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国々の民はエホバの家に来て祈るものみの塔 1964 | 12月1日
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国々の民はエホバの家に来て祈る
「わが家はすべての民の祈の家ととなえられる」― イザヤ 56:7。
1 祈りに関してエルサレムの宮はどんな場所になるはずでしたか。
西暦33年,刑柱の死を遂げる数日前にイエス・キリストは,エルサレムのエホバの宮が「すべての国民の祈の家」であることを明白に述べました。(マルコ 11:17)イスラエル人はもちろん異邦人でさえこの模型的な宮によって,生ける至上の神に近づくことができました。祈ることができたのは,律法契約によってエホバと結ばれたイスラエル人だけではありません。神に献身した寄留者も,おとずれた外国人も,宮の恩恵に与ることができ,エホバ神に祈ることができました。欲得のために当時の宮を利用したユダヤ人を,イエスが責めたのは当然です。「あなたがたはそれ〔宮〕を強盗の巣にしている」と言って,イエスはユダヤ人を非難しました。(マタイ 21:13)ユダヤ人は宮を汚しました。それは異邦人の中の献身した者たちが,「祈りの家」である宮によってエホバに近づくのを妨げました。
2 エホバは「祈の家」として宮をどのように受け入れましたか。
2 イエスの時よりも1000年前(紀元前1027年)にエルサレムの宮をささげたソロモン王は,エホバ神に特別な願い事をしています。イスラエル人でもそれ以外の国の人でも,宮に来て祈りをささげたならば,かならずそれを聞いて下さいと,ソロモンはエホバに願いました。「あなたの民イスラエル(の)……どんな祈,どんな願いでも,あなたは,あなたのすみかである天で聞いて……ください……またあなたの民イスラエルの者でなく,あなたの名のために遠い国から来る異邦人が,― それは彼らがあなたの大いなる名と,強い手と,伸べた腕とについて聞き及ぶからです,― もしきて,この宮に向かって祈るならば,あなたは,あなたのすみかである天で聞き,すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば,地のすべての民は,あなたの民イスラエルのように,あなたの名を知り,あなたを恐れ,またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう」。(列王上 8:38,39,41-43)「時にエホバ夜ソロモンに顕れて之に言たまひけるは我すでに汝の祈禱を聴きまた此処をわがために選びて犠牲を献ぐる家となす今より我この処の祈禱に目をひらき耳を傾むけん」。(歴代下 7:12,15,文語)こうしてエホバは宮にむかってささげられる祈りをかならず聞くと言われました。それでエルサレムの宮は「祈の家」と呼ばれるようになりました。
永続する,新しい霊の宮
3 新しい,霊的な宮について述べなさい。それは何に型どって造られていますか。また何時から建て始められましたか。
3 しかしエルサレムのこの「祈の家」は,永続する,新しい霊の宮の型に過ぎません。エホバは,はるかに荘大な霊的宮を備え,それによって祈りを聞きます。イエスの預言にたがわず(マタイ 24:1,2),エルサレムにあった最後の宮は西暦70年にローマ人の手で破壊されたままになりました。巨大な石造りのこの宮が破壊される37年前の西暦33年から,新しい霊的な宮の建築が始まっています。新しい霊的な宮の特定な部分は模型的な宮に型どられていますが,それを造っているものはイエス・キリストを礎石とする「生ける石」です。(ヘブル 9:8,9)パウロは当時の油そそがれたクリスチャンに次のように書き送っています,「家はすべて,だれかによって造られるものであるが,すべてのものを造られたかたは,神である。さてモーセは,後に語らるべき事がらについてあかしをするために,仕える者として,神の家の全体に対して忠実であったが,キリストは御子として,神の家を治めるのに忠実であられたのである……わたしたちは神の家なのである」。(ヘブル 3:4-6)この事についてペテロも述べています。「この主のみもとにきて,あなたがたも,それぞれ生ける石となって,霊の家に築き上げられ,聖なる祭司となって,イエス・キリストにより,神によろこばれる霊のいけにえを,ささげなさい。聖書にこう書いてある,『見よ,わたしはシオンに,選ばれた尊い石,隅のかしら石を置く。それにより頼む者は,決して,失望に終ることがない』」。(ペテロ前 2:4-6)この新しい宮を組織するために選ばれ印せられた者の数は,イエス・キリストを別にして14万4000人です。ヨハネは黙示録の中でそのことを明らかにしています。―黙示 7:4,15。
祈りは立ちのぼる香の煙の如くエホバに達する
4 地上の宮において,香は何時,そして何のために用いられましたか。
4 模型的な幕屋およびその後に建てられた宮において,祭司は神に近づく際に香をたきました。日に2回,聖所の香壇に香をたくことは,モーセの律法の定めでした。またあらたまってエホバに近づく時には何時でも香をたくことが必要でした。「アロン朝ごとにその上にかうばしき香を焚べし彼燈火を整ふる時はその上に香を焚べきなり アロン夕に燈火をともす時はその上に香を焚べしこの香はエホバの前に汝等が代々絶すべからざる者なり」。(出エジプト 30:7,8,文語)律法によれば,香のこうばしい煙を壇の上にくゆらすことができるのは祭司だけでした。それは宇宙の主権者である生ける神の前に仕える祭司が,畏怖と忠順と賛美の心を神の前に抱いていることのしるしでした。(出エジプト 30:36,37)あがないの日に大祭司が聖所の至聖所にはいるとき,まず「薫香の雲」で,エホバの模型的なくらいである契約の箱のふたをおおいました。それは大祭司が「死を免れる」ためです。―レビ 16:12,13。
