライ 10:19-22。
9 自分の願いを神に聞いていただくつもりなら,どのように祈るべきですか。
9 わたしたちはいつも遠慮せずに自分の願いを神に申し上げなければなりません。それは良いことです。しかし神はそれらの祈りを一つ残らず聴き届けるよう義務づけられてもいなければ,その責任を負ってもおられない,ということを忘れてはなりません。ご自分の益にならない,あるいはご自分の民の益にならない,または祈願者自身の害にさえなるかもしれない祈りを,どうして聴き届ける必要があるでしょうか。神は,ご自分の目的に反することや神の崇拝者たちにとって不利になることは行なわれません。どんな願いにせよそれを聴き届けていただくためには,その願いは,祈りを聞かれるかたに喜ばれるものでなくてはなりません。このことを考えると,もし祈りに耳を貸していただくつもりなら,神のご意志に沿った祈りをする必要のあることがわかります。「わたしたちは神に対してこのような確信をいだいています。すなわち,なんであれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださるということです」と書かれているとおりです。(ヨハネ第一 5:14)神に対するわたしたちの願いの内容は,神のご意志に関する知識に基づいたものでなければなりません。
信仰を抱いて祈る
10 神にはばかりなく語るにはなぜ信仰が必要ですか。
10 真のクリスチャンの全生涯は信仰に支配されるものですから,神への奉仕において遭遇する障害を克服することができます。それと同じく祈りの場合にも,祈りを聞くことができまた実際に聞いてくださる真の生きた神がおられるという信仰は,わたしたちが神と自由に語る助けになります。実際,『神がおられること,また,神はご自分を切に求める者に報いてくださる』ということを心から信ずるのは重要なことです。(ヘブライ 11:6)人々は世界各地に住んでいるのでその必要もさまざまに異なるかもしれませんが,最もよく知っておられ,最もよく世話をしてくださるかたは,わたしたちの必要を常にご存じです。ひゆ的な意味で,『エホバは,信仰をもってエホバを呼ぶ者すべてに近くおられ』,彼らが助けを必要とするときに速やかにこたえてくださいます。―詩 145:18。
11 (イ)神はわたしたちの必要をご存じですか。(ロ)ではなぜそれらについて祈らねばならないのですか。
11 義者の祈りに耳を開かれるかたを呼び求める際に,わたしたちは,こちらがお願いする前からそのかたがわたしたちの必要に十分気づいておられることを思い起こします。食物,飲み物,衣服について,神ご自身のみ子は,「あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです」と言われました。(マタイ 6:32)神はこれらのものについてすべてのことをご存じであり承知しておられますが,それでもわたしたちが自分に必要な物や欲しい物を神に願い求めることを望んでおられます。わたしのもとに来なさい,という神の変わらない勧めを考えるなら,日常の必需品を願い求めたりして神を煩わせるべきではないという見方をすることは,感謝の念の欠如を示すことになるでしょう。『見たまう神』は人間の後見人ですから,地に住む良い者の上にも悪い者の上にも目を注いでおられます。そして神は,ご自分を愛する者たちを捨てて,すべての問題を自分で解決させるようなことはしておられません。それどころかエホバ神は,ご自分により頼む者たちが,神を自分の父また避難所,力の源と認めていることを自分のことばで言い表わすのを聞いて喜ばれるにちがいありません。―創世 16:13。詩 46:1。箴 15:3。
12 (イ)ある人々は祈りについてどんなまちがった考えを持っていますか。(ロ)しかし,祈ることはなぜ有益ですか。
