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クリスマスにキリストを引き入れ得るかものみの塔 1958 | 12月15日
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と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。』― コリント後 6:14,15,新口。
これで何がはつきりしてきますか。キリストはクリスマスとは関係がないということです。そして,仮りにこの祝が異教的期日の12月25日から10月に変更されても,サンタクロースの作り話がすつかりなくなつても,この祝いの日に大食したり酔つ払う人がいなくなつても,クリスマスの日に不品行や犯罪が行われなくなつても,贈物を交換する異教の習慣が放棄されても,デパートの代りに教会が人々の興味の中心となつてきても,そうです,こうした事がらが全部起つても ― そういうことになる可能性はうの毛ほどもありません ― キリストをクリスマスの中に『引きもどす』ことはできません,キリストは何時の時もクリスマスの中にいたことはないからです。そうとすれば,クリスチャンと自称する人々,にせ牧師やその他の人々にせよ,人間がキリストをクリスマスに加えることができると考えるのは何と不合理で前後の転倒した話でしよう。これは全く聖書とは真反対の考え方です。
以上のような理由で,真のクリスチャンはクリスマスを避け,聖書の命令に従います。『汚れたものに触れてはならない。』― コリント後 6:17,新口。
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祈りをなしつつ油断するなものみの塔 1958 | 12月15日
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祈りをなしつつ油断するな
『しかし,すべてのものの全き終りは近づいた。それで健全な心を持ち,祈りをなしつつ油断するな。』― ペテロ前 4:7,新世。
1-3 (イ)どんな恐ろしい悲劇は,過信の愚かさを力づよく例証しますか。(ロ)このことから,どんな比喩がクリスチャンに対してつくられますか。
それは1912年,4月14日の夜11時40分のことです。世界最大の海洋客船は2207名を乗せて北太西洋を全速力で航行していました。その客船は『人間の最も誇るべき技術的業積』とほめそやされていたのです。その所有主たちは,その船に対する確信を示すため『タイタニック』という名前を船につけました。その意味は,『極めて大きなもの,強力なもの』ということです。けつして沈むことはないと言われていたこの客船は,その処女航海の5日目でした。ところが,暗やみから氷山が現われ,舵を充分取る間もない中にタイタニック号の横腹に突き当りました。3時間経たぬ間に,『不沈の』タイタニック号は沈み1502名の男や女および子供たちもろともに水底の墓に沈みました。
2 その恐ろしい悲劇の原因は何でしたか。過信のため油断したからです! タイタニック号の無線技師は六つの警告を受け取つており,その中の一つの警告は船がぶつかつた氷山の的確な位置さえ述べていたのです。そのような警告があつたにもかかわらず,なぜ,船長は全速力で航行させたのですか。船は決して沈まないということに大きな信頼を寄せていたからです。まつたく,過信の愚かさを力づよく例証づけるものです!
確信の必要
3 献身したクリスチャンとして私たちは世の中にいますが,その一部ではありません。私たちは,いわば船長のようであつて,この古い世の組織制度からハルマゲドン後の新しい世に向かつて航行しているのです。いまのところ,私たちの多くは順調に航行しているように見え,油断をする傾向があります。しかし,油断は絶対に禁物です。私たちの海にも悪魔や悪鬼共,そしてこの世や肉欲の仕かけた氷山とか障害物がまき散らばつているのです。それらのものは私たちを容易に破船せしめ,神に対する忠実を容易に失わせてしまいます。
4 油断をしないとはどういう意味ですか。
4 油断<ヴィヂラント>をしないということは,どういう意味ですか。『油断<ヴィヂラント>をしない』という言葉は,『見張る』という意味の語根から来ています。油断をしないということは,つまり心をピンとして見張りをなし,用意周到で,警戒をなし,『注意を配つて危険を見つけて避け,安全を図ること』ということです。『油断<ヴィヂラント>しないということは,鋭い,勇気のある,しばしば用心深い警戒さ,特に善の目的のためになされるもの』(ウエヴスター辞典)それですから,油断をしないことは,不注意,無思慮,注意を払わないこと,無関心,そして眠つたいことの正反対です。油断してはいけない重要性を私たちの心と思いに銘記させるために,戒めを与える実例とか,神の御言葉の明白ないましめがあります。
5,6 (イ)過信のために油断をしたどんな聖書的な例がありますか。(ロ)どんな聖書的な警告がありますか。
5 ヱホバの忠実な僕たちであるノア,モーセそしてダビデのような者でさえも,過信して油断をしたため,時には「気づかぬ中に偽りの歩を踏みました。」そして特に使徒ペテロの場合は,私たちに警告を与える実例です。たしかにペテロはヱホバ神と自分の主に全く献身していました。ペテロは自分のしていた漁業と他のすべてを捨てて,イエスに従い,人間を漁る者になりませんでしたか。それでも過信して油断をしたために,彼はつまずいて自分の主を3度も否定したのです!―マタイ 26:31-35,75。
6 そして又,次のような明白ないましめもあるのです,『祈りをなしつつ油断するな。』『身をつつしみ,目をさましていなさい。』『目をさまして祈つていなさい。』『目をさまして慎んでいよう。』『立つていると思う者は,倒れないように気をつけるがよい。』― ペテロ前 4:7; 5:8。マタイ 26:41。テサロニケ前 5:6。コリント前 10:12。
いま注意を払うことはなぜ一層必要か
7-10 (イ)いまサタンからの反対について,用心深さを増し加えることはなぜ必要ですか。(ロ)この世から?(ハ)私たち自身の肉体から?