5 祈りはどのように香と共にささげられましたか。祈りはどのように準備されましたか。
5 祭司が聖所の中で日毎に香をたくとき,祭司以外のエホバの崇拝者は宮の庭に集まり,エホバの耳に達するようにと祈りをささげました。「さてザカリヤ〔バプテスマのヨハネの父〕は,その組が当番になり神のみまえに祭司の務をしていたとき,祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ,主〔エホバ〕の聖所にはいって香をたくことになった。香をたいている間,多くの民衆はみな外で祈っていた」。(ルカ 1:8-10)宮で崇拝する人々がささげたこのような祈りは,無意味な反復を避けるため,香があらかじめ調合されたと同じように,あらかじめ準備されていたに違いありません。(出エジプト 30:34-38)これに関連して,「わたしの祈を,み前にささげる薫香のようにみなしてください」と書かれています。―詩 141:2。
6,7 (イ)霊的な宮に関連して,香と祈りはどのように結びつけられていますか。(ロ)今日祈りによって神に近づく道はどこにありますか。
6 天に至聖所を持つ,エホバの新しい霊的な宮に関して使徒ヨハネのしるした黙示録のことばの中でも,「香」は祈りと結びつけられています。「また,別の御使が出てきて,金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが,これは,すべての聖徒の祈に加えて,御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は,御使の手から,聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった」。(黙示 8:3,4)イエス・キリストはこの新しい宮をつくり上げる「生ける石」のおもなものであり,エホバに近づくための唯一の道です。そこで祈りはすべてイエスを通してささげなければなりません。(ヨハネ 10:9; 14:6; 16:23)今日エホバは油そそがれた者の聖なる宮におられ,正しく祈る人々の祈りを聞き届けます。今日エホバの民の祈りは,御使の手から立ちのぼる香の煙と共に,たえずエホバに達しています。
7 崇拝者の祈りを聞くため,エホバが霊によって住むといわれる宮とは何ですか。また神に近づく正しい方法とはどんな方法ですか。パウロはこの点を明確にしています。「彼〔イエス・キリスト〕によって,わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって,父のみもとに近づくことができるからである……またあなたが〔油そそがれた者〕は,使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって,建物全体が組み合わされ,主〔エホバ〕にある聖なる宮に成長し,そしてあなたがたも,主にあって共に建てられて,霊なる神のすまいとなるのである」。(エペソ 2:18,20-22)新しい霊的な宮の残りの部分は,今日なお地上にあって活動しています。油そそがれた者のうち,なお地上に残るこれらの人々が経路となって,あらゆる民族の「大ぜいの群衆」は,「昼も夜もその聖所で」エホバ神に仕えているのです。―黙示 7:9,15。
イザヤは聖なる奉仕をする人々の集合を先見する
8 末の日におけるエホバの宮の家に関して,イザヤは何を予見しましたか。
8 サタンに支配された人類の悪の世の終る時代に,全世界からエホバの霊的な宮に崇拝者が集まります。預言者イザヤはそのことを先見しました。霊的な宮の成員の多くはいま天のシオンに立っています。(黙示 14:1)エホバの宮の見える部分を成している油そそがれた残れる者は,1919年以来エホバの恵みを受けて大いに高められ(黙示 11:12),またエホバ神の崇拝を地上の何物よりも上に高めました。それは昔の預言の成就です。「すえの日にエホバの家の山はもろもろの山のいただきに堅く立ち,もろもろの嶺よりもたかくあがり,すべての国は流のごとく之につかん おほくの民ゆきて相語りいはん,いざわれらエホバの山に登りヤコブの神の家にゆかん,神われにその道ををしへ給はん,われらその路をあゆむべしと,そは法律はシオンよりいでエホバの言はエルサレムより出べければなり」― イザヤ 2:2,3,文語。
9 (イ)エホバに近づくには,他にも何が必要ですか。(ロ)エホバの祈りの家に来るための資格を,どのように得ますか。
9 ここに述べられた崇拝者の群衆は献身した人々であって,エホバ神の求める事柄を十分に教えられています。それで愛の神エホバへのささげ物を持たずに空し手で来ることはありません。むしろ神を喜ばせる賛美のいけにえをささげ,公に言い表らわすことをします。そのことを彼らに教えたのは,エホバから油をそそがれている残れる者です。(ヘブル 13:15)これらの「異邦人」は献身した者となり,霊的イスラエルの油そそがれた残れる者と交わって,「エホバにつらなり」ました。(ゼカリヤ 8:23。ガラテヤ 6:16)これら諸国民の「大ぜいの群衆」は,エホバの設けられた宮によって祈りをささげます。イザヤはこの事を次のように予見していました。「エホバにつらなりこれに事へ,エホバの名を愛しその僕とな(る)……異邦人は我これを……わが祈の家のうちにて楽しましめん,かれらの燔祭と犠牲とはわが祭壇のうへに納めらるべし,わが家はすべての民のいのりの家と称へらるべければなり」。(イザヤ 56:6,7,文語)これら異邦の崇拝者の大群衆は献身してバプテスマを受けたエホバの正式な奉仕者あり,天の神の御座の前にその立場を認められています。(黙示 7:15)新しい契約に与ることのないこれらの人々も,油そそがれた残れる者と等しくエホバの証者としてエホバのみ名を負う最大の特権を認識しています。―エレミヤ 31:31-34。