12 信仰のあまりない人々は,神のことを,独力で物事を行なうように人類を放置した不在者と考えるかもしれません。また,祈りは一種の自己欺まんであると思うかもしれません。さらには,祈りは,自分の考えを霊的な方向に向けて平安な思いを保つための心理的な助けもしくは支えである,と考える人たちもいるでしょう。しかしながら,祈りには感情的経験をはるかに超えたものがあります。あなたは自分自身に語っているのではなく,生きておられる天の父にお話ししているのです。天の父は「わたしたちが求めまた思うところのすべてをはるかに越えてなしうる」かたです。(エフェソス 3:20)決定を下さねばならないとき,それが大きな決定であろうと小さな決定であろうと,行くべき道を明らかにしうるのはエホバの霊と導きです。神は独立自足のかたで,欠けたものは一つもないかたですが,ご自分の民の必要に大いに共感されます。そして彼らは『日々の生活の思い煩いをすべて神にゆだねる』よう勧められています。『神は彼らを顧みてくださるからです』― ペテロ第一 5:7。
祈りには効力がある
13 エリヤの場合祈りはどのように効力がありましたか。
13 祈りの力と効力は,イスラエルの一人の預言者によって明らかにされました。イスラエルに臨んだ長い干ばつが終わりに近づいていることを発表したのち,エリヤはカルメル山の頂で再び雨を降らせてくださるように祈りました。彼の従者はその場所から,祈りが聴き届けられたのを見ました。最初に小さな雲が現われ,次いで雨の前兆があり,それから大雨になりました。聖書記述者ヤコブはその歴史的事件に注意を引き,エホバの目的に従って祈るしもべの祈りにエホバが答える能力を持っておられることを述べています。次のように書かれています。「義にかなった人の祈願は,それが働くとき,大きな力があります」― ヤコブ 5:16-18。列王上 17,18章。
14 自分の必要とするものを祈り求める際に根気強くなければならないのはなぜですか。
14 人類の父であられるかたは,人類の福祉と幸福に真に関心を持つ者として,すべての者がご自分と昼夜連絡を保つよう取り決めておられます。親というものは,自分の子どもがいつも自分を頼りにしていて必要なものを自分に求めるのを喜ぶものです。ましてエホバは,ご自分に根気強く請い願う者たちの必要を満たす方法をご存じです。イエスはこの点を説明するに際し,その弟子たちに,「彼らが常に祈り,かつあきらめてはならないことについて」の例えを話されました。(ルカ 18:1-8)必要なものを繰り返し求めることはあなたの関心のほどを物語るものです。そしてその祈りが聴き届けられたなら,あなたの根気強さは報いられます。
15 反対を受けているときの祈りにはどんな価値がありますか。
15 良いたよりを広めることに対する妨害は,遅かれ早かれ,それを広める者たちに必ず影響を及ぼします。その結果苦しみや迫害が臨むかもしれません。キリスト・イエスもそのような事柄を経験されました。「キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者はみな同じように迫害を受けます」と書かれています。(テモテ第二 3:12)しかしながら,神に対する祈りと祈願は,神に対する愛や信頼と共に,エホバのクリスチャン証人たちが何事にもめげずに忠実の道を歩むための助けとなります。(詩 34:15)ローマ 12章12節には,「患難のもとで耐え忍びなさい」,そして同時に「たゆまず祈りなさい」という助言があります。
16,17 (イ)迫害下にある兄弟たちに対する関心をどのように表わすことができますか。(ロ)そのことは請願者の側の何を示しますか。
16 良いたよりの伝道を妨げるために時折禁令が課され,その結果伝道者たちは裁判にかけられたり,迫害されたり,投獄されることもあります。わたしたちはそのようなことを聞くとき,一時的なやすらぎを求めて妥協することさえせずに堅く立つ兄弟たちを深く思いやります。圧迫のもとで兄弟たちが義のために取るりっぱな態度によってわたしたちは強められます。また兄弟たちも,わたしたちの祈りによって励まされ助けられます。そうです,クリスチャンが妨害を受けずにクリスチャン生活を営み,活動を行なえるように,政治を行なう立場にある人々のために祈るのは正しいことです。―テモテ第一 2:1,2。
17 兄弟たちが悪名高い裁判にかけられるなどして困難な目にあっているなら,わたしたちは兄弟たちのためにあきらめずに祈ることによって,心遣いを示すことができます。釈放を願ううえで請願者が自分の愛の深さや動機の純粋さを表わすことを神が許されるのは明らかです。距離も刑務所の壁も彼らの祈願を無効にすることはできません。そのことに疑問はありません。聖書は不断の祈りが,非常な苦境のもとにある人々の解放にあずかって力があることを示しています。―コリント第二 1:8-11。