7 クリスチャンたちは,これらの警告を心に留めるべきですが,今日の私たちは特にそうすべきです。本当に「悪魔が,ほえたけるししのように,食いつくすべきものを求めて歩き回つている。」私たちは二つの世界大戦で『諸国民は怒り狂つた』時代に住んでいます。それで,サタンは『自分の時が短いのを知り』今ではより大きな怒りを持つて『神の戒めを守り,イエスのあかしを持つている者たち』すべてに対して烈しい憤怒を持つて戦をいどんでいるのです。サタンが攻撃の度合を強めていることから私たちは,いつそう警戒を強めねばなりません。―ペテロ前 5:8。黙示 11:18; 12:12,17,新口。
8 同じことは私たちの敵であるこの世についても言えます。『不法の増し加わる』につれて,私たちの愛が冷える危険も大きなものとなります。私たちは『苦難の時代』に住んでおり,利己主義の播かれている時に住んでいると事実は示していませんか。この世は利己主義によつてクリスチャンを誘惑している故,その増し加わつた物質主義と悪に対して私たちは一層油断すべきではありません。―マタイ 24:12。テモテ後 3:1-5。ヨハネ第一書 2:16。
9 私たちの肉体については,今日一層注意する必要があります。どうしてそうですか。パウロが告白したごとく,『私の欲している善はしないで,欲していない悪は,これを行つている。』はいつの時でも真実ですが,今日肉欲をすすめさそう事柄は増加しています。昔のソドムが『食物に飽き,安泰に暮した』ことはその堕落と犯罪をすすめる一原因でした。同じく今日,私たちの多くは物質的な繁栄と以前よりも多い余暇を楽しんでいますが,それは私たちの肉体の堕落した傾向をすすめる機会を増し加えるものであり,節制を一層むずかしいものにします。このことは極めて重大な脅威です。それは次の事事からも分ります。ナチの収容所内での残忍な待遇にも忠実に耐え忍び,また最近には共産主義者の牢獄に幾年ものあいだ耐え忍んだ或るヱホバの証者のクリスチャンは,後になつて不道徳な行の故に排斥され除名されたのです!―ロマ 7:19。エゼキエル 16:49,新口。
10 悪魔,この世,そして肉欲という三つの敵は,私たちの道にますます多くの障害を置いている故に,まつたく今日の私たちは,いままでに無い程に気をつけて警戒をなし,油断すべきではありません。世界の大部分のところでは迫害が無いからとか,また清い崇拝が拡大しているからという理由で,過信するようになつてはいけません。かえつて,『すべてのものの全き終りは近づいた』故に,油断してはならぬということについての警告の例と明白ないましめをいつそう心に留める必要が増し加わつているのです。
霊的な必要物を意識する
11-14 (イ)霊的な必要物を意識していることは,私たちの神の御言葉の研究にどんな効果をもたらしますか。なぜ?(ロ)私たちの集会出席について?(ハ)私たちの伝道活動について?(ニ)私たちの祈りについて?
11 どのように油断しない状態を保つことができますか。過信の罠をどのように避けることができますか。どのように? 私たちの霊的な必要物を意識することよにるのです。イエスも『霊的な必要物を意識している者たちは幸いである。』と言われました。私たちの霊的な必要物を意識することは,なぜ私たちの油断しない状態を保たせ,また過信の罠から私たちを守るのですか。なぜなら,先ず最初に私たちは神の御言葉の理解を助ける手引を用いつつ,熱心に神の言葉を研究します。『人はパンだけではなく,ヱホバの御口から来るすべての言葉によつて生きなければならない。』ということを知つているからです。その御言葉は,私たちの知つているごとく,私たちの油断しない状態を保つために警告のさとしを多く述べています。―マタイ 5:3; 4:4,新世。
12 第二番目に,もし私たちが霊的な必要物を意識しているなら,あらゆる機会の場合にも同じ心を持つクリスチャンと交わることに努めるでしよう。他の者に向かつて『お前は必要でない。』と言える人は一人もいないからです。そのことを口に出して言うなどとは考えないかもしれません。しかし,兄弟たちと共に集まるのを怠るなら,私たちの行いにより私たちの心の中で,全く同じことを言つているのです。献身したすべてのクリスチャンが,たがいに交わるという霊的な必要物に十分気づいているなら,次のことを絶えず想起させるのは必要でないでしよう,『ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互いに励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。』お互いに交わることは,大きな励ましであり,私たちを助けて,油断しない状態を保たせます。―コリント前 12:21。ヘブル 10:25,新口。
13 さらに,私たちが霊的な必要物に意識しているなら,イエスの場合と同じく私たち一人びとりの場合に次のことは真実です。『私の食物というのは,私をつかわされた方のみこころを行い,その御業をなしとげることである。』ヱホバとその御国およびハルマゲドンの来るべき亡びについての警告を良い心に受け入れたからは,私たちはこれらの真理を他の人に告げ知らせる真実の必要性を感じます。まつたく,エリフやエレミヤのごとく,私たちはだまつていることができません。真理を忙しく伝道することは,油断しない状態を保つ最善の方法の一つです。―ヨハネ 4:34。ヨブ 32:18-20。エレミヤ 20:9。
14 そして最後に,霊的な必要物を意識するとき,祈りの価値,すなわち天的な御父であるヱホバ神と話をする価値を認識いたします。祈りによつて私たちは,ヱホバ神の援助を必要としていること,および真の智恵とあらゆる力の源であるヱホバ神と接しつづける必要さを認識していると示します。今日ある人々のあいだには,祈りの重要性,そうです,ししばしば行う誠実な祈りの重要性を見のがす傾向があるようです。祈りをなおざりにしたり,またはお決まりの形式事のようにすることは極めて容易です。それは,大きな間ちがいです。熱心な祈り,そしてしばしば捧げる祈りは,私たちを助けて過信の罠を避けしめます。神の御言葉が祈りと油断しないこととを再三再四結びつけているのも,なつとくのいくことです。
イエスは自分の霊的な必要物を意識した
15 イエスが霊的な必要物を意識していたと何は示しますか。
15 イエスは,他のすべての事柄の場合と同じく祈りについても完全な模範を残されました。彼がこの貴重な特権を認識したことは,その地上の宣教の記録の中に明白に表わし示されています。全くのところ,地上の人間でイエスほどに祈りを認識した者は一人もいないと言うことができます。イエスは心も体も完全で超自然の力を使用することもできましたが,しかし過信することはなく,いつも自分の霊的な必要物を意識していました。彼は天の御父の智恵と力をいつも仰ぎ,祈りの中に賛美と感謝を述べました。
16-18 (イ)洗礼を受けたときのイエスの心持ちは何でしたか。(ロ)イエスの宣教中,彼が祈りをなしたということについてはどんな記録がありますか。
16 それですから,イエスの地上の宣教の最初については,こう記録されています。『イエスもバプテスマを受けて祈つておられると,天が開けて』彼は自分の霊的な必要物を十分に意識していて,御父と話を交され,御父の助けを求めました。彼は真剣そのもので,彼の行いに軽々しいところとか,軽そつなところはありませんでした。イエスは又荒野にいる40日の間,多くの時間を祈りに費したにちがいありません。私たちは,それ以外の結論をすることはできないのです。それで,サタンが来て狡猾な誘惑をしかけても,イエスは隙をつかれなかつたのです。彼は油断をしていませんでした。―ルカ 3:21。マタイ 4:1-10,新口。
