-
祈りをなしつつ油断するなものみの塔 1958 | 12月15日
-
-
を捧げる際にはいつでもヱホバを賛美し,そして又私たちの為にヱホバが常になしつづけて居られるすべてのことに感謝の言葉を入れるということです。賛美と感謝という心持ちをつちかうことにより,私たちは自ら足ることを知る満足という報いを受けます。それは敬虔と相俟つて大きな利得の手段です。―テモテ前 6:6。
24 祈りの中に賛美,感謝,そして願いを入れた良い模範は,ダビデの捧げた祈りです。ダビデとその国民は,ヱホバの宮を建てる為に寄附をして,そのときに祈りを捧げました。その時にふさわしい流暢な言葉の中にダビデはヱホバの属性に賛美を帰しそれから彼と彼の国民が多くのものを寄附し得たことについてヱホバに感謝しています。すべてのものは,最初に神から来たからです。それからダビデはヱホバにお願いを申し出で,彼の国民がいつでも物惜しみしない心を持ちつづけるように,そして彼らの心がいつもヱホバに向かうようにと祈つています。そして又,模型的な御国については,ダビデはこう祈りました,『我が子ソロモンに全き心を与え,なんぢのいましめ……を守らせ』と語りました。私たちもダビデにならいましよう。そして祈りを捧げるときは,私たちが霊的な必要物を意識していることを示すだけでなく,また神なるヱホバに感謝し,ヱホバが私たちのためにつねになされていることに感謝していることを示します。―歴代志略上 29:10-20。
-
-
祈りは愛ある貴重な御準備ものみの塔 1958 | 12月15日
-
-
祈りは愛ある貴重な御準備
『何事も思い煩つてはならない。ただ,事ごとに,感謝をもつて祈と願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。』― ピリピ 4:6,新口。
1 どんな事実は,祈りの奇跡的な性質を大きく表わしますか。
この祈りの御準備について考えをめぐらすなら,その奇蹟について驚嘆の言葉を発せざるわけには行きません。1946年1月10日,人間は大がかりな準備をして後にレーダー信号を始めて月に達せしめました。そのとき,『月までの距離である22万1000から25万3000マイルに相当する2.38秒から2.72秒の後に』極めて薄弱な反響が戻つて来たのです。しかし,人間はそのことをたいへん誇らしげに思いました。人間のレーダーは光の速力で月に達するかもしれません。しかし,私たちの祈りにくらべるときそのようなものは全く顔色の無いものです。私たちの祈りははるか彼方のヱホバの御座にまで達します。ヱホバの御座は物質の宇宙よりもずつと上のところにあり,幾光年か数え切れぬ程遠いところにあるのです。しかも,それは一瞬の中に達してしまうのです! そして,祈りの中にヱホバに達することは何と容易なのでしよう!
2 祈りに対する最初の条件は何ですか。そして,どんな二つの面で?
2 しかし,この奇蹟がなされるためには,私たちは唯一つの真の生ける神ヱホバに祈らねばなりません。(出エジプト 6:3。イザヤ 46:9)人の心の中だけに存在している神々に祈りを捧げても,その祈りは決して聞かれないでしよう。エリヤの時のバアルの祭司たちは,残念にもそのことを知りました。(列王紀略上 18:26-29。詩 115:4-8)それですから,祈りに対する最初の要求は,信仰です。『信仰がなくては,神によろこばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,御自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはずだからである。』気をつけなさい,神が存在していることに信仰を持つだけでなく,神を熱心に求める者たちには神は報いを与えられる,そして神は私たちの祈りに答えられるということを信じなければならないのです。ヤコブも次のように強調しています,『疑わないで,信仰をもつて願い求めなさい。疑う者は,風に吹かれて波立つ海の波のようである。そういう者は,すべてのものをヱホバから戴けると考えてはならない。』そして,イエスもこう言われました,『もし,からし種一粒ほどの信仰があるなら……あなた方にできない事は,何もないであろう。』― ヘブル 11:6。ヤコブ 1:6,7。マタイ 17:20,新世と新口。
3 (イ)神が祈りにこたえるということについてのどんな例が,神の言葉の中にありますか。(ロ)どんな現代の例がありますか。