祈りにおける忍耐と根気強さ
18 祈りにおいて忍耐はなぜ重要ですか。
18 しかしわたしたちは,エホバを待つ,つまり禁令や迫害に関する祈りにエホバがこたえてくださるのを待つ必要があるということをいつも認める必要があります。時に神が遅いように思えても,愛する者たちのために行動する能力が神にない,と考えるべきではありません。解放があとになれば,神の王国に関してさらに大きな証言が行なわれることになるかもしれないので,神にとっては,法廷で勝利をもたらしたり,あるいは他の方法で解放したりする時期ではないのかもしれません。神は「遅い」などと言うのはもってのほかで,神はあらゆることに『適当な時』を定めておられることを認識すべきです。その間神はみ使いによる保護を与えることができます。使徒ペテロが言ったことからも慰めを得ることができます。「エホバは,敬神の専念をいだく人びとをどのように試練から救い出すか……を知っておられるのです。……エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません」。(ペテロ第二 2:9; 3:9)そうです,祈りを聞かれるかたは確かに,忍耐強い,そして一生懸命に神のご意志を行なう者たちを強めることができます。
19 (イ)わたしたちは神が迫害を防いでくださるよう祈るべきですか。(ロ)エホバは望まれるならいつでも何をすることができますか。
19 個人的にささげられるものにせよ,大ぜいの人によってささげられるものにせよ,他の人々のために代わってささげる祈りの力も見逃すべきではありません。エホバは,祈る者の数の多さだけに圧倒されて行動されるのではありません。祈願する人々の願いは,エホバのご意志が行なわれることであり,彼らの一致した関心と愛のこもった気遣いとは,良いたよりを伝える仲間の伝道者が助けられ保護されることにあります。神のご意志は,関係者たちが予想もしないような方法で解放をもたらすことであるかもしれません。この事実を確信してください。エホバは苦難の下でも忠実を保つ人々の後ろだてとなられます。
20 他の人々のためにささげる祈願はむなしい,と考えてよいでしょうか。
20 そういうわけで,自分の祈願はむだであるとか,迫害されている人々の助けとなるような正しい方法で祈らなかったのではないか,と考えるべきではありません。神が祈りにこたえて行なわれることは,もしわたしたちが知っていたなら願い求めたに違いない事柄でしょう。(ローマ 8:26,27)幾世紀を経てもエホバの力は衰えていないこと,エホバの耳が遠くなって崇拝者の祈りが聞こえなくなってしまったというようなことはないことに,ひとりびとりが確信を持つべきです。
ためらわずに祈る
21 (イ)なぜ人は祈ることをためらうべきではありませんか。(ロ)人はどんなりっぱな特質のゆえにエホバに引かれますか。
21 自分のうちに神の愛が十分に表明されている人は,全き確信をもって遠慮せずに神のみもとに来ます。あわれみ,辛抱強さ,愛のこもった親切を含めて非常に多くのすばらしい特質をお持ちになる神に,どうして感謝と賛美と願いの祈りをすることをためらう必要があるでしょうか。(詩 36:7)神の個性のこうした特質を知るようになったなら,不完全な人々は,どんな問題のあるときでも勇気を奮い起こして「栄光の神」エホバのみもとへ来,エホバのご意志を行なう際の助けを願い求めるべきです。(使徒 7:2)わたしたちは冷たい,利己的な世のまん中に住んでいますから,困難に遭遇したり,なんらかの不利な立場に追い込まれたりした場合に,同情的であわれみ深い父のところへ来て祈ると,本当に心がさわやかになります。父ご自身がモーセに次のように宣言されました。『エホバ憐れみあり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の大いなる神』― 出エジプト 34:6。
22 進んでエホバのもとに来るべきさらにどんな理由がありますか。