だれの祈りが聞かれるか
10 どんな人の祈りがかなえられるかについて,聖書から答えなさい。
10 エホバ神は「祈を聞かれる方」であり,選ばれ,近づけられた者のとがを清めます。(詩 65:2-4)エホバは正しくささげられた祈りに耳を傾け,それをかなえます。(詩 66:19; 102:17。列王上 18:37。歴代下 33:13。エレミヤ 29:12,13。ダニエル 9:17,18。ルカ 11:9,10。ヨハネ第一 5:14,15)エホバは悪い者の祈りを聞かず,「正しい者の祈を聞かれ」ます。(箴言 15:8,29)助けを求める正しい者の叫びに,エホバは耳を傾けます。(詩 34:15; 145:18,19。イザヤ 58:8,9)「わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが,神を敬い,そのみこころを行なう人の言うことは,聞きいれて下さいます」。(ヨハネ 9:31)エホバに聞いてもらうため,諸国民の人々は以前の悪の道を離れ,神を恐れることを知り,エホバの平安を求めなければなりません。そのときエホバは,心が献身に傾いている人々,すなわち「エホバにつらなる」者の祈りを聞きます。ペテロの言葉はその事を確証しています。「主〔エホバ〕の目は義人たちに注がれ,主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主〔エホバ〕の御顔は,悪を行なう者に対して向かう」― ペテロ前 3:12。
11,12 (イ)「異邦人」もどのように祈りの特権を得ますか。(ロ)コルネリオの例から何がわかりますか。
11 エホバの宮で祈ることを知らずに,神に近づく正しい道を求めている異邦人の誠実な祈りはエホバにおぼえられます。やがてエホバはこれらの人々が,正しく認められたエホバのしもべの口から聖書の音信を聞くようにされます。こうして異邦の人もエホバの宮と関係を持つようになり,その祈りは神に聞かれるものとなります。その時から,正しい祈りの道が開かれたといえるでしょう。
12 イタリヤの将校コルネリオはその例です。この人はパレスチナのカイザリヤに住んでいましたが,ユダヤ人の宗教に改宗して割礼を受けたわけではありません。それでも「信心深く,家族一同と共に神を敬」う人であったため,エホバの宮と無関係にささげられたその祈りは「神のみ前にとどいて,おぼえられ」ました。(使行 10:1-4)時を見てエホバは,新しい霊的な宮の「生ける石」の一人ペテロに天使を送り,ペテロがコルネリオに伝道するようにとりはからいました。それはコルネリオが家族と共に献身した者となり,バプテスマを受けるためです。(使行 10:31,44-48)その時からコルネリオは悔改めを与えられ,エホバの宮と関係を持つようになって,その祈りは何時も聞かれることになりました。後にペテロがこの出来事をエルサレムの統治体に報告したとき,「人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして,『それでは神は,異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ』と言った」。―使行 11:18。
13,14 (イ)異邦人の崇拝者を集めるのに,天使はどんな働きをしていますか。(ロ)崇拝者を集めることに関して,今日でもよくある出来事をひとつあげなさい。
13 目に見えない天使は今日でも活動しており,神に誠実な祈りをささげる羊のような人々の正義に傾いた心は,天使の目にとまっています。(マタイ 25:31-33)やがてエホバは天使を導いて,地上にいる神の奉仕者が真理を求める人に行き合うようにします。こうして人は義とされる道を学んで献身し,聖なる奉仕をささげるエホバの宮の制度の下に来るのです。次の経験はその事を裏づけています。このような経験は世界どこにでもあり,決してめずらしい事ではありません。
14 カルフォルニアで或る日曜日の朝,エホバの証者の婦人の奉仕者は,あと数分で3時間の伝道を終えようとしていました。くたびれたので残りの数分は別の時にしようと考えて帰りかけたのですが,その近所でこの前訪問して留守だった家のことが気になりました。そこでどうしてもその家を訪問しなければという気になり,訪問して家の人に会いました。その婦人は聖書に深い関心を持っていたので,家庭聖書研究をさっそく始めることを望みました。この第1回の研究が終わったとき,婦人は奉仕者にむかって,私は昨晩,聖書を理解できるように助けて下さいと,神に祈っていたのですと語りました。それで祈りのかなえられたことを確信したのは言うまでもありません。勉強をつづけるうちにエホバのお目的を学んで早く進歩したこの人は遂に献身してバプテスマを受け,活発なエホバの証者となってエホバのクリスチャン証者の社会と交わるようになりました。献身したコルネリオと同様,この婦人は本格的な祈りをエホバにささげ,祈りのかなえられることを確信できます。
祈りの必要