17 同様なことは,彼の宣教中についても言えます。聖書には,彼が再三再四ひとりで祈るために引きこもられたと書かれています,『イエスがひとりで祈つておられたとき,弟子たちが近くにいた。』また『群衆を解散させてから,祈るためひそかに山へ登られた。』そして夜明けにいたるまでそこに居られたのです。それから暴風雨で恐怖につつまれた弟子たちのところに急いで行かれました。また別の時には,『朝早く,夜の明けるよほど前に,イエスは起きてさびしいところへ出て行き,そこで祈つておられた。』― ルカ 9:18。マタイ 14:23。マルコ 1:35,新口。
18 弟子たちの中から12使徒を選ばれる前に,イエスは『祈るために山へ行き夜を徹して神に祈られた。』重大な決定をつくる際には神に熱心な祈りを捧げねばならぬということについて,何と良い模範なのでしよう! またすばらしい変貌が行われた時も,イエスは『ペテロ,ヨハネ,ヤコブを連れて,祈るために山に登られた。』それは,イエスの祈りに対する答としてなされたのですか。たしかにそうです! そして,私たちは模範的な祈りを頂きましたが,それの助けとしてイエス自身の祈りの例があります。次のように書かれています,『イエスはある所で祈つておられたが,それが終つたとき,弟子のひとりが言つた,「主よ,ヨハネがその弟子たちに,教えたように私たちにも祈ることを教えて下さい。」』― ルカ 6:12; 9:28-30; 11:1,新口。
19,20 (イ)地上の宣教の最後の日に,イエスはどんな祈りを述べられましたか。(ロ)なぜ彼はそのような仕方で祈りましたか。
19 そして特に地上における宣教の最後の日に,人間としてのイエスは祈りをいたしました。自分の弟子たちから間もなく去るということを知つて,彼は彼らの為に長い祈りを熱心に捧げました。それはヨハネ伝 17章に記録されています。また,直ぐ先の将来を見こされたイエスは,ペテロの為に特に祈りを捧げ,彼の『信仰がなくならないように』願つたのです。それから,群集が彼を捕えに来るすこし前に,イエスは自分に対する御父の御意について3度祈りました,『わが父よ,もしでき得ることでしたらどうか,この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし,私の思いのままにではなく,みこころのままになさつて下さい。』使徒パウロも次のことを書いたとき,この特定な事柄を心に留めていたにちがいありません。『キリストは,その肉の生活の時には,激しい叫びと涙とをもつて,御自分を死から救う力のあるかたに,祈りと願いとをささげ』た。天の御父に祈りを捧げたのです。(ルカ 22:31,32。マタイ 26:39。ヘブル 5:7,新口)イエスが死ぬことからしりごんだとか,または彼の受けねばならぬその種類の死からしりごんだなどと考えるべきではありません。イエスは自分が殺されるということ,および殺される仕方についても弟子たちに告げたではありませんか。(マタイ 16:21。ヨハネ 12:33)むしろ,次のように結論すべきでしよう。彼が一番憂慮したことは,苦しみの杭の上で神の御子が死ぬとき,天の御父なるヱホバ神にそしりをもたらすのではないかということでした。
20 イエスは杭にかけられて苦しみを受けたとき,祈りを捧げつづけました。その恥とか苦痛は,彼を神から離れしめず,かえつて一層神に近づけました。その祈りの中でイエスは二つの予言的な詩篇を引用しました。神はそれよりもずつと幾世紀も以前に,その目的の為に記録せしめられたのです,『わが神,わが神,どうして私をお見捨てになつたのですか。』そして『父よ,私の霊をみ手にゆだねます。』それから,御父に告げる最後の報告は『すべてが終つた。』ということでした。ついでのことですが,このすべての事柄は次のことを証明します,すなわち地上におられたイエスは神人ではなく,化肉したものでもなく,また三位一体の一員でもないということです。彼は全く地的な人間でした。しかし,彼の御父はヱホバ神であつたため,彼は完全でした。―マタイ 27:46。ルカ 23:46。ヨハネ 19:30。詩 22:1; 31:5。
21 イエスの例から,私たちはどんな教訓を得ることができますか。
21 イエスが自分の霊的な必要物にいつも意識しておられたことは,疑問の余地がありません。完全なもの,罪のない者,そして奇蹟を行つた神の子でさえも絶えず祈りをする必要を感ぜられたというのであるなら,不完全で罪深い弱い者である私たち,アダムの息子や娘は,なおさらに祈りを捧げる必要を感ずるべきでしよう。使徒たちも同じ心持ちを抱いていたことは,彼らの手紙からも明白に分ります。その手紙は祈りをせよと命ずる言葉や,また兄弟たちのために祈りをしたと述べている事柄で充ちています。―ロマ 15:30。テサロニケ前 1:2。ペテロ前 4:7,新口。
賛美,感謝,そして願い
22 祈りを指す聖書的な命令のいくらかは何ですか。
22 また私たちに祈りを命ずる物に,祈りについて述べる多くの聖書的な命令や表現があります。祈りをすることによつてのみ私たちは「御父を呼び」つづけることができます。祈りをすることによつてのみ,私たちは「私たちの荷をヱホバにゆだね,ヱホバは私たちをささえる」ことができます。また「心をつくしてヱホバにより頼み」そして「すべての途にてヱホバをみとめる」ためには,私たちはヱホバの御言葉を探すだけでなく,祈りの中に彼のところに来なければなりません。さらに,祈りをしないなら「神と共に謙遜に歩む」こともできません。いつしょに歩いている人と会話をしない人がいるでしようか。そして,祈りとは神と語ることではありませんか。そして,私たちが先ず神に献身するとき,祈りの中に私たちは神に向つて「神よ,私は御意を行うために来ました」と言うではありませんか。―ペテロ前 1:17。詩 55:22。シンゲン 3:5,6。ミカ 6:8。ヘブル 10:9。
23,24 (イ)祈りの三つの形式,または面とは何ですか。何がそれらを生ぜしめますか。(ロ)これについてのどんなすばらしい模範をダビデは残しましたか。
23 しかし,祈りとは神に何かをお願いすることだけではありません。その事実を見のがさないようにしましよう。それですから,イエスは再三再四,神に願い求めただけでなく,くり返し祈りの中に神に賛美を捧げ,感謝をいたしました。(マタイ 11:25。マルコ 8:6。ルカ 22:17,19。ヨハネ 6:11,23; 11:41)いつでも次のことを記憶しましよう。すなわち祈りを捧げる際にはいつでもヱホバを賛美し,そして又私たちの為にヱホバが常になしつづけて居られるすべてのことに感謝の言葉を入れるということです。賛美と感謝という心持ちをつちかうことにより,私たちは自ら足ることを知る満足という報いを受けます。それは敬虔と相俟つて大きな利得の手段です。―テモテ前 6:6。
24 祈りの中に賛美,感謝,そして願いを入れた良い模範は,ダビデの捧げた祈りです。ダビデとその国民は,ヱホバの宮を建てる為に寄附をして,そのときに祈りを捧げました。その時にふさわしい流暢な言葉の中にダビデはヱホバの属性に賛美を帰しそれから彼と彼の国民が多くのものを寄附し得たことについてヱホバに感謝しています。すべてのものは,最初に神から来たからです。それからダビデはヱホバにお願いを申し出で,彼の国民がいつでも物惜しみしない心を持ちつづけるように,そして彼らの心がいつもヱホバに向かうようにと祈つています。そして又,模型的な御国については,ダビデはこう祈りました,『我が子ソロモンに全き心を与え,なんぢのいましめ……を守らせ』と語りました。私たちもダビデにならいましよう。そして祈りを捧げるときは,私たちが霊的な必要物を意識していることを示すだけでなく,また神なるヱホバに感謝し,ヱホバが私たちのためにつねになされていることに感謝していることを示します。―歴代志略上 29:10-20。