22 また,キリスト・イエスが祈りという取り決めの中で果たされる役割について学んだからには,はばかりのないことばで祈ることによりそのような神に近づくべき理由が,さらに加わるわけです。使徒パウロは,ヘブライ 4章15,16節で次のように述べて,イエスにわたしたちの注意を引きます。「わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできないかたではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のないかたを,大祭司として持っているのです。それゆえ,時にかなった助けとしてあわれみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか」。キリスト・イエスがまさにわたしたちの直面しなければならない,また忍耐しなければならない事柄を経験されたのを知っているわたしたちは,わたしたち罪深い被造物が,イエスを自分の贖い主また仲介者とし,イエスを通して神と和解するよう努めるとき,イエスがいかに深い理解を示し,わたしたちに対していかに大きな助けを与えることがおできになるかが分かります。―ヘブライ 7:25。
23 (イ)イエスはなぜみ父と語ることにためらいを感じられませんでしたか。(ロ)特にどんな時に祈られましたか。
23 イエスは地上におられたとき,天のみ父と自由に霊的交流を持たれました。エホバのもとから遠く離れておられた当時,祈りによって神と語ることをどれほど楽しまれたか,わたしたちにも想像することができます。イエスは神に話すべき重要な問題をお持ちでしたから,黙想しやすい寂しい場所に行かれました。福音書はすべて,イエスが祈りの人であったことを示しています。イエスはバプテスマを受けるときに祈られました。また群衆に食物を与えたときに,使徒を選ぶ際に,記念の夕食の時に,そして刑柱の上で,祈られました。すべてのことにおいてみ父を喜ばせ,ご自分の意志ではなくてみ父のご意志を行なうことを望まれました。(ヨハネ 5:30)ご自分の祈願と請願が聞き入れられたことをご存じだったので,イエスはご自分に与えられたわざを推進されました。(ヘブライ 5:7-10)迫害を避けるために妥協されたことは一度もなく,エホバの主権を支持して忠誠の生涯を送られました。その結果,天の被造物さえ,イエスが与えられた誉れと栄光にふさわしいかたであることを宣言しました。―啓示 5:11,12。
24 自分の道を切り開くことに成功するには,わたしたちは何をすることができますか。
24 祈りによってご自分の道を切り開かれたこの指導者であり主人であられるかたは,すべてのクリスチャンが従うべきなんとりっぱな模範を残されたのでしょう。イエスのように成功を収めたい人はみな,み父が望まれた事柄を毎日行なうことを切に願われたこのかたの模範に見倣うべきです。神に心から話しかけ,神のご意志を行なうための力と後ろだてを願い求めることは,それを願う者が創造者に喜ばれる歩み方また話し方をする助けになります。神に近づき,より頼む気持ちで懇願し,導きを求めるなら,気持ちが軽くさわやかになります。わたしたちはすべての煩いを神にゆだねるよう励まされています。(ペテロ第一 5:7)イエスの助言も,祈ること,そしてなんでも必要なものをあきらめずに神に願い求めることであったことを,あなたはおぼえておられるでしょう。―ルカ 18:1-7。
祈りつづけなさい
25 どうすれば,待つ態度を示せますか。
25 エホバとの霊的交流を正しく評価することは,祈願者が義の道を固く守る助けになると同時に,願うたびに答えが劇的な方法で与えられることを期待しない助けにもなります。実際,試練や懲らしめの下にあるときには,答えを待つのに非常な忍耐を働かせることが必要でしょう。祈りの力を過小評価すべきではありませんが,預言者ミカが『我が神われに聴きたまうべし』と言ったように,確信に満ちた期待を抱いて「待つ態度」を示すべきです。―ミカ 7:7。
26,27 (イ)どうすれば,祈りの力を信じていることを示せますか。(ロ)あなたは神への愛に動かされて何をすべきですか。