15,16 (イ)祈りについて学ぶために,人はなぜ聖書をひもときますか。(ロ)祈りの必要なことを,だれが示していますか。どんな事を祈りますか。
15 祈りについて学ぼうとするならば,聖書をひもとかねばなりません。祈りのことを学ぶのに,聖書にまさる本はありません。ヘブル語聖書には159の祈りが記録されています。四福音書はイエスの祈ったすぐれた祈り20を記録しています。福音書以外のクリスチャン・ギリシャ語聖書中には,祈りの問題が98回以上とりあげられています。イエスの多くの祈りは,地上の生涯のあいだイエスが天の父と多く語る必要のあったことを示しています。「キリストは,その肉の生活の時には,激しい叫びと涙とをもって,ご自分を死から救う力のあるかたに,祈と願いとをささげ,そして,その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」― ヘブル 5:7。
16 イエスと同じく,私たちにとっても祈りは常に必要です。祈りの点でも,イエスは私たちの師となります。模範的な祈りの中で,イエスは祈るべき正しい事柄すなわちみ名の崇められること,御国の到来,み心の地に成ること,そして最後に日用の糧を求めることを教えました。(マタイ 6:9-13)すでに述べた通り,祈りによって生ける神に近づく道はイエスのほかにありません。ヨハネは次のように書いています,「イエスは彼〔トマス〕に言われた,『わたしは道であり,真理であり,命である。だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない』」。「何事でもわたしの名によって願うならば,わたしはそれをかなえてあげよう」― ヨハネ 14:6,14。
祈りとは何か
17 祈りとは何ですか。それはどのように働きますか。
17 祈りは天の真の神に語ることですが,それは人間から神のほうへのみ伝わります。天のエホバに祈りのことばを伝えるのに電話線や電波の必要はありません。昔から現代に至るまでエホバは,電話やラジオよりもはるかにまさる伝達の手段を備えています。人間が使うことのできるこの手段は,神の聖霊です。聖霊は祈りをとらえてそれを神に伝えるのに,時間や空間の影響を受けません。エホバが祈りを聞くしくみは,聖書の中で単に神の耳と呼ばれています。(詩 18:6)祈りに対する神の答えが人間の耳に聞こえてくることはありません。祈りにおいて神と話をかわすという事はないのです。むしろ神は霊的な導きを与え,また正しい願いごとによって,祈りに答えます。
祈る時の正しいことば
18 エホバへの祈りの中で,何を述べることができますか。
18 真の崇拝者が一方的にエホバに語る祈りの中で,何を述べることができますか。まず神の愛にこたえて自分が心をこめてなした献身を言い表わすことができます。(詩 18:1,2)また神の偉大さ,神のあわれみをたたえることもできるでしょう。(使行 4:24-30)奉仕の特権と機会に恵まれた感謝を述べることもできます。(サムエル後 7:27)エホバの数多い賜物と恵みに感謝するのは,何時でも正しいことです。(コロサイ 1:3)間違いをするのは人の常であってみれば,神の許しを求めることも当然と言えます。(ルカ 11:4)このような願いは悔改めの気持ちを表わすものであり,神の恵みを更に受ける道を開きます。(ルカ 18:11-13)兄弟たちを気づかい,その行なう御国奉仕の上に祝福を願うのも良いことです。(テサロニケ前 5:25)最後に,本当に必要なものを与えられるように祈ることができます。―詩 33:18,19。箴言 30:7-9。マタイ 6:11。
姿勢
19 祈るときの姿勢については,何が言えますか。
19 これらさまざまの祈りをするときに,特定の姿勢をすべきことが定められていますか。一般的に言えば,精神の集中を助ける姿勢が必要です。かしらを下げ,あるいは目をあげ,あるいはひざまづいて祈った例は聖書にもあり,現代のエホバの証者にも見られます。(ネヘミヤ 8:6。ヨハネ 11:41。ルカ 22:41。ダニエル 6:10)どんな姿勢をとるにしても,それは雑念を払いのけることのできるものでなければなりません。なぜならば,祈りのことばは誠実に,神への愛の気持ちをこめて明白に述べるべきものだからです。よく考えてから口に出した祈りの言葉ならば,聖霊の働きと一致するに違いありません。聖霊はエホバのみ心に一致して働きます。また祈る事柄は聖書の真理と一致していなければなりません。正しい祈りをするには,次のことを理解する必要があります。すなわち「神は霊であるから,礼拝する者も,霊とまことをもって礼拝すべきである」― ヨハネ 4:24。
アーメンと唱える
20,21 (イ)祈るとき,なぜアーメンと唱えますか。(ロ)祈りという点で,エホバの証者について何が言えますか。
20 祈りには適当な結びが必要です。クリスチャンはイエスの名によって祈ることを結びに述べるだけでなく,アーメンと唱えます。アーメンはヘブライ語のことばで,「真実に」という意味です。アーメンは確実性,そうあらしめよといった意味を含んでいます。アーメンと唱えることによって,人はその祈りが誠実な心から出たものでることを示します。会衆での祈りならば,聞く人々もまたアーメンと声に出して言うことを望むでしょう。―コリント前 14:16。
21 今日エホバの証者は祈る人々です。エホバの証者は祈りの必要を知り,祈り方を知っています。その祈りはこたえられています。エホバの証者はエホバの「祈の家」と交わっています。次の記事では,今日祈りの分野でエホバの証者が経験している事柄をいくつか採り上げました。