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祈りは愛ある貴重な御準備ものみの塔 1958 | 12月15日
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祈りは愛ある貴重な御準備
『何事も思い煩つてはならない。ただ,事ごとに,感謝をもつて祈と願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。』― ピリピ 4:6,新口。
1 どんな事実は,祈りの奇跡的な性質を大きく表わしますか。
この祈りの御準備について考えをめぐらすなら,その奇蹟について驚嘆の言葉を発せざるわけには行きません。1946年1月10日,人間は大がかりな準備をして後にレーダー信号を始めて月に達せしめました。そのとき,『月までの距離である22万1000から25万3000マイルに相当する2.38秒から2.72秒の後に』極めて薄弱な反響が戻つて来たのです。しかし,人間はそのことをたいへん誇らしげに思いました。人間のレーダーは光の速力で月に達するかもしれません。しかし,私たちの祈りにくらべるときそのようなものは全く顔色の無いものです。私たちの祈りははるか彼方のヱホバの御座にまで達します。ヱホバの御座は物質の宇宙よりもずつと上のところにあり,幾光年か数え切れぬ程遠いところにあるのです。しかも,それは一瞬の中に達してしまうのです! そして,祈りの中にヱホバに達することは何と容易なのでしよう!
2 祈りに対する最初の条件は何ですか。そして,どんな二つの面で?
2 しかし,この奇蹟がなされるためには,私たちは唯一つの真の生ける神ヱホバに祈らねばなりません。(出エジプト 6:3。イザヤ 46:9)人の心の中だけに存在している神々に祈りを捧げても,その祈りは決して聞かれないでしよう。エリヤの時のバアルの祭司たちは,残念にもそのことを知りました。(列王紀略上 18:26-29。詩 115:4-8)それですから,祈りに対する最初の要求は,信仰です。『信仰がなくては,神によろこばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,御自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはずだからである。』気をつけなさい,神が存在していることに信仰を持つだけでなく,神を熱心に求める者たちには神は報いを与えられる,そして神は私たちの祈りに答えられるということを信じなければならないのです。ヤコブも次のように強調しています,『疑わないで,信仰をもつて願い求めなさい。疑う者は,風に吹かれて波立つ海の波のようである。そういう者は,すべてのものをヱホバから戴けると考えてはならない。』そして,イエスもこう言われました,『もし,からし種一粒ほどの信仰があるなら……あなた方にできない事は,何もないであろう。』― ヘブル 11:6。ヤコブ 1:6,7。マタイ 17:20,新世と新口。
3 (イ)神が祈りにこたえるということについてのどんな例が,神の言葉の中にありますか。(ロ)どんな現代の例がありますか。
3 そして,そのような信仰を持つことに対する健全な基礎があるではありませんか。神は『私たちが求めまた思うところのいつさいを,はるかに越えてかなえて下さることができるかた』ではありませんか。そして,神は私たちを愛しておられる故,神は為し得る方であるだけでなく,進んで為し得る方であると信ずることができます ― この点は不完全な人間と極めてちがうところです。人間はしばしば為そうとする気持がありますが為し得ることはできず,また為し得ることができてもそうする気持はないのです。まつたく,『あなた方は,悪い者であつても,自分の子供には,良い贈り物をすることを知つているとすれば,天にいますあなた方の父は,なおさら,求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。』エリヤが450人のバアルの予言者たちと面したとき,神はエリヤの祈りに答えませんでしたか。セナケリブの軍隊がエルサレムを脅かしたときヘゼキヤの祈りに答えませんでしたか。パテロがヘロデ・アグリッパによつて投獄されたとき,ペテロの祈りに答えませんでしたか。そして,あらゆる妨害にもかかわらず,ヱホバの証者の新しい世の社会が繁栄していることは,ヱホバ神は昔の場合と同じく今日でも祈りに答えることができ,かつ進んで答えられるという証明です。たしかに今日,神がどんな特定な手段で祈りに答えられるかは,私たちの必らずしも理解するところではありません。しかし,私たちは次のことを知つています,すなわち神は目に見えぬものと目に見えるものとの両方で成り立つ御自分の制度,御自分の言葉,そして活動力なる聖霊を用いておられるということです。―エペソ 3:20。マタイ 7:11。列王紀略上 18:36-38。列王紀略下 19:19,35。使行 12:5,7。
神の径路
4 誰を通して私たちは祈りの中に来なければなりませんか。この条件がイエスの模範的な祈りの中に述べられていないのはなぜですか。
4 さらに,私たちの祈りが神に達するためには,私たちは神の定めた方法を認めねばなりません。ヱホバは秩序の神だからです。ヱホバは宇宙の大主権者であられる故に,御自分の臣下がむやみやたらに押しつけがましくすることを許しません。特に,罪を持つ敵である者たちから押しつけがましくされることを許さないのです。ヱホバは一つの径路を持つておられます,そしていわば神の謁見を受けるためには,私たちはその径路を認めねばなりません。西暦33年の春以来,その径路はイエス・キリストです。彼もこう言われました,『だれでも私によらないでは,父のみもとに行くことはできない。』多くの人々は,マリヤや聖徒と呼ばれる他の者たちを通して神に達すると主張しますが,このことにおいて彼らは悲しくも失敗しているのです。神の言葉の何処を見ても,祈りがそれらの者を通して捧げられているという箇所はなく,またそうせよと命じている言葉も見つかりません。『神は唯一であり,神と人との間の仲保者もただひとりであつて,それは人なるキリスト・イエスである。彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられた。』それであるなら,イエスは弟子たちに与えた模範的な祈りの中で,なぜこの要求を述べなかつたのですか。おそらく,イエスがその祈りを与えられた時は,彼は御自身を十分に証明していなかつたからです。しかしその宣教の最後の日までには,彼は「御父より賜わつた業を為しとげて」いましたから,次のように言うことができたのです,『あなた方が父に求めるものはなんでも,私の名によつて下さるであろう,今までは,あなたがたは私の名によつて求めたことはなかつた。求めなさい,そうすれば,与えられるであろう。そして,あなた方のよろこびが満ちあふれるであろう。』― ヨハネ 14:6。テモテ前 2:5,6。ヨハネ 17:4; 16:23,24,新口。
5 祈りをする際の私たちの心の態度は何でなければなりませんか。そして,なぜ?