3 そして,そのような信仰を持つことに対する健全な基礎があるではありませんか。神は『私たちが求めまた思うところのいつさいを,はるかに越えてかなえて下さることができるかた』ではありませんか。そして,神は私たちを愛しておられる故,神は為し得る方であるだけでなく,進んで為し得る方であると信ずることができます ― この点は不完全な人間と極めてちがうところです。人間はしばしば為そうとする気持がありますが為し得ることはできず,また為し得ることができてもそうする気持はないのです。まつたく,『あなた方は,悪い者であつても,自分の子供には,良い贈り物をすることを知つているとすれば,天にいますあなた方の父は,なおさら,求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。』エリヤが450人のバアルの予言者たちと面したとき,神はエリヤの祈りに答えませんでしたか。セナケリブの軍隊がエルサレムを脅かしたときヘゼキヤの祈りに答えませんでしたか。パテロがヘロデ・アグリッパによつて投獄されたとき,ペテロの祈りに答えませんでしたか。そして,あらゆる妨害にもかかわらず,ヱホバの証者の新しい世の社会が繁栄していることは,ヱホバ神は昔の場合と同じく今日でも祈りに答えることができ,かつ進んで答えられるという証明です。たしかに今日,神がどんな特定な手段で祈りに答えられるかは,私たちの必らずしも理解するところではありません。しかし,私たちは次のことを知つています,すなわち神は目に見えぬものと目に見えるものとの両方で成り立つ御自分の制度,御自分の言葉,そして活動力なる聖霊を用いておられるということです。―エペソ 3:20。マタイ 7:11。列王紀略上 18:36-38。列王紀略下 19:19,35。使行 12:5,7。
神の径路
4 誰を通して私たちは祈りの中に来なければなりませんか。この条件がイエスの模範的な祈りの中に述べられていないのはなぜですか。
4 さらに,私たちの祈りが神に達するためには,私たちは神の定めた方法を認めねばなりません。ヱホバは秩序の神だからです。ヱホバは宇宙の大主権者であられる故に,御自分の臣下がむやみやたらに押しつけがましくすることを許しません。特に,罪を持つ敵である者たちから押しつけがましくされることを許さないのです。ヱホバは一つの径路を持つておられます,そしていわば神の謁見を受けるためには,私たちはその径路を認めねばなりません。西暦33年の春以来,その径路はイエス・キリストです。彼もこう言われました,『だれでも私によらないでは,父のみもとに行くことはできない。』多くの人々は,マリヤや聖徒と呼ばれる他の者たちを通して神に達すると主張しますが,このことにおいて彼らは悲しくも失敗しているのです。神の言葉の何処を見ても,祈りがそれらの者を通して捧げられているという箇所はなく,またそうせよと命じている言葉も見つかりません。『神は唯一であり,神と人との間の仲保者もただひとりであつて,それは人なるキリスト・イエスである。彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられた。』それであるなら,イエスは弟子たちに与えた模範的な祈りの中で,なぜこの要求を述べなかつたのですか。おそらく,イエスがその祈りを与えられた時は,彼は御自身を十分に証明していなかつたからです。しかしその宣教の最後の日までには,彼は「御父より賜わつた業を為しとげて」いましたから,次のように言うことができたのです,『あなた方が父に求めるものはなんでも,私の名によつて下さるであろう,今までは,あなたがたは私の名によつて求めたことはなかつた。求めなさい,そうすれば,与えられるであろう。そして,あなた方のよろこびが満ちあふれるであろう。』― ヨハネ 14:6。テモテ前 2:5,6。ヨハネ 17:4; 16:23,24,新口。
5 祈りをする際の私たちの心の態度は何でなければなりませんか。そして,なぜ?
5 私たちの祈りが神に達する為には,全く誠実な気持の中に捧げられねばなりません。『人に見せるために』祈る者たちは,無駄な祈りをしています。神は偽善者を憎むからです。神は『霊と真をもつて』祈る者たちだけを聞きます。『正しい者の祈りは彼によろこばれる。』彼らは『主の御顔を仰ぎ見るであろう。』同様に私たちは謙遜の中に神に来なければなりません。神の大いなること,および私たちの弱少なることを考え見るとき,誇りはもつとも不適当なものです。さらに神に来て願い求める場合に,私たちは乞い願うものとして来るのであり,お客として来るのではありません。私たちは神と交渉取引をすることができません。私たちは提供すべきものを持つていないからです。それですから,高ぶつた者に対して神が反対し,謙遜な者に恵みを与えるということは,まつたく適当なものです。―マタイ 6:5。ヨハネ 4:24。シンゲン 15:8。詩 11:7。ペテロ前 5:5。
6 祈りを捧げる際の私たちの姿勢はどうですか。しかし,ひざまずくことは良いと,どうして言えますか。
6 ついでのことですが,祈りをするときに手を組んだり,敬虔ぶつた姿勢を取るという行いに対する聖書的な裏づけは一つもありません。神の御言葉の示すごとく,私たちの姿勢は重要ではありません。しかし,個人的な祈りを捧げる際にひざまずくことは,造り主の前に謙遜という正しい心持を採る助けであるとすすめ
-