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「どんな時でも御霊によって祈りなさい」ものみの塔 1964 | 12月1日
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「どんな時でも御霊によって祈りなさい」
「御霊の剣,すなわち,神の言を取りなさい。絶えず祈と願をし,どんな時でも御霊によって祈り……なさい」。―エペソ 6:17,18
1 祈りに関して,エホバの民はどの点で他の人々と異なっていますか。
エホバのしもべは,公の宣教において「御霊の剣」すなわち神のことばを巧みに使います。しかしそれで事足れりとすることはできません。「どんな時でも御霊によって祈」ることが必要です。このためエホバの証者は祈る民と言えるでしょう。エホバの真の崇拝に祈りをかかすことはできません。祈りによって,常に神と身近な関係を保つことができます。歴史のどの時期においても,真の崇拝者は祈りによってエホバに近づきました。形式に堕し,空しい言葉に陥っている背教の徒や異教徒の祈りとくらべるならば,真の崇拝者の祈りは全く異なっています。(マタイ 6:7)また真の崇拝者は祈禱書や数珠や祈禱車を使わず,心からあふれる言葉を祈りの中で語ります。
2 祈りに対するエホバの証者の見解また他の人々の見解を述べなさい。
2 不敬虔な人は,祈りを無駄なことだと言って笑います。そのような人に言わせれば祈りが神に届くと考えているのは,祈っている人の想像に過ぎません。自然宗教の一派に属する人々は,祈りがその人自身に感化を及ぼすという点にのみ,祈りの価値を認めています。つまり自分が願っていることを祈っているうちに,自分でそれを実現する力が出てくるという考えです。あるいはクリスチャンと自称する人の中に,長々とした公の祈りを口に唱えても,心は遠く神から離れている人があります。(マタイ 15:8)「―師は,ボストンの一教会で信者がかつて聞いたことのない美しい祈りをした」a と報じたボストンの一新聞の記事は,その例です。このような祈りは信者に聞かせるためのもので,天の神にささげるものではありません。祈りは人の称賛を得るために語ることばではありません。(マルコ 12:40)祈りは慎しみ深くささげるべきであり,くどくど述べることを避けるべきです。(マタイ 6:5,6)エホバの証者のように誠実なクリスチャンにとって,祈りは想像上のものではなく,欺きでもありません。祈りは実際に即したもの,働いて力を発揮するものです。しかしそのためには,み心がなるようにと祈る言葉に一致した生活をしなければなりません。次にあげる現代また昔のエホバの証者の経験に注目して下さい。その祈りは天の神に聞かれました。
献身とバプテスマのために
3,4 バプテスマのための祈りの例をあげなさい。
3 献身と水のバプテスマに関連して祈りは必要です。イエスもそのバプテスマに関して祈ることの必要を認めました。「さて,民衆がみなバプテスマを受けたとき,イエスもバプテスマを受けて祈っておられると,天が開けて……」と,書かれています。―ルカ 3:21。
4 1961年のこと,あるアメリカの婦人は1年間聖書を勉強した結果,水のバプテスマによって献身を象徴することを決意しました。婦人の夫は聖書に反対でした。この婦人は,何があってもエホバに忠実に仕えたいと祈っていました。そして誓を立てたからには,たとえ夫の反対にあっても専心の献身をすべきことを承知していました。そこで次の巡回大会においてバプテスマを受け,献身を象徴できるように祈っていたところ,家庭の事情が好転して大会に出席でき,バプテスマを受けました。バプテスマを受けながら,この婦人は感謝しました。たしかに祈りはかなえられ,献身の誓を全うするための霊的な力も増し加えられたのです。
食卓で感謝
5,6 食事の時の祈りはどんな結果を生みますか。例をあげなさい。
5 食卓で祈ることが,偽りの宗教のならわしから出たものとは言えません。それは正しいことであって,聖書にも多くの先例がしるされています。五つのパンと二つの魚を5000人にわけ与えたときにイエスの述べた祝福のことばは,一つの祈りです。(マルコ 6:41)この奇跡に対してイエスがエホバに感謝したのは当然であり,しかもこの祈りによって群衆の上にはエホバの平安が臨みました。
6 昨年そろってエホバに献身した5人家族があります。バプテスマを受けてから,父親は食事のたびに祈りをすることにしました。世界各地のエホバの証者のベテルの家では,この事が行なわれています。さて祈りをするようになって以来,エホバの恵みに対するこの家族の感謝の気持ちは深くなりました。それで食卓につくたびに,日毎の糧を備えて下さるというエホバのお約束の成就を思い,感謝することはごく自然になりました。(マタイ 6:11)各自が勝手に食物をつめ込むと,さっさと立ち去るといった以前の無秩序はなくなり,食事時は家族だんらんの時となって,食卓の作法も守られ,クリスチャンにふさわしい会話がかわされるようになりました。エホバの祝福と平安が家族の上に臨んだのです。このような祈りには大きな力があります。
罪は祈りの妨げとなる
7,8 (イ)「あなたがたの祈が妨げられないためである」と述べたペテロの言葉は,何を意味していますか。(ロ)現代の例をあげなさい。