5 私たちの祈りが神に達する為には,全く誠実な気持の中に捧げられねばなりません。『人に見せるために』祈る者たちは,無駄な祈りをしています。神は偽善者を憎むからです。神は『霊と真をもつて』祈る者たちだけを聞きます。『正しい者の祈りは彼によろこばれる。』彼らは『主の御顔を仰ぎ見るであろう。』同様に私たちは謙遜の中に神に来なければなりません。神の大いなること,および私たちの弱少なることを考え見るとき,誇りはもつとも不適当なものです。さらに神に来て願い求める場合に,私たちは乞い願うものとして来るのであり,お客として来るのではありません。私たちは神と交渉取引をすることができません。私たちは提供すべきものを持つていないからです。それですから,高ぶつた者に対して神が反対し,謙遜な者に恵みを与えるということは,まつたく適当なものです。―マタイ 6:5。ヨハネ 4:24。シンゲン 15:8。詩 11:7。ペテロ前 5:5。
6 祈りを捧げる際の私たちの姿勢はどうですか。しかし,ひざまずくことは良いと,どうして言えますか。
6 ついでのことですが,祈りをするときに手を組んだり,敬虔ぶつた姿勢を取るという行いに対する聖書的な裏づけは一つもありません。神の御言葉の示すごとく,私たちの姿勢は重要ではありません。しかし,個人的な祈りを捧げる際にひざまずくことは,造り主の前に謙遜という正しい心持を採る助けであるとすすめられています。(詩 95:6。ダニエル 6:10。ルカ 22:41。エペソ 3:14)またひざまずくことは心の集中を助けます。寝床に横たわりながら祈るなら,私たちの心は容易に別のことを考えたり,うとうとしてしまうでしよう。疑いもなくそのわけでパウロは私たちに助言を与えた際に『ひたすら祈りつづけなさい』と言つているだけでなく,『目をさまして,感謝のうちに祈れ』と告げているのです。―コロサイ 4:2,新口。
神の御意に一致
7-10 (イ)私たちの祈りは,答えて頂くためには何に一致していなければなりませんか。(ロ)どんな聖書的な例は,このことを例証していますか。(ハ)この中には,私たちに対するどんな教訓がありますか。
7 更に,もし私たちの祈りを神に聴いてもらいたいなら,それは神の御意と一致していなければなりません。イエスは『天で行われるように,地にもあなたの御意が行われますように』祈れ,と私たちに教えただけでなく,御自身も『私の思いのままにではなく,みこころのままになさつて下さい。』と祈られました。使徒ヨハネは同じ条件を認めています,『私たちが何事でも神の御旨に従つて願い求めるなら,神はそれを聞き入れて下さる。』その条件はまつたく論理的であり,また明白である故,祈りを捧げている大多数の人々がそれを見のがしているということは不思議に見えます。―たぶん,大多数の祈りが利己的なもので,無分別なものであることに気づくとき,それ程まで不思議には見えないでしよう。神の目的の方が優先のものではありませんか。神の目的の方が,私たちの個人的に持つあらゆる利害よりも遙かに重要ではありませんか。さらに,戦争の際には両方の側が勝利を祈り求めるという具合に,人間の祈りはしばしば矛盾衝突するではありませんか。神は全知全能ですが,しかし矛盾反対する祈りに答えることをいたしません。―マタイ 6:10; 26:39。ヨハネ第一書 5:14。
8 この原則がモーセの生涯中にどう働いたか気をつけてごらんなさい。パロとその軍隊がイスラエル人を取り囲んだときにモーセはヱホバに叫び求めました。神は奇蹟を行つて紅海を開きました。その祈りは御自分の御名をつくり御自分の民をエジプトの束縛から救い出すというヱホバの目的と一致していたからでした。同じく,イスラエルの国民が金の犢をつくつたり,また後には不忠実な間者の報告を聞いて反逆をなし滅びを受けるにふさわしい者たちであつても,ヱホバはイスラエル人たちを滅ぼしませんでした。なぜなら,モーセはヱホバの御名とまた彼らの先祖と結んだヱホバの契約にもとづいて取りなしを願つたからです。他の場合の時でも,御自分の民の代りに捧げたモーセの祈りに対して,ヱホバはその祈りを聞いて答えられました。―出エジプト 14:15-28; 32:7-14。民数紀略 11:1,2; 12:1-15; 14:11-20; 21:5-9。
9 しかし,モーセが約束の地に入ることを許してもらいたいと祈つたときはそうではありませんでした。モーセは「不平を言うイスラエルに怒りを発し,メリバで軽そつなことを語つたり行つたり」したため,約束の地に入る権利を失いました。ヱホバは御心を変えなかつたのです。それで,モーセはヱホバを賛美してヱホバの善に感謝し,そして『どうぞ私にヨルダンを渡つて行かせ,その向こう側の良い地,あの良い山地,およびレバノンを見ることのできるようにしてください』と願いつづけても,そのモーセの祈りは無益なものでした。彼の願いが叶えられるどころか,かえつて叱りを受けました,『おまえはもはや足りている。このことについては,重ねて私に言つてはならない。』明らかにモーセはヱホバの恵みの極限に達していました。モーセの考え方は全く感傷的なものだつたのです。約束の地に彼がいることは,ヱホバの目的を遂行する際に絶対に肝要なものではありませんでした。ヨシユアが民をみちびくよう任命されませんでしたか。そうです,ヨシユアが任命されました。―詩 106:32,33。申命 3:24-28。
10 モーセの経験は私たちに対する重大な教訓をいくらか含んでいます。一つの事はこうです。私たちの願いがヱホバの御名に関係するとき,私たちの願いは答えを受けるようです。さらに又,ヱホバは感傷主義に支配されることは決してなく,むしろ智恵,公正,そして愛によつて動き,みちびかれるということです。イエスが私たちに与えた模範的な祈りは,そのような自己中心の感傷主義から私たちを断ち切らせる助けとなります。それは第一のものを第一にしているからです。それでは,何が最初に来ますか。『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように。御国がきますように。御意が天に行われるとおり,地にも行われますように。』ヱホバの御名と主権を立証する正義の宇宙的な勝利を私たちの祈りの中で,最大の関心事にするなら,私たちの毎日の生活の中にあつてもこれらのものを最大の関心事にすることができるでしよう。―マタイ 6:9,10。新口。
個人的な関心事