26 何か悪いことをしたあと,その時も,祈る資格がないかのように感じて神の恵みを求めることをやめる時ではありません。人の罪は『隠され』てはならないのです。(箴 28:13)その時は何も考えずにしたかもしれませんが,あわれみを望むなら,自分のしたことをどれほど後悔しているかを,あなたの神エホバに告げてください。問題を是正することに最善を尽したなら,神に謝罪することによって,祈りの力と,神が進んで許してくださることとを信じていることを示してください。このようにしてあなたは,助けを求めるあなたの叫びをエホバが聞かれ,あなたが本当に必要としているものをエホバが理解されるということへの確信を示すことができます。―詩 5:1,2。
27 祈りを聞かれるかたのもとへ来るようにとのあらゆる人への招待の意味を,あなたは十分に理解しておられますか。もし人が神に近づくことをある程度恐れたりこわがったりするとすれば,それは神に対する愛が,というよりもむしろ贖いの備えに対する感謝がいくらか欠けていることを示すものではないでしょうか。愛に富まれる神へすぐに近づくことを,自分の不完全さによって妨げられてならないことは確かです。それよりも,神への愛に動かされて,憐れみ深い創造者に自分の考えをためらわずに申し上げるべきです。―ヨハネ第一 4:16-18。
28 (イ)年長者たちはあなたにとってどのように祝福となりますか。(ロ)重い罪のある者が神に憐れみを求めた例がありますか。
28 とはいっても,エホバに助けを呼び求める自信を失うことがないとは言えません。良心に責めを感じていたり,何かがうまくいかなかったりすれば,自分はそれに価しないという消極的な気持ちになるかもしれません。そのような状態のときに神に助けを求めることを怠るのは非常に危険です。なぜ祈りをやめて問題を一層複雑にするのでしょうか。自分から神のところへ行って神にためらわずに話すことをしない人のためには,会衆内の年長者たちが代わって祈ることがよいかもしれません。会衆内のそれら資格のある人々は,あなたが神に近づくのを「雲」に阻まれ,また祈りが通じないよう妨げられているとあなたが感ずる場合の助けとしてそこにいるのです。(哀 3:44)ヤコブは互いのために祈ることについて,「義にかなった人の祈願は,それが働くとき,大きな力があります」と書きました。(ヤコブ 5:16)このように助けを求めることは,完全に義であられ,善であられ,神聖であられる神に,自分で心を注ぎ出すことをためらう人々のための,助言と祈りに関する愛のこもった取り決めです。一方,自分で神に近づく罪人は,神に憐れみを請う際に本当に大きな祝福を受けます。ユダのマナセ王にとって祈りは効力がありました。彼は祈りつづけました。彼の願いはついに聞き届けられました。―歴代下 33:12,13。
29 すべての人はなぜ正直に祈らねばなりませんか。
29 エホバ神に自分の願いを聴き届けていただきたいなら,人はみなエホバ神に対して率直かつ正直でなければなりません。どうして神に何かを隠そうとするのでしょうか。エホバは「すべての者の心を知っておられる」のです。ですからエホバを欺くようなことは決して試みてはなりません。(使徒 1:24。エレミヤ 17:10)祈るときには,自分が天の父に対して犯した罪や過ちをはっきり,率直に,そして正直に認めてください。忠節であったダビデが行なったことを深く認識し,あなたをくまなくさぐりあなたの心を知るよう神にお願いしてください。あなたの祈りに耳を傾け,あなたの懇願に注意を向けられるように請い求めてください。(詩 139:23; 86:6)正しい人の祈りは神にとって喜びであることを忘れないようにしましょう。ですから,神が聞きまた助けてくださることを期待して,ためらうことなく確信を抱いて祈りつづけるべき多くの理由を考えてください。―箴 15:8。
30 あなたはちゅうちょすることなくだれのもとにゆくべきですか。
30 あなたにはちゅうちょせずに頼れるかたがあります。そのかたは『祈りをききたまう』かたです。『祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたの請願を神に知っていただくようにして』,神を喜ばせるのはいかがですか。(フィリピ 4:6)そうすることによってあなたは,神がご自分のもとに来る者に対して抱いておられる愛を経験し,前進することができます。