7 西暦1世紀のことペテロは,妻に対する夫の正しい振舞いを述べ,「それは,あなたがたの祈が妨げられないためである」とつけ加えました。(ペテロ前 3:7)ペテロがここで強調している通り,人は神に祈るとき,神のみ前に正しい行いをしていなければなりません。すなわち道徳の面で清く,意識的な悪行から離れていなければなりません。罪を犯して神に受け入れられない状態にあれば,その人の祈りは妨げられます。つまり心のやましさのために正しく祈ることができず,エホバの聞く耳も得られません。そのため祈りはかなえられないでしょう。エホバはその願いに耳を傾けません。悪人の祈りが聞かれないのはそのためです。―詩 66:18,19。箴言 15:29。
8 エホバの証者の一会衆であったことです。会衆の集会において何時祈りを求められても,一人の人は罪の許しを求めることばを祈りませんでした。その祈りに妨げのあることが明らかになり,後にはこの人の行いが明るみに出ました。この人は妻がありながら,他の女と関係を持ち,不道徳な行いにふけっていたのです。祈りの妨げられたことから悪行が暴露され,この人は排斥されました。
罪を告白する祈り
9,10 (イ)告白する祈りはなぜ必要ですか。(ロ)このような祈りの,昔と今の例をあげなさい。
9 あやまちは人の常です。(詩 51:5)罪またあやまちを犯すならば,人が神および会衆の兄弟たちと持つ関係は悪くなります。罪を告白したダビデの祈りに注目して下さい。「斯くて我なんぢの御前にわが罪をあらはしわが不義をおほはざりき,我いへらくわが愆をエホバにいひあらはさんと,斯かるときしも汝わがつみの邪曲をゆるしたまへり」。(詩 32:5,文語。サムエル後 12:13,14)罪を告白し,エホバの許しを得たことによって,ダビデは清い良心をとりもどしました。ハルマゲドンを迎えようとしている今日,各人は増し加わる反対にくじけないために,清い良心を持たねばなりません。罪悪感に良心を責められている人は,できるだけ早くエホバと兄弟たちに告白するほうが良いでしょう。そうすれば頭をまっすぐに上げて歩くことができ,祈りの妨げられることはなくなります。―テモテ前 1:18,19。
10 3年前に一人の特別開拓者が月末に病気になりました。月の手当を得るには30時間不足でしたが,手当の必要に迫られて不正の報告を出しました。不足分を翌月に埋め合わせる考えでしたが,事態が良くならないため,それは不可能となりました。その人の伝道活動はエホバの祝福を失ったように見えました。それでエホバに祈って悪を言い表わすと共に,協会に手紙を書いて許しを乞い,つぐないを申し出たのです。協会では支払った手当をそのままとし,不足分を夏の休暇の間に埋め合わせるようにとの指示を与えました。罪を告白する祈りは良心に休みを与え,エホバとエホバの民に対してその人の持つ関係は正しいものとなりました。この祈りは働いたではありませんか。―ヘブル 13:18。
誘惑にあうとき
11,12 誘惑にあうとき祈るのはなぜですか。
11 誘惑に会うとき,祈ることは非常に大切です。「誘惑に陥らないように,目をさまして祈っていなさい」と,イエスは教えました。―マタイ 26:41。
12 アメリカ西部の建設会社に技師として勤めている一人のエホバの証者があります。この人はエホバの証者の会衆の監督でもあり,自分の第1の務めはキリスト教の宣教であって世俗の仕事は第2であることを認識していました。それはパウロが天幕造りを職としたのと同様です。(使行 18:1-4)この監督は世俗の仕事から十分の給料を得ていました。1週間に40時間職場で働いたあとは,宣教活動に専念できました。しかし昨年,会社から工場長の職をすすめられました。もちろん給料はあがる上に,役得もふえます。そのかわり責任も重くなって,今までの40時間働けばよいというわけにはいきません。時には徹夜も覚悟しなければならないでしょう。この人はエホバに祈りました。その結果,いかにも有利なこのすすめを断わる勇気が出たのです。今でもこの監督は比較的に自由な立場を守って,宣教に忙しく励んでいます。
病気の時の祈り
13,14 (イ)病気の時に祈るのは,なんのためですか。(ロ)現代の例をあげなさい。
13 だれでも長い間に一度や二度は病気になります。自分も病んだことのあるダビデは,病める者に対するエホバのはからいを次のように述べています,「エホバは彼がわづらひの床にあるをたすけ給はん,なんぢ彼が病めるときその衾襖をしきかへたまはん」。(詩 41:3,文語)エホバの民は信仰療法には頼りません。むしろその病気に対処する賢明な手だてを講じ得るように祈ります。また祈りによってエホバから慰めを得,からだの持つ治癒力によって健康をとりもどすまで忍耐する力を与えられます。
14 ある婦人の奉仕者は悪性腫瘍の手術を受けることになりましたが,輸血なしで手術することに同意する医師がいませんでした。導きを祈り求めながら,無血の手術をしてくれる外科医を全国的にさがし求めたところ,幸いにそのような医師が見つかり,手術は成功しました。この姉妹は健康をとりもどし,再び奉仕できるようになりました。どんな事があっても輸血を受けまいという決意と信仰を強めたのは祈りでした。また問題解決の道も見出されたのです。―コリント前 10:13。
霊的な病気のときの祈り
15,16 (イ)霊的に病む人のための祈りについて,ヤコブは何と述べていますか。(ロ)このようにするとき効果がありますか。
15 病気の中には,いわゆる霊的な病気があります。それは神に対する信仰が弱まっている状態です。この危険な状態に陥った時それを克服するには,祈りが肝要です。ヤコブはさとしています,「あなたがたの中に,病んでいる者があるか。その人は,教会の長老たちを招き,主〔エホバ〕の御名によって,オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈は,病んでいる人を救い,そして,主〔エホバ〕はその人を立ちあがらせて下さる」― ヤコブ 5:14,15。