11 個人的な関心事を祈ることは適宜なものであると,どんな聖句は示していますか。
11 霊的なものでも,物質的なものでも個人的な関心事は第二次的なものです。しかし,それを祈ることは適宜なものであると聖書は示しています。聖書は次のように述べています,『何事も思い煩つてはならない。ただ事ごとに,感謝をもつて祈りと願いとをささげ,あなた方の求めるところを神に申し上げるがよい。』また『神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから,自分の思いわずらいを,いつさい神にゆだねるがよい。』私たちの興味を持つているものが,どんなものであろうとも,私たちに影響を及ぼすものがどんなものでもまた私たちの心に重く感ぜられるものがどんなものでも,それが霊的なものにせよ物質的なものにせよ,『そのことを御父に語りなさい!』 そして,私たちの重荷をなくしてからは私たちは,思い煩うのを止め,むしろ『神は,神を愛する者たちの善のためにすべての業を互いに協同せしめる。』ということに信仰を持ちなさい。―ピリピ 4:6。ペテロ前 5:7。ロマ 8:28,新世。
12,13 聖句の示すごとく,私たちは何を要求することができますか。
12 このことについて次のようにも言えます。私たちの祈り求めるものは,私たちの霊的な円熟の程度を示すということです。もし私たちがヱホバに『専心の献身』を捧げ,『先ず御国と神の義を求める』なら,私たちの祈り求める個人的な事柄は,第一に霊的な性質のものです。それですから,又神の御意とも多くの場合に一致します。自分自身のために私たちが祈ることのできるもの,そして祈らねばならぬ事柄の中に,神の聖霊すなわち活動力を更に多く求めるべきです。イエスがルカ伝 11章13節で示しているように,神は私たちに聖霊をよろこんで与えます。神はまた智恵を求めるすべての者に,惜しみなく知恵という賜物を与えます。それで私たちは智恵を願い求めるべきです。(ヤコブ 1:5)そして,ダビデのように私たちはいつも『汝はわが神なり。われに聖旨を行うことを教えたまえ。』と祈るべきです。試練を取り除いて頂きたいという祈りは無益なものです,しかしその試練に対抗する智恵と,その試練の下にあつても耐え忍ぶ力を祈り求めることは無益ではありません。それはパウロの経験でした。彼は苦痛を与えた『肉体のとげ』について3度神に願い求めてもその願いは叶えられず,神は次の言葉でパウロを慰めました。『私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる。』― 詩 143:10。コリント後 12-7:10,新口。
13 そして,「私たちの母は罪の中に私たちをはらみました。」それで,私たちは『私たちの罪をゆるして下さい』と絶えず祈ることが必要です。それは,すでに知るごとく,キリストの犠牲にもとづいて祈り願います。『もし私たちが自分の罪を告白するならば,神は真実で正しいかたであるから,その罪をゆるし,すべての不義から私たちをきよめて下さる。』それですから,祈りをなし将来は更に良いことをすると決意することにより罪の罪悪感がなくなるという時に,その罪悪感を担うということは,なんと愚かなことでしよう!―詩 51:5。ルカ 11:4。ヨハネ第一書 1:9。
14 テモテ前書 2章1,2節に示されているごとく,私たちは誰の為に祈るべきであり,何の理由で祈りますか。
14 また,私たちが次の祈りを捧げることも神の御意に一致するものです,『すべての人のために,願いと,祈りと,とりなしと,感謝とをささげなさい。それは私たちが,安らかで静かな一生を,真に信心深く,また謹厳に過ごすためである。』これらの人々がその気質を改めヱホバの清い崇拝に変わるよう祈るのではありません。ただ,彼らが私たちの宣教に反対しないよう祈るのです。それですから,そのような祈りは利己的なものではありません。審理中の裁判とか,これから審理を受ける裁判に,神の御意が為されるようにと願うこともできます。―テモテ前 2:1,2,新口。a
15 どんな物質を,私たちは願い求めることができますか。
15 私たちは又,物質をも祈ることができます。イエスはその模範的な祈りの中に『私たちの日ごとの食物を,きようもお与え下さい。』と願う言葉を述べられました。ぜいたく品とか,必要以上なものを願いませんが,『衣食』あれば事足れりとします。聖書の別のところにもこう書かれています,『われ二つの事をなんじに求めたり。我が死ならざる先にこれを賜え。すなわち嘘といつわりとを我より離れしめ,我をして貧しからしめず,また富ましめず,唯なくてならぬ糧を与え給え。そは我あきて神を知らずと言い,ヱホバは誰なりやといわんことを恐れ,また貧しくしてぬすみをなし,我が神の名を汚さんことを恐るればなり。』ついでですが,ここでも物質が霊的なものの次になつていることに気をつけなさい!―マタイ 6:11。テモテ前 6:8。シンゲン 30:7-9。
神の祝福を祈り,それに一致する行いをなす
16,17 (イ)私たちが祈り求めねばならぬということについて,ネヘミヤの経験は何を示していますか。(ロ)パウロは,同じことを認識していたことをどのように示しますか。
16 さらに,私たちの努力を祝福するようヱホバに願い求める必要があります。ヱホバが家を建てて,邑を守らないなら私たちが建てて見守つても,それは無益です。(詩 127:1)この真理を認識したヱホバの僕たちの中に,ネヘミヤがいました。アルタシヤスタ王が,ネヘミヤの欲するものは何かと尋ねたとき,彼は先ず何をしましたか,『我すなわち天の神に祈り』,そしてヱホバは彼の祈りに直ちに答えました。またたく間に,その祈りはヱホバの御座に達して叶えられました。王は彼の願いをことごとく許し,彼の心からの願望は実現したのです,すなわち烈しい反対にもかかわらずエルサレムの城壁は再建され,しかも52日という短期間になされました。―ネヘミヤ 2:1-8; 6:15。