16 何年か前のこと,エホバの奉仕者の油そそがれた者の一人が,霊的な病気になりました。二人の古い兄弟が求められて訪問したところ,この油そそがれた兄弟はすっかり確信を失い,3カ月間もエホバに祈っていないことがわかりました。これでは霊的な病気になるのも当然です。おとずれた奉仕者は神のことば聖書を用いてエホバのお目的に関する認識を,病める者の心によみがえらせました。神のことばは油のように痛みをやわらげます。霊的に立ちなおらせるため,病気の兄弟を訪問して共に祈ったことは効果をおさめました。ヤコブはこの点を次のように述べています。「義人の祈は,大いに力があり,効果のあるものである」― ヤコブ 5:16。
迫害のときの祈り
17,18 (イ)迫害の時の祈りはどんな力となりますか。(ロ)例をあげなさい。
17 イエスが迫害に会ったのと同じく,今日のエホバの証者もさまざまの迫害に会っています。(ヨハネ 15:20)神の奉仕者として忠実な立場を守るゆえに刑務所にいる人もあり,エホバの証者としての立場のゆえに自分の家あるいは自分をとりまく社会において苦しみに会う人もあります。このような迫害に耐えるために祈りが必要です。昔の預言者たち,さらにヨブも,祈りによって迫害を切り抜けました。「苦しみを耐え忍ぶことについては,主〔エホバ〕の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい……あなたがたは,ヨブの忍耐のことを聞いている……あなたがたの中に,苦しんでいる者があるか。その人は,祈るがよい」― ヤコブ 5:10,11,13。
18 1958年,エホバの証者のギレアデ宣教者で英国人のハロルド・キングは,神の御国の福音を伝道したために,中共の上海で5年の刑を宣告され,4年7カ月を刑務所で過して1963年5月に釈放されました。刑務所にいたあいだ祈りを常にしたことをキングは次のように書いています。「独房の前をだれが通ろうとそれにはおかまいなく,私は毎日3回祈りをした」。キング兄弟の祈りは効果がありました。刑務所につながれた年月無事に守られただけでなく,もっとも大切な霊的な面において無事だったからです。
正しい決定を下すための祈り
19,20 正しい決定を下すために,祈りはどんな働きをしますか。
19 老若を問わずだれにでも決定しなければならない問題があります。そして正しい決定を下すには知恵を働かさねばなりません。ここでもヤコブのさとしに注目して下さい。「あなたがたのうち,知恵に不足している者があれば,その人は,とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に願い求めるがよい。そうすれば,与えられるであろう。ただ,疑わないで,信仰をもって願い求めなさい」― ヤコブ 1:5,6。
20 まだ10台のエホバの奉仕者の次のような例がアメリカにあります。高校時代スポーツと学業に秀でたこの少年は,高校卒業間近にフットボールの奨学金で大学に進むことをすすめられ,スポーツ界の有名人さえも少年の家に来て奨学金を受けるようにすすめました。ここで重大な決定をしなければなりません。奨学金を受けて大学に進むか,全時間宣教をするか,少年の心は何日ものあいだ迷いました。そこでエホバに知恵を祈り求めました。毎日祈るかたわら放課後には伝道活動に参加しました。祈りによって強められたこの青年は開拓奉仕をすることに決め,奨学金をことわりました。それは正しい決定でした。
とりなしの祈り
21,22 (イ)とりなしの祈りとはどんな祈りですか。(ロ)昔と現代の例をあげなさい。
21 悩みにあい,捕えられ,あるいは法廷に立つ忠実な兄弟のためにとりなしの祈りをするのは正しい事であり,また必要なことです。2度目に捕えられてローマの法廷に立つ前に,パウロはテモテに次のことを書き送りました。「そこで,まず第一に勧める。すべての人のために,王たちと上に立っているすべての人々のために,願いと,祈と,とりなしと,感謝とをささげなさい。それはわたしたちが,安らかで静かな一生を,真に信心深くまた謹厳に過ごすためである」― テモテ前 2:1,2。
22 今日でも同じくエホバの証者の宣教が裁判事件となって上級裁判所の審議に付せられることがあります。カナダ,アメリカ,英国,南アフリカ,スイス,オーストラリア,フイリピンなどにその例があります。このような時その国のエホバの証者はエホバにとりなしの祈りをささげました。神から与えられた伝道のわざが支障なく進むように,み心ならば神が裁判官に知恵を与えてエホバの証者に有利な判決を下す導きを与えるようにと願う祈りです。このような祈りが答えられて,エホバの民は最高裁判所において多くの勝利を得ました。
励みを得るための祈り
23,24 励みを与えた祈りの例をあげなさい。
23 四方から圧迫の加わる現在,励みは私たちすべてに必要です。落胆させるような事態も起きます。ネヘミヤは,エルサレムに城壁の防備がないことを聞いたとき,悲しみ,そのことについて祈りました。「わたしはこれらの言葉を聞いた時,すわって泣き,数日のあいだ嘆き悲しみ,断食して天の神の前に祈って,言った」。(ネヘミヤ 1:4)ネヘミヤの祈りは功を奏し,ペルシャの王はネヘミヤをエルサレムに遣わして城壁の建設にあたらせました。
24 カルフォルニア州でのこと,ある父親と息子が真理を学んで献身しましたが,母親は関心を示しませんでした。そのうち母親は心臓病になり,長くもたないと医師から宣告されました。大そう悲しんだ父親と息子は,母親が信者になることを願ってエホバに助けを祈りました。すると間もなく,母親は聖書に関心を抱き,死ぬ前に真理を受け入れ,電話を使って証言しました。そして新しい秩序の下に生きる希望を抱いて死にました。父親と息子の心からの祈りは答えられたのです。二人はいまそろって全時間開拓奉仕者となっています。