17 使徒パウロもこの真理を認識しました。彼は手紙の中で再三再四祈りを強調し,祈りのことは20度も述べられています。彼は成果を挙げる為に自分の生まれつきの能力とか,超自然の力に頼りませんでした。ものが生長するのは,パウロが植えたことによるのでもなく,アポロが水をまいたことによるのでもない。それは神の祝福によるものとパウロは知つていました。その14通の手紙のどの結びにも祈りが述べられ,過分の御親切が手紙を受け取る者と共にあるようにと祈られています。また,パウロとその働きの為に祈つて欲しいと,彼は幾度もいろいろな会衆に願い求めていました。次のように書いています,『最後に兄弟たちよ,私たちの為に祈りつづけて欲しい。それはあなた方のところと同じくヱホバの御言葉が早くひろまり,栄光を受けるためである。』賜物を頂いていた使徒パウロでさえも自分の宣教をする際に神の祝福を願う必要を認めていたのであるなら,私たちは猶更もつてその必要を認めるべきでしよう!―テサロニケ後 3:1,新世。エペソ 6:18-20。
18,19 私たちは祈りを捧げるとき,どんな責任を取りますか。
18 もちろん,私たちの努力の上にヱホバの祝福を祈るとき,私たち自身も最善をつくし,最善の努力を払わねばなりません。祈りを捧げても,その祈りに一致する行いをしないなら,それは偽善に匹敵するものです。私たちが自力でできるものは,神は為し給わないでしよう。「正しいことをするのに飽きないなら」私たちは刈り取ることを希望し得ます。『生長せしめる方は神である』しかし,パウロが先ず植えてアポロが水をそそがなかつたなら,神によつて成長せしめられるものは何一つないことを記憶しましよう。祈りとは反対のことを行いながら,しかも神がその祈りに答えられるなどと期待することはできません。「真直ぐに歩むこと」に不注意になつたり,更に悪いことを重々知つていながら誘惑の中に入りこみながら,しかも『私たちを誘惑の中にみちびかないで下さい』という祈りに,神は答えられないでしよう。イエスの述べたそれらの言葉の実際の趣旨がどのようなものであろうと,一つの事はたしかです。それは,私たちに誘惑を避けよと命じています。それで私たちが尋ね求めるものが,智恵,聖霊,平和,霊的な繁栄,日々の糧,であろうと,そう尋ねることにより私たちの分を果さねばならないのです。―ガラテヤ 6:9。コリント前 3:7。マタイ 6:13。ヘブル 12:13。
19 一致して行うというこの原則についての別の面は,私たちが神にして頂きたいとお願いするごとく,力の及ぶかぎり私たちも行わねばならないということです。私たちに対しての神の処置を願う仕方で,私たちは他の者に対処せねばなりません。神から恵みを与えられることを欲しますか。それでは,私たちは恵みを示さねばなりません。(マタイ 5:7)他の者に恵みを示すなら,恵みを始めて受けるよう誠実に願い求めることができます。そのわけで,イエスはその模範的な祈りを次のように語られたのです,『私たちに負債のある者をゆるしましたように,私たちの負債をもおゆるし下さい。』それが過去形になつているのに注意して下さい。―私たち自身のゆるしを願い求める時,他の者を許すつもりであるとか,私たちがゆるしを受けた後は彼らをゆるすことをすつかり忘れるというのではなく,ゆるすことを行いつづけるのです!―マタイ 6:12,新口。
祈りと愛
20,21 (イ)どんな面で,祈りは愛の表現ですか。(ロ)このことは,どのように示されますか。
20 また,祈りと愛が密接な関係を持つていることを見のがすべきではありません。祈りという貴重な御準備は,私たちに対する神の愛を示してはいませんか。宇宙の大主権者が,塵からできている弱い,不完全な罪深い被造物のために,彼らの欲する何時いかなるときでも,神の御前に来て,彼らの心と思いのどんなものでも神に告げ得るという御準備を設けたのは,まつたく『神は愛である』ことを証明するものです。そして,今度は逆に,祈りは私たちの愛の表現ではありませんか。まつたく,ヱホバに対する愛,兄弟たちに対する愛,そして私たちの霊的な必要物に意識している故,自分自身に対する愛ではありませんか。
21 この雑誌の以前の号の中で良く示されているごとく,私たちが献身をするとき,人格を持たない一つの義に献身するのではなく,ひとりの方,すなわち愛の御心を持たれる天の父,ヱホバ神に献身します。それですから,私たちの祈りは丁度,遠くはなれた学校にいる子供が,家にいる父親に遠距離電話をかけることになぞらえることができます。私たちの天の御父は,すべての御準備を設けられました。そしてすべての費用も払われたのです ― 神は何も払わなかつた,などと考えないで下さい。神は支払われたのです,神は独り子の生命を支払つたのです ― 私たちが祈りの中に神を呼ぶとき,彼の御心はよろこびます。なぜなら,神は真実に私たちを愛するからです。私たちは愛する者を訪問したいと思うではありませんか。もし私たちが天的な御父を愛するなら,御父をしばしば訪問します。私たちはできるだけ多く訪問しますか。それとも,認識に欠如していますか。
22 神に対する愛は,どのように私たちの祈りに影響しますか。
22 愛があるとき,私たちは神が私たちの為に絶えず為しておられることを感謝します。そして,賛美と感謝を捧げる気持で彼のところにしばしば行き,神の御前にとどまりたいと欲します。愛し合う者たちの心は,自分の愛人のことだけに没頭します。それと同じく,ヱホバを愛する私たちの心は,注意と仕事を必要とする事柄に向けていないときは,何時のときでもヱホバとヱホバの善に向かつているべきです。そして特に,或る祝福を頂いて深く心が動かされたときは,愛を持つ私たちは心に溢れ出て,思わず知らず賛美の言葉を述べます。それで,『すべての事について,感謝しなさい。これが………神があなたがたに求めておられることである。』ヨブの述べているごとく,「私たちが全能者に大きなよろこびを持つなら,私たちは常に神を呼ぶ。」そのとき,私たちは「日に七度も」絶えずヱホバを賛美します。―テサロニケ前 5:18。ヨブ 27:10。詩 119:164。
23,24 (イ)聖書の例からも分るように,私たちの祈りによつて,私たちが愛を示す別の方法とは何ですか。(ロ)今日この点について,どんな特別な特権がありますか。
23 私たちは兄弟たちを愛しますか。私たちがこのことを示す一つの方法は,彼らの為に祈ることです。すでに学んだごとく,イエスの与えたすばらしい模範のほかに,パウロの模範もあります。公けにも又,家庭においてパウロは兄弟たちに仕えただけでなく,兄弟たちといつしよに居られないときは愛の心に満ちる教訓の手紙や励ましの手紙を書きました。しかし,それだけでなく彼は彼らの為に祈りつづけたのです。その二つの例を挙げればこうです,『私は………あなた方のために絶えず感謝をしている。私は祈りの中にあなた方の名を述べつづけている。』『あなた方の愛がいつそう大きなものとなり,正確な知識と全き分別に満ちるよう私は祈りつづける。』この面において,パウロがキリストにならつたように,私たちもパウロに倣いましよう。―エペソ 1:15,16。ピリピ 1:9。コリント前 11:1。
24 特に私たちは,大きな責任を持つ兄弟たちや,迫害を受けている兄弟たちの為に祈ることを忘れてはなりません。そのような祈りを倦まずに行つてゆきましよう。イエスは,あきらめずに願い求めたやもめの例を用いて,倦まずに祈ることを私たちにすすめました,『まして神は,日夜叫び求める選民のために,正しいさばきをしてくださらずに長いあいだ,そのままにしておかれることがあろうか,あなた方に言つておくが,神はすみやかにさばいてくださるであろう。』私たちの心が真実にこれらの兄弟たちのことを考えるなら,私たちは,彼らのために『たずねつづける』ことをします。―ルカ 18:7,8。マタイ 7:7。
25 自分自身に対する正しい愛は,どんな影響を私たちの祈りに及ぼしますか。
25 同様に,自分自身を正しく愛することは,私たちの霊的な必要物を意識するという意味です。そして,前にも学んだように,私たちは祈りの中に神に行きたいと欲します。定期的に神を訪れたいと欲します,毎朝の起床する前とか,毎晩寝床に就くとか,また各食事ごとに神を訪れたいと欲します。また,奉仕に参加する前,および参加中に祈りをいたします。特に公開講演の演壇から御言葉を伝道するという特権を持つときには祈りを捧げます。それから,会衆の集会などで,他の人が声を出して祈りを捧げるとき,私たちは他の事柄に思いをめぐらすということをせず,むしろその祈りの言葉を注意深く聞き,その祈りの気持にとけ込みます。そして,私たちが公けに祈りを捧げる特権を持つなら私たちは明白に,すじみち立つた祈りを熱心にささげるべきです。そのときその祈りを聞くすべての人々は,心から『アーメン!』と言うことができます。
26 なぜそしてどのように,祈りは愛を生長せしめますか。
26 そして,最後に次のことに気をつけましよう。それは,祈りは愛の表現であるばかりでなく,祈りは又私たちの愛を生長せしめるということです。兄弟たちのいるところで誠実な気持の中に声を出して祈りを述べるなら,それは私たちを愛の中に結びつけます。私たちの聞くその心の感情は,私たちの感情でもあります。私たちは同じように考え,同じように感じます。ヨハネ伝 17章に記録されている祈りをイエスの述べるのを聞いた使徒たちは,なんという特権を持つたのでしよう。列王紀略上 8:15-54,エズラ 9:6-15。ネヘミヤ 9:5-38。イザヤ 37:14-20に記録されている祈りを聞いた者たちについても同じことが言えます。家族内で捧げられる祈りは,家族をいつそう密接にむすびつけ,いろいろな会衆の集会で捧げられる祈りは,会衆の成員をいつそう密接にむすびつけます。家族とか会衆内で仲間の者と行動を共にするとき,時には感情が害されることもあり,しやくにさわることもあります。しかし,その人が謙遜に,熱意をこめて祈りをささげ,そして私たちを代表して子供のような単純さで神に祈りを捧げるのを聞くとき,一切の怒りも溶けさつてしまいます。
27,28 祈りは私たちに対して愛の心に充ちるヱホバの貴重なご準備であると何が示しますか。
27 祈りは本当に驚くべき奇蹟であり,愛の満ちる貴重な御準備です。祈りの助けがないなら,私たちは神への忠実を保つことはできません。悪い者共は私たちの聖書を取りさつたり,兄弟たちと交わる機会を取りさつたり,また野外奉仕に参加する機会をも取り去るかもしれません。しかし,祈りという貴重な御準備を取りさることは決してできません。そして私たちは何を祈るべきかを知つています,先ず第一に宇宙における正義の勝利を祈り,それから私たちに対するヱホバの御意に一致するものを祈ります,すなわちヱホバの御霊,智恵,罪のゆるし,私たちの努力に対するヱホバの祝福そして私たちの日々の必要品を祈ります。そして,ヱホバは今日でも祈りに答えております。そのことは清い崇拝の拡大とか神の民の幸福,そして極めてはげしい反対や迫害にもかかわらず神の僕たちが忠実を保つていることから分ります。
28 私たちは苦難の時代に生活している故,なおさら油断してはならず,過信のわなを避け,私たちの霊的な必要物を意識し,神の御言葉を更に良く研究し,深く考え,兄弟たちと交わり,野外奉仕やそして特に祈りをすることが必要です。そして,新世社会の霊的な繁栄および私たちの道に照り輝く光が増し加わつていることから,いままで以上に私たちの天的な御父に賛美と感謝を捧げるべきではないでしようか。ほんとうに,祈りという貴重な特権は,神が愛なることを証明するものです。そして私たちは祈りをすることによつて,私たちは神と隣人を愛するということを証明します。
[脚注]
a 1952年11月1日号『ものみの塔』330-333頁を見なさい。
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出エジプトの道筋を調べるものみの塔 1958 | 12月15日
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出エジプトの道筋を調べる
6年間の調査の後,ある有名な考古学者は出エジプトの道を150マイル発見したと述べています。これは,イスラエル民族が,エジプトから約束の地に行く時に通った道筋のことです。そしてその考古学者というのは,ヘブル・ユニオンカレッジおよびジューイッシュ・インスティテユート・オブ・レリジョンの学長ネルソン・グルウエック博士のことです。1958年4月6日付のニューヨークミラー誌は,グルウエック博士の発見を次のように報告しています,『その地域はカデシバネアからハマスに至り,ちようどベエルシバの東にある。「イスラエル民族はこの方向に来るのを余儀なくされたのだ。これより西になると,山が多く,ところどころに深いくぼ地があり,水がない。これより東になると,砂丘と砂漠だけでやはり水が全くない。だから十分の水と牧草が得られたのはこの道以外にないわけだ。」とグルウエック博士は述べている。……この発見は聖書を証明するであろうか。これに対してグルウエック博士は,「もしあなたが聖書を信ずるならば,考古学の証明など必要ではない。しかし考古学は,聖書が信じられるものであることを実証した」と答えた。』
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