危険にさらされた時の祈り
25,26 危険にさらされた時の祈りは,どのように答えられましたか。
25 大きな危険にさられた時にも,是非とも祈らなければなりません。大魚に呑み込まれたヨナはそんな状態にありました。ヨナは魚の中から祈っています。「ヨナ魚の腹の中よりその神エホバに祈りて……」。(ヨナ 2:1)祈りは答えられ,ヨナは救い出されました。
26 1963年4月8日,サウス・デコタ州で一人の証者は二人の娘と共にキリストの死を記念する会衆の集まりに出かけようとしていました。するとかねて反対していた夫が戸口に立ちふさがり,銃をつきつけて家から出すまいとしたのです。この絶望的な瞬間に彼女はエホバに祈りました。数分後に夫はしずまり,妻の願いを聞き入れて記念式に出席することを許しました。そののち夫はもっと寛容になり,聖書にも耳を傾けるようになりました。祈りは良い結果を生みました。
組織に関する問題
27,28 組織の事柄に関して祈ることはなぜ必要ですか。
27 イエスでさえも組織に関する問題に取り組むときに祈りました。12使徒を選ぶ前の日の晩,イエスは神のみ心を知るために祈りました。(ルカ 6:12,13)こうしてイエスは12使徒の任命を発表する前に,エホバのみ心をたしかめたのです。
28 必要の大きなところで奉仕することを申し出たあるエホバの証者の奉仕者は,カルフォルニア州の小さな町で会衆の監督とされました。巡回のしもべは,その会衆には何か問題があるが,問題のありかは不明であると,その奉仕者に告げました。新しい会衆のしもベは初めて集会に出席した時から冷たい空気を感じ,何かあることを知りました。そこで会衆内のこの問題について,たびたび祈りました。何週間かするうちに不品行の事実が明るみに出て,一人の姉妹が排斥され,二人に試験期間が課せられました。祈りが答えられて会衆は清められ,そのうえ次の年には家から家に伝道する奉仕者の人数も,40パーセントの増加を見ました。
いっそうの益と祝福
29-31 (イ)祈りの益と祝福をさらに述べなさい。(ロ)祈りをしたならば,そのあと何が必要ですか。
29 今日エホバの証者はいろいろな場合に,エホバの「祈の家」に近づいて助けを求めます。ここにとりあげたのは,その二,三の例に過ぎません。願いごとばかりでなく,愛と賛美と感謝の祈りも,香の煙のようにエホバに達しています。エホバは祈りを聞く神です。祈りによってエホバを崇拝するならば,他にもどんな益がありますか。祈りによって人はエホバに近く引き寄せられます。(ヤコブ 4:8)こうして人は生命の源である父なる神と親しく交わることを得ます。祈りは心を清く保ち,心を強くします。人が天の偉大な友にかくすことは,一つもありません。開かれた心と清い良心をもって,神との交わりを保つことができます。
30 エホバの平安は,祈りをする人の上に留まります。この平安がなければ,本当の意味での成功は得られません。祈りによってエホバのうしろだてを確信できます。祈ることは,エホバのみ霊を更にそそがれる結果となります。いかに腕力が強く,また頭脳がすぐれていても,ハルマゲドンの時の安全は保証されません。勝利を得るのは,エホバのみ霊に導かれる人です。(ゼカリヤ 4:6)真実の勇気は祈りによって得られます。祈るとき楽観的な見方をすることができます。祈りは,エホバに対する献身の絆をしっかりと保つ手段です。神は献身したしもべの日毎の祈りに耳を傾けています。そしてみ心とみことばにかなう祈りに答えます。
31 大切なのは,「主よ,主よ」と言って多くの言葉を語ることではありません。(マタイ 7:21-23)大切なのは,神のみ心を行なう積極的な行動によって,祈りを行いに表わすことです。献身したしもべである私たちは,油をそそがれた残れる者も「他の羊」も,老いも若きも男も女も,「どんな時でも御霊によって祈り」をしなければなりません。祈りの民である私たちは,「祈の家」に来てエホバ神を崇拝することを喜びとしています。その喜びに限りはありません。
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真理は人を清めるものみの塔 1964 | 12月1日
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真理は人を清める
● カトリック教徒として育てられたブラジル,オリンダ州の一婦人は,結婚後,心霊術に頼るようになりました。婦人はたばこをのみ,賭博に熱中しました。その後,婦人はバプテスト教会など新教の教会に行ってみましたが,ただ手を上げるだけで救われたとするのは安易すぎると考えて,それらの教会には加わりませんでした。ある日,婦人はエホバの証者の訪問を受けました。婦人はエホバの証者と聖書の勉強を始め,御国会館で開かれる集会に出席するようになりました。しかし,たばこと賭博は中々止めませんでした。ある時娘がその婦人に言いました。「お母さん,なぜこの宗教を止めないの。たばこや賭博を続けているじゃない。そんなの自分を欺くだけだわ」。それを聞いた婦人はすっかり自分の心を改め,熱心にエホバの助けを祈り,たばこや賭博を一切止めようと決意しました。そののち,婦人はエホバに献身し,今では活発な神の御国の伝道者になっています。
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